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2015年9月20日 (日)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 2

 

 前回の記事で、ネット上に流布された、

 

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 

…というお話が、歴史的事実を反映していないこと(いわゆる「捏造」であること)を明らかにし得たものと思う。

 

 昭和16年4月15日の時点では、米国はまだ「空軍」を保有していなかったし(空軍が組織として独立するのは戦後のことである)、クレア・リー・シェノールト(あるいはシェンノート)が1937年に米国陸軍を退役した際の最終階級は陸軍大尉であった。存在しない米国「空軍」の軍人に、存在しないクレア・リー・シェノールトという名の陸軍「大佐」麾下の戦闘機部隊への「志願」を、米国大統領が「命令」したり、それが「実行に移され」たりすることなど、原理的にあり得ない話なのであった(しかも、アラン・アームストロング―『「幻」の日本爆撃計画』の著者である―の調査によれば、米軍人にフライング・タイガースへの志願を命ずる趣旨の大統領令―大統領が署名した行政命令―自体が存在しないというのである)。

 

 

 さて、ネット上の情報によれば、上記の話には、

 

 「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 

…との解説が附されている。

 これを読む限りでは、「傭兵戦闘部隊」への「一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名」が簡単であったような印象を受けるのだが、実際には、それほど思い通りに進んだわけでもないようである。

 『ウィキペディア』の記述を信じれば、という話ではあるが、実際には、

 

 派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中華民国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。

 アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。採用されたパイロット達全員は義勇の名目からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

  軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
  中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
  毎月600ドルを全てのパイロットに支給
  月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

 パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。さらに募集した人員の中には機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対し再訓練が必要であった。

 募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、隊員たちに徹底的に訓練させた。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
     (以上『ウィキペディア』の「フライング・タイガース」の項による―2010年8月23日閲覧)

  
 
…という経緯を辿ったようである。

 この『ウィキペディア』記事も、「中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束」という記述、つまり「空軍」という表記をしている(この表記については、2015年9月20日の閲覧の時点でも修正されていない)わけで、どこまで信頼すべきなのか?という問題がないわけではない。

 しかし、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 V.D.チャップライン大佐は、ニミッツ提督に宛てた極秘覚書でパイロットに対する海軍の必要度について記している(1941年10月18日付の文書である-引用者)。海軍全体として一九四二年一月の時点で七五〇〇名のパイロットを必要とすることになっていた。だが実際には、パイロットは六八〇〇名しかいなかった。そのうちで経験者(つまり実際に機能している飛行隊に一年或はそれ以上勤務した者)は、三一九四名しかいなかったのである。このような事情から、チャップラインの覚書の左下の隅に「除隊資格者は、空母における艦上発着訓練を始める前に飛行訓練センターを卒業した者に限るべきである」と誰かが注釈を書き加えている。
 海軍はもっとも経験豊かなパイロットを必要としていたから、ノックス長官はカリーに書簡を送り、こう断言している。「……小職は、除隊有資格者は海軍飛行訓練センターの最近の卒業生で、飛行訓練を終了し、海軍飛行士として任命された直後から三カ月以内の者に限定されるべきと考える」。…
     (171ページ)

 

…という事情も、当時のフライング・タイガー創設をめぐる現実であったわけである。この1941年という年は、ヨーロッパでの戦争が始まってから既に2年が過ぎた時点なのであり(「支那事変」の5年目)、錬度の高い戦闘機パイロットをわざわざ除隊させて、「傭兵戦闘部隊」へと供給することに躊躇する海軍当局者の態度は合理的なものだ。

 ベテラン戦闘機パイロットの確保を望んでいたシェンノート(シェノールト)の目論見に対し、米軍自身の都合が優先されたであろうことは、疑う必要がないように思われる。結果として「シェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった」ことは、『ウィキペディア』の記事通りの事実であったと考えられる。

 

 米国の参戦が、現実的課題として浮上しつつある渦中での話なのである。チャーチルとルーズベルトによって「大西洋憲章」が発表されたのは、1941年の8月のことだったことを思い出しておくべきであろうか? 「大西洋憲章」の第六項には、

