« 敵の味方は敵 | トップページ | 「テロとの戦争」と「平和ボケ」 2 (戦争と後方支援) »

2015年2月 7日 (土)

「テロとの戦争」と「平和ボケ」 1 (戦争と最高指揮官の危機管理能力)

 

 「平和ボケ」という言葉は、 通常は安倍晋三氏と対極の位置にある人々に対し、 安倍晋三氏にシンパシーを持つ人々が揶揄的に用いる。

 そのように言うことが出来るであろう。

 

 

 しかし、あらためて、 今回の「イスラム国」による日本人人質事件に端を発する、 「対テロ戦争」への安倍氏の「前のめり」状態を見るにつけ、 安倍氏もまた「平和ボケ」そのものなのではないのか?

 安易に「対テロ戦争」に参加してしまうことの意味(その厳しさ)を、安倍氏は、そして安倍氏を支持する人々は、まったく想像し得ていないのではないのか?

 そんなことを、深く痛感させられる。

 

 まず今回のことで言えば、 最悪の状況へ立ち至ることを回避するのが外交の役割であり、 政治家の重要な任務であることを忘れたような議論は、そもそも出発点が間違っているのだということ。

 そのためにこそ、政治家には慎重に言葉を選ぶことが求められるのであり、その点において安倍氏はあまりに不用意であったことは明らかである。前回の記事での指摘を繰り返せば、

 

  日本国の首相が「イスラム国(IS)」を敵と見做している国家を歴訪し友好関係を誇示してしまえば、(「イスラム国」の側からすれば)「イスラム国」の敵の味方として見做されることになるのは当然過ぎる話である。つまり「イスラム国」から日本は敵として見做される(しかも歴訪諸国への援助名目を「シリア難民対策」で済ませればよいところで、わざわざ「イスラム国」を名指してしまったのは致命的である)。
  その際、昨年来、「イスラム国」の人質とされている日本人がいる以上、彼らが「イスラム国」に利用される(日本国への脅迫材料とされる)ことを想定するのも当然過ぎる話であるはずである。
     (「敵の味方は敵」)

 

…という問題である。

 

 「危機管理」の要諦は、まず危機的状況を生じさせないことにあるのであって、 自らの不用意な言行により危機的状況を招いてしまった事実は、安倍氏の危機管理能力に問題があることを意味する。

 

 『産経新聞』の報道によれば、国会で、

 

  小池氏はこれに先駆けて首相がエジプトで行った演説についても「『非軍事の人道支援』という表現はない。2人の日本人に危険が及ぶかもしれないという認識があったのか。首相の言葉は重い」などと追及した。

  首相は「いたずらな刺激は避けなければいけないが、テロリストに過度な気配りをする必要はない。ご質問はISIL(イスラム国)に対して批判をしてはならないような印象を受ける」と反撃。イスラム国と対峙(たいじ)する国々への協力姿勢を打ち出した演説は現地で高評価を得たとも主張した。
     (産経新聞 2月3日(火)14時59分配信)

 

…とのやり取りがあったということだが、安倍氏の、

  いたずらな刺激は避けなければいけないが、テロリストに過度な気配りをする必要はない

…との言葉は、安倍氏に問題の本質が理解出来ていないのか、理解した上で問題を回避しようとしたのかは不明だが、ここで重要なのは、「テロリストに過度な気配りをする必要」があるかどうかではなく、必要であったのはテロリストの拘束下にある国民の存在への「気配り」の方だということ。その状況への「気配り」の欠如が、テロリストをいたずらに刺激し、人質殺害という結果にまで至ってしまったのである。

 その責任への自覚の欠如には、呆れるよりない。

 

 

 

 しかも、その間の対処も迷走している。

 たとえば『ロイター通信』によれば、

 

  イスラム国は1月20日にインターネット上に投稿した映像の中で、拘束していた湯川遥菜さんと後藤健二さん解放の条件として、身代金2億ドルを要求していた。菅官房長官は会見で、身代金を用意していたかについて記者から問われ、「それは全くない。100%ない」と明確に否定した。さらに、イスラム国と交渉する気は「全くなかった」と述べた。
     (ロイター 2015/2/2 17:08)

 

 そうであるなら、なぜヨルダンの死刑囚との交換という「イスラム国」の要求に対し、「要求」を拒絶することなく、(他の主権国家である)ヨルダン政府を巻き込み、対応を委ねてしまったのか?

 これは「イスラム国」に対する日本政府の主体的な振る舞いの放棄であり、日本の外交的主権の意味が問われるべき事態(失態と言うべきであろう)なのである。

 官房長官の会見内容が事実であるならば、日本政府は「イスラム国との交渉」を当初から否定していたことになり、ヨルダン政府への対イスラム国交渉の「丸投げ」的対処との整合性が取れない。

 この経過は、日本政府の対応の場当たり性を疑わさせるに十分なものである。

 別の言葉を用いれば、危機管理能力のレベルの低さを示す。

 

 

 「集団的自衛権」の運用を、このような政権に任せてよいのか?

 「国軍(=自衛隊)」の最高指揮官を安倍氏に任せて大丈夫なのか?

