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2014年5月24日 (土)

昭和21年5月23日

 

 本日は木村久夫の命日になる。昭和21年5月23日、木村久夫は「戦犯」として処刑された。

 

 

 

 有田芳生氏の「木村久夫遺書全文を公開する」から、田辺元の『哲学通論』の欄外に書き込まれた、いわゆる木村久夫の「遺書」の末尾近くの文章を、あらためて読んでおきたいと思う。

 

 

 

 

 天皇崇拝の熱の最も厚かったのは軍人さんだそうである。然し、一枚の紙を裏返へせば、天皇の名を最も乱用、悪用した者は即ち軍人様なのであって、古今之に勝る例は見ない。所謂「天皇の命」と彼等の言ふのは即ち「軍閥」の命と言ふのと実質的には何等変らなかったのである。只此の命に従はざる者の罪する時にのみ天皇の権力と言ふものが用ひられたのである。若し之を聞いて怒る軍人あるとするならば、終戦の前と後に於ける彼等の態度を正直に反省せよ。私が戦も終った今日に至って絞首台の露と消ゆる事を、私の父母は、私の運の不幸を嘆くであろう。然し、私としては神が斯くも良く私を此処迄で御加護して下さった事を、感謝しているのである。之で最後だと自ら断念した事が幾多の戦闘の中に幾度びもあった。それでも私は擦傷一つ負はずして今日迄生き長らへ得たのである。全く今日迄の私は幸福であったと言わねばならない。私に今の自分の不運を嘆くよりも、過去に於ける神の厚き御加護を感謝して死んで行き度いと考えている。父母よ嘆くな、私が今日迄生き得たと言う事が幸福だったと考えてくれ。私もそう信じて死んで行き度い。

 今計らずもつまらないニュースを聞いた。戦争犯罪者に対する適用条項が削減されて我々に相当な減刑があるだろうと言ふのである。数日前、番兵から此の度び新に規則が変って、命令でやった兵隊の行動には何等罪はないことになったとのニュースを聞いたのと考え合わせて、何か淡い希望の様なものが湧き上った。然し之等のことは結果から見れば死に到る迄での果無い波にすぎないと思はれるのである。

 私が特に之を書いたのは、人間が愈々死に到るまでには、色々の精神的変化を自ら惹起して行くものなることを表はさんがためである。人間と云う物は死を覚悟し乍らも、絶えず生への吸着から離れ切れないものである。

 アンダマン海軍部隊の主計長をしている主計少佐内田実氏は実に立派な人である。氏は年令三十そこそこであり、東京商大を出た秀才である。何某将軍、司令官と言はれる人でさえ人間的には氏に遥か及ばない。其の他軍人と称される者が此の一、商大出の主計官に遥か及ばないのは何たる皮肉か。稀を無理に好む理由(わけ)ではないが、日本の全体が案外之を大きくしたものにすぎなかったのではないかと疑わざるを得ないのである。矢張り書き読み、自ら苦しみ、自ら思索して来た者には、然からざる者とは何処か言ふに言われぬ相異点のあるものだと痛感せしめられた。高位高官の人々も其の官位の取り去られた今日に於ては、少しでもの快楽を少しでも多量に享受せんと見栄も外聞も考慮出来ない現実をまざまざ見せ付けられた。

 今時に於ては全く取り返しのつかない皮肉さえ痛感するのである。精神的であり、亦、たる可きと高唱して来た人々の如何に其の人格の賎しき事を我々日本のために暗涙禁ず能はず。明日は死すやもしれない今の我が身であるが、此の本は興味盡きないものがある。三回目の読書に取り掛る。死の直前とは言ひ乍ら、此の本は言葉では表し得ない楽しさと、静かではあるが真理への情熱を与へてくれる。何だか私の本性を再び、凡ての感情を超越して、振り帰らしてくれるものがあった。家庭問題をめぐって随分な御厄介を掛けた一津屋の御祖母様の苦労、幼な心にも私には強く刻み付けられていた。私が一人前となれば、先ず第一に其の御恩返しは是非せねばならないと私は常々一つの希望として深く心に抱いていた。然し、今や其の御祖母様よりも早く立って行く。此の大きな念願の一つを果し得ないのは、私の心残りの大きなものの一つだ。此の私の意思は妹の孝子に依り是非実現されんことを希ふ。今まで口には出さなかったが、此の期に及んで特に一筆する次第である。

