« 白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日) | トップページ | 「聖戦貫徹決議」の非現実性と斎藤隆夫のリアリズム »

2014年9月21日 (日)

ノルマンディーの橋下徹

 

 

 第三者と当事者では立場が違うというのは当たり前の話であるはずだが、必ずしもそれが常識とはなり得ていないのもまた現代日本の現実というものであろう。

 三ヶ月ほど前の橋下徹氏の発言を読み返して、あらためて痛感させられたことである。

 

 

 

  大阪市の橋下徹市長(日本維新の会共同代表)は15日、大阪市内の街頭演説で、第二次世界大戦で米国などの連合国軍がナチス・ドイツ占領下のフランス北西部の海岸で展開したノルマンディー上陸作戦について、「ノルマンディーに上陸して、連合国軍兵はフランス人女性を犯した。これはたまったもんじゃないと慰安施設を造った。これは歴史の事実だ。不幸な過去だし、二度とやってはならない」と述べた。
     (毎日新聞 6月15日(日)21時30分配信)

 

 

 

 この橋下氏の発言についての中国のネットユーザーの反応が紹介されているので読んでみよう。

 

  中国のネットではこのニュースについて、以下のようなコメントが出ている。

   「日米は同じ穴のむじな。この発言から明らかになった」
   「日米のかみつき合い、見ものだな」
   「オバマがどう答えるか楽しみだ」
   「慰安婦問題の核心は『強制』の二文字にある。第2次大戦で同盟関係にあった米仏と、日本人が中国・韓国の女性に行った行為を同列に考えることはできない」
   「この発言が事実だとしても、日本の従軍慰安婦問題を否定することはできない」
   「米国が世界に与えているイメージとは、こんなひどいものさ。弟分の日本にまでこんなこと言われて、世界のボスをやっていけるのか?」
   「フランス人の問題はフランス人が抗議する。当然、中国人は日本人に抗議する。まさかフランス人の代わりに米国に抗議するとでもいうのか」
   「どっちもどっちだろ」
     (Record China 6月16日(月)17時47分配信)

 

 

 

 
 この問題については、中国人の一人の言う、

 

  フランス人の問題はフランス人が抗議する。当然、中国人は日本人に抗議する。まさかフランス人の代わりに米国に抗議するとでもいうのか

 

…との評価が正しい(私もそのように思う)。

 そこに加害と被害の関係があれば、被害者が加害者に抗議するのは当然の話であるというだけだ。ベトナムでの韓国軍の振る舞いに被害者として抗議する資格を持つのはベトナム人であって日本人ではないし、ノルマンディーでの米兵の振る舞いに被害者として抗議する資格を持つのはフランス人なのであって日本人ではない。日本人はそこでは被害者ではないのである。

 

 

 

 ちなみに、ノルマンディーでの米兵の振る舞いの問題については、

 

  第2次世界大戦(World War II)中の仏ノルマンディー(Normandy)上陸作戦に参加した米軍兵士たちは、フランスをナチスドイツ(Nazi)から解放した勇敢な英雄として描かれてきた。そうした「若いハンサムな米兵さん」のイメージに隠された負の側面を明らかにした研究書が来月、米国で出版される。
  6月に刊行予定の「What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France(兵士らは何をしたのか:第2次世界大戦中のフランスにおける性と米兵」は、米ウィスコンシン大学(University of Wisconsin)のメアリー・ルイーズ・ロバーツ(Mary Louise Roberts)教授(歴史学)が、米仏で膨大な量の第2次大戦中の資料を研究してまとめた著作だ。
  研究の趣旨についてロバーツ教授は、「GI(進駐軍兵士)はたくましい男で、常に正義に基づいて行動するとの典型的な『GI神話』の偽りを暴き出すことだった」と、AFPに語った。教授によると、米軍では当時「フランス人に対して優位に立つ」手段として性欲、買春、レイプが取り入れられていたという。
  米兵たちは、ノルマンディーの人々から「性のアバンチュール」を求めてやってきた、セックスに飢えた荒くれ者と見られていた。これは地元ノルマンディーではよく知られていることだが、一般的な米国人にとっては「大きな驚きだ」とロバーツ教授は述べている。
  米メディアがノルマンディーに上陸した米兵について、キスをする米兵と若いフランス女性の写真を掲載するなどロマンチックな視点で解放者として描いていた間、地元の人々は「問題」に直面していた。地元には、「ドイツ人を見て隠れるのは男たちだったが、米兵の場合は女たちを隠さねばならなかった」という話が伝わっているという。
     (AFP 2013年05月27日 14:38 発信地:ワシントンD.C./米国  http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2946474/10810152?utm_source=yahoo&utm_medium=news&utm_campaign=txt_link_Tue_r3

 

 

 つまり米国の歴史学者の研究によるものである(米国人自らが、米兵のかつての振る舞いに批判的検討を加えているのだということ)。

 日本でも、日本軍の慰安婦の問題を日本人の歴史学者が取り上げ、韓国でも韓国軍の慰安婦の問題を韓国人研究者が取り上げていた(たとえば、2002年には、朝日新聞社後援のシンポジウムでの、慶南大学の社会学の客員教授である金貴玉氏による発表があった)ように、戦時性暴力の問題、軍と性暴力の問題は、研究者の世界では各国で既に手の着けられている領域であるに過ぎない。

