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2015年2月 8日 (日)

「テロとの戦争」と「平和ボケ」 2 (戦争と後方支援)

 

 

  安倍総理大臣は、参議院予算委員会の集中審議で、自衛隊が多国籍軍などに対する後方支援活動に迅速に当たれるようにするため、恒久的な法律の制定を目指すとともに、自衛隊の派遣には国会の承認を必要とすることなどを検討していく考えを示しました。
     (NHK 2月5日 18時48分)

 

 

 

 安倍氏は「後方支援」に限定すれば問題が軽く済むのだと考えているのかも知れないが、どのような戦争であれ、「戦争」というものは前線における戦闘部隊によってのみ遂行されるものではなく、後方での効率的な兵站(補給)が死活的役割を果たすものであって(この点については大東亜戦争でいやほど学んだはずだが)、「前線への戦闘部隊の派遣」に対し「後方支援」が副次的役割を果たすというものではない。「後方支援(兵站・補給)」を欠いた前線部隊は、戦闘能力を失い、最終的には敗者となるしかないのである。

 「対テロ戦争」での米国を中心とした「多国籍軍」の「敵(今回は「イスラム国」)」の視点からすれば、彼らが「戦争」という事態をリアルに認識していればいるほど(この点に関しては、「イスラム国」を軍事面で支えるのはイラク国軍出身者―プロの軍人―であることを忘れるべきではない)、前線(戦闘)も後方(補給)も彼らにとっての「敵(「イスラム国」の「敵」としての「有志連合=多国籍軍」)」の戦争を支える不可欠な要素なのであり、後方支援だから戦争へのコミットメントが軽いと見做されるなどと考えるのは、大きな誤りなのである。

 後方と前線の違いは、派遣された部隊の損耗率の違いの問題であって(言うまでもなく前線での戦闘部隊の死傷率は高くなるわけだが)、「有志連合=多国籍軍」の内部での役割分担の問題に過ぎず、「対テロ戦争」の「敵」にとっては、その違いが大きな意味を持つものではない。しかも「対テロ戦争」は、国家の正規軍同士による正規戦とは異なり、ゲリラ戦として展開されるものなのであり、そこでは前線と後方の区別は失われるのである。(比較すれば前線より安全ではあろうが)後方もまた戦場化してしまうものなのだ。

 

 ここで私たちが把握しておかなければならないのは、「対テロ戦争」における「有志連合=多国籍軍」の「敵」である「イスラム国」からすれば、「対テロ戦争」での「後方支援」に日本が参加するということは、日本が「対テロ戦争」の直接の参戦国となったことを意味し、「戦争」における明白な「敵」となったことを意味するものとなるという構図である。

 

 結果として、当然、日本国内でのテロ実行の優先順位も高くなるわけである。

 以前にも指摘した(「「テロとの戦争」と「平和ボケ」 1 (戦争と最高指揮官の危機管理能力)」参照)ように、テロリストは外部からだけやって来るのではなく、テロの実行にはイデオロギー的共感も必要ない。テロリストとなるのはイスラム原理主義者とは限らず、もちろんアラブ系の人間である必要もないのである。

 宅間守(池田小事件)や加藤智大(秋葉原事件)のような人物にとって、今後、「イスラム国」は、無差別殺傷の実行の機会と手段を提供する存在となるのだということ。少なくとも、「イスラム国」にとって(もっとも、今後、日本を敵と見做すテロ組織は「イスラム国」だけとは限らないものとなるのだが)、日本国内でのテロ実行のハードルは、私たちが想像するほど高いものではないのだということは覚えておいた方がよい(その気になるのかならないのかは彼ら次第なのである)。

 

 

 

 米国主導の「対テロ戦争」へ参戦しないことは、日本国としても国民としても決して国際的に「卑怯」なことではない。

 911以来の米国主導の「対テロ戦争」、つまり軍事的手段による問題の解決の試みは、現在に至るまで成果をあげているとは言い難い状況であり、それは、現に「イスラム国」の存在が証明している現実でもある。軍事的手段による問題解決とは別の方途を探ることは合理的でさえあるし、「対テロ戦争」の出口を用意することにもつながり得る(米国の利益にもなり得る)のだと考えておくことも必要だろう(もちろん、そこには、日本の外交的力量の限界という高いハードルがあるのだが)。

 いずれにせよ、国民がテロの標的になることを避けようとするのは、個々の国民にとっても一国の首相としても「賢明」な方向性である。もちろん、テロリストの行為を非難すること自体は間違っていないし、テロの土壌を除去することに努めることは必要なことである。

 しかし、 米国主導の「対テロ戦争」にわざわざ積極的に参戦する必要もないのである。

 

 

 このような構図を理解し、首相としての安倍氏の軽い口先により、既に国民がこの「対テロ戦争」の渦中に巻き込まれていることを理解し(理解することが「賢明」に振る舞うことへの第一歩である)、「卑怯」になることなく、しかし国民の犠牲を最小限にとどめること(首相にとっても国民にとっても大事なことは、何よりも事に際して「賢明」であることであって、「賢明」であることには「卑怯」と見做されるような振る舞いをしないことも含まれるのだと考えておきたい)。

 思考停止に陥らずに、その方途を探ることが大事なのだと思う。

 

 

 

 問われているのは、私たち自身の賢明さなのだとも言えるだろう。

 もっとも「原発安全神話」に「騙されていた」というのが、国民の多数の認識であったのがそう古い話でもないという現実からすれば、「私たち自身の賢明さ」に期待することも賢明ではない、そのように言うしかないのかも知れない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2015/02/07 21:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/238597/

 

 

 

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