 
 
  第六に、ナチス専制主義の最後的破壊ののちに、両国は、全地上の人類が恐怖と欠乏から自由に生活しうるような平和を確立することを欲する。

 

…と明記されている。つまり、米国大統領は英国首相と共に、既にこの時点で、「戦後」の構想を語っていたのである。

 英国単独での「ナチス専制主義」への勝利は考えられず、米国大統領にとって、既に参戦は選択肢に組み入れられていた、と考えておく必要がある。

 先に示したのは、そのような背景の下での海軍首脳の判断なのであり、それがシェンノート(シェノールト)の目論見の障害となったわけである。

 

 

 これが、

  「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

…という話の実情であり、米軍「佐官」の(実際には「大尉」で退役しているので佐官であったことはないのだが)クレア・リー・シェノールトが、「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名を」彼の「傭兵戦闘部隊」に確保するに際して直面した、「思い通りにならぬ」現実の姿なのであった。

 

 アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)は、その募集の様子をテックス・ヒルの証言に基き、

 

 一九四一年三月、パイロットのテックス・ヒルとエド・レクターは、バージニア州ノーフォークの海軍航空隊の駐機場を離れる途中、CAMCOのリクルート担当者に話しかけられた。ビルマ・ルートを守るために戦闘機のパイロットをやってみないか、ということだった。ヒルは、ビルマがどこにあるかさえ知らないと応えた。話し合いは飛行場の管制室で行われた。中国を守るために戦闘機を操縦することが意味する精神と冒険を納得したヒルとレクターは、海軍に入隊する前は新聞社のイラストレーターだったバート・クリストマンと共に、海軍将校を辞めてCAMCOに入社する意思を記した文書に署名した。だが三人とも、実際には中国のために戦闘機を操縦し、戦うという理由で除隊が認められるとは思っていなかった。
 だが、1カ月後、再びCAMCOの代表から話があり、三人は書類がパスしたと告げられたのだった。ある基地の司令官は、海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだが、本件はすべて「大統領の承認を得ている」と海軍航空局局長のタワーズ提督にはねつけられた。
     (148~149ページ)

 

…と記している。ここには、募集に応じたパイロット当人たちが、リクルート担当者の話を、それほどリアルなものと考えていなかった様子が窺える。

 「海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだ」という「ある基地の司令官」のエピソードは、熟練パイロットの確保を優先課題と考えるようになった、1941年当時の現場の雰囲気を伝えるものであろう。同時に、大統領の意向が、現場まで貫徹していなかった事実を物語るエピソードでもある。

 CAMCOは、中国政府に代わり(あるいは米国政府に代わり?)、パイロット達の雇用主となった企業である。アームストロングの著書には「傭兵戦闘部隊」の設立に際して大きな役割を果たした企業として、インターコンチネント・コーポレーションとCAMCOの名が挙げられているが、残念ながら、両社の関係・内実に関しての記述に一貫性はない(ので、ここでは詳述しない)。

 

 また、他の著作からのアームストロングの引用によれば、陸軍航空隊のチャーリー・ボンドは「戦闘機の操縦訓練を受けてきた自分がカナダに爆撃機を自力空輸する任務しか与えられないのは時間の浪費だからという理由で」、海兵隊中尉グレゴリー・ボイントンは「借金の清算」が可能となる「報酬が魅力的だった」という理由で、クレア・リー・シェノールトの創設した傭兵戦闘部隊に参加していたのだという。

 

 アラン・アームストロングは、

 

 シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した。……。シェノールトの下に馳せ参じた義勇兵たちは、ふつうの男たちではなかった。冒険家、ロマンチスト、根っからの傭兵気質の持ち主、理想主義者などからなるこれらの男たちの集団は、中国の厳しい戦闘環境を生き延びるために厳格な現場監督を必要とすることになった。
     (149~150ページ)

 

