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2014年11月

2014年11月23日 (日)

玩具フィルム版の『空の桃太郎』を観る

 本日は、国立のスペース「〇ミ」での「手回し活動写真上映会」というお楽しみ。

 

 

 

   『玩具フィルム手回し活動写真上映会 Vol.5(略してカツ上5)』

  玩具フィルムとは、大正から昭和初期に映画館が上映済みの映画を短く切って売ったフィルムや、玩具会社が作った短いアニメを玩具の手回し映写機と共に子供たちに売ったものです。
  当時活動写真と呼ばれた映画に音声はなく、活動弁士が映画説明をしました。
  この上映会では当時の子供と同じように、手回し映写機で玩具フィルムを上映しながら活動弁士が説明するのを体験して頂きます。

  「カツ上」もいよいよ第5回、今年最後の上映会となります。
  今回は「鞍馬天狗のおじちゃん」で有名なアラカンこと嵐寛寿朗の華麗な大立ち回り「御家人桜」、戦前SFアニメ「火星飛行」、洋画「ButlersBaby」、お伽噺「カチカチ山」、「冒険ダン吉歓迎野球大会」、そして戦前の南方政策翼賛アニメ「空の桃太郎」と、ご贔屓さまへの本年最後の大盤振舞い、歳末福袋!
  何卒御高覧賜ります様、楽屋連中総出、隅から隅までずい~と、乞願ひ上~げ奉ります~!

 ●活動弁士 カイロプティック商會:松本夏樹、アマグチユウキ
 ●協力(有)ギャラリーヌン

 〇上映フィルムタイトル〇
  ・御家人桜
  ・漫画火星飛行
  ・空の桃太郎
  ・カチカチ山
  ・BUTLER'S BABY
  ・冒険ダン吉 歓迎野球大会

 

 

 

 個人的には、やはり『空の桃太郎』が注目作品。

 

 

 あらためてネットで調べてみると、「1931年に横浜シネマ商会が製作した作品で、御伽話の桃太郎を主役に据えた全16分のトーキーアニメ」となっている(http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=129529)が、もちろん上映されたのはサイレントの「玩具フィルム」版(劇場ではトーキーで公開されていても、家庭で楽しむ際に用いられるのは玩具の手回し映写機なので、サイレント上映となる)で、上映時間も10分ほどと短くなっている。「大毎キノグラフ」により「玩具フィルム」として販売されていたもので、フィルムにはオリジナル製作会社の「横浜シネマ商会」の文字は記されていない(冒頭に映されるのは「大毎キノグラフ」のロゴである)。

 ネット情報を用いてオリジナルのストーリーを示すと、

 

  南極周辺の平和な島に、獰猛なアラワシが現れた。島の住人であるペンギンやアホウドリは、日本の勇者・桃太郎に救いを求める。お供の猿、犬、キジを連れた桃太郎は勇敢に飛行機で離陸。途中、大亀やクジラの協力で給油しながら、アラワシの暴れる島に到着。凶暴な敵を相手に、大空中戦を展開するのだった。

 

…とあるが、上映された「玩具フィルム」版も大筋に違いはない(短縮版となってはいるが)。

 

 

 オリジナルの製作年度は1931年(昭和6年)ということだが、「玩具フィルム」版の販売時期の詳細は(今のところの私には)わからない。

 オリジナルの製作年代を反映して、桃太郎がサルやイヌと共に搭乗するのは、単発中翼単葉でコックピットはむき出しの複座、固定脚の機体である(アラワシとの戦闘では、後部席の連装機銃が活躍する)。

 再びネット情報を用いて時代背景を確認しておくと、

 

  1927年にアメリカのチャールズ・リンドバーグが達成した大西洋単独無着陸飛行を背景に、大空への憧憬を込めて企画製作された一本。奇しくもこの作品が公開された1931年には、くだんのリンドバーグは二度目の偉業=北太平洋横断飛行にも成功している。

 

…ということになる。長距離飛行がまだ冒険であった時代に、南極まで飛び、アラワシとの空中戦を演じる「空の桃太郎」の姿なのだ(サン=テグジュペリの『夜間飛行』も、同じ1931年の作品である)。

 

 

