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2015年4月

2015年4月28日 (火)

再び「ふくしまの話」を聞く

 

 先週の日曜日は、「ふくしまの話を聞こう 4」と題されたイベントの参加者となっていたのであった。

 第2回に当たる一昨年の会にも参加している(「ふくしまの話を聞く」参照)が、あらためてあの原発災害の発生から4年が経過したこと(4年という時間の経過の事実、その長さと短さ)を感じさせられた。

 

 

 

 当初から私の周囲では、物理現象には人間の気持ちは通用しないから(原子炉冷却不能状態を放置すれば、それこそ「粛々」と炉心溶融に至るように)厄介なのであり、しかし一方で(放射線被害の危険性についてもやはり)物理現象である以上、人間の気持ち(不安)に関係なく数値化可能であり、現状がどの程度危険であるのかも判断可能なのだという認識(放射能の危険は目には見えないが、放射線量は測定可能なのである)が共有されていたのだが、「世間」はそうではなかったわけだ。

 一昨年の段階では(一部ではいまだに)、福島(その全域が一様に、そしてあらゆる福島県産農産物も)は放射線被害で非常に危険な状態にあるのだ(実際には福島県どころか東北地方全域が高濃度汚染地帯であるかのように取り扱われていた)という主張がされていたし、福島に住むこと自体が批判(どころか攻撃的な非難というのが現実であった)されるような事態に見舞われていたのである。そのような状況下で、一昨年の第2回に当たる会が開催されたわけだが、チェルノブイリとの比較等を通して、福島県全域が一様に(そして福島県の全農産物が)、住めないような(食べられないような)状態にあるのではないことを説得力を持って主張するための努力に、会全体が費やされていたような記憶がある。

 

 

 それに対し、今回の講演者三名の話からは、既にそのような段階が過去のものになりつつあるような印象を受けた。無責任な福島県全域危険地帯論や福島県産全農産物危険説に対する積極的防戦の段階が、既に過去のものになりつつあるように感じられたのである。

 三名はそれぞれ立場は違うが(一人は行政の現場で対応に当たる公務員であり、一人は嫁ぎ先で育児の渦中にある母であり、一人は夫と共に定年後の人生を農業経営に踏み出そうとする女性であった)、福島県内の住民として原発災害に直面させられ、手探りの状態から対応を始め、攻撃的な福島県全域危険地帯論(そこでは福島に住み続けること自体が犯罪的だとされた)や福島県産農産物危険説への対処を迫られ(そこでは、まず、そのような現状評価が果たして正当なものなのかどうかを自ら考えることから始めなければならない)、最終的に(地域に)住み続け(農作物を)生産し続ける判断をするまでの逡巡・葛藤・自問自答と試行錯誤の中での対応策実践の日々が語られたのであった。そこではまさに自己責任として(もちろん、その前に自己決定として)、様々な判断がなされ、様々な対応策が取られたのである。とにかく日本史上初の事態の中で、つまりこれまで誰にも経験されなかった事態の進行していく中で、自身の判断が問われたのであった。

 4年が過ぎ、多少の回顧的な雰囲気も交えながら(4年間の実践の中で、その余裕も生まれたわけだ)、当初から現在までのそれぞれの経験が語られたわけである。

 

 

 一昨年の会では、聴衆としての私も積極的防戦という雰囲気を共有していたのを思い起こすが、この4年間で情勢は確かに変化したということなのだろう。

 もちろん、今でも(原発再稼働を掲げる現政権によってさえも)居住を許されないレベルの高線量の地域は存在するし、福島第一原発での汚染水流出がいまだに続いている(これを「アンダーコントロール」とはどういう意味だ?)状況は直視しなければならない現実なのであって、要するに原発災害の深刻さを指摘しようとするならば(そして「反原発」の主張をしようとするならば)、それだけでも既に十分に原発の過酷事故のもたらした災厄に対して(原発再稼働を掲げる現政権でさえ)「お手上げ」状態にある事実を示す話なのであり、過度に福島県全域危険地帯論を主張したり、低線量被曝の危険性を過大に強調する必要などない(なかった)のである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/04/26 22:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/244473/

 

 

 

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2015年4月 1日 (水)

河童の起源は韓国 2

 

 

 韓国の民明大学の金大言教授による河童韓国起源説については既に紹介した(「河童の起源は韓国」)が、今回はその続報である。

 

 

 

 前回の記事では、金大言教授と李自大教授の所説を、

 

  大洞古墳群の第4号墓の石室南壁面の線刻画にある神獣Bが、これまで考えられていたように鳥としてではなく、「河童」の起源に相当する造形的特徴を備えたものとして見るべきだというのが、金教授の主張であった。頭部下方前方のカモのクチバシ様の突起の形状から、従来は(カモのような)鳥類の頭部を備えた人型の神獣像と解釈されてきたのに対し、金教授は頭部の形状を「河童」として考えることを提唱したのであった。
  金教授によれば、足の水掻き様の形状も、これまでのように水鳥のものとしてではなく、水陸両生生物としての河童のものとして理解すべきなのだという。また、突出した背部の造形もまた鳥類の羽根としてではなく、亀の甲羅を表現したものと考えるべきなのだということである。
  その後、同僚の李自大教授により、大洞の北方の宇楚近郊の民間信仰の対象として知られていた鳥頭の石像と、大洞の第4号墳の神獣Bの形態的類似が指摘され、宇楚の石像も本来は河童のものだったのではないかとの問題提起がされた。李教授によれば、韓国には河童信仰の伝統もあった、ということなのである。

