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2015年9月

2015年9月21日 (月)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 3

 今回の問題の発端となったネット情報(全文は「飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 1」を参照)には、フライング・タイガースについて、

  米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…と要約紹介されている。

 前回は、その「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読むところで話を終えた。再び引用すれば、

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

 

 もちろん、あくまでも「このような隊員もいた」ということであって、ボームラーが隊員を代表するというわけではない。しかし、ボームラー大尉は、この時代(1930年代後半から40年代の初め)の時代相を見事に反映した人物であるようにも思われる。

 「1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年に「米義勇航空隊に参加」しようとし、1942年に実際に隊員となった経歴には、時代の中での一貫性があると言わねばならない。1936~1937年のスペインで、独伊の援助を受けたフランコと闘うために「人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年の中国で、独伊の同盟国である日本の軍隊と闘う国民政府のための「米義勇航空隊に参加」した経歴の持つ「一貫性」の問題である。

 

 その「一貫性」について考えるために、もう一人の戦闘機パイロットの姿を見ることにしたい。

 そのために開くのは、ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)のページである。

 

 ポーランド人は、ドイツ及びイタリアとはヨーロッパと地中海のほとんどあらゆる前線で戦っていたが、3番目の枢軸国にはずっと少ない注意しか払われなかった。事実、ポーランドを代表して日本との戦いに実際に参加した人間は、たったひとりだけだった。
 1942年6月以来、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐はワシントンでポーランド大使館付空軍武官補佐官を勤めていた。そこで彼はコシチュッシコ飛行隊の創設者で、1940年に英国で会ったことのあるクーパー大佐に再会した。中国でアメリカ人義勇兵グループ(American Volunteer Group : AVG)「フライング・タイガース」の創設を手伝ったことのあるクーパーは、ウルバノヴィッチュを同部隊の司令官シェンノート将軍に紹介した。ウルバノヴィッチュはシェンノートに対し、AVGで飛んでみたいという希望を表明し、1943年も遅くになって、彼は中国に送られた。公式には、地上作戦への空からの支援について実戦経験を得るためというのが理由だった。はじめは呈貢の第16戦闘飛行隊と昆明の第74戦闘飛行隊で、それから衡陽の第75戦闘飛行隊に移り、1943年の11月から12月にかけて、ウルバノヴィッチュは12回の作戦に出動した(飛行時間にして約26時間)。
 1944年1月11日、シェンノート少将はウルバノヴィッチュに航空殊勲賞を授与した。その勲記には中国での彼の活動が簡潔に述べられている。
 「1943年10月23日から12月15日までのあいだ、ウルバノヴィッチュ少佐は在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加し、空中戦において賞賛すべき業績をあげた。この期間中、少佐は戦闘機操縦士として低空地上攻撃、爆撃、および空中護衛任務に約34時間飛行した。大部分は洞庭湖地域で日本軍に圧迫された中国軍地上部隊を空から支援するための任務であった。1943年12月11日、少佐は基地へ戻る途中の日本軍機編隊に対する攻撃に参加し、続いて起きた空戦で敵戦闘機2機を撃墜した。軍務全期間を通じて、少佐は敵をものともせぬ勇気と優れた戦闘技術を発揮した。その戦いぶりは少佐自身のみならず、ポーランド軍、またアメリカ軍の名誉の記録となるものであった」
     (68~69ページ)

 

 

 ドイツに(そして続いてソ連に)、ウルバノヴィッチュの祖国が侵略されたのは1939年のことであり、以来ウルバノヴィッチュの祖国は占領下にあった。

 日独伊による三国同盟は、ポーランド人ウルバノヴィッチュにとって、祖国ポーランドを侵略し占領した国家との「同盟」を意味するのである。「3番目の枢軸国」の軍隊と現に戦っている中国のために、「在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加」することは、ウルバノヴィッチュにとって「理に適った」行為であったに違いない(ただし、ウルバノヴィッチュが「志願して参加」したのは、退役米陸軍大尉シェンノート(シェノールト)のAVGではなく、米軍に編入後のシェンノート将軍指揮下の「在中国アメリカ陸軍航空隊」なのである―引用記事では、その点が曖昧なので注意が必要であるが、枢軸国対連合国の構図がウルバノヴィッチュの動機の底流にあることへの理解を持つことが、ここでは重要なのである)。

 

 スペイン戦争、支那事変、そしてヨーロッパの戦争、そしてアジア太平洋での戦争。そこに一貫する対立軸の存在が、エイジャックス・ボームラー大尉そしてヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐とクレア・リー・シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースを結びつけていたことに気付くことで、日中・日米という対立軸のみで問題を考えようとしてしまう視野狭窄状態から逃れることが可能になるはずだ。

 そして、フライング・タイガースの戦闘機パイロットについて、「一癖も二癖もあったならず者」としてだけ語ることがどこまで適切であるのか? ボームラーの信条、そしてウルバノヴィッチュの心情への想像力を持てれば、彼らを「一癖も二癖もあったならず者」とひとくくりにして断定的に語ることは躊躇するはずである。

 

 

 今や米陸軍の将軍となったシェンノート(シェノールト)から、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐に航空殊勲賞が授与されたのは、1944年1月11日のことであった。

 ポーランド人ウルバノヴィッチュの経歴を概観しておこう。ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)の記述(79~80ページ)によると、

  1908年 北東ポーランドで生まれる。

  1930年 デンブリンのポーランド空軍士官学校入校。

  1932年 観測兵少尉として任官。第1飛行連隊夜間爆撃中隊に配属。

  1933年 飛行訓練を志願し卒業。第111および第113飛行隊勤務の後、デンブリンの教官となる。

  1939年 デンブリンで第14期クラスの生徒監を勤める。9月にドイツがポーランドに侵攻。生徒の士官候補生を連れてルーマニアに脱出。その後マルセイユに到着。

  1940年 フランス陥落と共に英国に渡り、8月に英国空軍第601飛行隊、そして第145飛行隊に配属される。9月7日、第303飛行隊指揮官となる。「英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)」で、15機を撃墜。

  1941年 ノーソルト航空団を組織し、指揮官となる。6月に渡米し、PAF(ポーランド空軍)の宣伝ツアーに携わる。

  1942年 6月にポーランド大使館付空軍武官補佐官に任命されるが退屈し、中国での軍務に志願する。

  1943年 10月23日~12月15日、在中国米陸軍航空隊で作戦に参加。

  1944年 ワシントンのポーランド大使館付空軍武官となる。

  1945年 7月、英空軍より「永久休暇」の待遇を受ける。その後ポーランドに帰国するが、共産主義者により誤認逮捕され、米国移住を決意し、米航空宇宙産業の一員となる。

  ポーランドの共産主義体制崩壊後は、度々ポーランドを訪れ、1995年には大将の位を贈られる。翌年に死去する。

…と要約される生涯であった。

 同じPAFで闘い、ポーランドへ戻ったスタニスワフ・スカルスキ少佐は戦後、

 

