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2015年7月

2015年7月30日 (木)

安倍晋三氏の積極的参戦主義

 

 安倍政権が強引に進める「安保法制」について「戦争法案」として批判するようなセンスは私好みではない(この点については「追記」を参照)が、しかし、あの強引さには大いに問題はあるし、国民の安全の確保を「安全保障」と呼ぶならば、わざわざ隣国との緊張状態をまず創り出した上で、次いで軍事的に「安全保障」を追求するというのは本末転倒でしかない。

 現在の中国政府及び軍の公式発言をそのまま信用するのはお人好しに過ぎるが、こちらが喧嘩腰の強硬姿勢を強調すれば事が収まるわけでもないのである(註:1)。

 

 口先だけでも緊張の緩和策を掲げるべきなのであって、日本の政権の側が緊張の強化に積極的である現状は、外交的に賢いとは言い難い。米国への依存状況を高める効果しかないのである(国家の安全保障策として総合的に考えれば、米国という一国家の国益への依存度を高め、わが国の政策的選択肢を自ら狭めるのは愚かである)。

 現状の日米安保条約がある限り、日本の主権領域への軍事的侵害は同時に在日米軍に対する攻撃を意味してしまう以上、これまでの歴代日本政府がその合憲性を保証してきた個別的自衛権と日米安保条約に基づく協同軍事行動によるだけで、基本的な日本の安全保障に問題はないのである(「集団的自衛権論議と外交と軍事のリアリズム」参照)。

 

 その上で、日本の主権領域外での対外的軍事力行使が日本の国益に合致したものであり得るのだと主張し、その合法性・合憲性を確保しようとするならば、粛々と(まさに「粛々と」である)憲法改正を目指せばよい(註:2)。

 現在の集団的自衛権論議は、米国の国益への従属を確実にすること(だけ)に役立つものであっても、必ずしも日本の国益には結びつかないものであることは明白である(「「積極的平和主義」と国民の利益としての「国益」参照)。

 米国の国益に従属し、米国の戦争に参戦し、自衛隊が米軍将兵の犠牲の肩代わりをする結果にしかなりそうもないというのは、実に情けない話である(註:3)。

 

 シミュレーションは簡単で、安倍氏により成立が目指されている現在の安保法制が15年前に既に施行されていればその結果はどうなっていたのかを考えるだけでよい。

 イラクで確実に少なくない数の自衛隊員が犠牲となっていたということである。イラク戦争は、まったく正当性のない戦争であったにもかかわらず、日本政府はブッシュを支持したのであるし、その際にイラクに派遣された自衛隊員の生命を救ったのは憲法9条の制約(それにより自衛隊は戦闘に参加せず、活動を非戦闘地域での人道支援に限定した)以外の何物でもない。

 

 

 

 安倍氏の「積極的平和主義」とはまさに「積極的参戦主義」でしかなく、それが日本国民の安全につながると考えるのであれば、あまりにお人好しと言うしかないが、ネット上はあまりにお人好しな安倍氏支持者の言説であふれてもいるのである。

 

 

 

【註:1】
  そもそも各国の軍事費は、先進諸国でもGDPの数%に満たない。しかも、あまり知られていないがその中でも人件費が過半を占める。“正面”と呼ばれる兵器本体に割かれる額は、せいぜい3分の1から半分といったところだ。日本でも、2014年の防衛費約4.8兆円のうち、兵器購入に関わる防衛装備品は約1兆円にすぎない(『我が国の防衛と予算;平成26年度概算要求の概要』防衛省)。
  世界の証券業界の市場規模は175兆米ドル(「リーマン・ショックから5年―世界の証券市場は量的にどう変化したか」日本証券経済研究所・杉田浩治著)、医薬品市場は約9800億米ドルである。一概に比較はできないが、4020億米ドルという軍事産業が、いかに小さな市場であるかが分かる。日本で言えば、製造業全体の1%に満たない。
      (http://diamond.jp/articles/-/73594?page=3

 経済的には各国は相互に依存した状態にあり、経済的合理性からは、戦争はマイナスでしかない。要するに、経済的観点(経済全体)からは、戦争は歓迎されないのが現状である。
 それはグローバルな問題であり、米国にとってだけでなく中国にとっても同様である。
 ただ中国は中国共産党に支配されており、外交が内政に引きずられる傾向があるという問題がある上に、軍の幹部が示す強硬姿勢は、引くに引けぬ状況をもたらす可能性があり危険である(「米軍にとっての理想の戦場としての尖閣」参照)。
 中国の動向には常に注意を払っておく必要があるが、しかし、安倍氏の派手なパフォーマンスは何のプラスにもならない。

