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2014年8月

2014年8月 8日 (金)

白骨でも黒焦でも、屍體でも (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月8日)

 

 

 ところで、俺はこの日新しく見たり感じたりしたことを、も少しお前に知らせたいのだ。災後三日目のこの日の焼跡の街は、人の動きがめつきり多くなつていた。いろいろの人たちがいたが、その一つは廣島以外の地から救援にきた人たちだね。勿論羅災した人で無きずや軽傷の人もまじつていたし、兵隊さんもいたけれど、その數の少なかつたことは前にも書いたろう。この人たちは羅災者への物資の配給や道路の整理、屍體の取片づけなどに働いていた。
 各町會の假事務所の立札なども、あちこちに見受けられたよ。そうした人々のはたらきで、路上の屍體は少しは少なくなつていたが、何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。
 そんなわけだから、屍體は片づけてもそのままにして置けない。それを焼跡の露天でつぎからつぎへと「合同火葬」するのだ。焼けなかつた近郊の小學校や病院や、その他の「救護所」でも、引取人のない死んだ人は、皆そのようにして焼いたのだ。幸にして家族や親戚の人などにさがしだされた屍體は、個人個人で焼いているのもたくさんあつたが、そうでない人の屍體の處理は、實際氣の毒だつたよ。しかし、この場合そうするよりほかに仕方がなかつたのだ。
 どこだつたかわすれたが、道路の四つ辻に、焼残りの柱や板を縄でしばつた縁日の植木屋の棚のようなものができていてね、それに種物屋の店頭のように小さな新聞紙の袋やおひねりが並べてあるのだ。そしてそれに住所氏名などが書いてある。遺骨なのだ。それも姓名のあるのはいい方で、「三十才位の男」「四十才の女」なんて札のついたのも少くなかつたよ。こんなのは最後まで引取人のないのが多かつたわけだが、中にはたずねあぐんだあげく、遭難場所を推定して、こうした遺骨を貰つて歸つた遺族が、俺の知つている中にも何人かある。ところによつては焼くのにも手がまわらず、まとめて埋めてしまつたのも少くなかつた。
 火事の餘燼は大分おさまつていたが、それにかわつて、到るところ屍を焼く煙が立ちはじめたのだから、焼野ヶ原がそのまま「鳥部野」に化したというわけだ。既に家の下敷きになつて、自然に火葬されてしまつた白骨を拾つている人もあるし、焼跡から掘り出した黒焦死體を二つならべて、「誰だろう」と評定しているようなところも見たよ。こうした状態はこの日ばかりでなく、その後も何日かつづいたね。
 だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。だから、お前のように無事に逃げおうせても、肉親にめぐりあわずに死んでいった人々も、随分多かつたのだ。
          小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 157~160ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下から三日目、8月8日の話である。

 

 8月7日の夜、府中国民学校で妻の文子との再会を果たした小倉豊文は、その足で再び夜の広島市街の捜索に向かう。息子の恭二の姿を求めて。

 

 

 

 とにかく俺は、前日見た江波線の電車道路の「救護所」に行つて見た。そこには晝間見たと同じように「生きた屍」が行列していた。俺は懐中電灯をつけて、はしからはしまでゆつくり丁寧にしらべて行つた。しかし、恭二らしい姿はやつぱり見當らなかつた。
 俺は家の焼跡に行くのはやめて、己斐への道路を歩きはじめた。焼跡に行つても今更どうにもならないとわかつていたから、地御前の勝山まで行つてみようと決心したのである。
 ――萬一、田川の人たちといつしょに避難しているかも知れない。
     同書 138~39ページ

 

 

 そして、夜も明けた勝山で、恭二との再会を果たすのであった。

 

 

 

  何しろ酷熱の晴天三日目だろう。屍體は腐敗して屍臭はますますはげしくなつていて、それを魚の山のように一ヶ所にまとめたところなどは、目もあてられぬような氣がしたよ。屍體にはところかまわずうじがわいているし、蠅の多いことは實にお話にならぬ有様だつたからね。

 文章を読んでも臭いは伝わらないが、「屍體」の発する臭いであれ、焼跡の焼け焦げた臭いであれ、あるいは炎天下の人々の汗の臭いであれ、ここでは周囲に立ち込める臭いまで読み取らねば、状況を理解したことにはならないわけである。昭和20年8月8日の広島の状況を。

 

 