 対独戦終了後、スカルスキは英空軍から高い地位を提示されたが、ポーランドがすでにソ連の支配下に入っていたにもかかわらず、祖国に帰ることを選んだ。まず初めは、共産党員が支配するポーランド空軍に勤務した。
 だが「冷戦」が最高潮に達したとき、スカルスキは逮捕され、「アメリカとイギリスの帝国主義者」のためにスパイを働いたとして告発された。同じことが西側から帰国した戦中のPAF操縦士の多くの身の上にも起こった。その後スカルスキは、残酷さではゲシュタポやNKVD(ソ連内務人民委員部)のそれに匹敵するほどの恐るべき「査問」を受けた。この非人道的な扱いからは幸い生き残ったものの、最低に馬鹿げた告発のあと、彼は死刑を宣告された。結局、共産主義者たちは「慈悲をもって」終身刑に判決を変更する。1953年にスターリンが死ぬと、ポーランドでも事態はゆっくりと変わりはじめ、1956年、スカルスキは8年の獄中生活ののち釈放された。
     (79ページ)

 

…という運命を辿る。その後は空軍に復帰し、准将の地位まで昇進することになったが、これはむしろ「幸運」と呼ぶべき事柄であろう。祖国ポーランドのために勇敢に闘った戦闘機パイロット達に、祖国の共産主義者が用意したのは、「ゲシュタポやNKVDのそれに匹敵する」ような「最低に馬鹿げた」取り扱いなのであった。ヒトラーとの「大戦」は終了し、世界は「冷戦」と呼ばれる新たな戦争の時代に入ってしまっていたのである。

 

 第二次世界大戦ではナチス・ドイツに翻弄され(実際には、ドイツがポーランドの西部から侵攻すると同時にポーランド東部を占領したのはソ連であったのだが)、戦後はソ連の共産主義者に翻弄されたのが、ポーランド人にとっての現代史なのであった。

 

 

 ここであらためて、フライング・タイガースを世界史的文脈の中で考えてみたい。

 先に触れたように、フライング・タイガースに参加したエイジャックス・ボームラー大尉とヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐の行動にはそれぞれに一貫性があり、共通点が存在する。両者にとって「先の大戦」は、対独戦争も対日戦争も共に、対ファシズム戦争として位置付けられるものであった。

 日独伊三国同盟とはまさに結束したファシストの同盟であり、ボームラー大尉にとって、スペイン人民戦線の側で義勇兵としてフランコ政権との戦闘(同時にフランコの支援者としてのドイツとイタリアを相手とした闘いである)に従事することと、蒋介石の中国の側で義勇兵として大日本帝國との戦闘に従事することには、「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだし、ウルバノヴィッチュ少佐にとって、ヨーロッパの上空で、英空軍の一員としてポーランドへの侵略者としてのドイツとの戦闘に従事することと、アジアの上空で在中国アメリカ陸軍航空隊の一員として中国への侵略者としての大日本帝國との戦闘に従事することには、やはり「ファシストの同盟」に対する闘いとしての一貫性があるのだ。そしてそこにまさに両者の共通点もある(ボームラー大尉の経歴は、私には、あの1942年製作の見事な反ファシスト同盟プロパガンダ映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガートの演じたリックの姿を連想させるし、ウルバノヴィッチュ少佐には、ポール・ヘンリードが演じたヴィクター・ラズロを思い起こさせるところがある)わけだし、両者を結び付けるものとして、シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースがある。

 その文脈において、フライング・タイガースは、対ファシズム戦争の象徴なのである。

 

 

 振り返ってみれば、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだエイジャックス・ボームラーの側で共にフランコの軍隊と戦っていたのは、人民戦線政府を支援するソ連からの義勇兵であった。人民戦線が相手としていたのは、フランコの軍隊であると同時に、フランコを援助するためにスペインに送られていたドイツとイタリアからの義勇兵部隊でもあった。

 そして中国大陸では、1941年に米国からの義勇兵部隊が中国国民政府を援助するために結成され、それまで日本軍と戦う国民政府を支援していたソ連からの義勇兵部隊を継ぐこととなる。

 1937年、盧溝橋事件当時、蒋介石国民政府の強力な軍事顧問団がドイツ人によって構成されていた(「中独合作」と呼ばれる時期に相当し、南京攻略戦当初における皇軍の苦戦の背後には蒋介石の軍事顧問を務めたドイツ将校団の姿がある)のも歴史的事実であり、その年に蒋介石の空軍の軍事顧問に就いたのがシェンノート(シェノールト)だったのである。米国陸軍退役将校シェンノートだけが蒋介石の軍事顧問を務めたのではなく、ドイツの将校もソ連の軍人も同様に軍事顧問として蒋介石を支え、そしてソ連人は義勇兵として戦闘にも従事していた(前回記事の中で指摘したことだが、米国人義勇兵部隊としてのフライング・タイガースが編成され訓練を開始したのは1941年の7月、ビルマでのことであり、中国大陸にも展開し日本軍との戦闘に加わったのは日米開戦後―日本による真珠湾攻撃後―のことであった)。大日本帝國の軍隊を敵として国土防衛のために戦っていたのは、そのような履歴を持つ軍隊だったのである。

 現代史は、今回取り上げたネット情報の作者(そして拡散者)が思うほど単純ではない。

 

 

 スペイン内戦時にドイツが義勇兵という形式で派遣したコンドル軍団をめぐるエピソードは、ファシズムvs反ファシズムという当時の世界史的構図の中での、ファシスト側の軍事的介入の形式として興味深いものだ。

 「支那事変」の進展の中で、日独伊三国同盟結成を通じて、ファシズムの側に自身を位置付けていったのは大日本帝國であった。

 その意味で、スペインのフランコを義勇兵を用いて援助したドイツと、支那国民政府の蒋介石を義勇兵を用いて援助しようとした米国という構図の対比は面白い。

 

 

 ここで件のネット情報に戻れば、

 

 また、これは非常に重要な事なのですが、支那事変の「直接当事国」はあくまでも日本と支那(蒋介石政権)でした。米英ソが、軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません。

 しかし、日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません。

 ましてや、自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら、真珠湾攻撃を、日本からの宣戦布告が遅れた事で、騙し討ち等と称する事は、正に言語道断といえます。

 

…との主張が読めるが、ドイツもまた国民政府に「軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません」ということになるわけであるし、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」というのであれば、スペイン内戦時のコンドル軍団の存在(同盟国ドイツが派遣した「義勇軍」である)をどのようにお考えになるのであろうか?