【註:2】
 安倍氏は、米国議会における演説中で、「自由、民主主義、法の支配」を「私たちが奉じる共通の価値」と位置付けていたが、「法の支配」の根幹にあるのは、その都度の恣意的な法解釈の排除であって、であるからこそ判例や学説の「積み重ね」による「解釈の限定」が重視される。「集団的自衛権」については、憲法学会では「違憲」とする学者が多数を占め(「合憲」とする解釈は例外的である)、安倍政権が依拠しようとしている「砂川判決」は「集団的自衛権」の合憲性を判断したものではない(筋違いな話なのである)し、自民党政権下での歴代内閣法制局も(つまり歴代自民党政府も、ということである)「個別的自衛権」の「合憲性」を主張する理路において、「集団的自衛権」の「違憲性」を政府の公式見解として維持してきたことは事実として否定し難い。「法の支配」を言うのであれば、憲法学会で積み上げられた議論を尊重し、ましてや歴代内閣法制局の憲法解釈を尊重することから始めなければならない。
 現在の安倍政権の手法は、「法の支配」の理念の根幹の否定なのである。

【註:3】
 「後方支援」なら戦争への関与が限定されると説明するのは虚偽である。
 「戦争」というものは前線における戦闘部隊によってのみ遂行されるものではなく、後方での効率的な兵站(補給)、そして情報収集と評価が死活的役割を果たすのであって、「前線への戦闘部隊の派遣」に対し「後方支援」が副次的役割を果たすというものではないし、「対テロ戦争」においては前線と後方の区別は消失するのである(「テロとの戦争」と「平和ボケ」 2 (戦争と後方支援)」参照)。

 

 

〔追記:2015年8月4日〕
 ここで、私が「安倍政権が強引に進める「安保法制」について「戦争法案」として批判するようなセンスは私好みではない」と書いているのは、「安保法制」を「戦争法案」と位置付けることが誤りであるとの意味ではない。
 いわゆる「従軍慰安婦」の問題を論じる際に、私は「日本軍性奴隷問題」とせずに「日本軍の従軍慰安婦問題」として取り扱うことを好むのと同列の話としてご理解いただきたい。「慰安婦」を「人身売買の犠牲者」として位置付ける以上、その境遇はまさに「奴隷」のものであり(「人身売買」の対象として取り扱われる時点で、既に境遇として「奴隷」なのである)、そこで要求される職務からすればまさに「性奴隷」と言うしかない。しかし、日本軍の関与した歴史的事象として問題を考える際には、日本軍に固有の名称(後に韓国軍に継承されるが)としての「慰安婦」を基本的な用語として用いることを、私は選ぶ。
 それと同様に、私は自身の立場について「安保法制に反対」と表現することを好み、「戦争法案反対」と表現することはしない。しかしそれは「安保法制」の内実が「戦争法案」と呼ぶに値しないからではなく、私が「安保法制に反対」するのはその内実が「戦争法案」と呼ぶに値するからなのである。安倍政権の側が用語として「安保法制」を用いている以上、私が反対するのは「安保法制」と呼ばれる法案(政権の側が「戦争法案」と呼ぶ法案ではなく)なのであり、法案への反対の理由として「その内実が戦争法案であるから」と説明する理路の方を(まだるっこしいかも知れないが)採用することを私は「好む」のである。
 論理的な省略の上にスローガンを叫ぶのも運動のあり方かも知れないが、スローガンを叫ぶ前にロジックの上で問題を整理することが私の方法であり、そのような私の「センス」から、「戦争法案」ではなく「安保法制」の語を用いることを好み、「性奴隷」ではなく「慰安婦」の語を用いることを好む姿勢が生まれるのだということをご理解いただきたい。

 コメント欄にある james_maki 氏のご意見は、その点に対する理解を欠いたゆえのことと思われるが(もちろん、こちらの説明不足に問題があるのだろう)、結果として私の主張ではないものを(私の主張として)激しく非難することになってしまっているのは残念な話だと思う。

 二つ目のコメントにある、「2憲法違反なのか?(砂川判決の中味、歴代法制局の認識)」と「3戦争法案なのか?(後方支援は兵站なのか?」については、きちんと冷静に記事内容を読んでいただけていれば、それぞれ「註:2」及び「註:3」で私の見解を示してあることに気付けたはずである。
 最初のコメントにある「平和主義」については、二人の日本人が犠牲となったIS(イスラム国)による日本人人質事件の際に書いた一文(参加していたMLへの投稿文)が私の立場を示すのにふさわしいと思われるので、以下に引いておく。

 『日本国憲法』の「前文」には、以下のようなものとして憲法の理念が示されています。

  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
  日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 「イスラム国」をめぐる問題については特に、

  われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

…という部分が今後の指針とするに値します。
 併せて、第9条の前半の、

  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

…との文言ですね。

 両者を併せて、基本的には、武力による解決を選択しない決意であり、武力による解決を選択しないことの重要性の表明です。

 特に「イスラム国」の体制(テロによる支配)と関連するものとしては、前文にある、

  専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと

…との文言が生きてくるはずです。

 安倍氏にもあらためて、『日本国憲法』のありがたみを深く感じて欲しい局面です。
 私自身は特に原理主義的な「護憲派」ではありませんが、現憲法のこのような側面は、今後も維持し誇るに値するものだと思っています。

 現時点での日本にも、とても役立つ戦後日本の出発点での決意表明ではないでしょうか?
     ([no_more_war:31190] 2015/02/02 18:43)

 以上、james_maki 氏のコメントに触発されての「追記」である。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/07/29 20:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/251808/

 

 

 

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2015年7月27日 (月)

浮世絵の戦争画

 

 ついに東京も体温超え、という日の午後に原宿の太田記念美術館まで出かける。

 

 「浮世絵の戦争画―国芳 芳年 清親」と題された展覧会の最終日。今日しかないので、猛暑の中を美術館まで。

 

 出かけただけのことはある内容であった。

 

 

 「浮世絵」の中で戦争(合戦)をテーマにしたものが登場するのは18世紀になってからのようで、その時点での歴史となった合戦(源平から関ヶ原まで)の様子が描かれている(「戦争画」が歴史画であった事実は、江戸期が平和な時代であったことも意味する)。それまでの「浮世絵」に対して、新たに登場した「戦争画」の特徴は広い空間の中での群像描写(戦場を俯瞰するような構図)にあるらしい(もっとも時代と共に、あらためて戦闘渦中の個人(の奮戦)に焦点が当てられてもいく―引きの構図からクローズアップの迫力へ)のだが、まさに20世紀の戦争画(「先の大戦」としての大東亜戦争の際に描かれたもの)もまた(こちらは洋画家が主な担い手となるのだが)、その多くが(戦場における)群像描写で占められる(洋画の本家であるヨーロッパでは、群像描写が絵画の基本構図のひとつであったのに対し、「洋画」を「輸入」した日本では、大東亜戦争期の「戦争画」の時代になるまで、群像描写は追及されなかった)こととどこか重なるような気もして興味深かった。

 

 「浮世絵の時代」には幕末明治期も含まれるわけで、「戦争画」の主題も、過去の合戦から現在進行形の戦闘へと変化していく。

 幕末維新(西南戦争に至る)の内戦はまさに同時代の出来事であり、過去の合戦図に現在進行形の内戦の進行を忍ばせる手法(幕府による検閲への対処である)から始まり、現実の戦闘の状況を描く(現代のジャーナリズムにつながるような)出版物へと変化していく。

 そこで興味深いのは、白兵戦での個人の活躍(つまり銃ではなく刀での斬り合い―超近接戦闘―である)に主題を求めた迫力ある画面(現在のマンガの描写と重なる構図―そこで強調されるのは画面の主人公となる人物の勇猛さであり沈着さであり自己犠牲である)があると同時に、銃が主要兵器となる近代戦の時代を反映した構図では、両軍の間に空間が広がる―両軍の将兵の間に距離がある―状況が記録されていることである(近代の地上戦は銃剣ではなく銃弾によって闘われるのである―日露戦争、そして第一次世界大戦では機関銃の圧倒的な威力が示され、「白兵戦」に至る前に大部隊が全滅させられてしまう経験をする―にもかかわらず「白兵戦」に固執したのが「先の大戦」における日本軍であったにしても)。

 

 日清戦争から日露戦争となると(つまり対外戦争の時代である)、地上戦だけではなく海上戦(黄海海戦であり日本海海戦である)が戦争の勝敗の帰趨を決することとなる。大型の軍用艦の時代である。「海戦」を描こうとすれば、両軍の巨大な(近代兵器としての)軍用艦艇が画面を占め、戦闘に携わる個人の姿は見えなくなる(艦砲の射程距離が長くなれば、両軍艦艇をアップで一つの画面に収めることすら非現実的になる―従って、対米英戦争を描いた「戦争画」では、そのような構図は採用されていない)。

 それもまた近代の戦争の姿、ということであろう。「浮世絵の戦争画」の画面にも、戦争が近代戦へと変化する時代が見事に反映されているのである。

 

 

 「戦争画」を「戦争の視覚的記録を目指した絵画」と定義すれば、まさに「浮世絵の戦争画」は、その時代の戦争のあり方が反映された「戦争画」なのであった。

 