 安倍氏と安倍政権を、その点において信頼するというなら、それこそ「平和ボケ」と言われるべき認識であろう。

 

 外交交渉についても、軍事力行使(戦争の実行)に際しても重要なのは、自らの最小限の犠牲において最大の成果(戦果)を確保することなのであって、その点において、今回の対「イスラム国」問題では、安倍氏と安倍政権の能力不足が明らかになってしまった。

 私はそのように判断せざるを得ない。

 

 

 

 しかも「対テロ戦争」への積極的参戦を意味してしまうような、 一連の安倍氏の発言がどれだけ危険なものであるのか? 国民は、そして安倍氏支持者はどこまで理解しているのであろうか?

 

 「対テロ戦争」は、国家間の正規戦とはまったく異なるものなのである。そこでは戦闘員と非戦闘員(市民)の区別が最初から失われているのだ。

 国家間の戦争では、少なくとも建前上は、市民(非戦闘員)は戦闘に巻き込まれるものではあっても、標的にしてはならないことになっている(にもかかわらず、住民は巻き込まれ、犠牲者の家族は「対テロ戦争」を実行する国家に憎しみを抱き、テロリストのプロパガンダを正当なものと感じるようになってしまうのが、「対テロ戦争」が不毛化する理由であることをも十分に理解しておくべきである)。

 いずれにせよ、「対テロ戦争」においては、テロリストの標的は無差別であり、戦闘員への限定はない。国民のすべてが標的となるのである。

 安倍氏の安易な言動と、その言動への安易な支持は、その事実への想像力を欠いているものとしか言えない。

 まさに「平和ボケ」そのもの、と言うべきであろう。

 

 

 

 もちろん、テロリズムの横行する現状を放置してよいという話ではない。

 20世紀の歴史的経験が明らかにしているのは、外部の敵に対し容赦なくテロを実行しそれを誇示するような集団は、内部に対しても容赦のないテロを手段として支配を確立し、住民に対する容赦のないテロを背景に統治をするものだという事実であり、「イスラム国」についてもその構図をもって理解することは適切だと思われる。

 「イスラム国」は外部にとって危険なだけでなく、その内部にも抑圧的暴力的な支配体制が存在するであろうことは、容易に推測出来るのである。「イスラムl国」を擁護する必要はない(「イスラム国」の用いるレトリックを理解し、「イスラム国」を生み出してしまった歴史的政治的経緯を理解することは問題解決のために必須だが、テロリストに同調しテロリズムを支持する必要はないのである)。

 

 そして、外部への攻撃と同時に、内部では熾烈な権力闘争が展開されているはずである。権力確立期のボルシェビキであれナチスであれ、強権的で一元的に見える体制の内実は、競合した組織間、組織の指導者間の闘争と離反・粛清に彩られ、意思決定過程からは(一見した「一枚岩」の体制の印象に反して)統合性が失われてしまうのが現実である。(現実の経験として明らかになった)「イスラム国」との「交渉」の難しさの起源の一端はここにある(と考えるのが、あらかじめそのように想定するのが、20世紀の全体主義的体制の、あるいは新左翼運動の悲劇の歴史的経験から学ぶということである)。

 

 

 

 さらに言えば、テロリストに対し、直接的な軍事力の行使による「戦争」という対応は、必ずしも有効ではないのである。これもまた911以降、アフガン戦争、そしてイラク戦争から現在に至る経験が明らかにしている問題と言い得る。「イスラム国」の存在自体が、米国による「対テロ戦争」の現実的帰結の一つでもあるのだということの意味は、十分に踏まえておくべきである。

 日本には他の方法の選択は可能であったはずだ(鳩山氏のように「友愛」を説けば済むようなお花畑な話でももちろんないが)。

 

 

 

 首相が自ら「対テロ戦争」への積極的参加表明(あわてて「空爆には参加しない」などと言ってみたって遅い)をしてしまった以上、既に日本国民である我々は、テロリストの標的となってしまったのだ。

 テロリストは外部からだけやって来るのではない。テロの実行には、イデオロギー的共感も、実は必要ないのである(つまり、テロリストとなるのはイスラム原理主義者とは限らないし、もちろんアラブ系の人物である必要もない)。宅間守(池田小事件)や加藤智大(秋葉原事件)のような人物にとって、今後、「イスラム国」は無差別殺傷の実行の機会と手段を提供する存在となるのである。

 

 

 

 

 この現実の変化に気付かない(気付けない)ような人物を「平和ボケ」と呼ぶのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/02/05 21:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/238369/

 

 

 

 

 

|

« 敵の味方は敵 | トップページ | 「テロとの戦争」と「平和ボケ」 2 (戦争と後方支援) »

ウヨク、サヨク、そしてリベラル」カテゴリの記事

20世紀、そして21世紀」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/58848461

この記事へのトラックバック一覧です: 「テロとの戦争」と「平和ボケ」 1 (戦争と最高指揮官の危機管理能力):

« 敵の味方は敵 | トップページ | 「テロとの戦争」と「平和ボケ」 2 (戦争と後方支援) »