 コンドル軍団は国策による派遣であったが、しかしドイツは義勇兵という形式を採用することで、ドイツによる(他国の内戦への)「軍事介入」との非難を回避したのである。

 

 世界史的文脈の中での義勇兵ということで言えば、第一次世界大戦時には、米国の国家としての参戦に先立ち(米国は基本的に、ヨーロッパの戦争に対し中立であろうとしていた)、義勇兵として戦闘に参加した米国人が存在したことは有名である(ラファイエット航空隊)し、フライング・タイガース結成の発想の背後にはこの第一次大戦時の経験(義勇兵―しかも戦闘機乗りだ)があって不思議ではない(実際、アラン・アームストロングは、「シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した」という書き方をしている)。

 

 第二次世界大戦時においても、ソ連によるフィンランド侵略(いわゆる「冬戦争」である)に際して、フィンランドの防衛に多くの国から義勇兵が参集した事実がある。特にスウェーデンは、国家としての参戦は避けたが、義勇兵の形式でフィンランドを援助したのである。

 義勇兵の形式による他国への軍事的支援は、世界史的視点からすれば、特に珍しいものではないことくらいは知っておくべきであろう。

 

 件のネット情報にある、「日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません」との主張について言えば、「国際法上」の問題としては、「日米開戦前の段階」の日中間の敵対的戦闘の継続状況は、「事変」であって「戦争」ではないとされていた(それが日本政府の立場であり、蒋介石の国民政府も「宣戦布告」は避け、米国もまた「事変」として処理することで国内法としての中立法の発動を避けた)のである。「事変」においては(「事変」は「戦争」ではなく、従って「戦時」ではないのであるから)戦時国際法上の「中立義務」など発生しないのである(詳しくは「続・「事変」と「中立」」「続々・「事変」と「中立」」「続々々・「事変」と「中立」」「続々々々・「事変」と「中立」」参照)。

 しかも、既に繰り返し指摘したことだが、カーチスP-40戦闘機で編成されたフライング・タイガースの日本軍との初戦は日米開戦後のこと(当初のビルマから中国国内に移動した―ただし3個飛行隊のうち1個飛行隊はビルマに残置―のも日米開戦後)であり、「自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら」との主張はまったくの誤りである。

 この点においても、件のネット情報の歴史理解の杜撰さは明らかである(総じて言えば、歴史的事実に対する無知と歴史的事実の積極的捏造を特徴とするデマ情報なのである)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 00:27 → http://www.freeml.com/bl/316274/145570/
 投稿日時 : 2010/08/26 22:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/145834/
 投稿日時 : 2010/08/27 22:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/145891/

 

 

 

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2015年9月20日 (日)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 2

 

 前回の記事で、ネット上に流布された、

 

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 

…というお話が、歴史的事実を反映していないこと(いわゆる「捏造」であること)を明らかにし得たものと思う。

 

 昭和16年4月15日の時点では、米国はまだ「空軍」を保有していなかったし(空軍が組織として独立するのは戦後のことである)、クレア・リー・シェノールト(あるいはシェンノート)が1937年に米国陸軍を退役した際の最終階級は陸軍大尉であった。存在しない米国「空軍」の軍人に、存在しないクレア・リー・シェノールトという名の陸軍「大佐」麾下の戦闘機部隊への「志願」を、米国大統領が「命令」したり、それが「実行に移され」たりすることなど、原理的にあり得ない話なのであった(しかも、アラン・アームストロング―『「幻」の日本爆撃計画』の著者である―の調査によれば、米軍人にフライング・タイガースへの志願を命ずる趣旨の大統領令―大統領が署名した行政命令―自体が存在しないというのである)。

 

 

 さて、ネット上の情報によれば、上記の話には、

 

 「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 

…との解説が附されている。

 これを読む限りでは、「傭兵戦闘部隊」への「一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名」が簡単であったような印象を受けるのだが、実際には、それほど思い通りに進んだわけでもないようである。

 『ウィキペディア』の記述を信じれば、という話ではあるが、実際には、

 

 派兵計画は当初、大統領直属の官僚であるLauchlin Currieが指揮し、資金融資に関してもフランクリン・D・ルーズベルト大統領の友人であるトミー・コルコランが作り上げたワシントン中国援助オフィスを経由して行うといった形をとった。また中立上の立場から直接の軍事援助を行わず、中国国民党軍が資金を使い部隊を集める形式を取った。1940年の夏にシェンノートは中華民国空軍増強の目的で優れたパイロットを集めるためにアメリカ合衆国に一時帰国した。

 アメリカ本土に到着したシェンノートは早速、ルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集める権利を与えられ、アメリカ軍隊内で早速パイロットの募集を募った。シェンノートの理想は当然、メンバーは戦闘機乗りであること、飛行錬度は高いことが条件であった。採用されたパイロット達全員は義勇の名目からアメリカ軍を一旦退役する必要があった。またAVGとしての活動中、パイロット達には下記の条件が与えられた。

  軍退役後は全メンバーに一時金500ドルを支給
  中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束
  毎月600ドルを全てのパイロットに支給
  月支給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給

 パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。さらに募集した人員の中には機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対し再訓練が必要であった。

 募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名・陸軍35名・海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多かった。そこでシェンノートは本国で提唱していたが無視され続けてきた一撃離脱戦法を、隊員たちに徹底的に訓練させた。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い彼らを「飛虎」と名づけ、世界からはワシントンD.C.に置かれた「中国援助オフィス」が設立した「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。
     (以上『ウィキペディア』の「フライング・タイガース」の項による―2010年8月23日閲覧)

  
 
…という経緯を辿ったようである。

 この『ウィキペディア』記事も、「中国での軍務の終了後、元の階級での空軍復帰を約束」という記述、つまり「空軍」という表記をしている(この表記については、2015年9月20日の閲覧の時点でも修正されていない)わけで、どこまで信頼すべきなのか?という問題がないわけではない。

 しかし、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 V.D.チャップライン大佐は、ニミッツ提督に宛てた極秘覚書でパイロットに対する海軍の必要度について記している(1941年10月18日付の文書である-引用者)。海軍全体として一九四二年一月の時点で七五〇〇名のパイロットを必要とすることになっていた。だが実際には、パイロットは六八〇〇名しかいなかった。そのうちで経験者(つまり実際に機能している飛行隊に一年或はそれ以上勤務した者)は、三一九四名しかいなかったのである。このような事情から、チャップラインの覚書の左下の隅に「除隊資格者は、空母における艦上発着訓練を始める前に飛行訓練センターを卒業した者に限るべきである」と誰かが注釈を書き加えている。
 海軍はもっとも経験豊かなパイロットを必要としていたから、ノックス長官はカリーに書簡を送り、こう断言している。「……小職は、除隊有資格者は海軍飛行訓練センターの最近の卒業生で、飛行訓練を終了し、海軍飛行士として任命された直後から三カ月以内の者に限定されるべきと考える」。…
     (171ページ)

 

…という事情も、当時のフライング・タイガー創設をめぐる現実であったわけである。この1941年という年は、ヨーロッパでの戦争が始まってから既に2年が過ぎた時点なのであり(「支那事変」の5年目)、錬度の高い戦闘機パイロットをわざわざ除隊させて、「傭兵戦闘部隊」へと供給することに躊躇する海軍当局者の態度は合理的なものだ。

