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2014年6月 4日 (水)

集団的自衛権論議と外交と軍事のリアリズム

 

 「集団的自衛権」が、現在なぜ「必要」とされるのかと言えば、そこにはいわゆる「尖閣有事」の想定があるわけで、より一般的に表現すれば、

 

 (1) 日中間の外交的対立が軍事的衝突に発展する可能性が想定され

 (2) 日中の軍事的衝突に際しては中国側の軍事的優位が想定され

 (3) 現在の日米安保条約では、その際の日本に対する米軍の十分な支援が望めない

 

以上の三点を前提とした上で、

 

 (4) 日本が集団的自衛権を認めることで米軍の支援を確実なものとし、日本の中国に対する軍事的優位を確保する必要がある

 

…という理路になるのだと思われる。

 ここでは、(3)の想定の妥当性に焦点を絞り、一般的に流通していると思われる、

  アメリカが日本のために命を投げ出してまで中国と戦争等はしない

  日米安保条約は、その不均衡な条約ゆえに、その結束はもろく、有事の時は、殆ど役に立たないであろう

…等の言説が、判断としては現実的なものではないことを示しておくことにする。

 

 

 当然のことながら、「日米安全保障条約」の位置付けが問題の焦点となる。

 

 

 

 まずここで忘れてはならないのは、あるいは誤解してはならないのは、米国からすれば「日米安保条約」は、形式的には、日本防衛という日本の国益のための条約であるにしても、実質的には、太平洋(そして極東)における米国の地位の維持という、米国の国益確保のための条約だという事実であり、日米安保条約の米国から見た現実的意味合いである。

 

 「米国は日本の防衛のために戦争をしない」という種の言明には、もちろん、一定の正しさはあるにしても、しかし米国は米国の利益のためには戦争を回避することはしないということを忘れてはならない。

 日本に米国の軍隊が展開し、日本列島が米軍の影響力の下にある(勢力下にある)現状は、米国の国家的利益に完全に合致するものであり、 当面、現状維持を米国が望み続けるという事実を考えるべきなのである(日本列島は、山県有朋風に言うならば、米国にとっての「利益線」なのである)。

 太平洋における米国の支配的影響力の維持という米国の課題からすれば、大陸・半島国家を封じ込める地政学的条件を満たす日本列島の確保は、まず米国の利益という観点から(米国にとって)重要な問題なのである。

 尖閣の施政権の問題は、日中間の問題である以前に、(米国の観点からすれば)米国の核心的利益にかかわる問題なのだということを、まず我々は十分に理解しておかねばならない。

 付言すれば、米国が日本に基地を保有し大規模な軍隊を常駐させている以上、日本への攻撃があれば米軍は対応しないわけにはいかないということも忘れてはならない(日本の領空の大きな部分を米軍の空域が占めるような現状からすれば、日本のような規模では米軍の駐留しない「同盟国」への攻撃とは軍事的意味が異なるのである)。

 

 

 理路としては、米国が日米安保条約に基づき、日本のために(日本の防衛のために)戦争をするのではなく、米国の利益の維持のために、日米安保条約を口実に米国のために戦争をすることになるということ。

 日米安保条約の存在する現状は、単に日本に有利なだけでなく、既に米国の利益にも合致しているのである。

 ただし、米国としては自軍の犠牲を最小限に抑えるという(当然の)課題があり、日本政府による集団的自衛権の容認を通して、自衛隊(日本の軍事力)の最大限の利用を画策しているのだということは、十分に理解しておく必要がある。

 その意味では、集団的自衛権問題は、米国の利益のため(だけ)に役立つものであり、日本にとってのメリット(だけ)を考えれば、現状(日米安保条約)で十分なのである。

 

 

 もちろん、米国は対中戦争を望んでいるわけではなく(軍事的損失の発生という問題以前に、既に米中間の経済の相互依存状態があり、軍事的衝突は大きな経済的損失を米国にもたらしてしまう)、米国が巻き込まれる日中間の軍事的衝突を望むこともないのであって、安倍氏の挑発的対中政策は、米国の利益に反するものなのである

 ただし、安倍氏の集団的自衛権問題への積極性は、必要な軍事力行使を日本に肩代わりさせることで、地球規模で米軍の損失を減少させる効果を持つので、米国には歓迎されているのだということなのである。

 

 

 「日米安保条約」を二国間の関係だけで捉え、日本側からの視点だけで位置付ければ、

  安保条約=日本防衛のための日米間の条約

…ということになるのであろうが、しかし、その理解では外交のリアリズムを欠いてしまうのである。米国からすれば、先に示したように、

  日本列島が米軍の影響力の下にある(勢力下にある)現状は、米国の国家的利益に完全に合致するもの

  太平洋における米国の支配的影響力の維持という米国の課題からすれば、大陸・半島国家を封じ込める地政学的条件を満たす日本列島の確保は、まず米国の利益という観点から重要なもの