 非常にリアルなのが(それが実はリアルであることに気付くのは難しいかも知れないが)、「途中、大亀やクジラの協力で給油しながら」という設定だろう。大亀の背中にはアホウドリ(上映の際の弁士の説明ではペリカン)、クジラの背中にはペンギン(どちらも、桃太郎へのアラワシ退治の依頼者である)がガソリンを詰めたドラム缶を用意して乗っていて、桃太郎の搭乗機の給油を助けるのである。

 長距離飛行には十分な燃料が必要であり、十分な燃料を搭載するには大型の機体が必要であり、大型の機体の飛行にはより多くの燃料が必要となるというのが現実なのである。機体が小型であれば、航空路の途中での燃料補給は不可欠であり、まさにその役割をアホウドリとペンギンが担っているのだ。洋上飛行ということで考えれば、現在ならば島の飛行場を利用するところであろうが、洋上の島々に飛行場が建設される前(飛行艇が長距離旅客機として使用されていた時代)の話なのである。

 妄想を膨らませれば、燃料を積んだカメやクジラという設定は、「航空母艦」的発想にも思える。

 

 1930年代の後半には、1937年に朝日新聞社の「神風号」(用いたのは陸軍の九七式司令部偵察機)が東京からロンドンまでを94時間かけて飛び、東京帝國大学(現東京大学)航空研究所がいわゆる「航研機」で長距離飛行記録を作ったのが1938年、翌1939年には毎日新聞社の「ニッポン号」(海軍の九六式陸上攻撃機の改造型)が世界一周飛行に成功している。

 九六式陸上攻撃機は、設計上、航続距離の長さが求められた機体であり、1937年来の支那事変では海軍による中国大陸への「渡洋爆撃」に使用されている。その際に、日本軍の保有する戦闘機の航続力が短いために、戦闘機による護衛なしでの長距離爆撃の遂行という事態に陥り、中国側の戦闘機の迎撃による損失の大きさが問題となる。

 1940年にはナチスドイツが英国侵攻を企てるが、ドイツ空軍機の航続距離の短さは致命的(ドイツにとっては致命的であり、英国にとっては救いということになるが)なものとなった。

 その後の英米によるドイツ国内への長距離戦略爆撃においても、長距離護衛戦闘機の用意がなかったために、大きな損耗率を招いてしまった(つまり多くの機体が失われ、多くの搭乗員が戦死したのである)。

 各国が航続距離の長い戦闘機の開発の必要(その切実さ)に気付くのは、そのような経験を経てのことであったわけだが、『空の桃太郎』には、既にその課題(長距離飛行と燃料の確保・補給の問題)が示されていたと言えなくもない。

 ちなみに、米国は戦闘機の航続距離を長くするだけではなく、空中給油という技術の開発に成功し、無着陸での給油法を確立してしまうのである。

 長距離無着陸戦略爆撃機保有の必要性を訴えるため(しかも対日攻撃のための必要性が強調されている)にディズニーが戦中に製作したアニメがセヴァスキー原作の『空軍力による勝利』(1943年7月に公開)ということになるが、それがディズニーの自主制作でしかもフルカラー長編作品であるのに対し、わが大日本帝國の国策長編アニメの『桃太郎 海の神兵』(1945年―昭和20年―の4月に公開)がモノクロである国力の差まで考えると、いろいろと複雑な思いにかられてしまうのであった(わが「桃太郎」の先見性と限界、とでも言おうか)。

 『桃太郎 海の神兵』は、日本海軍空挺部隊による蘭印の油田地帯の制圧作戦(戦争目的が、何よりも石油の確保にあったことを象徴的に示す作戦行動でもある)に基いたアニメだが、桃太郎の率いる海軍空挺部隊の搭乗機が、まさに九六式陸上攻撃機の輸送機型であった。アニメには、厚い雲の中を機体が通過するシーンがあるが、その際に機体の継ぎ目から水が浸みてくる様が描かれている。設定としては悲壮感を強調する効果のためのものなのかも知れないが、『桃太郎 海の神兵』の製作時に日本本土空襲に出撃していた米軍のB-29は、既に与圧キャビン装備の気密性の高い機体であって、機体の継ぎ目から雨水が浸みるようなことはなかったはずである。彼我の技術力の圧倒的な差が、そんなシーンにも見出されるわけで、『桃太郎 海の神兵』を観る私の胸中も複雑なものとなる。

 

