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2014年6月29日 (日)

「慰霊の日」に、比嘉賢多監督の『沖縄/大和』(2014)を観た

 

 

《主催者ツイート》
上映まで残り3日となりました。
6月23日慰霊の日に武蔵野美術大学12号館302教室で上映します。聾者や聴覚障害者のためにも字幕がついております。ぜひ観にいらしてください!
(沖縄 / 大和 @okinawa_yamato     ·   6月20日)
→ https://twitter.com/okinawa_yamato

 

《予告編動画)
時にはユーモラスに、時には哀愁を含んだタッチで沖縄と大和の間に潜むラインをまなざす新しい沖縄ドキュメンタリー。

監督 撮影 編集 比嘉賢多
監修 高橋巌
三線演奏 比屋根良直
題字 青柳美樹
宣伝美術 福西想人
2014/HD/99min/カラー
→ http://youtu.be/ruwEkS8v9bM

 

 

 

 そんな情報から、どうも、これは観る価値のあるドキュメンタリーとの予感の下に、「慰霊の日」にムサビの12号館を訪れたのであった。

 

 監督は91年生まれで、作品は和光大学の卒業制作として撮影・編集されたもの、ということらしいが、予感は的中し、いろいろと考えるべきテーマが、我が課題として残されたような気分である。

 

 

 映像作品を大別するとドラマとドキュメンタリーということになるが、ドラマ制作には多人数のスタッフと出演者の管理が必須となる。ドキュメンタリーなら撮影・録音・監督を一人でこなすことも不可能ではない…というのが卒制にドキュメンタリー映画を選んだ理由なんだそうで、当初から特別なテーマがあったわけでもないらしい。

 これは、別の側面から言えば、あらかじめの方向性の欠如を意味する。

 ドキュメンタリー作品には、時としてプロパガンダ(あるいはアジテーション)的に、自身の主張を映像で証明する的な手法もあるわけだが、ドキュメンタリー映画撮影の動機も、撮影開始後の経過も、そのような方向性とは無縁であり、それが良い結果をもたらしているようにも見える。

 

 「沖縄と大和の間に潜むライン」という作品のテーマも、やみくもに撮影を続けた中で見えて来たものであり、当初の方向性の欠如が、撮影編集を続ける中で、自身が既に撮影した映像をメタレベルで(つまり自身の視覚的経験の記録の映像を言わば他人の経験として)見るような過程を組み込むことに大きくつながった。つまり、自身の経験の記録でありながら、そこに距離感が生まれ、自身の経験に対する批評的視線が生まれるわけである。良質な(と私が感じる)ドキュメンタリー作品には、そのメタレベルの視線が組み込まれていることが多い。今回も、監督のそのような姿勢を感じられたし、上映後の質疑の中で再確認することも出来た。

 もちろん、未経験な若い監督の第一作ということであり、自らの方法論として、そのように撮影が進められたというわけではないが、結果的にそのように組み上がっている背景には、監督当人の資質があることは疑い得ない。で、私はそのような資質を持った映像作家が好きなのである。

 そのような監督との出会いがうれしい一夜であった。

 

 

 

 

 以下は作品の内容に踏み込むもの(私がいかに読み解いたか、という種類の話)となるので、つまりネタバレ的内容として展開されるので、これ以上読むかどうかは、それぞれに判断していただきたい。

 

 

 

 比嘉賢多監督のドキュメンタリー映画『沖縄/大和』は、(監督の家族・親族という)監督自身の身内の人々と交わす会話(そして彼ら同士が交わす会話)のシーン、基地反対運動に身を捧げる人々の姿と彼らの言葉、基地反対運動に反対する人々の姿と彼らの言葉、そして監督の友人たちとの会話(女友達との会話と、バンド仲間である男たちとの会話)という四種類の登場人物とのやり取りの記録として構成されている。

 

 上映後の監督自身の語りによれば、とにかく出身地(地元)である沖縄で卒業制作作品としてのドキュメンタリーを撮影するというアイディアだけが出発点にあり、どのようなテーマで、どのように撮影を進めるのかについては白紙状態であったということだ。

 まず、身内の撮影から始め、基地反対運動と基地反対運動反対運動に参加する人々の姿を記録することに進み、そこから浮かび上がった問題意識が、友人たちとの会話に結実し、そこでのやり取りの内容があらためて身内の姿を照射し、基地をめぐり対立する運動の背後に潜むであろう構図をも明らかにしていく。