 ベテラン戦闘機パイロットの確保を望んでいたシェンノート(シェノールト)の目論見に対し、米軍自身の都合が優先されたであろうことは、疑う必要がないように思われる。結果として「シェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった」ことは、『ウィキペディア』の記事通りの事実であったと考えられる。

 

 米国の参戦が、現実的課題として浮上しつつある渦中での話なのである。チャーチルとルーズベルトによって「大西洋憲章」が発表されたのは、1941年の8月のことだったことを思い出しておくべきであろうか? 「大西洋憲章」の第六項には、

 
 
  第六に、ナチス専制主義の最後的破壊ののちに、両国は、全地上の人類が恐怖と欠乏から自由に生活しうるような平和を確立することを欲する。

 

…と明記されている。つまり、米国大統領は英国首相と共に、既にこの時点で、「戦後」の構想を語っていたのである。

 英国単独での「ナチス専制主義」への勝利は考えられず、米国大統領にとって、既に参戦は選択肢に組み入れられていた、と考えておく必要がある。

 先に示したのは、そのような背景の下での海軍首脳の判断なのであり、それがシェンノート(シェノールト)の目論見の障害となったわけである。

 

 

 これが、

  「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

…という話の実情であり、米軍「佐官」の(実際には「大尉」で退役しているので佐官であったことはないのだが)クレア・リー・シェノールトが、「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名を」彼の「傭兵戦闘部隊」に確保するに際して直面した、「思い通りにならぬ」現実の姿なのであった。

 

 アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)は、その募集の様子をテックス・ヒルの証言に基き、

 

 一九四一年三月、パイロットのテックス・ヒルとエド・レクターは、バージニア州ノーフォークの海軍航空隊の駐機場を離れる途中、CAMCOのリクルート担当者に話しかけられた。ビルマ・ルートを守るために戦闘機のパイロットをやってみないか、ということだった。ヒルは、ビルマがどこにあるかさえ知らないと応えた。話し合いは飛行場の管制室で行われた。中国を守るために戦闘機を操縦することが意味する精神と冒険を納得したヒルとレクターは、海軍に入隊する前は新聞社のイラストレーターだったバート・クリストマンと共に、海軍将校を辞めてCAMCOに入社する意思を記した文書に署名した。だが三人とも、実際には中国のために戦闘機を操縦し、戦うという理由で除隊が認められるとは思っていなかった。
 だが、1カ月後、再びCAMCOの代表から話があり、三人は書類がパスしたと告げられたのだった。ある基地の司令官は、海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだが、本件はすべて「大統領の承認を得ている」と海軍航空局局長のタワーズ提督にはねつけられた。
     (148~149ページ)

 

…と記している。ここには、募集に応じたパイロット当人たちが、リクルート担当者の話を、それほどリアルなものと考えていなかった様子が窺える。

 「海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだ」という「ある基地の司令官」のエピソードは、熟練パイロットの確保を優先課題と考えるようになった、1941年当時の現場の雰囲気を伝えるものであろう。同時に、大統領の意向が、現場まで貫徹していなかった事実を物語るエピソードでもある。

 CAMCOは、中国政府に代わり(あるいは米国政府に代わり?)、パイロット達の雇用主となった企業である。アームストロングの著書には「傭兵戦闘部隊」の設立に際して大きな役割を果たした企業として、インターコンチネント・コーポレーションとCAMCOの名が挙げられているが、残念ながら、両社の関係・内実に関しての記述に一貫性はない(ので、ここでは詳述しない)。

 

 また、他の著作からのアームストロングの引用によれば、陸軍航空隊のチャーリー・ボンドは「戦闘機の操縦訓練を受けてきた自分がカナダに爆撃機を自力空輸する任務しか与えられないのは時間の浪費だからという理由で」、海兵隊中尉グレゴリー・ボイントンは「借金の清算」が可能となる「報酬が魅力的だった」という理由で、クレア・リー・シェノールトの創設した傭兵戦闘部隊に参加していたのだという。

 

 アラン・アームストロングは、

 

 シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した。……。シェノールトの下に馳せ参じた義勇兵たちは、ふつうの男たちではなかった。冒険家、ロマンチスト、根っからの傭兵気質の持ち主、理想主義者などからなるこれらの男たちの集団は、中国の厳しい戦闘環境を生き延びるために厳格な現場監督を必要とすることになった。
     (149~150ページ)

 

…という文章で、その話題を締めくくっている。

 要するに、「一癖も二癖もあったならず者」の内実は、多様な動機に支えられた多様なタイプの男たちなのであった。

 

 

 ここであらためて、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を用いて、ここまでの流れの全体を復習しておこう。

 

 計画は単純だった。米国の近代的な戦闘機とパイロット、それを飛ばし続けるための整備技術者を確保すれば、蒋介石は即席空軍を得られるわけである。しかし、欧州での戦争は連合国にとって不利で、辺鄙なアジアでの戦争に回せる飛行機はなかった。
 米産業界は、軍備強化にかかった米軍のために、夜を日に次いで軍需物資を生産していたが、法的に米国は、まだ中立ということになっていた。こんな事情に加えて、シェンノートと宋は、もうひとつ別の障害に直面していた。当時、日本帝国と合衆国の間には諍があり、ワシントンの政治家たちは事態をさらに悪化させるようなことを厭っていたのである。にもかかわらず、その年(1940年)の暮までにシェンノートと宋は、難関を打ち破った。
 合衆国と中国との取引によって、蒋介石は欲していた物のすべてを手に入れたわけではなかったが、ビルマ公路を日本軍の空襲から護るために不可欠であった戦闘機100機は入手でき、打ちのめされた中国に対する最後の補給線は確保された。米国の義勇軍パイロットと、地上勤務者は、軍務から離れることを許可され、1年間、中国で戦うという契約に署名することになる。乗機は、米陸軍戦闘機隊に多数配備されているP-40の輸出型である「トマホーク」になるだろう。シェンノートは同部隊の指揮官となり、同部隊は米義勇部隊と呼ばれるようになった。
 米義勇航空群の新兵たちは合衆国中の陸軍、海軍、海兵隊の飛行場から舞い上がり、志願書類に署名した。その間、海路、トマホークをビルマのラングーンへ運ぶ算段が為され、機体はそこで組み立てられることになった。1941年7月、米義勇航空群の空中、地上勤務者たちは英空軍がビルマの密林の奥深く、ラングーンからシッタン河を240㎞遡ったトングーに建設した基地で訓練をはじめた。日本が12月のはじめに真珠湾を攻撃するまでに、米義勇航空群はシェンノート直伝の対敵戦術に熟達していた。
 日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した。
     (9ページ)

 

 この際なのでモールズワースの記述に関連させて、紹介したネット情報の問題点を更に指摘しておくと、

 