 私の仏前、及び墓前には、従来仏花よりも、ダリヤ、チューリップなどの華かな洋花も供えてくれ。之は私の心を象徴するものであり、死後は殊に華かに、明るくやって行きたい。美味しい洋菓子をどっさり供えてくれ。私の頭腦(とうのう)にある仏壇は余りにも静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華かなものであり度い。仏道に反するかも知れないが仏たる私の願う事だ。

 そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。我々の記憶に残るものは唯私の生れた日丈であって欲しい。私の一生に於て楽しく記念さる可き日は、入営以後は一日も無い筈だ。私の一生の中最も記念さる可きは昭和十四年八月だ。それは私が四国の面河の渓で始めて社会科学の書をひもどいた時であり又同時に真に学問と云ふものの厳粛さを感得し、一つの自覚した人間として、出発した時であって、私の感激ある人生は唯其の時から始まったのである。

 此の本を父母に渡す様お願いした人は上田大佐である。氏はカーニコバルの民政部長であって私が二年に渉って厄介になった人である。他の凡ての将校が兵隊など全く奴隷の如く扱って顧みないのであるが、上田氏は全く私に親切であり、私の人格も充分尊重された。私は氏より一言のお叱も受けた事はない。私は氏より兵隊としてではなく、一人の学生として扱われた。若し私が氏に巡り会ふ事がなければ、私のニコバルに於ての生活はもっとみじめなものであり、私は他の兵隊が毎日やらせられた様な重労働により恐らく、病気で死んでいたであろうと思はれる。私は氏のお陰に依りニコバルに於ては将校すらも及ばない優遇を受けたのである。之全く氏のお陰で、氏以外の誰ものもの為めではない。之は父母も感謝されて良い。そして法廷に於ける氏の態度も立派であった。
(木村久夫による、田辺元『哲学通論』昭和八年版の113~141ページ欄外への書き込み)
     有田芳生「木村久夫遺書全文を公開する」より
 → http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2014/04/post_0142.html

 

 

 

 (引用部の冒頭にも記されているような)皇軍の現実を皇軍の一員として味わった木村久夫が、28年の人生の最後に書き残した言葉である。

 

 全体の冒頭(『哲学通論』の扉と1ページ目)には、この「遺書」の書かれた状況が記されている。

 

 

  死の数日前偶然に此の書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。

  此の書に向っていると何処からともなく湧き出づる楽しさがある。明日は絞首台の露と消ゆるやも知れない身であり乍ら、盡きざる興味にひきつけられて、本書の三回目の読書に取り掛る。昭和二十一年四月二十二日

 

 

 「三回目の読書」と共に書き込まれたであろう木村久夫の言葉の中に、木村自身が味わった皇軍の現実(そして日本社会の現実)に対する幻滅(そして怒り、そして若干の希望)が記されているのを読むことは難しいことではない。たとえば…

 

 

  我々罪人を看視しているのはもと我軍に俘虜たりしオランダ軍兵士である。曾て日本兵士より大変なひどい目に遭はされたとかで我々に対するしっぺ返しは大変なものである。撲る蹴るは最もやさしい部類である。然し吾々日本人も之以上の事をやっていたのを思えば文句は出ない。
  更って文句をブツブツ言ふ者に陸軍の将校の多いのは曾ての自己を棚に上げた者で、我々日本人にさえも尤もだと言ふ気は起らない。一度も俘虜を使った事のない、又一度もひどい行為をした事のない私が斯様な所で一様に扱われるのは全く残念ではあるが、然し向こふ側よりすれば私も他も同じ日本人である。区別してくれと言ふ方が無理かも知れぬ。
  然し天運なのか、私は一度も撲れた事も蹴られた事もない。大変皆々から好かれている。我々の食事は朝米紛の糊と夕方に「カユ」を食ふ二食で一日中腹ペコペコで、やっと歩ける位の勢力しかないのである。然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである。
  其の中の一人の兵隊が或は進駐軍として日本へ行くかも知れぬと言ふので、今日私は私の手紙を添へて私の住所を知らせた。可能性は薄いが、此の兵隊が私の謂はば無実の罪に非常に同情し、親切にしてくれるのである。大極的には徹底的な反日の彼等も、斯の個々に接して居る内には斯様に親切な者も出てくるのである。矢張り人間だ。
  此の兵士は戦前はジャワの中学校の先生で、我軍に俘虜となっていたのであるが、其の間、日本の兵士より撲る、焼くの虐待を受けた様子を詳しく語り、其の人には何故日本兵士には撲る蹴るなどの事があれ程平気で出来るのか全く理解出来ないと言っていた。私は日本人全般の社会教育、人道教育が低く、且 社会的試練を充分に受けていないから斯くある旨をよく説明して置いた。又彼には日本婦人の社会的地位の低いことが大変な理解出来ぬ事であるらしい つまらぬ之等の兵士からでも、全く不合理と思へる事が日本では平然と何の反省もなく行われている事を幾多指摘されるのは全く日本に取って不名誉な事である。彼等が我々より進んでいるとは決して言わないが、真赤な不合理が平然と横行するまま許してきたのは何と言っても我々の赤面せざる可からざる所である。単なる撲ると言ふ事から丈でも、我々日本人の文化的水準が低いとせざる可からざる諸々の面が思ひ出され、又指摘されるのである。殊に軍人社会、及び其の行動が其の表向きの大言壮語に不拘らず、本髄は古い中世的なもの其物に他ならなかった事は反省し全国民に平身低頭謝罪せねばならぬ所である。

