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2015年2月13日 (金)

『沖縄/大和』、『ヘイトスピーチ』、『風和里』、『イラク チグリスに浮かぶ平和』を観る

 

 昨夜は、パレスチナ製のビールを飲んで、そのまま寝てしまった。

 ビールは「座高円寺ドキュメンタリーフェスティバル」の会場で手に入れたもので、昨日は午前中から高円寺まで出かけ、四本のドキュメンタリー作品を観てしまったのである。

 

 

 

 すなわち…

 

 

 座高円寺ドキュメンタリーフェスティバル
   (http://zkdf.net/index.html

 

 コンペティション部門 入賞作品上映

  10:00 -
   沖縄/大和 (99min)
    比嘉賢多監督

  12:10 -
   ヘイトスピーチ (92min)
    佐々木航弥監督

  14:00 -
   風和里 (80min)
    田中健太監督

  15:40 -
   イラク チグリスに浮かぶ平和 (108min)
    綿井健陽監督

  (各回上映終了後 監督挨拶あり)

 

 シンポジウム

  18:00 -
   ドキュメンタリーは今、何と闘うのか?

    プレゼンター:田原総一朗
    パネリスト:原一男/金平茂紀/三上智恵/ヤン・ヨンヒ/渡辺考/橋本佳子

 

  20:00 -

 表彰式
  入賞者トーク
 閉会式

 

 

 

 上映だけでも長丁場なので、残念ながら、シンポジウムと表彰式は失礼してしまったが、忘れないうちに、各作品についてメモだけは記しておきたい。

 

 

 

 綿井健陽監督の『イラク チグリスに浮かぶ平和』は、上映された四作品の中では唯一、プロのジャーナリストによる堅実な作品である。

 イラク戦争から10年間(2003年の戦闘開始前夜から2013年まで)に及ぶイラクの現実を、ある家族の姿を中心に記録したもの。

 描かれるのはブッシュの「テロとの戦争」がもたらしたイラクの現実である。当初はイラクが保有している(とされた)大量破壊兵器の脅威を口実とし、後にはフセインを排除してのイラクの民主主義化を目的として正当化された戦争は、しかしイラク国民に平和も民主主義ももたらさなかった。ブッシュは「世界はより安全になった」の言葉と共にイラク戦争の戦闘終結宣言をしたものだが(どれだけの人間があのセリフを覚えているだろうか?)、しかし、現に「イスラム国」の存在が示すように、イラクの国内にもイラクの国外にも「安全」などもたらされてはいない。

 その「現実」が、綿井監督が出会い取材を続けた家族の姿を通して、一般論としてではなく個々の個人の運命(生のすぐ横に死がある「現実」がもたらす「運命」である)の苛烈さを通して、明らかにされてしまう。個人を襲う現実はあまりに残酷であり、問題を総論で語ろうとすることの小賢しさを痛感させられるばかりであった。

 実際に映像に向き合って欲しいと思う。

 

 

 

 綿井監督作品以外の三作は、どれも学生の作品で、大学の卒業制作をそのままコンペティション応募作品としたもののようだが、それぞれに見応えがある作品であった。

 

 

 『沖縄/大和』(比嘉賢多 2014)は和光大学の卒業制作作品で、実は昨年の6月の武蔵野美術大学での上映の際に観ている(詳細は「「慰霊の日」に、比嘉賢多監督の『沖縄/大和』(2014)を観た」参照)。

 今回あらためて、沖縄の歴史を見事に埋め込んだ作品であることを感じさせられた。

 沖縄出身の監督当人の家族や友人との語らい。基地反対運動に身を捧げる老人達、老人達の基地反対運動に(いわば)反旗を翻す老人達の子どもの世代、そして老人達の孫の世代となる監督と友人達。戦後の沖縄の歴史が、(因果がめぐるが如くに)それぞれの姿に凝縮されているように見える。先の世代と後に続く世代、そしてさらに後に続く世代。それぞれの世代固有の経験としての現実の中で、継承されるものがある一方で反発の対象となり克服の対象とされてしまうものもある。そのような個々の世代の経験の歴史の背後には、より大きな歴史としてのより大きなスパンでの日本(本土あるいは内地)と沖縄(ウチナー)の関係がある。

 比嘉監督は、作品を通して、本土と沖縄の間にある(と彼が考える)「心的ライン」について問うのである。友人たちに問い、自問を続けるのだ。「心的ライン」は歴史的に形成された現実であると同時に、沖縄人としての自身の思いが作り出す心理的現実でもある。

 今回の上映後に監督の口から語られたのは、沖縄にとって攻撃的な存在である(そのように位置付けざるを得ない)本土に対する防御反応としての「心的ライン」(ウチナーとしてのアイデンティティーを守るための一線)が、本土への反発的心情に伴われる時、防衛的心理を超えて攻撃性を帯びてしまうこと、帯びてしまいかねないことへの反省的自覚であった。本土と沖縄の歴史的関係性からすれば、「心的ライン」の存在そのものは正当なものであると私は思うのだが、それは同時に被害感情の絶対化にもなり得るものなのであり、比嘉監督の視線はその先を見据えているのだ。人は自らの歴史的条件の中で生きざるを得ないものだが、歴史的条件を対象化し相対化することで、自ら引いてしまったラインの外へ踏み出し得るのである。

 

 

 『ヘイトスピーチ』(佐々木航弥 2014)は大阪芸術大学の学生の作品である。

 内容はタイトルの通りで、映し出されるのは、いわゆる「在特会」による在日韓国朝鮮人を対象とした扇動的で差別的な「運動」の実像であり、それに対抗しようとする「カウンター」と呼ばれる人々の姿である。