 すべてを観終えた時点で、観客は、それぞれのシーンが見事に照応しあう関係にあることに気付かされるのである。

 

 

 年上の世代の身内が交わす、それほど深刻でもないはずの会話の中にも沖縄戦の記憶が埋め込まれ、学校が「方言」(当人にとってはネイティヴ・ランゲージである)の矯正の場となったような子ども時代が語られることで、そこにいるのは本土(あるいは内地)育ちの私たちとは異なる歴史を背負った人々なのだということが、あらためて明らかになる。

 

 時には警官隊と揉み合いになるような事態を経験しながらも、日常的に黙々と基地の周囲で、基地への反対姿勢をアピールし続ける人々。

 そして、そのような基地反対運動を批判し、米軍人たちとの親和的関係の樹立の必要を主張する人々。

 前者が、基地の周囲で(そしてゲート前で)、米軍人(そして基地関係者)への反感をアピールし続けるのに対し、後者は、前者の非難の対象が米軍関係者の家族を含むものとなってしまっており、それでは「対立」だけが増幅・拡大されるだけではないか(そのような運動では憎しみしか生み出さないではないか)、と前者の運動の方法を批判するのである(米国人との間に「壁」をつくるだけではないか、対立からは平和は生み出せないと)。

 

 ここには、米軍基地の存在をめぐる沖縄内部での対立が描かれているのである。

 後者について、前者は、「従来であれば基地従業員であっても、その多くは基地反対運動の側にいたこと」を語り、基地従業員(とその関係者)と基地反対運動の対立は最近の現象であるとも語る。現在では、基地への依存が自明の前提となりつつあるということだ。

 後者は、自身の運動の経済的・政治的現実性を語るわけだが、つまりそこでは既に経済的な基地依存が自明の前提なのである。

 

 

 

 そのような身内を通した沖縄の現在、そして基地への反対をめぐる対立としての沖縄の現在を撮影し続ける中で、沖縄で生まれ育ったことの意味が、あらためて監督自身への問いとして生まれる。

 上映後のやり取りであらためて明らかになったのは、監督自身にとっての沖縄は「米軍基地の沖縄」ではまったくなく、観光イメージそのものの「青い海と青い空の沖縄」であったということ。これまで「米軍基地の沖縄」を意識することはなかったということ。つまり、そんな感覚の監督が撮り上げたドキュメンタリー映画であるということであり、しかし、それはこの映画の出発点がプロパガンダであること(あるいは「啓蒙」であろうとすること)と無縁な場所にあることを示すものであるし、だからこそドキュメンタリー作品としての独特の価値も生まれるのだということは、再確認しておきたい。

 

 

 

 しかし、それでも、「慰霊の日」と体感としての「暑さ」は身体に刻み込まれ、「慰霊の日」の前後の季節感としての「暑苦しさ」には沖縄の地上戦の記憶(まさに身内から受け継がれた「記憶」なのだ)が貼りついてしまっているのである。「青い海と青い空」という監督自身にとっての沖縄の深層には、地上戦という沖縄の経験が潜んでいるのである。もっとも、そのことにあらためて監督が気付いたのも、撮影の経験を通してだったのかも知れない(それまではあまり意識されることがなかった可能性もあるような気がする)。

 

 

 

 先に、

 

  比嘉賢多監督のドキュメンタリー映画『沖縄/大和』は、(監督の家族・親族という)監督自身の身内の人々と交わす会話(そして彼ら同士が交わす会話)のシーン、基地反対運動に身を捧げる人々の姿と彼らの言葉、基地反対運動に反対する人々の姿と彼らの言葉、そして監督の友人たちとの会話(女友達との会話と、バンド仲間である男たちとの会話)という四種類の登場人物とのやり取りの記録として構成されている。

 

…と、映画全体の構成について述べたが、基地反対運動との絡みで言うならば、最初に登場するのは米軍基地の存在に反対するために行動する人々の姿である。

 彼らはある時には警官隊と対立することも辞せず(彼らは警官隊の実力によって排除される側である)、日常的には基地のフェンスに反対の意思表示としてのテープを巻きつけ、ゲート前では米軍人を中心とした基地関係者に対する反感(彼らからすれば米軍は、海外の戦闘において敵と認定された人々の殺害を任務とした軍事組織であり、沖縄での婦女暴行事件にも関与した人々でありながら日本の国内法で罰せられない存在なのである)を言葉にして叫ぶ。