 

 

 ここでは皇軍軍人によるオランダ軍捕虜への処遇がどのようなものであったのかが語られ、その延長として、敗戦後に立場逆転しオランダ軍の捕虜となり戦犯容疑者とされた皇軍軍人がどのような処遇を受け、どのように振る舞うこととなったのか(まさに「曾ての自己を棚に上げた」振る舞いであった)が語られている。

 しかし、同時に、木村自身が受けた処遇については、「然し私は大変好かれているのか、監視の兵隊がとても親切で夜分こっそりとパン、ビスケット、煙草などを持ってきてくれ、昨夜などはサイダーを一本持って来てくれた。私は全く涙が出た。モノに対してよりも親切に対してである」と記されている。オランダ人がオランダ人として一般化されるようなことはなく、(木村に親切に振る舞った)個人の行為が見出されているのである。ここでは、そのように木村を取り扱ったオランダ人の側も、木村を日本人一般としてではなく、個人としての木村久夫として見出していた事実を(そこに成立していた相互的な関係を)読み取っておくべきであろう。

 木村自身の皇軍の現実(皇軍組織一般の現実)に対する幻滅と怒りを読むことと同時に、内田少佐や上田大佐についての言及からは、木村が皇軍軍人をただ一般化し「類」として批判するのではなく、そこに尊敬すべき個人の存在を見出し、最後に残された時間の中で、『哲学通論』の欄外に書き記したことが持つであろう意味にも、読み手としての私たちは注意深くありたい。

 

 

 この、木村に対するオランダ人の振る舞いからも、大言壮語・空威張り(これが皇軍軍人のスタンダードに木村には見えた)から遠い内田少佐と上田大佐の姿からも、そして彼らの振る舞いを書き残した木村久夫自身からも、私は、「教養の力」とでも言うべきものを感じる。教養無き者を見下す態度に結実する浅薄な衒学的振る舞いの基底として「教養」を位置付けるのではなく、大言壮語・空威張りから自身を遠ざけ、批判すべき「類」の中からも尊敬すべき個人の姿を見出し得る冷静で謙虚な態度にこそ、「教養」と呼ぶに値するものを見出そうとするわけだ。

 全体冒頭の一文からも、そのような木村の態度(教養の力)が静かに滲み出ているように思われる。

 

 

 

 

 「遺書」の最後は、以下のように結ばれている。

 

(奥付けの右ページ)
 此の一書を私の遺品の一つとして送る。昭和二十一年四月十三日 シンガポール チャンギー監獄に於て読了。死刑執行の日を間近に控え乍ら、之が恐らく此の世に於ける最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たと言う事は無味乾燥たりし私の一生に最後一抹の憩ひと意義とを添えてくれる物であった。母よ泣く勿れ、私も泣かぬ。
(巻末余白ページ)
 紺碧の空に消えゆく生命かな

 

 

 

(木村久夫については、「日本人であること、あるいは木村久夫の刑死」も併せて読んでいただくことで、今回の記事で「教養の力」と呼んだものへの理解が、より深まるのではないかと思う)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/05/23 23:06 → http://www.freeml.com/bl/316274/220318/

 

 

 

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