 

 

 話を戻そう。先に引用したネット情報には、以下のような一文がある。

 

  1927年にアメリカのチャールズ・リンドバーグが達成した大西洋単独無着陸飛行を背景に、大空への憧憬を込めて企画製作された一本

 

 確かに『空の桃太郎』には、そのような背景もあっただろうが、アラワシを退治するというモチーフについて言えば、ハクトウワシはまさに米国のシンボルであり、暴虐なアラワシと戦闘を繰り広げる桃太郎の姿には、(将来の)日米戦争を連想させるものがある。

 1931年という制作年度は満洲事変に重なるわけで(満洲事変は、日米の対立を拡大させた)、当初の企画製作意図がどうであれ、その後の時代(つまり、玩具フィルムとして家庭内で上映された時代である)の中では対米戦争モチーフとして機能してしまうだろう (しかも描かれているのは、そこでの日本の正義であり勝利である)。未来戦争としての日米戦争への備え(日本の重工業化が課題であった)としての満洲國建国でもあったわけだし、その後の支那事変の拡大は日米対立の更なる拡大となったのであるし、最終的に対米戦争という選択をした歴史の流れからすると、『空の桃太郎』が(反米)プロパガンダ・アニメ的に機能したであろうことも否定出来ない。

 

 実際問題としては、大正期から(未来の)日米戦争をテーマにした出版物がベストセラーとなっている事実がある。一方に米国での排日移民法の成立があり、一方にはワシントン条約からロンドン条約に至る軍縮(端的に言えば、米英による日本の海軍力の削減要求である)の問題があり、米国との対立的状況が明らかになっていく時代なのである。大人向けの本だけではなく、児童向けの出版物にも(未来の)日米戦争が取り上げられ、しかも売れている時代なのである。いつか起きるかも知れない日米戦争への予感が、半ばリアルなものとして人々に共有されていた時代、ということなのである。

 そのような時代の雰囲気からすれば、製作意図がどうであれ、『空の桃太郎』は将来の日米戦争の暗喩として機能したであろうし、そこでの日本の正義と勝利を謳い上げる作品として観られ楽しまれていたのであろうことも大いに考えられる。

 もちろん、1930年代を日米対立だけで捉えるのも誤りであり、同時に上映された『冒険ダン吉 歓迎野球大会』は、米国を代表するスポーツである野球の日本国内での人気が反映された設定であるし、玩具フィルムとして『BUTLER'S BABY』のようなハリウッド製映画の断片が流通していたことからも、当時の日本の大衆文化の中での米国の位置付けが政治的な「日米対立」の図式に収まるものではないことは理解出来るであろう。

 

 

 

 いずれにしても、劇場での上映用ではなく、家庭内での娯楽用として、様々な玩具フィルムが供給されていたのが当時の日本なのである。玩具フィルムを楽しむ階層が確かに存在していた時代の記憶を消し去ったのは、その後の戦争の時代の記憶だとも言えるわけで、そのような意味でも『空の桃太郎』は興味深い作品であった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/11/22 22:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/233544/

 

 

 

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2014年11月16日 (日)

東京大学駒場博物館 「越境するヒロシマ」

 

 本日の目的地は東京大学駒場博物館で開催中の、「越境するヒロシマ ロベルト・ユンクと原爆の記憶」と題された展示(2014年10月18日~12月7日)。

 

 

 

 

  1913年ベルリン生まれのロベルト・ユンクは、戦後世界の核問題を警告する著名な科学ジャーナリスト・ドキュメンタリー作家として、かつては日本でもよく知られた人でした。1957年以降たびたびヒロシマを取材し、その後、彼の人生は大きく変わります。彼の後半生は、ヒロシマを世界に伝える、という強い意志に貫かれました。

 

…と、広島平和記念資料館での展示(2013)の際に作成されたパンフレットには書かれている。

 年譜によれば、ユンクはユダヤ系で、1930年代は反ナチの活動に携わっていた人物であり(ウィーン生まれのユダヤ系の妻共々、親族の多くをナチスのために失っている)、戦後は米国でジャーナリスト作家として活動することからその経歴を開始している。

 