 ただ、どこの国でも一般的風潮としては、そのような歴史研究が明らかにした問題に真摯に向き合うことは避けられているのだし、自国の加害者性の問題からは目を逸らし、他国の加害行為を告発することだけに熱中する人が多いだけである。

 もちろん、当事者としての利害を離れたところでの評価・判断、その際の第三者的視点の導入は、冷静な問題解決のためには役立つものである。第三者とは、加害・被害の関係の外部にある(加害者でも被害者でもない)「立場」であり、当事者に対しては「他人」であり、当事者に比較すれば冷静であり得る「立場」として位置付けられる。まさに各国の研究者は、そのような「立場」に身を置こうとすることで、自国民の多くが都合悪く感じるであろう問題からも目を逸らさずにいられるのである。

 当事者であっても、自身を相対化し、自身の行為・感情に対し批判的視点で臨むことで、自身の正当化にのみ熱中することを免れ、冷静な問題解決に近付くことが可能になる。言い換えれば、当事者とは自身の行為・感情の正当性、自身の判断の正当性を絶対化しがちな存在なのであるし、それが当事者であることの出発点でもある。

 

 韓国の国軍もまた大日本帝國の国軍同様に慰安婦制度に依存していたのだし、ベトナム戦争時には戦時性暴力の実行者となったことは否定出来ない。現代の日本人にも、その事実関係を指摘し、韓国の国軍の振る舞いを批判することは可能であるし、実際にそのような行為に熱中している人々は存在する。しかし、韓国軍の慰安婦制度の被害者は韓国人女性であり、韓国国軍の振る舞いを被害者として非難出来るのは彼女らだけである。ベトナム戦争時における韓国国軍による戦時性暴力の被害者はベトナム人女性なのであり、韓国国軍の振る舞いを被害者として非難出来るのは彼女らだけなのである。それが問題の当事者であることの意味である。そしてそこには、もう一方の当事者としての加害者が存在することをも意味する。

 もちろん、現代の日本人が韓国国軍の慰安婦制度の被害者である韓国人女性を支援し、韓国国軍の戦時性暴力の被害者であるベトナム人女性を支援することは間違ったことではない。しかし、その際には(あるいはそれ以前の問題として)、大日本帝國の軍隊の慰安婦制度の被害者の支援に、大日本帝國の軍隊による戦時性暴力の被害者の支援に取り組まれていなければ、日本人の行為としては説得力を欠いたものとなってしまう。それが問題のもう一方の当事者であることの意味なのである。自身の正当化の前に、自身への批判的態度を持つことこそが、第三者的視点から説得力をもってモノを言うための条件なのである。

 韓国には日本軍の慰安婦制度を非難し日本を非難するすることに熱中しながら、韓国軍の慰安婦制度の問題からは目を逸らし続けようとする人々が存在するが、そのような韓国の人々を批判する日本人の多くは日本軍の慰安婦制度の問題から目を逸らし続けようとしている人々でもある。どちらも第三者的視点から見れば恥ずかしいものでしかない。

 

 

 

 最後に参考のために付け加えておけば、このワシントン発のAFP記事と同日の2013年5月27日に、橋下氏は日本外国特派員協会での記者会見で、

 

  かつて日本兵が女性の人権を蹂躙(じゅうりん)したことは痛切に反省し、慰安婦の方々に謝罪しなければならない。日本以外の少なからぬ国々の兵士も女性の人権を蹂躙した事実に各国も真摯(しんし)に向き合わなければならない。日本だけ非難するのはフェアな態度ではない
     (産経新聞 2013年5月27日)

 

…と語っていたのであった。

 万引きを見つかった中学生が、「自分が万引きをしたことは痛切に反省し謝罪しなければならない。しかし自分以外の少なからぬ中学生も万引きをした事実に真摯に向き合わねばならない。自分だけ非難するのはフェアな態度ではない」と居直っているのと同じに見えてしまうことに、橋下氏は気付いているのだろうか?

 もちろん「かつて日本兵が女性の人権を蹂躙(じゅうりん)したことは痛切に反省し、慰安婦の方々に謝罪しなければならない」との橋下徹氏の主張は正しいものであるが、それだけに、後半の性急な居直り的(に見えてしまう)言動が残念なものとなってしまっているように思われる。当事者と第三者を同時に演じては、他人に対する説得力を持つことは難しい。いや、橋下氏は第三者的視点に立つように見えながら、実際には当事者としての正当化に終始していると言うべきなのかも知れない。

 「日本以外の少なからぬ国々の兵士も女性の人権を蹂躙した事実に各国も真摯に向き合わなければならない。日本だけ非難するのはフェアな態度ではない」と説得力を持って言い得るのは第三者なのであって、あるいは日本軍の慰安婦制度の被害者の側なのであって、加害の当事者である日本の政治家としての橋下徹氏ではない。分別のある日本人の大人であれば(万引きをするような中学生ならともかく)、それくらいの理屈はわきまえていて当然の話だと思うのだが、現代の日本では話が違うのだろうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/06/16 22:34 → http://www.freeml.com/bl/316274/221950/

 

 

 

|

« 白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日) | トップページ | 「聖戦貫徹決議」の非現実性と斎藤隆夫のリアリズム »

ウヨク、サヨク、そしてリベラル」カテゴリの記事

戦争と責任」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/57446415

この記事へのトラックバック一覧です: ノルマンディーの橋下徹:

« 白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日) | トップページ | 「聖戦貫徹決議」の非現実性と斎藤隆夫のリアリズム »