…という文章で、その話題を締めくくっている。

 要するに、「一癖も二癖もあったならず者」の内実は、多様な動機に支えられた多様なタイプの男たちなのであった。

 

 

 ここであらためて、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を用いて、ここまでの流れの全体を復習しておこう。

 

 計画は単純だった。米国の近代的な戦闘機とパイロット、それを飛ばし続けるための整備技術者を確保すれば、蒋介石は即席空軍を得られるわけである。しかし、欧州での戦争は連合国にとって不利で、辺鄙なアジアでの戦争に回せる飛行機はなかった。
 米産業界は、軍備強化にかかった米軍のために、夜を日に次いで軍需物資を生産していたが、法的に米国は、まだ中立ということになっていた。こんな事情に加えて、シェンノートと宋は、もうひとつ別の障害に直面していた。当時、日本帝国と合衆国の間には諍があり、ワシントンの政治家たちは事態をさらに悪化させるようなことを厭っていたのである。にもかかわらず、その年(1940年)の暮までにシェンノートと宋は、難関を打ち破った。
 合衆国と中国との取引によって、蒋介石は欲していた物のすべてを手に入れたわけではなかったが、ビルマ公路を日本軍の空襲から護るために不可欠であった戦闘機100機は入手でき、打ちのめされた中国に対する最後の補給線は確保された。米国の義勇軍パイロットと、地上勤務者は、軍務から離れることを許可され、1年間、中国で戦うという契約に署名することになる。乗機は、米陸軍戦闘機隊に多数配備されているP-40の輸出型である「トマホーク」になるだろう。シェンノートは同部隊の指揮官となり、同部隊は米義勇部隊と呼ばれるようになった。
 米義勇航空群の新兵たちは合衆国中の陸軍、海軍、海兵隊の飛行場から舞い上がり、志願書類に署名した。その間、海路、トマホークをビルマのラングーンへ運ぶ算段が為され、機体はそこで組み立てられることになった。1941年7月、米義勇航空群の空中、地上勤務者たちは英空軍がビルマの密林の奥深く、ラングーンからシッタン河を240㎞遡ったトングーに建設した基地で訓練をはじめた。日本が12月のはじめに真珠湾を攻撃するまでに、米義勇航空群はシェンノート直伝の対敵戦術に熟達していた。
 日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した。
     (9ページ)

 

 この際なのでモールズワースの記述に関連させて、紹介したネット情報の問題点を更に指摘しておくと、

 

 さて、この飛虎隊は、表向きAVGの「V(ヴォランティア)」が表しているように、あくまでも蒋介石軍を支援する為に馳せ参じた米国人の「義勇軍」とされていました。

 しかし飛虎隊が主戦場としたのは、日本陸軍と蒋介石軍が支那事変=日中戦争を戦っていた支那大陸であり、当時、蒋介石軍の航空兵力が日本陸軍航空兵力によって事実上壊滅状態にあった事を考えると、支那軍機として日本軍機と空中戦を演じていたのは、実質的に飛虎隊だったといえます。

  さらに、ローズヴェルトの大統領令、そして構成員が米軍関係者、使用機種が米軍の最新鋭戦闘機となると、これはもう単なる義勇軍どころの話ではありません。

 むしろ、米国が「国策」として飛虎隊を編成、支那大陸に派遣したとみるべきで、日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事になるのです。

 

…とネット情報には明記されているのだが、フライング・タイガース(AVG)が実際に日本軍との戦闘に参加したのは1941年12月8日の日米開戦後のことなのである(1941年12月20日、中国の昆明の話であり、しかも部隊が中国大陸内に移動したのも日米開戦後になってのことであった―日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した)。従って、「日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事」にはならない(完全な事実誤認に基づく主張なのである)。

 

 

 全体の流れを復習したところで、再び、

  蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…の実像を追ってみたい。ネット情報では、「解説」は、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し、一般には「飛虎隊」の名で知られており、「AVG」の名よりもむしろこちらのほうが知名度が高く、AVGは知らないが飛虎隊は知っているという方が多いと思います。

