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2014年6月 8日 (日)

「積極的平和主義」と国民の利益としての「国益」

 

 日本の防衛のためには日米安保条約は役に立たないから集団的自衛権を認めなければならない、という主張がいかに欺瞞に満ちたものであるのかについては既に明らかにした(「集団的自衛権論議と外交と軍事のリアリズム」を参照)。

 

 

 日米安保条約を日本側の視点からだけで見てしまえば、米国が日本の防衛という日本の国益のために戦争をすることを保障した条約ということになるのだろうが、日本列島は米国にとっては米国の「利益線」(山県有朋の用語法)に相当する地政学的に重要な位置にあり、大陸国家に対峙する太平洋(そして極東)における米軍の最前線として位置付けられるのであって、日本列島に対する大陸国家の攻撃があるとすれば、それは米国にとっては最前線に展開する米軍への攻撃を意味するものとなる。つまり、日本列島への米国以外の国家による攻撃は、米国の視点からすれば、米国の国益の侵害そのものとして理解されるものであり、米国は日米安保条約に基づいて、米国の国益のために、反撃を開始し、攻撃を撃退することになるであろう。

 その際に、自衛隊の役割として期待されているのは、米軍の損失の軽減である。もちろん、日本列島への攻撃に対する日本の防衛を任務としているのが自衛隊であり、軍事衝突の一方の当事者として国土(日本国の主権領域)防衛を遂行することがその任務である以上、自衛隊員の人的損失の可能性は想定されているはずだ。米軍の存在は、日本からすれば、自衛隊員の人的損失の軽減に役に立つものとして位置付けられる。

 日本は日本の国益のために軍事衝突の一方の当事者となり、米国は米国の国益のために日本の側で軍事衝突の当事者となる。ここでは両者の利害は一致している。共同の軍事行動により、強力な反撃を可能にすると共に、単独の軍事行動の際に想定される自国軍(日本の場合は「自衛隊」と呼ばれるが)の人的喪失の軽減を期待することが可能になるのである。

 その際の米軍の戦闘行動は米国の国益に動機付けられたものであり、発生する人的損失(つまり戦死者、ということである)も、米国の国益のための犠牲として理解される。しかし、犠牲者は少ないことが望まれるので(それも米国の国益に属する)、日本の保有する軍事力(つまり自衛隊)の米国のための有効利用が目指されているわけである。「集団的自衛権」をめぐる日本政府のレトリック(日本の防衛に際しての日米安保条約無効論に基づく集団的自衛権の必要論)は、人的損失の軽減を目指す米国の国益に非常に合致したものである。そこでは日本政府自らが、積極的に日本の人的損失(日本人の犠牲)の増大を求めているからである。

 

 しかも、「集団的自衛権」の容認がもたらすのは、日本の国土防衛の範囲を超えた領域での米軍との共同的軍事行動なのである。

 つまり、集団的自衛権の容認がもたらすのは、米国の軍事行動に従属的な日本の軍事行動の保障であり、米軍の人的喪失の自衛隊による肩代わりなのである。

 

 日本人の人的損失(つまり戦死者の発生である)の可能性の最小化を日本の国益と考えるならば(これは日本国民の最大の利益であり、つまり国益そのものである)、日本列島の防衛以外の場面で、その多くは米国の国益に従属した場面での軍事力行使において、日本人の戦死者の発生の可能性を増大させるようなことは、国益に反するものとして理解されることになる。

 

 日本の国外での、米軍に(もちろん米国の国益に)従属した軍事力行使において日本人の死者が発生することを、日本の国益のために必要な死者であると、誰が言えるのであろうか?

 

 

 「集団的自衛権」の必要性を語る際に聞かされる「積極的平和主義」について言えば、日本の防衛のための軍事力行使の延長に位置するような見かけが与えられていはするが、レトリックの内実は国外で行使される攻撃的な軍事力そのものであり、日本国への主権侵害行為への「防衛」とはまったく異なる種類の軍事力行使なのである。そこで日本人(としての自衛隊員)に求められることになるのは、国外における戦闘での対立勢力の積極的な殺害であり、自身が戦死する可能性への積極的容認である。

 内戦状態に陥った国家(あるいは類似的状況)における自国民保護(邦人保護)の問題について言えば、民間航空機・船舶の利用が困難になった段階での軍用機・軍用艦船の利用は、「積極的平和主義」とも「積極的軍国主義」とも関係しない。そこでの軍(日本の場合は自衛隊)の任務は、民間人が戦闘に巻き込まれることを防止し、現地からの脱出を可能にすることであり、その任務全体を防護することであり、民間人の脱出と共に速やかに離脱することである。戦闘の当事者となることではなく、つまり内戦に参加することではない。自衛隊が邦人保護の任に当たることと「積極的平和主義」には何の関係もないことは理解しておく必要がある。

 

 「積極的平和主義」を「集団的自衛権」の延長として考えるならば、米国の軍事行動と一体化した自衛隊による軍事力行使の積極的な展開を意味する。米国の国益と一体化した日本による軍事力行使であり、日本の国土防衛とは関係のない、国外における攻撃的な軍事力行使である。PKOと関連付けて正当化しようとする努力がされているようにも見えるが、国連による平和維持活動は、現に紛争下にある地域における対立する勢力の兵力の分離とその維持に主眼があり、一方(あるいは双方)の勢力に対する攻撃はPKO活動には含まれない。PKO参加各国の軍事力は、非攻撃的な性格によって特徴付けられるものなのである。アフガニスタンであれイラクであれ、米軍による軍事力行使は、米国の国益のための攻撃的なものであり、PKOの精神とは全く関係を持たないものなのである。「集団的自衛権」の容認に基づく米軍との一体化とは、そのような種類の攻撃的な軍事力行使との一体化を意味するのである。

 「積極的平和主義」を「集団的自衛権」とは独立の問題だとするならば、国外における日本の国益のための攻撃的軍事力行使として位置付けられる。国外において、自衛隊員には、日本の国益に対立すると見做された人々を攻撃・殺害することが求められ、そこで自身が戦死する可能性を容認することが求められる。日本の国益のための組織的な殺人が積極的に求められ、日本の国益のための戦死さえ求められる、それが「積極的平和主義」の内実なのである。

 

 善良な日本人の死(自衛隊員が善良な日本人ではないなどと誰が主張するのか?)が日本の国益に合致したものであると主張することは可能であるが、しかし、どのような国益と日本人の死が交換可能であるというのか? 何が国益であるのかを政治家が決定しようとするのであれば、政治家は、戦死する善良な日本人の失われる命に対し全面的な責任を負わねばならないのだが、「積極的平和主義」を主張する人々にはそのことへの自覚が決定的に欠けているように見える。

 「国益」のためには善良な日本人に積極的に死んでもらう。国民に国益のための死を積極的に求めるというのは、国家としての正しい在り方なのであろうか? もちろん、我々の国の歴史にはそのような時代があったことを知っているわけだが、あのような国家の在り方が正当化されるべきとは、私は思わない。そこには、国民の死に対し、積極的に無責任であった軍事的・政治的指導者の姿しか見出せないのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/06/06 22:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/221283/

 

 

 

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