« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »

2014年7月

2014年7月31日 (木)

高級國語時代の思想(原理主義者の描く「靖國」と浄土真宗的殲滅戦の論理)

 

 

 伊原吉之助先生の、

 

  略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。
  戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、
  外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?
     (「高級言語と低級言語」 伊原吉之助教授の読書室)
      http://jas21.com/athenaeum/athenaeum243.htm

 

…との問題提起に応え、あらためて「正字・歴史的假名遣」が実際に用いられていた時代(ここでは伊原先生に敬意を表して「高級國語時代」と呼ぶことにしよう)の書物を読んでみたい(「讀書によつて語彙(ごゐ)が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育ちます」という伊原先生の言葉を実践してみようとの試みでもある)。

 

 

 

 

  一、 聖職奉公のための戦死は生命奉還である。畏こみて大君の辺にこそ死ぬるのである。死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉るのである。
  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。この様な相対忠は絶対に否定されねばならぬ。これでは断じて「天皇陛下万歳」にはならぬ、即ち「天皇機関説」の極致にほかならない。
     影山正治 「陸軍葬再論」 (『忠霊神葬論』 大東塾出版部 昭和19年)

 

 

 これも前回同様、早川タダノリ氏の『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫 2014)に収録されているものだが(残念ながら、表記は「正字」ではなく「略字」であるが、「歴史的假名遣」に関しては原文に忠実だと思われる)、まさにここに、「高級國語時代」の靖國思想の「極致」が示されているのを「讀」むことが出来るはずである。

 

 早川氏は、「陸軍葬再論」に展開される主張を、

 

  「生命奉還」というフレーズには心底驚愕した。この一文が興味深いのは、影山先生が死後の霊魂の存在と極楽浄土の実在をマジで信じており、戦死した霊魂の行く先が気になって仕方がないところにある。〈英霊〉が極楽浄土ヘ行ってしまったら、大君に「生命奉還」できないじゃないかというわけだ。ひとたび〈英霊〉となったならば、「死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉」らなければならないというのは「忠霊公葬」論者に共通するイデオロギーで、「極楽行き禁止」なのであるから、死んでからも〈英霊〉は忙しくてたまらない。これでは皇国臣民はうかつに死ねないのである。
     早川 前掲書 270ページ

 

…と評しているが、原理主義的に靖國神社の意義を語れば、その「極致」には、影山先生の語るような形で〈英霊〉の姿が見出されることになる、というわけだ。

 

 靖國神社とは、思想的にはそのような存在なのであり、単なる戦死者の追悼施設ではないのである。

 〈英霊〉は社の奥に鎮まっているのではなく、

  死して忠霊なほ大君の辺にまつろひ、以て無限に皇運を扶翼し奉る

…ことを求められ続ける。これこそが「天皇機関説」に堕すことのない、「国体明徴論」的に正しい、靖國神社の本来的な〈英霊〉の姿なのである(「陸軍葬再論」ではそのように主張されているのだ)。

 

 

 

 

 さて、続いて、次なる「高級國語時代」の書物を「讀」むことにしよう。

 

 

  殺生戒といつて、人の生命をとるなかれといふ戒の如きは、直接今の問題になつてゐる戦争と関係があることになる。殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなるであろう。
     佐々木憲徳 「仏教と戦争」 (『立信報国』 戦時布教文庫 興教書院 昭和12年9月刊)

 

 

 昭和12年の9月刊ということは、支那事変の「勃発」からまだ間もない時期の出版物である。「あの戦争」での宗教界による戦争協力の問題を語る際に、浄土真宗の果たした大きな役割は、いわば常識に属するものとさえ言えるのだが、ここで(真宗教団の一員としての)佐々木憲徳師は、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬとなれば、それは戦争ができないこととなり、国家の一員として非常に困惑することとなる」との言葉で、問題の所在を指摘している。「殺生戒」の存在が「事変完遂」の障害となることに「困惑」しているわけだ。

 「殺生戒」を優先させ、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが仏教徒としては当然であるはずなのだが、佐々木氏は仏教徒であることよりも「国家の一員」であることを優先させることを当然と考えてしまっているので、ここで「困惑」が生じるわけである。「極楽往生」がかかっているのだから、浄土真宗的には当然の話ではある。言うまでもなく、「殺生戒を守つて、人の生命をとらぬ」道を選択することこそが、浄土真宗的にも「当然の話」であるとは思われるのだが、当時(「高級國語時代」において)はそこで「困惑」することの方が、「当然の話」と考えられていたのであろう。

 

 この問題について、早川タダノリ氏は、あっさりと、

  別に困惑しなくても、お釈迦様の教えを守ればよいだけである。

…と指摘している(『神国日本のトンデモ決戦生活』 260ページ)。

 早川氏は続けて、

  佐々木は戦争を「折伏」であると言う。戦争とは常に正義と悪が争うものであり、正義が悪を折伏する過程なのだと考えねばならぬ……ということらしい。

…と、佐々木憲徳の論理を解説し、引用を続ける。

 