 

 そのような反対運動の在り方に異議申し立てをするのが、基地反対運動に反対する人々であり、映画の撮影過程の途中から、新たに基地の周囲に登場した人々である。つまり、当初は、彼らの姿は基地の周囲には(あるいは沖縄の地には)存在しないのである。

 映画の中での彼らの登場と、実際の現地での時系列での彼らの登場とは同時的であり、まさに映像は、彼らが基地反対運動の場に新たな対抗者として登場した歴史的瞬間を記録しているのである。

 彼らは、ゲート前で基地関係者に親しげに挨拶の言葉を投げ、米軍への感謝の念を伝え、反対運動関係者により基地周囲のフェンスに結び付けられたテープを剥がし取ることを始める。

 

 上映後に監督に確認したところでは、監督自身は、新たに登場した基地反対運動への反対者の主張に共感するところがあったという。先に紹介したように、彼らの理路の基本(彼らの説明によれば)には、

 

  前者(=基地反対運動)の非難の対象が米軍関係者の家族を含むものとなってしまっており、それでは「対立」だけが増幅・拡大されるだけではないか(そのような運動では憎しみしか生み出さないではないか)、と前者の運動の方法を批判するのである(米国人との間に「壁」をつくるだけではないか、対立からは平和は生み出せないと)。

 

…との認識があり、それ自体に説得力があったということであろう。

 実際問題として、基地反対運動のスタイルは、いわゆる「サヨク」の伝統に連なるものであり、ある意味で保守的なものである。新しい世代からは、「形骸化」したものとして受け取られても仕方がないようにも見えてしまう。

 

 

 

 そのような基地反対をめぐる対立を記録する中から、監督自身の「沖縄」に対する問題意識(自身が沖縄出身者であることの意味、沖縄出身者であることが生み出してしまう意味への問い)も育まれ、友人たちとの対話へと続く。

 そこで登場する友人たちの言葉には、いわゆる「よい子」が発するであろう「平和教育」の中での常套句と思われる表現や、報道や基地反対運動の中で用いられてきたであろう常套的な表現は見出せない。どちらかと言えば、そういうもの(被害者としての沖縄)とは距離を置こうとする態度が友人たちに共通しているように感じられる。

 

 しかし、それでも、彼らにとって彼らはウチナー(沖縄)の人間なのであって、ナイチャー(内地人)とは区別された存在(そこに「沖縄と大和の間に潜むライン」が見出されている)なのである。

 その「区別」の起源(「ライン」の「起源」)がどこにあるのか?

 少なくとも、画面の中では、彼らはその「起源」を、沖縄の「地上戦」の経験にも、沖縄の「米軍基地」の存在にも結び付けようとはしていない。

 むしろ「戦争体験」の圧倒的な相異を語るのは、バンドのメンバーである内地(群馬県)出身者の方である。

 

 ここで、彼らの内部にあるであろう、二つの微妙な問題が見えるようにも思える。

 一つには、沖縄の教育の場でも、報道の場でも、公的な位置を占める「被害者としての沖縄」という構図への違和感。

 同時に、「地上戦の記憶」も「基地の存在」も、彼らの中であまりに日常化していることから来る感覚。当たり前過ぎることは、意識に上りにくくなるのである。

 いずれにせよ、彼ら自身は、積極的には、戦争(地上戦)についても基地問題についても言及しようとはしていない。

 

 しかし、一方で、監督の家族(身内)のやり取りの姿からは、「地上戦の記憶」が、家族の日常の中に埋め込まれていることが明らかにされているし、女友達の一人は、彼女の子どもの頃の基地反対デモ参加の体験を語る(彼女の父は米軍基地従業員であるにもかかわらず反対運動に参加する日常!)。

 

 彼ら(彼女)は、積極的に自身を被害者として位置付けることはしない。そこには彼ら(彼女)自身のプライドの問題もあるだろう。

 自身を積極的に被害者=弱者として位置付けてしまうことは、自身を一人前として取り扱おうとしない態度と同一視され得るものなのであり、彼ら(彼女)もまた、そのような価値意識を持っていることは、当然のこととして考えられる。