 翌日の8月9日には長崎にも原爆が投下され、長崎の人々もまた、

  だが、白骨でも黒焦でも、屍體でも、「生きた屍」でも、三日か四日で肉親の手に入ったのはまだまだ幸な方なのだ。それがどこにどうしているやらわからず、市内の焼跡ばかりでなく、近在近郷の村々や島々の救護所や心あたりを、喪神したようにつぎからつぎへとさがして歩く人々の群を、この日も随分多く見かけたが、こうした人々は、その後十日も二十日も一ヶ月も、いや二ヶ月、三ヶ月後にもそのあとを絶たなかつた。

…という日々の中を生き抜くことを強いられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/08 18:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/206298/

 

 

 

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2014年8月 7日 (木)

シルウェット-體幹のうねりたしかに妻なり (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月7日) 

 

 

 少年工たちに入り口でまつていてもらつて、俺はひとりで講堂の中にはいつた。己斐でのそれと同じように、むせかえるような屍臭がたちこめていて、二、三本ところどころにともしたローソクのうす暗い光の下に、俺には既に見なれた「生きた屍」が並んでいた。己斐の學校よりは、その數が少なくまばらであつた。
 ジッと死んだように動かぬのもあるが、寝たり起きたりうごめいているのもあつた。幸いにうす暗いので一人一人の形相はわからなかつた。それだけに識別するのが困難だつた。俺はふみつけぬように足もとに気をつけながら、腰をかがめて一人一人の顔をのぞきこむようにして、入り口からの順々に見て行つた。なかなか見つからなかつた。最後の一人と思われる人までまわつて行つたが、見つからなかつた。
 俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。
 かくてこの人たちには、一晝夜がすぎ、二晝夜目の夜も深くなろうとしていたのだ。どの人の枕もとにも、白い炊きだしのお結びが一つ二つころがつていた。だが、この人たちの渇望しているのは、肉體の飢えではなくて魂のかわきにちがいない。肉親の顔を、知人の愛を、求めつづけていたのであろう。しかも、その期待が、その希望が、にべもなく何十度打ち破られていたことか。知らぬ顔の「絶望」も、力ない「怨恨」も、かなしき必然であるといわなければなるまい。
 俺はその「絶望」と「怨恨」に、もう一度ふれるのはたまらない氣がした。しかし、お前が見つからないのだ。俺は今度は、奥の方から入口の方へ向かつて同じしぐさをくりかえした。だが、やつぱりお前は見当たらなかつた。三度目にはお前の名を低く呼びながら一まわりした。そして一番最後まで行つて引きかえしかけた時だつた。俺は足もとでつぶやくような聲をきいた。
 「その方は今さつきまで、ここにおられましたが…」
 目の前に、頭を繃帯して足を投げだした女の人が坐つていた。両脚も繃帯し、胸には子供を抱いている。そして、その隣が一人分ほど空いていて、筵の片隅にお結びが二つころがつている。俺が腰をかがめると、
 「大學の方でしよう?」
と顔をあげた。「そうです」というと、
 「今さつきまでここにおられたのですがね…」とくりかえした。俺はそれをきくなり、あいさつもせず外にとびだした。入口の少年工たちは、擔架を立てかけて地面に足を投げだしてしまつていた。
 「わかりませんか」
 「わからん」
 「あのへんじやないですか」
 年かさらしい少年がそういつて指す方を見ると、校庭の隅の方に、大地に並んだ屍らしいシルウェットが五つ六つ目にうつつた、背後の焚火に照らしだされて―。俺は「死んではいまい」と思つたが、恐る恐るその方に近づいて行つた。シルウェットが一つ一つだんだんハッキリしてくる。
 ――文子だ!
 そのシルウェットの中の一つを、とつさに俺はそう思つた。顔は見えない。だが、肩から腰にかけてうねる肉體の線は、まぎれもなくお前だ。俺は走りよつた。夜なのに蠅がプーンととびたつた。顔、手、足に白い繃帯がしてある。
     顔 手 足  繃帯に蠅が群れておれど 體幹のうねりたしかに妻なり
 これはあとでつくつたその時の俺の歌だ。
 「どうした、文子、俺だぞ」
 俺がそういつても、お前はしばらくなにもいわなかつたね。焚火のあかりで俺の顔は見えたろうのに――。俺は繃帯の間からのぞいているお前の目を、口を、そして鼻を、たしかに見た。だが放心したような目だつた。N君からの豫告で、俺のくるのはわかつていただろうに。何かすつかり絶望しきつているような顔つきだつたよ。のぞきこんだ俺の顔を、ジッとうつろなまなざしでみつめていて、やがてお前はしずかにいつた。
 「ピカッと、とても大きな稲妻が光つたと思つたの。それから、なんにもわからなくなつちやつたの。福屋の前で……」
 「福屋の前で?」
 瞬間、前の日に見た死屍累々たる福屋の前の路上が、電光のように頭の中を走つた。
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 126~129ページ