 さて、この飛虎隊は、表向きAVGの「V(ヴォランティア)」が表しているように、あくまでも蒋介石軍を支援する為に馳せ参じた米国人の「義勇軍」とされていました。

 しかし飛虎隊が主戦場としたのは、日本陸軍と蒋介石軍が支那事変=日中戦争を戦っていた支那大陸であり、当時、蒋介石軍の航空兵力が日本陸軍航空兵力によって事実上壊滅状態にあった事を考えると、支那軍機として日本軍機と空中戦を演じていたのは、実質的に飛虎隊だったといえます。

  さらに、ローズヴェルトの大統領令、そして構成員が米軍関係者、使用機種が米軍の最新鋭戦闘機となると、これはもう単なる義勇軍どころの話ではありません。

 むしろ、米国が「国策」として飛虎隊を編成、支那大陸に派遣したとみるべきで、日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事になるのです。

 

…とネット情報には明記されているのだが、フライング・タイガース(AVG)が実際に日本軍との戦闘に参加したのは1941年12月8日の日米開戦後のことなのである(1941年12月20日、中国の昆明の話であり、しかも部隊が中国大陸内に移動したのも日米開戦後になってのことであった―日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した)。従って、「日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事」にはならない(完全な事実誤認に基づく主張なのである)。

 

 

 全体の流れを復習したところで、再び、

  蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)

…の実像を追ってみたい。ネット情報では、「解説」は、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し、一般には「飛虎隊」の名で知られており、「AVG」の名よりもむしろこちらのほうが知名度が高く、AVGは知らないが飛虎隊は知っているという方が多いと思います。

…と続いている。

 ここでは、「蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)」が使用した「当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40」が、「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」だと「解説」されている。しかし、実際には、米国からのカーチスP-40の提供に際し、「武器貸与法」は発動されてはいないと考えられる。私の読んだ限りでは、「武器貸与法」の発動による「供与」であることを明言、少なくとも示唆する内容の記述は、このネット上の解説(怪説?)以外にはない。

 実際、アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)によれば、

 

 ブルース・レイトン退役少佐の一九四一年の報告から、中国政府が中国で航空戦隊を組織するために必要な借款とその他の援助を取り決めるため、一九四一年に特別使節団をワシントンに派遣したことは明らかである。レイトン少佐は、アメリカの一億ドルの対中借款がまとまり、合衆国は当時イギリスに割り当てられていたP-40戦闘機一〇〇機を中国に放出する予定である、と記している。P-40は高性能で複雑な戦闘機だから、戦闘で有効に活用し、訓練中の事故で失われないようにするために、アメリカ軍の退役パイロットが操縦すべきだという決定がなされた。レイトン少佐はさらに次のように述べている。「……明らかな理由で、中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」。…
     (153ページ)

 

…ということなのであり、別の箇所では、レイトンの残した記録から、

 

 当初の計画では、カーティスP-40一〇〇機を中国に輸送することが必要だった。そのあと、武器貸与法の下で、相当数の追加分の航空機の供与と当初の計画の拡大の手はずが整ったが…
     (157ページ)

 

…との文章も引用されている(つまり、「武器貸与法」の活用が検討されたのは「そのあと」の話、ということなのである)。

 「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊(AVG)」が使用した100機のP-40は、「武器貸与法」に基く供給ではなく、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用した「売却」だったのである。ここには、むしろ、より以上に巧妙な(あるいは慎重な)米国政府の姿勢さえ読み取れるのではないだろうか。あくまでも、航空機メーカーから航空機運用業者への「売却」として処理されることで、米国政府の公式的な関与は存在しないことに出来るのである(それに対し、「武器貸与法」の適用は、米国政府の公式関与を宣言することになるものとなる)。「中国で考慮されている種類の計画に加担する者は、合衆国政府と関係があってはならない」という言葉の背後にある、合衆国政府関係者の巧妙かつ慎重な姿勢を理解しなければならない。

 

 

 今回あらためて明らかになったのは、まず、シェノールト(シェンノート)がAVGのパイロットの確保に奔走していた1941年の時点(ナチス・ドイツによるヨーロッパでの戦争が3年目となり、日中間の「事変」は5年目を迎え、しかも大日本帝國はヨーロッパでの戦争の推進者であったドイツとの軍事同盟―1940年のいわゆる「日独伊三国同盟」である―を誇示し、更に仏印進駐=軍事力による対外的強硬姿勢の顕示に向かおうとしていた時期である)では、シェノールトへの米軍の協力が消極的なものにとどまった事実である。既に当時の米軍は熟練したパイロットの確保を課題としており、シェノールトへの協力を優先することはなかった。

 加えて、ネット情報にある、

  「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し

…との記述の誤りである。当初AVG(フライング・タイガース)が入手した100機のP-40は、「アメリカの一億ドルの対中借款」を利用し中国が「購入」した機体なのであって「米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体」ではないのである。

 

 シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガース(飛虎隊)をめぐるネット上のお説には、歴史的事象を取扱う上での慎重さ、そして誠実さが皆無であることが、ここからも再確認出来るように思われる。ネット上の情報にデタラメが多いことは事実ではあるが、それはデタラメ情報を「拡散」することを正当化する理由にはならないことは言うまでもない。

 

 

 

 さて、「一癖も二癖もあったならず者」の一人について、カール・モールズワース『太平洋戦線のP-40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述を読もう。

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、かれには戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936~1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、かれはまだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。
     (11ページ)

 

…という経緯をたどり、ボームラーは、米陸軍航空隊に編入される前の米義勇航空隊の一員となり、中国大陸上空での日本軍との戦闘に従事したわけである。

 次回は、世界史的文脈の下で、ボームラーの経歴がどのような意味を持つものであるのかについて考えてみたい。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/23 23:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/145633/
 投稿日時 : 2010/08/24 22:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/145686/
 投稿日時 : 2010/08/25 22:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/145747/

 

 

 

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2015年9月19日 (土)

飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 1

 

 フライング・タイガースといえば、カーチスP-40戦闘機機首の液冷エンジン用の巨大なラジエーター側面に描かれたシャーク・マウスとディズニー・デザインの部隊マークの組み合わせという独特のノーズ・アートで、軍用機ファンならずとも知る人の多いであろう、「先の大戦」で活躍した戦闘機部隊の名だが、残念なことにネット上には不正確な情報も「拡散」されてしまっているようである。以前に私が読む羽目に陥った(5年前の話である)のもそのような情報の一つであったが、現在でもそのまま流布されているようなので、どこがどのように不正確なのかについてあらためて問題点のいくつか(あまりに問題があり過ぎるので、そのすべてを対象にすることはしない―今回の記事は、情報の不正確さにあきれて5年前に書いた文章を再編集したものである)を指摘していきたい。

 まず、私が読んだ内容を確認することから始めよう(今回は、ネット上にはほぼ同文の記述が複数存在することを指摘するにとどめ、オリジナルの情報源を確定することはしないし、引用元のURLも特に示さない―テキストとして用いるのは、5年前にコピペ保存しておいた文言そのままである)。

 

 

 