 問題意識が重なるものとして、昨年(2014年)の川崎市市民ミュージアムでの「日清・日露戦争とメディア」展も充実したもの(こちらは「錦絵」だけでなく、新たに登場した「写真」にも焦点が当てられていた)であったが、今回の太田記念美術館での「浮世絵の戦争画」は(文字通り)「浮世絵」と「戦争画」に絞り込んだ展示とすることで、「浮世絵」内部での画題としての変遷、構図のあり方(それは描き手としての画家の問題であると同時に、「戦争画」の消費者としての庶民の欲求が反映されたものだろう)等がクローズアップされ、そこに戦争の近代史の展開もが反映されていることが、見事に示されていたように思う(図録がないことだけが残念)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/07/26 22:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/251577/

 

 

 

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2015年7月 5日 (日)

尖閣防衛と普天間基地県外移設の合理性

 

 「集団的自衛権」の必要性を尖閣防衛に求めることが的外れであることについては既に論じてあるが(「集団的自衛権論議と外交と軍事のリアリズム」及び「「積極的平和主義」と国民の利益としての「国益」」を参照)、今回は普天間基地の県外移設否定論(要するに日本政府の主張である)との関連で尖閣防衛の問題を考えておきたい。

 

 

 まず、海兵隊基地が沖縄に存在しなければならぬ軍事戦略上の理由のひとつとして、(尖閣を含む)離島防衛上の必要論(離島防衛上に海兵隊の即応的展開が必要だとする論)がある。

 しかし、「米軍にとっての理想の戦場としての尖閣」で論じておいたように、尖閣のような無人の離島を戦場とする場合、まず米国の空軍力と海軍力だけで攻撃には十分に対応し得るのである。たとえ(中国の軍隊に)尖閣に上陸されることがあったとしても、米国海軍及び空軍には、迅速に制海権を掌握し制空権を掌握することで上陸部隊を圧倒し上陸部隊への支援を不可能にする能力があるのであって、一時的に上陸に成功したとしても占領状態の維持への可能性はないのである。

 海兵隊による制圧は(それが必要なのであれば)、その後に果たされればよい話なのであって、その意味で海兵隊が沖縄に駐留しなければならない理由は存在しない。オスプレイの持つ速度と航続力は、むしろ海兵隊が沖縄県外(日本本土)に駐留し得る理由となる。

 要するに、海上の米海軍力と、沖縄駐留の米空軍力の即応的展開があれば、尖閣における米軍の圧倒的優位は確保され、海兵隊兵力の展開はその後で十分なのである。少なくとも、日本の主権領域の確保(つまり個別的自衛権の対象)に関する限り、普天間基地の県外移設は、日本の防衛の弱点となることはない。

 つまり、普天間基地県外移設案への否定(沖縄での海兵隊駐留の継続必要性の主張)は、軍事上の要請ではないのだと考えるべきである。南沙諸島の問題にしても、先に論じたように(「米軍にとっての理想の戦場としての尖閣」参照)、基本的構図は尖閣と同様に米国の海空軍力にとっての「理想の戦場」となるのであって、海兵隊の作戦行動にとって本土駐留という地理的条件がマイナスに働くことはない(沖縄でなければならぬとの論は、本土防衛という観点からすれば、むしろロシアの存在を閑却した主張との批判も可能でさえある)。

 

 

 いずれにせよ、尖閣への攻撃への座視は、日本からすれば日本への攻撃を米軍が座視することを意味し、日本に駐留する米軍の存在意義そのもの(もちろん、沖縄県内の基地に駐留する海兵隊の存在意義についても)を否定することになってしまうのであって、米国として取り得る態度ではないのである。

 

 尖閣防衛を「集団的自衛権」の必要性と関連付けるのはまったくの誤りであるし、尖閣防衛上の軍事的要請と米海兵隊の沖縄駐留の必要性の関係を冷静に考えれば、「普天間基地県外移設」は軍事的観点からは許容される問題であること(県外移設が尖閣防衛への悪影響となることはない)は理解されるはずである。むしろ、尖閣をめぐる緊張の高まりに応じて本土駐留の海兵隊をあらためて沖縄に前進・展開させて見せることで、米国としての意思を明確にする効果(パフォーマンスとしての効果)を持ち得る点を考慮すれば、海兵隊の本土駐留は軍事的にも外交的にも合理的な選択でありさえするように思われる(この点については空軍兵力も同様で、現在のような規模で沖縄に空軍基地を集中させる必要はなく、本土への分散駐留が軍事的なマイナス要因となることはないだろう―沖縄県の基地負担の軽減への努力は、日本政府が、そして本土に住む日本国民が誠実に取り組むべき課題である)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/07/03 23:15 → http://www.freeml.com/bl/316274/249901/

 

 

 

 

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