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2014年12月 5日 (金)

松江哲明監督の『トーキョードリフター』(2011)を観る

 

 武蔵野美術大学のイメージライブラリー映像講座関連企画として、松江哲明監督のドキュメンタリー作品『トーキョードリフター』(2011)が上映されたのを観た。

 

 

 

 雨の夜、一人のミュージシャン(ギターを抱え、歌う)が、新宿や渋谷の中心街から私鉄沿線の商店街の裏通りの路上で、時によっては歩きながら、ギターを弾き歌う姿と、その間のバイクでの移動。映し出されるのはそれだけ、映されているのはそれだけである。場所により(時間により、ということでもあるが)雨の勢いは異なり、曲目も異なるが、歌と移動(移動の間に食事もするが)だけのドキュメンタリー作品である(バイクでの移動中も、歌は口ずさみ続けられている)。

 劇的な(ドラマチックな)出来事は何もない。一切、彼が何者であるかについての説明はないし、インタビューめいたシーンはないし、そもそも彼は歌うだけで、カメラに向けて何も語らない。

 彼の歌に、歌声に共感を抱く人間にとっては、それだけでうれしいドキュメンタリー作品となるであろうが、特にそういうことのない私には、雨の夜にミュージシャンの歌う姿を撮影した映像であることに徹した(徹底した)ドキュメンタリー作品なのであった。

 

 

 映像がそれ以上の意味を持つとすれば、撮影されたのが2011年5月27日の夜(から2011年5月28日の朝)であるからに他ならない。

 「第41回イメージライブラリー映像講座」のタイトルは「震災の後に 311×トーキョードリフター」(安岡卓治、松江哲明の両氏による対談が中心となる企画)であり、イメージライブラリーの案内では、

 

 

  2011年5月。東日本大震災後、ネオンが消えた東京の街。降りしきる雨の夜をミュージシャン・前野健太が歌い、叫び、さすらっていく。濡れたアスファルトに、ありったけのユーモアとペーソスを刻みつけながら、新宿、渋谷、そして町の外へ―。

  独特のアプローチで個人と時代をつなぎ、ゼロ年代のニッポンを映し続けてきた松江哲明が、「いま、この東京の姿を記録しておきたい」と、『ライブテープ』(2009)に続き、撮影の近藤龍人、録音の山本タカアキ等と共に、どしゃ降りの雨のなか撮影を敢行。そして完成したのは松江哲明監督作品史上もっとも瑞々しく、最も暴力的な映画。

 

 

…として紹介されている作品である。

 東日本大震災を背景としたドキュメンタリー作品の中の一本ということになる。

 

 それが「東日本大震災を背景としたドキュメンタリー作品」であることを示すのは、撮影の日時と、確かに(言われてみれば)本来よりは暗い(「計画停電」なんてものがされていた時期の東京―東京電力管内の東京、東京電力に依存し、福島の原発に依存していた東京―である)ように見える街の姿だけである。

 

 

 今回の講座の対談者である安岡卓治氏による『311』と対比すれば、「ドキュメンタリー作品」としての成り立ちの違いは明らかである。

 

 

  「震災をその目で確認する」ために、作家・映画監督の森達也、映像ジャーナリストの綿井健陽、映画監督の松林要樹、映画プロデューサーの安岡卓治の4人が東日本大震災後の被災地へと向かい、その惨状にカメラを向けた問題作『311』。

 

 

 このように、『311』は要約・紹介されている。

 

 

 松江哲明氏は、「震災をその目で確認するために」、被災の現地へ向かい「惨状」にカメラを向けることはしない。

 その「惨状」は、あまりに衝撃的であり、それだけで十二分に(「過剰に」と言ってもいいくらい)劇的である(ノンフィクションもまた「ドラマチック」になり得るのである)。

 松江氏は、劇的映像を撮影するために(当人の意図がどうであれ、映像作家はそこで劇的映像を撮影してしまうことになる)被災地へと向かうのではなく、東京にとどまり、東日本大震災を背景としたまったく「劇的ではない映像」を撮影したのである。

 

 そのような意味で言えば、監督の方法論の映像化作品として位置付けられるのかも知れない。

 

 前野健太の歌に特にひきつけられることのない私(そもそも私には、歌を聴いても歌詞を言葉として理解する能力が欠けている―「歌」であっても音の響きとして聴いてしまうのである)には、映像は、雨の夜に歌い移動するミュージシャンの姿の記録に徹したものというに尽き、その背後にある監督の方法論を映像化したものと言うに尽きるものであった。

 

 東京の街を移動しながら雨の中で歌い続けるだけの特に劇的ではない映像作品が持つ意味について考えることに面白味を見出すことが出来るような人物にとっては、興味をひく作品のひとつとなるかも知れない。

 前野健太は、(画面を見る限り)聴衆を前に歌っているわけではない。ある時には立ち止まり、ある時には歩きながら歌い続けるだけだが、特に聴衆に向かって歌うようなことはなく、歌に聴き入る聴衆は不在である(東京の街に向かって歌っているのか?)。彼が、常にそのようなスタイルで歌っているのであれば、映像化されているのはカメラの存在に関係なく続けられている彼の日常である。

 別の視点から言えば、映像化され記録されているのは、カメラに向かって歌う彼の姿である。カメラの存在に対することで現実化した彼の姿である。映像による記録という行為が呼び出した彼の行動である。

 そして、2011年5月27日の夜には彼の前にカメラが存在し、カメラにより記録されたように彼は振る舞い(雨の中を歌い、移動し続け)、それがすべてなのである。カメラが存在しなければ、彼はまったく異なる夜を送っていた可能性が大きいが、しかしそこにカメラは存在し、前野健太の2011年5月27日の夜はカメラにより記録されたようなもの以外の何物でもなくなったのである。

 そして、松江哲明監督作品として上映されることによって、三年後になっても(何時になっても)、2011年5月27日の夜から翌朝にかけての前野健太の姿に、我々がアクセスすることが可能になっているのである。記録されることによって(よってのみ)、出来事は当事者以外の人々にも開示される。藤原敏史監督の『無人地帯』(2012)とはまったく逆方向から、松江哲明監督は、その構図を映像化しようとした(参照:藤原敏史監督の『無人地帯』(2012)を再び観る)。そのように言えるのかも知れない(『トーキョードリフター』の映像作品としての評価とは別に、松江哲明によって提示された問題として)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/12/02 23:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/234143/

 

 

 

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