  尖閣の施政権の問題は、日中間の問題である以前に、(米国の観点からすれば)米国の核心的利益にかかわる問題

…ということなのである。日本の視点だけでモノを見ては、本質を見誤る。

 その際に、米国の利益から言えば、米軍の損失を最小化することは当然の課題であり、そこに「日米安保条約」の中での自衛隊の役割があるのだということであり、自衛隊は、日本の視点からは自衛(国家防衛)のための軍事力であるにしても、米国からすれば、米軍の損失を最小化するためにとても役立つ軍事力なのだということは、十分に理解されておくべき問題である。現在の集団的自衛権の容認論は、米軍の損失の肩代わりを地球規模で自衛隊が(つまり日本国民が)負うような状況をもたらすものであり、それを米国が歓迎するのは当然であるが、日本国民の利益(つまり日本の国益)という観点からすれば、無用な選択と言わざるを得ない。

 

 

 「無人兵器」がなぜ現代的最新兵器として開発されているかと言えば、軍隊の存在を、そして軍による戦争の実行を、少子化の進行が脅かしているという現実があるからだ。

 アフガニスタンとイラクでの米国の「戦争」からも明らかなはずだが、米国には既に占領統治のための軍隊は存在しないのであり、その事実が、アフガンとイラクでの米国の失敗をもたらしたのだということを理解しておかねばならない。

 米国は、最新兵器開発で国際的に優位に立ち、戦闘における軍事的能力では世界最強であることは確かであろうが、しかし、そこから先に進むことは出来ないのである。

 正規戦での戦闘では、米軍の優位は明らかであり、人的損失も、確かに最小限度にとどめられる。しかし、戦闘が正規戦で終了しない場合、米軍の人的損失の拡大は免れず、少子化過程の進行する中では反戦世論の拡大を無視出来なくなってしまう(少子化の進行に拘束されている点では中国軍も同じである)。

 米国が「同盟国」を必要としているのは、正規戦で終了しない現代の戦争における、まさに米軍の人的損失の肩代わり装置としてなのであり、現在の「集団的自衛権」問題でも、その構図は生きているのであって、そこを見なければ、リアリズムで軍事や外交を理解したことにはならないのである。

 米国が、日本の集団的自衛権を支持し、日本の軍事力の充実を支持する背景には、米軍の損失の最小化という、米国の利益が存在し、日本の軍事的(人的)損失による、太平洋における(そして地球規模での)米国の国益の確保という、外交的軍事的戦略的思考が働いているのである。

 

 

 

 ここで当初の問題設定に戻れば、日米安保条約の現状によっても、日中の軍事的衝突に際しての米軍の支援は確保されるものなのであり、解釈改憲による集団的自衛権の保障にまで踏み込む必要性は、まったく存在しないことが確認出来るはずである。

 

 

 集団的自衛権が日本に持つ意味は、米国の外交的軍事的利益の確保のために、米国の戦争に自ら参加し、米軍の人的損失の肩代わりを志願することであるに過ぎず、日本という国家の利益、そして日本国民の利益からすれば、無用な選択だと言うしかない。

 日本の国益だけを考えれば(ちなみに米国は米国の国益だけを考えているのであるし、中国は中国の国益だけを考えているのである)日本の防衛には日米安保条約を利用することで十分なのであり、現在の集団的自衛権論議には、日本の国益の(だけの)確保という外交的軍事的リアリズムを見出すことは出来ない。

 もっとも、以上の議論は、日本列島が米軍による占領状態同然にあることの容認により成り立つものであることも押さえておく必要はある。しかし、日本列島に展開する米軍の駐留経費を負担しているのは日本政府=日本国民なのである以上、日本列島に存在する米軍の軍事力を日本政府(そして日本国民)が、日本の国益のために利用するのは当然のことなのだということも、しっかり押さえておかねばならない(そうでなければ、そこに残されるのは米軍による、そして米国による占領状態そのもの以外の何物でもない)。

 

 

 

 いずれにせよ、その前に我々がまず考えなくてはならないのは、(1)の問題(その想定の適切性の問題)なのであり、日中間の外交的対立が軍事衝突となる想定ではなく、対立状況の先鋭化の回避のための双方の外交的努力を求めることでなければならない。

 軍事的衝突の可能性を自明の前提とするのではなく、あくまでも最悪の想定であることに留意することこそが重要なのである。

 最悪の状況へ立ち至ることを回避するのが外交の役割であり、政治家の重要な任務であることを忘れたような議論は、そもそも出発点が間違っているのだと言わざるを得ない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/06/03 21:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/221077/

 

 

 

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