 

 

 

 そんな女友達の一人(里穂さん)は、映画の後半でも再び登場する(ここでは、彼女への単独インタビューである)。

 やり取りの中で、そのシーンは「内地」で撮影されたことが明かされる(前半のシーンは沖縄での撮影である)。時間の経過の中で、彼女は「内地」の住人として再登場するのである。

 

 そのやり取りの中に、非常に印象的な言葉があった。

 彼女は、前半のシーンで語った「ナイチャー」と「ウチナー」の間の「ライン」についての認識が(実体験に基づかない)観念的なものであったことを告白する。実際の「内地」での生活は、彼女の認識に変化を与えたと言うのである。

 彼女は、自身が「日本人」であることと「沖縄人」であることを、あらためて語る。

 そこで監督はたたみかける。「沖縄人であることは誇りであるのか?」と。

 そこで彼女の口から発せられたのは、「足かせ」という表現であった。

 

 

 そもそも「内地」に「内地の人間」として生まれ育った人物が、「ライン」の存在について問うことはないだろう。「沖縄人」であることは、「沖縄と大和の間に潜むライン」について、問わざるを得なくなる局面が常に用意されている状況の中で生きることをあらかじめ強いられている存在であることを意味する。

 その背景には、明治期から(あるいは近世の薩摩との従属的関係以来)の内地=日本との歴史的関係があり、「戦後」における米国との歴史的関係が、厳として存在するのである。

 ひとことで言えば(ミモフタモナイ言い方をすれば)、沖縄の置かれた「植民地性」である。沖縄は明治以来の日本の(内国化された)植民地であり(註:1)、戦後は米軍基地のための米国の植民地であり、「返還」後は日本と米国の植民地的状況に置かれたままなのである(沖縄に偏在する基地の存在はその象徴である)。

 そのような問題が、「足かせ」という言葉の背景には潜んでいる。そのような歴史性が、彼女の現在には埋め込まれているのである。

 

 

 

 「足かせ=植民地性」という認識を得た地点から、あらためて映画を振り返ると、基地反対運動と基地反対運動に反対する運動の対立の起源も明らかになるだろう。

 基地反対運動に従事する人々は、「老人」ばかりである。祖父・祖母の世代に属する人々(孫を持つ世代の人々)ばかりなのである。徹底的に、老人達の運動なのだ。

 そのような、老人達による基地反対運動に反対する人々は、明らかに一世代は若い。

 画面からは、明らかなものとして、世代間の認識の対立が見出される。

 老人達は、彼らの育った時代の経験の中から、沖縄の植民地性そのものに異議申し立てをしているのであり、その老人達に対立する人々は、既に沖縄の植民地性を前提として育った世代なのである。彼らは植民地性を「現実」として受け入れ、植民地性への適応こそが、沖縄人としての利益だと主張しているのである。老人達は沖縄の(琉球人の)ナショナリズムを体現し、老人達の運動の批判者は植民地性の受容を、植民地権力への迎合による利益誘導の「現実性」(彼らにとっての「現実性」)を体現しているのである(註:2)。

 

 映画が進行するにつれて(現実の時間経過と共に)、「米国人との間に『壁』をつくるだけではないか、対立からは平和は生み出せない」と主張する彼らが、しかし反対運動を敵対視し、反対運動との間に「壁」をつくり上げている(可能ならば排除しようとしている)ことが、事実として明らかにされてしまう。

 彼らの一人、長身でとても体格のよい(腕っぷしの強そうに見える)人物は、老人達に対して明らかに恫喝的な言動を繰り返すのである。彼は老人達から、(沖縄出身者ではなく)本土の人間ではないかとの疑念を持たれてしまうが、実際、彼の言動には朝鮮人への嘲笑として用いられる常套的表現が含まれており、彼らの活動の主旨として説明された沖縄内部での基地問題を軸にした対立とは、あまりに異質なものに感じられる。

 彼ら自身の一人の振る舞いそのものが、彼らの主張の表面と内実の乖離を、カメラの前で明らかにしてしまうのである。

 そんな沖縄での経験が、映像として記録されているのであった。

 

 

 

 