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 「AVG」は、機体の機首部分に吊り目と鮫口(シャーク・マウス)、主翼に支那(中華民国)のマーク「青天白日旗」が描かれた、当時の米軍最新鋭戦闘機・カーチスP-40──これは、米国で成立した武器貸与法に基づいて供与された機体──を擁し、一般には「飛虎隊」の名で知られており、「AVG」の名よりもむしろこちらのほうが知名度が高く、AVGは知らないが飛虎隊は知っているという方が多いと思います。

 さて、この飛虎隊は、表向きAVGの「V(ヴォランティア)」が表しているように、あくまでも蒋介石軍を支援する為に馳せ参じた米国人の「義勇軍」とされていました。

 しかし飛虎隊が主戦場としたのは、日本陸軍と蒋介石軍が支那事変=日中戦争を戦っていた支那大陸であり、当時、蒋介石軍の航空兵力が日本陸軍航空兵力によって事実上壊滅状態にあった事を考えると、支那軍機として日本軍機と空中戦を演じていたのは、実質的に飛虎隊だったといえます。

  さらに、ローズヴェルトの大統領令、そして構成員が米軍関係者、使用機種が米軍の最新鋭戦闘機となると、これはもう単なる義勇軍どころの話ではありません。

 むしろ、米国が「国策」として飛虎隊を編成、支那大陸に派遣したとみるべきで、日米開戦の8ヶ月も前に、米軍は支那大陸に於いて宣戦布告なきまま日本軍との戦闘状態に突入していたという事になるのです。

 その後飛虎隊は、日本陸軍が新たに「ゼロ戦(三菱零式艦上戦闘機)」──米軍が「ゼロ・ファイター(Zero Fighter)」として恐れた高性能戦闘機を支那戦線に投入した事で壊滅。

 昭和17(1942)年7月、飛虎隊の残存兵力は、米軍正規部隊である第10空軍の戦闘機大隊「チャイナ・エア・タスクフォース=China Air Task Force:略称CATF」に編入、更に大戦後期には、米国第14空軍麾下の「中美混合航空団:美は米国の事」として戦い、終戦を迎えたのです。

 このように、支那事変における飛虎隊から、日米開戦後の「CATF」→「中美混合航空団」に至る一連の流れを見ていくと、そこには連続性があります。

 また、これは非常に重要な事なのですが、支那事変の「直接当事国」はあくまでも日本と支那(蒋介石政権)でした。米英ソが、軍事顧問団の派遣や物資援助をしていたのは事実であり、これが劣勢だった蒋介石軍を支えていた事は否めません。

 しかし、日米開戦前の段階に於いて、米国が「義勇軍」の名を借りた空軍部隊(飛虎隊)を派遣したとなると話は全く別です。これは、明らかに中立義務違反であり、国際法上許されるべきものではありません。

 ましてや、自国が宣戦布告なきまま、支那大陸に於いて日本軍との戦闘状態に突入していながら、真珠湾攻撃を、日本からの宣戦布告が遅れた事で、騙し討ち等と称する事は、正に言語道断といえます。

 それこそ、米国側が喧伝してきた所の「Sneaky(卑劣な)」というものです。

 最後に、真珠湾攻撃直前の日本潜水艦撃沈や、飛虎隊の支那派遣とは別に、米国が自ら対日戦争を望んでいた事実を書いて締め括りたいと思います。

 それは真珠湾攻撃の7ヶ月も前、昭和16年5月に、米国が蒋介石軍と共に、支那大陸から日本の主要都市に対する渡洋爆撃(日本本土空襲)を計画、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、更にはローズヴェルト大統領までもが承認の署名をしていた、というものです。

 結局、この計画は、欧州戦線への爆撃機投入が優先された事により、実行が開戦後にずれ込んだ訳ですが、計画によれば、カーチス戦闘機350機、ロッキードハドソン爆撃機150機を投入し、大阪・神戸・京都・東京・横浜といった日本の主要都市に対する爆撃を実施する。爆撃に際しては、木造家屋の多い日本の事情に合わせて焼夷弾を使用する。

といったものでした。

 余談ですが「焼夷弾」とは、戦時中、日本中を焦土に変えた米軍による空爆=空襲で威力を発揮した兵器で、爆裂して目標を破壊するのではなく、目標=主として日本の木造家屋を焼き尽くす事を目的に、戦前から米軍内で独自に研究開発された「対日戦争専用兵器」でした。

 もしも、米国が、本当に日本との戦争を望んでおらず、真珠湾攻撃が騙し討ちだったというのであるならば、わざわざ開戦前から日本専用の兵器開発に手を染める必要性等なかったのです。

 つまりは、如何に米国が真珠湾奇襲(騙し討ち)・日本軍国主義などと喧伝し、戦後も、米国は正義・日本が悪だったという「日本悪者論」を展開しようとも次々と明るみに出てくるこれらの事実を見れば、日米どちらにより大きな「戦争責任」があったか、如何に米国が「日本との戦争(大東亜戦争)」を欲していたかは、火を見るよりも明らかな事なのです。

 

 

…という内容なのだが、どうもおかしな記述ばかりが目に付くのである(ある程度の歴史的知識があれば、記述内容の杜撰さに気付くことは難しいものではない―と、私は思うのだが、実際問題としては、ネット上には上記内容のコピペ記事ないし上記内容にそのまま依拠した主張が蔓延・流通しているような現実がある)。

 

 で、まず今回は、

 

  昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

 

…という記述の妥当性を検証してみよう。

 

 

 アラン・アームストロング 『「幻」の日本爆撃計画 「真珠湾」に隠された真実』 日本経済新聞出版社 2008)には、次のように書かれている。

 

 アメリカ義勇兵部隊結成のいきさつを知る権威の多くは、ルーズベルト大統領は同部隊結成を承認する秘密の大統領令に一九四一年四月一五日に署名していると語ってきた。これらの権威の一人であるクリア・シェノールトは、自伝の中で次のように記している。「一九四一年四月一五日、予備役将校と下士官が、中国におけるアメリカ義勇兵部隊に入隊する目的で陸軍航空隊並びに海軍と海兵隊の航空隊を除隊することを承認する、非公開の行政命令が大統領の署名の下で発令された」。また、『ならず者の戦い』の著者のドウェイン・シュルツ教授は、ルーズベルト大統領は「陸・海軍の現役将兵が一年間中国で軍務に服する契約をCAMCOとの間で結び、その後、以前の階級を失うことなく再び所属部隊に帰任することを許可する秘密行政命令に署名した」と主張している。しかしながら、ルーズベルトがアメリカ義勇兵部隊の結成を承認する大統領命令を文書で出した形跡はない。
 ノックス海軍長官補佐官のビーティー大佐が、真珠湾の合衆国海軍航空基地司令官、ジェームズ・シューメーカー大佐宛に一九四一年八月四日に書いた紹介状は、C.B.アデア大尉を紹介するものだった。だが、ビーティー大佐が行った紹介の中身はまったく不正確だった。