 

…と要約、紹介すると共に、日本での評価を鵜益香織氏に解説していただいた。鵜益氏によれば、日本の学会では、金教授と李教授の主張は時代や地域に整合性がなく、わざわざ取り上げるに値しないものとして扱われているのだという。

 

 

 

 今回はその後の展開についての紹介である。

 李自大教授の新たな論文「壬辰倭乱と河童」(『朝鮮文物』 2014年4月1日)によれば、「壬辰倭乱」(文禄・慶長の役、いわゆる秀吉の朝鮮出兵である)の際に、侵攻する日本の軍船を沈める活躍をした「褐波」と呼ばれる集団に、「河童」の起源があるのだという。

 

 李教授によれば、宮廷の高級官僚であった朴尊大の『瓜楢日録』の中に登場する「褐波」こそが、明らかに「河童」の形態的特徴を備えた水中特殊部隊なのだという。朴尊大の記述によれば、「倭乱」の際に「褐波」と呼ばれる集団は、背中や後頭部を木片をつなぎ合わせたもので弓矢による攻撃から保護し、巧みに泳いで日本の軍船に接近し、水中で錐状の工具を用いて船底に穴を穿ち、軍船を沈めたのだという。

 木片による装甲を背にして泳ぐ姿が褐色の波のように見えたことから、「褐波」の名称が生まれたのだと、朴尊大は記しているというのだ。ただし、尊大が「褐波」と「河童」との関係にはまったく触れていないことは李教授も認めている。李教授は、尊大の記録した「褐波」の形態的特徴(背中の装甲)と行動様式(水中を泳ぎ潜る)と日本の「河童」が一致することを主張し、「褐波」こそが「河童」の起源であると結論付けたのである。

 

 

 今回も韓国ウォッチャーとしても知られ、日本の学会の動向にも詳しいジャーナリストの鵜益香織氏に解説していただこう。

 

  実際の朴尊大の『日録』には、「褐波」が朝鮮語を解しなかったことも記されており、そもそも「褐波」は朝鮮起源ではなく、朝鮮半島の外部からの渡来者であった可能性が高いことが指摘されています。その点については、日本の中国山中から四国山中に点在する褐葉郷(「褐葉」を名乗る集落)との関連も、それぞれの地の郷土史家の間では既に常識と言えるものになっています。
  褐葉郷(褐葉村)は、山中の集落ではありながら、特に川での漁猟に巧みであること、出稼ぎ先の多くが海岸での漁労あるいは海運業であること、そして日本海軍との特殊な関係も伝えられるなど、かつての水軍の末裔としての位置付けが、各村々の落人伝承に裏付けられるものとして信じられてもいるのです。
  郷土史家の間では、主君と共に彼らの眷属の多くが秀吉(あるいはその配下)によって滅ぼされた結果として、水軍の出自でありながら「落人」として山中に隠れ住むこととなったのだと説明され、朝鮮に渡った「褐波」による日本軍船への攻撃も、主君を滅ぼし眷属を殺害した者への復讐として理解されているという事実があります。

  また、装甲としての木片は、その浮力が重量物を携行しての遠泳には役立つ一方で、水中での潜航作業にはむしろ妨げとなること。また、錐による穿孔に要する時間と人間の生物としての潜航能力との関係から、作業上の困難が予想されることも、軍事史関係者(実際には一部の軍事オタクですが)により指摘されてもいます。ただし、この点については、装甲が着脱式であった可能性、動物の腸を利用した空気の吸排装置の存在の可能性等が論じられてはいますが、今のところ史料的な裏付けは何も存在しません。ミリヲタによる妄想的議論の段階ですね(笑)。

  一方で、「褐波」と朝鮮語の関係(朝鮮語を解しなかったという記録)については、中国では「褐波」の中国起源説の根拠とされてもいます。黄河流域の水上民が明軍に参加し(あるいは徴集・動員され)「褐波」として活躍したのだというのが、中国での理解の仕方ですね。

  以前にもご説明しましたが、そもそも日本国内の妖怪研究者は、河童を単一起源説で理解しようとは試みていません。繰り返しになりますが、妖怪には確かにローカルな存在としての側面もありますけれども、一方でイメージが流通し変容していく過程も文献的に明らかになっており、妖怪を単一起源で語ろうとすることは妖怪の存在の実態に反するのだろうということになりますね。
  そのようなわけで、今回の李教授の所説についても、韓国の民族主義的歴史学の「成果」の一例として理解されるだけで、日本の学界では特に注目を浴びることもありませんでした。どこの国でも実証的な歴史学とは別に、民族主義者による自賛的歴史学(自賛的歴史観)がもてはやされる傾向がありますから、この「河童韓国起源説」なども、その一例に過ぎないんだと思います(笑)。

  もちろん日本にも民族主義的河童主義者が存在しますから、今回の河童起源韓国説に熱く反応する人がいないわけではありません。今回も、私の知人の真正保守河童連盟の草野会長などは、「これも朝日新聞の捏造だ! 許し難い話だ!」と息巻いてましたが、これは国内の反応としては例外的なものだと思っています。ただ、ネット上では例によって、この「朝日新聞捏造説」も、ある程度の支持を受けて「拡散」されつつあるようです。しかし、実際問題としては、李教授の所説と朝日新聞社はまったく関係ないんですけれどもね(笑)。

 

 

 

 以上が、「河童起源韓国説」のこの一年ということになるだろうか(註:1)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【註:1】
 以上、本年のエイプリルフールネタでございます。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/04/01 12:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/242690/

 

 

 

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