 最初のベストセラーとなった著作のテーマは原爆の開発(『未来はすでに始まった』 1952)で、その後も核兵器開発をめぐる問題を追っている(『千の太陽よりも明るく』 1956)。破壊的な巨大科学技術が政治的に推進され、それが巨大技術であるがゆえに政治による制御を超えてしまうという問題をクローズアップした、先進的な著作である。そもそも原爆開発の中心となったのも、ヒトラーの支配に対抗しよう(そこに正当性が見出されていたし、実際に一方の当事者として切実な問題であった)としたユダヤ系の科学者であったわけだが、ユンクはそのような正当化から最初から距離を置いているところが、とても印象深い。

 

 そして1957年に来日し、広島での取材に基いた『灰墟の光』(1959)の刊行に至る。

 1960年には同名のテレビ用のドキュメンタリー作品(バイエルン放送局制作)にも携わり、放映されている。

 

 

 その後も、ドイツ語圏での反核・反戦運動の中で重要な位置を占めた人物である。核兵器だけではなく原発にも反対を表明し続けていた。

 そんな人物の、ヒロシマとの関わりを中心にした展示であった。

 

 

 

 いろいろと勉強になったことも確かであったが、展示法には問題があるように感じる。展示に徹底的に欠けているのが、見せるためのディスプレイ作製への配慮の姿勢である。わざわざ展示として見なくても、印刷資料を読めばわかる内容なのである。そのような意味でとても惜しいように思える。本来なら展示品のキャプションであるはずの内容が、展示物として展示されているような状態なのだ。以前に別の展示で訪れた際も、同様の傾向で、現代の「博物館」の展示というより、どこかの「公民館まつり」でのお勉強サークルの発表展示のような印象であった。

 

…と文句をつけておきたくなるような展示センスではあったが、会場で上映されていた『灰墟の光』(1960)を観られただけでも、個人的には十分(出かけた甲斐があった)という気もしないでもない。

 日常的に向精神薬(それが薬局で市販されているのである)に依存する人々(「原爆ノイローゼ」と呼ばれていた)がフツーの存在であった時代の広島の姿が記録されているのである。放射線による健康への不安(というより、実際に健康被害のある現実があり、放射線障害は差別の対象にもなるのであって、不安は現在のものであると同時に自身の未来が様々な意味での不安そのものなのである)の渦中にある、1960年の広島の人々の姿が記録されているのである。

 

 

 

 

〔追記〕

 展示の中で紹介されていた『灰墟の光』の中の文章が印象深い。「被爆」が何をもたらすのか、「被爆」の持つ意味、核兵器使用の意味が正確に示されている。

 

  広島が平和への警告となるのは、〈平和〉という言葉を、広告のレッテルのように手当たりしだいに貼りつけているからではなく、原子戦争のあとでわれわれのこの地球がどんな状態になるかを、わずかながらも予感させてくれるからである。地球が完全に死滅した人気のない荒地となるよりも、むしろただ一つの巨大な病院――病人や負傷者ばかりの世界――があとに残ることであろう。(中略)
  広島の警告の旗印は、モニュメンタルな記念建造物ではなくて、皮膚や血液や生殖細胞のうちに〈あの日〉の思い出の烙印を受けた生存者たちなのである。彼らはまったく新しい性質の戦争――休戦条約とか平和条約によって終わることのない戦争、その現在をこえて未来をも破壊の危機にまきこむ〈終結なき戦争〉――の最初の犠牲者にほかならないのである。
     『灰墟の光 甦るヒロシマ』 文芸春秋新社 1961  250ページ (パンフレット中の引用文による)

 

 

 広島平和記念資料館での展示の際に作成されたパンフレットには、1977年刊行の『原子力帝国』を紹介する言葉として、

 

  1973年の石油危機をきっかけとして、先進諸国の多くがエネルギー政策の重心を原子力発電所(原発)に置きました。原発の建設により、プルトニウムの蓄積量は一挙に増加していきます。この頃から、原発建設に対するユンクの徹底抗戦が始まりました。核エネルギー(原子力)利用は、それ自体の破壊性と危険性のみならず、その危険物の管理のために住民を敵視し監視する専制的で無責任な「全体主義の原子力国家」をもたらし、それゆえに確実に原発事故が生じる、とユンクは考えました。

 

…と記されているが、まさに問題の核心を示したものであろう。「原子力の平和利用」の本質的問題である。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/11/15 22:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/233044/

 

 

 

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