 もちろん、ここまで読んでしまったからといって、作品を観た気になってしまう必要はない。ドキュメンタリー映画は、あくまでも映像作品なのであり、映像として味わうべきものであるし、この作品にはそれだけの価値がある。

 実際に全編を撮影した比嘉監督のカメラワークは見事であるし、編集も手慣れたものにさえ見える。卒業制作として試行錯誤の中から生まれた作品であることも確かであるが、観る者には、比嘉監督の持つ映像作家としての資質が感じられるはずである。

 私にとって、何度でも繰り返し観たい作品の一つであることを、最後に書き添えておきたい。

 

 

 

 

【註:1】(2014年7月4日追記)
 そこに存在していたのは、日本の外部としての沖縄(琉球)であり、日本人とは異なる存在としての沖縄人(琉球人)であった。

 実際問題として、幕末期の幕府官僚にとっても、明治初期の新政府メンバーにとっても、琉球・沖縄が「日本」の内部存在であることは自明ではなかった。
 琉球國(沖縄)を「異国」と考えることも、琉球人を「日本人類」とは異なる存在(異民族)と主張すること(琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス)も、当時は特異な言動ではなかったのである。
 その点については戦後の日本政府も同様で、

  沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか
     (1997年4月の参院特別委員会での照屋覚徳参議院議員の質問)

  政府は明治維新の時点で琉球王国は日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか
     (2006年3月の臨時国会での鈴木宗男衆議院議員の質問)

…のような問いに、明確に返答することは出来なかったのである。
(これらの点の詳細については、「琉球國の「独立」と伊江朝直 3 」及び「琉球國の「独立」と伊江朝直 4 」を参照)

 また近年の言語学的知見の中では、日本語と琉球語は、計量的に、英語とドイツ語程度に異なる事実が指摘され、琉球語を日本語の「方言」とするのではなく、日本語とは独立した言語として取り扱われるようになってもいる。

  木部暢子 「言語・方言の定義について」(『危機的な状況にある言語・方言の実態に関する調査研究事業報告書』 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立国語研究所 2011年2月  5~8ページ)
  http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/kokugo_sisaku/kikigengo/pdf/kikigengo_kenkyu.pdf

 松原孝俊氏によれば、近世の朝鮮では、日本語の通訳(通詞)とは別に、琉球語の通訳(通詞)が必要とされていたのだという。朝鮮の官僚組織は、経験に基づき、日本語と琉球語を独立した別の言語として取り扱っていたことになる。

  松原孝俊 「琉球の朝鮮語通詞と朝鮮の琉球語通詞」 (『歴代宝案研究』第8号、沖縄県立図書館史料編纂室 1997年3月  33~55ページ)
  http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/lab/wp-content/uploads/4e62ef134ee2d5b76ba5442fab7aff17.pdf

 そもそも日本と沖縄の間には「ライン」が存在していたのだ、と言うことも可能である。現在の枠組みで言えば、(日本国籍の保有者という意味において)どちらも「日本人」であるにしても、歴史的に見れば、(そして言語学的にも)異なる世界を人々は生きていたのである。

 

【註:2】(2014年7月5日追記)
 老人達は、植民地性そのものへの異議申し立てとして、基地のゲート前で米軍人達への憎悪の儀式を繰り返す。それに対し、一世代下の人々は、米軍人への信愛の儀式を始める。老人達の行為(植民地性への異議申し立て)が現実的な力を持ち得ることに、一世代下の人々は疑問を呈しているのである。
 確かに老人達の闘いは、その理念において美しく正しいものなのかも知れないが、沖縄の現在の中では、残念ながら、現実性において無力に見えてしまう。しかし一世代下の彼らによる植民地権力への迎合の儀式は、経済的現実主義において正しいものなのかも知れないが、残念なことに、美しくは見えない。

 

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2014/06/23 22:58 → http://www.freeml.com/bl/316274/222422/
 投稿日時 : 2014/06/25 21:09 → http://www.freeml.com/bl/316274/222565/
 投稿日時 : 2014/06/29 11:14 → http://www.freeml.com/bl/316274/222794/
 投稿日時 : 2014/07/04 21:31 → http://www.freeml.com/bl/316274/223151/

 

 

 

 

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受信: 2014年7月 8日 (火) 17時44分

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