  中国政府によるパイロットおよび整備工の米軍からの採用を容易にすることは、かなりの期間にわたり、合衆国政府の政策だった。上記の将校は、中国政府に代わって採用を行っているインターコンチネント社の代表である。貴指揮官は同代表に協力し、貴航空基地のパイロットを面接して中国における軍務のためにインターコンチネント者に採用されることに関心があるか否かを打診することを可能にされたい。

 アメリカ人パイロットに中国軍の航空機を操縦させることが、「かなりの期間」アメリカの政策だったという事実はない。実のところ、シェノールトもその他の義勇兵たちも、宣戦布告なき日中戦争が勃発したあとの一九三七年八月には、中国を離れるようアメリカ領事から警告されているのだ。この警告がきっかけとなって、シェノールトはアラバマ州のモンゴメリー・アドバイザー紙に投稿した手紙のなかで次のように書いている。「中国航空公司のアメリカ人パイロットとその他の従業員の大半は、アメリカ領事の警告を受けて仕事を辞めた」。アメリカは中国にパイロットを提供していたという見方は、せいぜい一九三二年にジャック・ジューイット大佐が率いたアメリカ軍事使節団に該当するにすぎないのではなかろうか。とは言っても、その目的は中国人パイロットの育成であって、日本相手の戦闘で飛ぶことではなかった。
 次に、一九四一年八月七日、J.B.リンチ中佐はニミッツ提督に秘密覚書を送っている。テーマは、「セントラル航空機製造会社(CAMCO)による中国における海軍軍人雇用を認めるための除隊許可」だった。リンチ中佐はノックス長官に、自分は二ヵ月ほど前に多数の海軍将校とブルース・レイトンおよび陸軍航空隊を退役したオールドワース大尉なる人物との会合に呼び出されたと報告した。そのあとリンチ中佐はこう述べている。「示された目的のために海軍の将兵の除隊を認める計画は、海軍長官によって承認されていることが窺えた。長官もまた、大統領から指示を受けているというのが、私のはっきりした印象だった」
 書面による行政命令こそ不在だが、大統領が中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令したことはほぼ疑いないだろう。リンチ中佐はまた、こうも報告している。「このような雇用が認められた海軍のすべての軍人は、正規の将兵も予備役の将兵も、合衆国軍隊となんら関係を持たないために、まず海軍あるいは海軍予備役から除隊しなければならないという決定が下された」
          (同書 159ページ~160ページ)

 

 

 アラン・アームストロング氏による限り、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

…という、大統領の署名のある行政命令は存在しない。

 ただし、

  書面による行政命令こそ不在だが、大統領が中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令したことはほぼ疑いないだろう。

…ということなのであるらしい(件のネット記事には「米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました」と明記されているわけだが、「口頭」の「命令」にどのように「署名」が可能だというのだろうか?)。

 それが、

  「このような雇用が認められた海軍のすべての軍人は、正規の将兵も予備役の将兵も、合衆国軍隊となんら関係を持たないために、まず海軍あるいは海軍予備役から除隊しなければならないという決定が下された」

…という条件を付けられたものであることには、真実味がある。「中国のための特別航空隊の結成を口頭で命令した」際に大統領にとって重要だったのは、「合衆国軍隊となんら関係を持たない」存在として「中国のための特別航空隊」を位置付けることであった。

 「決定」の内容は、除隊後の将兵に義勇兵部隊参加への可能性を開いたとまでは言えるにしても、型式としては大統領が義勇兵部隊への参加の条件を示したものに過ぎず、米軍将兵に義勇兵部隊への参加を指示命令したものではない。

 大統領は「特別航空隊の結成を口頭で命令した」が、「米国空軍・海軍・海兵隊軍人」に対し「戦闘機部隊に志願すべし」との命令は(「口頭」のものとしても)発していないのである。

 重要な点なので繰り返しておくが、要するに、「フライング・タイガース戦闘機部隊に志願すべし」という内容・文言の、米国空軍・海軍・海兵隊軍人に対する、米国大統領によって「署名」された「大統領令(行政命令)」と呼び得るものは存在しないということなのである。

 

 もっとも、アラン・アームストロング氏によって書かれた同書の主張の信憑性という問題はあるのかも知れない。しかし、同書の内容は、カバーの説明によれば、

  1941年7月23日、合衆国大統領ルーズベルトは「陸海軍合同委員会計画JB-355」と名付けられた極秘作戦を承認した。これは、中国本土から発進する爆撃機隊で、宣戦布告なしに日本の主要都市を爆撃する計画だった。実行日は41年11月――真珠湾攻撃の1か月前とされていた。
  この作戦を立案したのは、元米陸軍航空隊のシェノールト大尉(のち現役復帰して少将)。中国の蒋介石総統に雇われていた彼に、日本爆撃の密命を与えたのはモーゲンソー財務長官、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官――「プラス4」と呼ばれるルーズベルト大統領の側近たちである。もちろん大統領自身も、この計画に深く関与していた。
  ではなぜ、日本爆撃は実行されなかったのか。日本のスパイは計画をどこまで察知していたのか。この計画の存在が、今日まで秘密にされてきたのはなぜか……。本書は、アメリカも真珠湾攻撃と同様の「宣戦布告なき先制攻撃」を計画し、実行の一歩手前まで来ていたことを明らかにする。新発見された資料をもとに、日米開戦の「常識」を覆すノンフィクション大作!

…というものだ。大統領の署名のある「行政命令」が実在するのであれば、それはむしろ著者の同書での主張の補強材料として機能するのであり、積極的に公表・紹介すべき第一級の歴史史料と位置付けられる。にもかかわらず、著者自身がその存在を否定している以上、その著者の主張を疑うべき理由は私には思い付けない。

 

 

 それに、行政命令の内容自体が、あまりにいいかげんなものに見えるのだ。ネット上のお話によれば、ルーズベルトによる「重要な大統領令(行政命令)」の内容は、

  米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし

…というものだったというのだが、「クレア・リー・シェノールト陸軍大佐」とは何事だろうか!?アームストロング氏の著書のカバーにある通りで、クレア・リー・シェノールトの実際の肩書きは、

  元米陸軍航空隊のシェノールト大尉

…なのである。米陸軍航空隊大尉であったシェノールトは米「陸軍」航空隊を除隊の後に、中華民国「空軍」の大佐として現地に赴任したのである。である以上、

  米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし

…などという文言の「重要な大統領令(行政命令)」など、「陸軍大佐」としてのクレア・リー・シェノールトが存在しなかった以上、そもそもが存在し得ないものなのである。それに加えて、この「行政命令」の対象は「米国空軍・海軍・海兵隊軍人」となっているが、米国に独立した空軍が誕生したのは第二次世界大戦後のことである。つまり、二重の意味で、存在し得ない「行政命令」なのだ。

 従って、続く、

  「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

…というお説にある「蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)」という記述、この「米軍佐官」という肩書きも事実を正確に反映したものとは言い難い(ただし、「蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問」という記述については、中華民国の「空軍」は当時既に存在していたので誤りではない)。