  戦争の如きことも、正義の戦争なるものは、実に折伏逆化の心術方法によりて行わるるわけで悪逆非道にして暴慢なる敵国に、膺懲の大鉄槌をあたへて反省自覚せしめ、以て正義の大道に復帰せしむる目的よりほかはない。

 

 佐々木憲徳はこのように「戦争」を位置付ける。「事変」における「敵国」は既に「悪逆非道にして暴慢」な存在として規定され、自らの「正義」は自明の前提とされているのである。その上で…

 

  ……勿論戦争には人が死ぬる、金がかかつて、不容易の大事ではあるが、しかし戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せねばならぬのである。

 

 このように、佐々木は語る。「正義」の名の下に、「殺生戒を守」ることなどは、二の次の問題にされてしまうのである。

 

  戦争をせなくては正義が世界からつぶれ、正道が埋没するのであるから、どうしても菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅せなばならぬ

 

 佐々木の理路からすれば、「菩薩の願行よりしても、正義を守り正道を護るために、銃剣をとつて悪逆無道の魔軍を殲滅」することは極楽往生の障害になるはずがないことになる。

 

 

 

 しかし、国体明徴論的には、皇国臣民は極楽往生など望んではいけないのだ。影山正治先生は断言する。

 

  若しその霊を阿弥陀仏に托して西方十万億土に送り、釈迦仏に附して彼岸極楽に送りやる如きことあらば、忠死の根本否定であり、忠霊の致命的冒涜である。肉体の生命は至尊に捧げるが霊魂の生命は天津日嗣以外に捧げると言ふのでは忠節どころか、恐るべき国体叛逆の大罪である。

 

 

 影山先生によれば、佐々木憲徳師の説くのは「相対忠」に過ぎず、「恐るべき国体叛逆の大罪」を犯すものであり、「天皇機関説の極致」だというのである。

 「国体(國體)明徴論」的には、

  生きている間は戦死するまで滅私奉公
  戦死したら永遠に滅私奉公

…ということでなければならない。しかしこれでは「臣民」は奴隷である。私は皇恩の有難さは、その仁慈にこそあるのだと思っていたが、そのような考えもまた、影山先生からは「天皇機関説の極致」と指弾されそうである。

 

 

 

 さて、このような「讀書によつて語彙が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育」ったでありましょうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2014/02/18 21:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/214742/
 投稿日時 : 2014/02/19 22:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/214821/) 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年7月30日 (水)

高級國語教育の必要性と大東亞共栄圏共通語の挫折

 

 

 

 扨(さ)て、國語の場合です。
 低級日本語では、略字・漢字制限・現代假名遣の儘で宜しいが、
 知識人は高級日本語、つまり正字・歴史的假名遣も使ひこなせなければなりません。

 略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。

 戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、
 外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?

 高級國語教育が急務であります。
     (「高級言語と低級言語」 伊原吉之助教授の読書室)
      http://jas21.com/athenaeum/athenaeum243.htm

 

 

 この伊原吉之助先生の御高説の前提となっているのは、

 

  ここで、言葉に二つの水準があることが見えて來ます。
  高い文化水準でやりとりできる言葉遣と、
  日常生活に不自由ない程度の應答能力( 讀書きできない)に留まる低級言語です。

  兩者を分ける有力根據が「讀書力」です。
  讀書によつて語彙(ごゐ)が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育ちますから。

 

…との認識である。

 

 

 私自身には伊原先生のように、「正字・歴史的假名遣」によって文章を書くような高級な趣味はないが、

  略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。
  戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、
  外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?

…とのご意見には同意する。

 しかし、「略字・漢字制限・現代假名遣」による文章すらまともに読むことが出来ず、ましてや書けるわけもない連中が「日本の伝統」について熱く語る(ただし全文がコピペだったりするわけだが)のに辟易させられるのが現代日本の現実というものなのである。

 

 いずれにせよ、伊原先生の御高説は、

  イマドキ「正字・歴史的假名遣」で文章を書いちゃう私は高級人間

…という風にも聞こえてしまって、なかなかに微笑ましい。私はこのような無邪気さが嫌いではない。

 

 

 

 一方、「略字・漢字制限・現代假名遣」の「低級日本語」を愛用している私であるが、その事実を指摘されても、「正字・歴史的假名遣」の「高級日本語」を使ひこなせなければならないとは思はないのであつた。

 

 「現代假名遣」は「字音仮名遣い」とも呼ばれ、日本語の正書法としての一定の合理性を備えたものであって、伊原先生の推奨する「歴史的假名遣」に劣るところがあるものではない。そこには正書法としての方向性の違いがあるだけに過ぎない(音声言語としての実際の発音を反映させることを重視するか、文語文法規範の固守を重視するのかの問題である)。

 