 

 

 

 

 広島への原爆投下の翌日、8月7日の夜のエピソードである。

 

 妻の姿を探して二日目の夜、大学の学生(といっても直接の教え子ではない)から妻文子が府中國民學校に収容されているとの情報を得、ついに小倉豊文は妻を見つけ出した。

 

 それに先立つ、国民学校の講堂での、

  俺が顔を近づけると、知らぬ顔に目をつむつている人もあるし、横を向いたまま見かえりもしない人もあつた。時々、うつろな目でうらめしそうに見かえされることがあつた。そのまなざしに胸をえぐられた。この人たちは、昨日から「晒し物」にされているような、こうした經験を何十度となく繰りかえしていたであろう。そして近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていたのであろう。だが、その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされていたのであろう。

…との記述に、身動きも叶わぬほどの深い傷を負いながらも「近づけられる顔に、自分の愛する肉親や知人の顔を、待ちわびていた」人々、そして「その度に期待を裏ぎられ、希望をかきけされ」たままに死んでいったであろう多くの人々の姿を、私は、見出す。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/07 23:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/206257/

 

 

 

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2014年8月 6日 (水)

何でガンスカノー? (『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 昭和20年8月6日)

 

 

 その時、俺は耳もと近くにせきこむような人聲をきいた。
 「何でガンスカノー?」
 「どこでガンヒョウ?」
 振り向くと中背の六十歳近い男が二人、この近所のお百姓らしい。
 「西練兵場あたりじやないでしようか」
 「そのあたりでガンスノー」
 「やっぱり爆彈でガンヒョウカ」
 「イヤ……」
 俺はうかつなことはいえないと思つて言葉を切つた。お前も知つているようにあの頃の廣島の「流言蜚語」の取締は實にひどかつたからね。尤も、あれも仕方がなかつたかも知れないよ。俺が敗戰後にある軍の参謀から聴いたことだが、あの頃全國の主要都市がみんな片つぱしから爆撃されているのに、廣島がまぎれ彈を二三發見舞われただけで、大規模な爆撃を全然受けていなかつたのは、スパイが多數入り込んでいるからかも知れない、という解釋をしていたというのだからね。
 だが俺は、「何か新兵器ちゆうもんでガンヒョウカ」とたたみかけてきかれると「私は火藥庫の爆發じやないかと思うんですがね」と答えてしまつた。ところが、「やっぱり爆彈を落とされたんでガンヒョウカ」と追及された。俺は軍の過失による爆發と思いこんでいたのだ。だつて飛行機の一臺もこない爆撃なんてナンセンスだものね。そこで「飛行機の来ない爆撃なんてまだ日本にはないでしよう」と皮肉るつもりで答えたのだ。すると意外、二人共殆ど異口同音にきおいこんでいうのだ。
 「きましたぜ、こつちからあつちへ」
 やつぱり二人いつしよに東から西の方を指すのだ。
 「いつ?」
 「ホンさつき――B29でガンス」
     小倉豊文 『廣島原子爆彈の手記 絶後の記録』 中央社 昭和24年(初版は昭和23年) 15~16ページ

 

 

 

 

 広島への「原爆」の投下直後の情景である。

 小倉豊文は、この時、爆心から東に4キロ以上離れた地点にいた。

 何が起きたのか、誰にもまだ本当のところは理解されていないのである。米軍による爆撃とは思わず、日本軍の火薬庫の爆発と考えていたことが記されている。

 

 その日一日をかけて市内を横切り(爆心地から500メートルほどの地点を通る―ただし爆心がどこかも知らないままに―想像力の限界を超えたような惨状の続く中を)、最終的に爆心から3キロ西方のかつての家主の住まいで夜を過ごす(家族の所在も安否もわからないままに)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/06 23:41 → http://www.freeml.com/bl/316274/206218/

 

 

 

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