…と続いている。

 ここでは、「蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)」が使用した「当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40」が、「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」だと「解説」されている。しかし、実際には、米国からのカーチスP-40の提供に際し、「武器貸与法」は発動されてはいないと考えられる。私の読んだ限りでは、「武器貸与法」の発動による「供与」であることを明言、少なくとも示唆する内容の記述は、このネット上の解説(怪説?)以外にはない。

 実際、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 ブルース・レイトン退役少佐の一九四一年の報告から、中国政府が中国で航空戦隊を組織するために必要な借款とその他の援助を取り決めるため、一九四一年に特別使節団をワシントンに派遣したことは明らかである。レイトン少佐は、アメリカの一億ドルの対中借款がまとまり、合衆国は当時イギリスに割り当てられていたP-40戦闘機一〇〇機を中国に放出する予定である、と記している。P-40は高性能で複雑な戦闘機だから、戦闘で有効に活用し、訓練中の事故で失われないようにするために、アメリカ軍の退役パイロットが操縦すべきだという決定がなされた。レイトン少佐はさらに次のように述べている。「……明らかな理由で、中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」。…
     (153ページ)

 

…ということなのであり、別の箇所では、レイトンの残した記録から、

 

 当初の計画では、カーティスP-40一〇〇機を中国に輸送することが必要だった。そのあと、武器貸与法の下で、相当数の追加分の航空機の供与と当初の計画の拡大の手はずが整ったが…
     (157ページ)

 

…との文章も引用されている(つまり、「武器貸与法」の活用が検討されたのは「そのあと」の話、ということなのである)。

 「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊(AVG)」が使用した100機のP-40は、「武器貸与法」に基く供給ではなく、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用した「売却」だったのである。ここには、むしろ、より以上に巧妙な(あるいは慎重な)米国政府の姿勢さえ読み取れるのではないだろうか。あくまでも、航空機メーカーから航空機運用業者への「売却」として処理されることで、米国政府の公式的な関与は存在しないことに出来るのである(それに対し、「武器貸与法」の適用は、米国政府の公式関与を宣言することになるものとなる)。「中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」という言葉の背後にある、合衆国政府関係者の巧妙かつ慎重な姿勢を理解しなければならない。

 

 

 今回あらためて明らかになったのは、まず、シェノールト(シェンノート)がAVGのパイロットの確保に奔走していた1941年の時点(ナチス・ドイツによるヨーロッパでの戦争が3年目となり、日中間の「事変」は5年目を迎え、しかも大日本帝國はヨーロッパでの戦争の推進者であったドイツとの軍事同盟―1940年のいわゆる「日独伊三国同盟」である―を誇示し、更に仏印進駐=軍事力による対外的強硬姿勢の顕示に向かおうとしていた時期である)では、シェノールトへの米軍の協力が消極的なものにとどまった事実である。既に当時の米軍は熟練したパイロットの確保を課題としており、シェノールトへの協力を優先することはなかった。

 加えて、ネット情報にある、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し

…との記述の誤りである。当初AVG(フライング・タイガース)が入手した100機のP-40は、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用し中国が「購入」した機体なのであって「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」ではないのである。

 

 シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガース(飛虎隊)をめぐるネット上のお説には、歴史的事象を取扱う上での慎重さ、そして誠実さが皆無であることが、ここからも再確認出来るように思われる。ネット上の情報にデタラメが多いことは事実ではあるが、それはデタラメ情報を「拡散」することを正当化する理由にはならないことは言うまでもない。

 

 

 

 さて、「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読もう。

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

…という経緯をたどり、ボームラーは、米陸軍航空隊に編入される前の米義勇航空隊の一員となり、中国大陸上空での日本軍との戦闘に従事したわけである。

 次回は、世界史的文脈の下で、ボームラーの経歴がどのような意味を持つものであるのかについて考えてみたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 23:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/145633/
 投稿日時 : 2010/08/24 22:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/145686/
 投稿日時 : 2010/08/25 22:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/145747/

 

 

 

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