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2014年1月 3日 (金)

松林要樹監督の『祭の馬』(2013)を観た

 

 正月の二日目に(ウマ年の正月にふさわしく?)、渋谷のイメージ・フォーラムで上映中の松林要樹監督の『祭の馬』(2013)を観た。

 

 一言で云えば、馬の映画。二言では、南相馬の馬の映画。三言なら、東日本大震災後の南相馬の馬の映画。もう一言つけ加えれば、東日本大震災に伴う原発事故後の南相馬の馬の映画。もう一言を加えれば、東日本大震災に伴う原発事故後の南相馬の馬と人の映画、ということになるだろうか。

 

 

 冒頭の「相馬野馬追」の映像と、その背後に流れる音楽(しばらく聴いてから馬頭琴だ!と気づく←と書いてしまったのはいいが、監督当人によれば別の楽器らしい。いずれにしても冒頭の擦弦楽器の演奏は装飾音の付け方なんかにモンゴルの匂いがするし、その後に使用されているシルクロードの西の方の匂いのする音と併せて、空間の拡がりを感じてワクワクしていたのであった…と1月4日にあらためて追記)の組合せに、まずシビれてしまった。その後も、いくつかのシーンの背後に、中央アジア騎馬民族系の音楽が効果的に用いられている。

 それからアップになった時の馬の目(の形)! たまたま正月用に購入した数種の馬の張り子の目が、ひとつだけ人間の目のような形をしている(他は、黒丸だったり白丸の中に黒丸で目を表現していた)のがあって、なんか気にかかっていたのだが、実際の馬の目も人間のような形をしているのであった(人間の目に比べると、黒目の占める割合が大きいが)。そんな馬の目のアップの度に、互いの距離が縮まるような印象がもたらされる(要するに、グッとくるのである)。

 

 

 

 馬は徹頭徹尾、人間の都合の中を生きるのである。生きるしかない存在なのである。

 人間と、家畜としての動物の関係の究極の姿が、原発事故に翻弄される人間の後に従うしかない存在としての馬たちを通して、あらためて浮き彫りにされる。

 もちろん、原発事故も人間がもたらしたものだが、原発事故にまず翻弄されるのも人間なのである。

 馬が、原発事故について知ることはないし、つまり馬自身は原発事故に翻弄されるような存在ではない。しかし、人間の管理下で生きている以上、管理する人間が原発事故に翻弄されれば、馬の運命もまた翻弄されることになるのだ。

 

 馬を生かそうとする人間がいて、つまり原発事故があろうとも馬を生かそうとする人間がいて、しかし原発事故はその人間を翻弄し、馬の運命も翻弄されるのである。そんな馬の姿を記録した映画ということになるわけだが、松林監督は、カメラと馬の顔が接するくらいに寄り添うことによって、他人事ではないものとして馬の運命を描いていたように思える。

 馬の目は、世話をする人間に対する信頼と、人間の管理下で生きる者としての諦観と、自由への憧憬を同時に語る。もちろん、馬が何を考えているかは知る由もないが、松林監督の馬に密着したカメラが捉えたのは、そのように見える馬の瞳であり、観る者は「グッとくる」ことになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2014/01/02 23:40 http://www.freeml.com/bl/316274/212308/

 

 

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