 「在特会」の運動形態については、それこそ語るに落ちるような話であって、不当な「在日特権」なるものの是正を口実としてはいるが、本当に不当な特権が存在するのであれば運動の対象は行政や議会であるのが当然であるにもかかわらず、在日の子どもたちの学ぶ学校にまで押しかけ、小さな子どもに対して暴力的恫喝的な言動を平然と繰り返しているのである。街頭での示威行為の内容も、行政に「特権」の是正を求めるようなものではまったくなく、ひたすら恫喝的民族差別的スローガンを叫ぶだけのものである。

 作品には、それに対抗しようとする「カウンター」の流れに参加する、というより「カウンター」の流れを作り出そうとする、作り出しつつある人々の姿が記録されている。様々な場所に、「在特会」の活動を放置しておくことを自分に対し許すことの出来なかった人がいて、それぞれに活動を開始し、やがて連携し、運動として賛同者を獲得して行く過程が、撮影と同時進行していくのである。

 運動は決して一枚岩という形にはならないし、一枚岩であることを目指さない運動のあり方が、(結果として)求められているようにさえ見える。

 運動の中心となっているのは(大学院生であったりするような)若い世代であり、運動形態を見ても、かつての体制批判運動を支えた(かなり年長の世代の)活動家の世界とは一線を画しているようにも感じられる。そのような意味で、歴史的経験が継承されていない、あるいは先行世代との断絶があるようにも見えるが、先行世代の失敗(手詰まり感の中で先鋭化することで共感を得るべきマジョリティーへの説得力が失われてしまう)を繰り返す必要もないだろう(しかし、失敗そのものの在り方は学んでおくに値すると思うが)。

 二十歳そこそこの監督が、少し上の世代がやむにやまれず始めた活動を記録する映像は新鮮である。「カウンター」の運動の中心を担う人々にとっても、社会運動はまさに初めての新鮮な経験であり、それを学生というさらに若い(社会経験のない)年齢の佐々木監督が初めての新鮮な経験として映像による記録作業をしているのである。全体として荒削りなところは確かにある。言うならば年上のカッコイイ先輩の姿を追う後輩のカメラという印象もあって、そこに学生作品としての限界を見出し批判することも出来るのだろうが、私は映像に記録された若い眼差しを肯定的に評価することから始めたい。

 

 

 『風和里』(田中健太 2014)もまた大阪芸術大学の学生の卒業制作作品である。

 こちらは大阪の富田林市にある小さな駄菓子屋を舞台とした作品。

 七十代の明子さんと、彼女の四十代の娘が切り盛りしている駄菓子屋さんである。店名が「風和里」(「ふわり」と読む)。

 店にやって来るのは小学生から高校生までと幅広い。その幅広い年齢層の客が入り浸る、その魅力が、作品を通して描かれる。

 「入り浸る」ようなお得意さんには共通点があることが明らかになっていく。小学生から高校生(高校中退者も多い)まで、両親の離婚等により、それぞれに家庭(家族として集う場)が居心地の良い場所ではなくなっているのである。

 そんな子供たちに、居られる場所を提供しているのが風和里(そして明美さん)なのである。

 たむろしていても居心地が悪かったり追い出されたりすることのない場所であるだけではなく、明子さんが(そして明子さんの娘さんが)子どもたちのカウンセラー(あるいはセラピスト)の役割を果たしていることが、映画の進行と共に、観客にも伝わってくる。

 もちろん、公的な(あるいは資格を持った公式の)カウンセラーではないわけだが、しかし、駄菓子屋というプライベートな場であるからこそ、やって来る子供たちと明美さんの間には、より踏み込んだ関係が形作られもするのである。

 映画の中で一年分のエピソードが過ぎ、「卒業制作作品」だから(通常は最終学年の一年間で製作するものなので)そろそろラストかなと思うと、まだ続く。終了後の監督の挨拶によれば、風和里には一年の時の課題で訪れ、その後の三年間、撮影を続けたのだというが、その成果は十分に映像化され得ていると思う。三年という時間は、記録された人間関係に豊かな厚みを加えるのだ。登場する子どもたちも確かに成長するし(その瞬間が見事に記録されている)、撮影を続ける監督自身も確かなものを得ているのが伝わってくる。

 ここでも、卒業制作ゆえの新鮮さを感じる。ベテランの監督が同じ場所で撮影しても、このような映画としては仕上がらないだろう。撮影者が学生であるということは、人生の経験において被写体となる子どもたちに近い場所にいることを意味するし、しかしそれぞれの子どもの家庭生活の過酷さは自身の経験からの想像力を超えているかも知れないし、もちろん人生経験を積んだ明子さんは見上げるべき位置にいる存在なのである。

 ベテラン監督にとっては、明子さんは取材対象として尊重し敬意を持つべき存在であっても、人生経験・社会経験においては対等の関係であり得る―つまり学生とは視線のあり方が異なるものとならざるを得ないということなのだ。それは語る側、取材される側にとっても同様で、完全な「大人」としてのベテラン監督のカメラに向かうのと、若く試行錯誤の中にある学生監督のカメラに向かうのとでは、異なる関係性の中に対応することになってしまうはずだ。そのような意味で、どんなに経験を積んだ監督にも作れない作品、経験を積んでいればこそ作り得ないような作品となっている。

 

 

 

 そのような学生作品(卒業制作)であるからこその新鮮さは三作品に共通している。

 映画制作においても、人生経験・社会経験においても手探りな部分があることは確かだが、しかし撮影し編集することを通して世界をつかみ、観客と共に味わう。彼らのその第一歩を観客として共有する時間を持てたのは、私にとっても幸せなことであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/02/13 00:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/238996/

 

 

 

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