 

 

 

 今回の結論として再確認しておくと、フライング・タイガース(飛虎隊)をめぐりネット上に流布された情報の冒頭にある、

 昭和16年4月15日。米国大統領フランクリン・ローズヴェルトは、ある重要な大統領令(行政命令)に署名、直ちにその命令が実行に移されました。そしてその命令とは、

  「米国空軍・海軍・海兵隊軍人は、クレア・リー・シェノールト陸軍大佐麾下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊に志願すべし」

というものだったのです。

…との記述は、米国に空軍の存在しない時代に、米国軍人として存在しないクレア・リー・シェノールト陸軍「大佐」の指揮下の「フライング・タイガース」戦闘機部隊への志願を、米国の軍人に命令した実際には存在しない「大統領令」について述べたものであり、主張として(その根幹においても枝葉においても)歴史的事実に反する内容であることが明らかになった。

 今回取り上げたネット情報の内容は、その冒頭からして(つまり前提からして)誤りに満ちたものであり、フライング・タイガースについての積極的な「捏造記事」なのである。歴史的事実の「捏造」という問題は朝日新聞に限った問題ではなく、「朝日新聞の捏造」を批判する人々にとっても日常茶飯の行為である現実が、このようなネット情報を読むことで確かめられるわけだ。

 

          (次回に続く)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2010/08/19 22:18 → http://www.freeml.com/bl/316274/145352/
 投稿日時 : 2010/08/20 22:17 → http://www.freeml.com/bl/316274/145422/

 

 

 

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2015年9月 5日 (土)

青原さとし監督の『土徳流離』(2015)を観た

 

 青原さとし監督の新作『土徳流離~奥州相馬復興への悲願』(2015)の完成試写会。会場は築地の本願寺である(2015年9月2日)。

 

 

 築地の本願寺と言えば伊東忠太設計の傑作だが、「先の大戦」の際に焼け野原となった東京を生き抜いた巨大建築でもあり、その伽藍の内部で東日本大震災(もちろん、ここで「大震災」の言葉が意味するのは巨大な自然災害の過酷さにとどまるものではなく、それに伴う福島第一原発事故災害が人々にもたらした過剰な過酷さの経験の深刻さなのであるが)からの「復興への悲願」をテーマとした『土徳流離』の試写会に立ち会う経験というのは、それだけで胸高鳴らざるを得ない。

 

 

 

 で、上映時間200分超えの大作に立ち向かう。

 

 

 映画を全編観終えて、誤解を恐れずに言えば、「無謀な試み」という言葉が浮かぶ作品であった。監督自身が今後の一般上映の難しさを語っていたが、前編100分、後編103分という二部構成、上映時間は3時間を超えるのである。しかも、題材は(一般的興味関心からすれば)地味の極みなのである。

 もちろん、私からすれば、まったくもって退屈な作品などではない。映像はひたすら、大震災と原発災害に襲われた奥州相馬の現在と、現在を構成する歴史の深みに分け入っていくのである。

 200年前に奥州相馬地方を襲った大飢饉と復興。その担い手となった移民(藩の政策による移民である)。移民となったのは新潟、富山といった各地の浄土真宗の信徒であった。中心には寺院(移民寺)があり、現在まで続く各寺院の起源が探られる(その探索を通して、移民のルーツも明らかになるのである)。

 

 ナレーションには説教節の節回しが効果的に用いられ(しかも琵琶の伴奏がつく)、それだけで私などは興奮してしまう。

 

 前編では、真宗移民とその背後にある移民寺のひとつひとつのルーツが明らかにされていく。その丁寧な作業が長い上映時間として帰結するのだが、しかし、一例を一般化するのではなく各寺院の起源にひとつひとつ密着することで、一種の反復の中に映像の厚みが積み上げられていくのである。奥州相馬の真宗移民の歴史の厚みは、現在の奥州相馬のひとりひとりの住民の中に体現されているのだということが、説得力を持って描かれるのだ。

 これまでの青原作品の魅力は、監督が監督自身の知的欲求に引き回されるように映像が展開し、結果として監督自身の移動と記録の記録となり、一種のロードムービー的作品となるところにあったように思う。観客は、監督の知的欲求の同伴者として旅をすることになるのである。

 今回の『土徳流離』では、各移民寺のルーツである富山や新潟の映像(そこには取材する監督の移動が隠されている)も繰り返し登場するが、しかし常に映像は次の移民寺に、つまり奥州相馬の現在からの再出発という構成を取ることになってしまう(いわば限りない反復である)ので、これまでのロードムービー的味わいは作品の魅力の中心とはならないのだが、まさに反復的記録映像であることに作品としての意味が見出されもするのである。

 個人は歴史を背負っているのである。個人の背負う抜き差しならぬ歴史の厚みが、反復的映像の蓄積により明らかにされるのだ。

 

 後編は、相馬藩による真宗移民政策終了後の、二宮尊徳の「御仕法」による地方復興への試みの歴史へと移る。

 真宗という宗派に規定された人々のエートスに基礎を置いた「復興」から、二宮の思想に共鳴した(宗派を超えた)人々のエートスによる「復興」へと、軸足は移されるのである。

 二宮尊徳の思想には倫理的な側面と同時に、非常に合理主義的発想がある。そのような思想に共感し内面化した人々が、真宗移民以前からの土着と移民の枠(両者の間には対立も生じるのである)を超えた人々のつながりを生み出し、それが現在の奥州相馬地方の基底となっているということなのであろう(ここでも個人が歴史を体現していることになる)。

 

 特に後編では、復興を支えるために日本各地から奥州相馬を訪れる真宗門徒の姿が描かれ、各地の二宮尊徳の共鳴者(報徳社の人々)による復興支援活動が記録されている。

 それにより、奥州相馬の真宗門徒の特異性ではなく真宗門徒としての普遍的行動様式が明らかになり、奥州相馬の二宮尊徳の共鳴者の特異性ではなく二宮尊徳の思想が生み出す普遍的行動様式が明らかになってもいるのである。

 

 「歴史」に焦点が当てられた映像から現在へと(現在と過去の反復的蓄積から現在進行形へと)シフトしていく「後編」の構成には、こちらの頭が取り残されるような(いささか唐突な)印象もあったが、しかし、歴史に押し出されたところとして現在があり、その向う先として未来があるという構図として理解しておくべき話であったようにも思われる。

 「未来」には「奥州相馬復興への悲願」の成就のあることが、過去の経験の蓄積としての「歴史」を通して示唆されている。そして「歴史」はすべて、その時点では現在進行形の苦闘であり、「苦闘」を担うのは現在を生きる個々の人間なのである。

 3時間を超える映像が可視化して見せたのは、奥州相馬という地域ならではの歴史と現在であると同時に、人類に普遍的なそのような構造であった。そう言うことが出来るのかも知れない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/09/04 21:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/254937/

 

 

 

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