 伊原先生は、

  第二の劃期は、敗戰と國語改惡です。
  略字・漢字制限・現代假名遣は戰後育ちの日本人の語彙を激減させ、思考を幼稚化しました。

…などと主張しているようだが、そもそもの話、「字音仮名遣い」の必要性が国家的課題となったのは、「戰後」ではなく戦中の話である。

 大東亞共栄圏の盟主としての大日本帝國は、日本語を共栄圏の共通語化することを目指しており、その際に、古語文法の知識を必要とする「歴史的假名遣」の普及は合理的だとは考えられなかったのである。音声言語としての日本語の音声への忠実性の高い「字音仮名遣い」の採用こそが、共栄圏における日本語共通語化に有利だと判断されたのは当然のことであった。帝國の勝利による大東亞戰争終結後には、「字音仮名遣い」を正書法とした日本語が、大東亞共通言語の地位を得ていることが期待されていた事実は無視されるべきではない。もちろん当時も、「字音仮名遣い」は保守的日本語観の持ち主からは非難されていたが、しかし、大東亞共栄圏統治という政治的課題は、保守主義者の言語的懐古趣味よりは、「字音仮名遣い」採用の現実主義(リアリズム)を必要としたであろう。

 その実現を阻んだものこそ「敗戰」なのである。

 

 

 

 さて、以下に紹介するのは「敗戰」の前の時代、「高級國語」が実際に用いられていた時代のエピソードである(昭和18年、大日本帝國が大東亞共栄圏の盟主となる可能性がまだ現実的だと思われていた時期に、英語学習存続の必要性がどのように主張されていたのかの一事例となる―もちろん「高級國語」によって書かれたものだ)。

 

 

  英語は日本語である。わが大日本帝国の勢力圏内に於て通用する英語は、明らかに日本語の一方言なのである。随つて我等は今日以後、国語の一部として英語を当然学習すべきである。
     東京文理科大学講師 佐藤正治 「英語学習上の心得」(『学生』 昭和十八年十一月号掲載)

 

 これは英語学習を正当化するためのレトリックなのかマジネタなのか?

 佐藤先生の論理は、以下のように続く。

 

  然るに猶ほ「敵性語」なるが故を以て英語を排撃せんとする者が世上に跡を絶たないのは、国家のため憂ふべき現象と言はざるを得ない。

 

 佐藤正治氏のこの文章は、早川タダノリ氏の『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫 2014)に引用掲載されていたものだが、早川氏は紹介するに際し、

 

  英語排斥論者に対抗するためには、偏頗な言語国粋主義を超える・「大東亜共栄圏」にふさわしい帝国主義的グローバリズムの論理で対抗するほかなかったのであろう。

 

…と同情的な解釈を示している。いずれにしても、佐藤氏の文は次のように展開する。

 

  余の見る所を以てすれば、英語は本より、仏・独・伊・蘭・華・蘇・西・葡・泰・緬・印等々の諸国語は、悉くこれ日本語の方言であり、我ら日本人は当然これを学習すべき必要と義務を有するものであることをば、肝に銘じて夢々忘れてならないのである。

 

 理路としては、確かに一貫性があるし、敵性語排撃論者に対する反論となっているのかも知れないが、しかし敵性語排撃論者なら、英・仏・独・伊・蘭・華・蘇・西・葡・泰・緬・印等々の連中にこそ正しい(「方言」ではない)日本語を学習する必要と義務があると主張することになるだけではあろう。佐藤氏の理路が、当時の国体明徴論的原理主義者(すなわち敵性語排撃論者でもあったろう)に通用するものとなり得ていたのかどうかは別として、そのような理路を編み出してでも英語教育を存続させようとしたその努力には頭が下がる。奇天烈なのは佐藤氏の理路ではなく、そのような理路でしか対抗し得なかった、「敗戰」の前の大日本帝國の言論の現実の方なのである。

 

 

 

 実際に「正字・歴史的假名遣」による「高級國語」を用いて書かれた「戰前の書物や新聞」を「讀」んでわかることは、そこに必ずしも「高い文化水準」を保証する内容があるわけではないということだ。もちろん、論理的な短絡や飛躍の積み重ねに無自覚になることが「高い文化水準」を証明する必要条件だとするならば話は別だが、論理的な短絡や飛躍への批判的態度の保有を、論理的な短絡や飛躍への批判能力こそを「高い文化水準」の条件と考えるならば、「高級國語」の運用能力だけでは「高い文化水準」には至り得ないことは明白である。

 佐藤正治氏の場合は、自身の論理的短絡や飛躍に十分に自覚的であったろうが、しかし、それ以外には時代(対米英戦の勝利が論理的飛躍と短絡によって保障されていた時代)の言論への対抗手段がなかったということなのであろう。それこそが、「高級國語」が実際に用いられていた時代の悲しい現実なのである。

 「略字・漢字制限・現代假名遣」が「思考の幼稚化」に果たした一定の役割を否定する気はないが、「高級日本語」の使用が必ずしも「思考の幼稚化」を阻むものとはならないという事実を、伊原先生の御高説を通して知ることが出来る、わけだ。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2014/04/25 22:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/218530/
 投稿日時 : 2014/04/26 21:31 → http://www.freeml.com/bl/316274/218601/
 投稿日時 : 2014/02/16 23:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/214670/

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年6月 | トップページ | 2014年8月 »