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2013年12月 8日 (日)

『ある精肉店のはなし』(纐纈あや監督 2013)を観る

 

 「ポレポレ東中野」で上映されている纐纈あや監督の『ある精肉店のはなし』(2013)を観た。

 

 

 大阪の肉屋の話である。肉屋の話に終わる映画ではまったくないが、肉屋にまつわる話に終始する映画である。

 本来、肉屋がどのように成立しているのかを私たちは知らないので、肉屋の姿を描こうとすると、肉屋の話に終わらず、しかしすべてのエピソードは肉屋であることにつながる、ということになる。

 

 大阪貝塚市にある精肉店を舞台にしたドキュメンタリーである。

 北出精肉店では自ら牛を育て(敷地内には牛舎もある)、育てた牛を自ら屠畜し(貝塚市には市営の屠畜場があり、持ち込んだ牛を屠畜する場となっている)、自ら解体し(屠畜場での作業と精肉店内での作業がある)、販売(小売である)する。家族全員で、その全過程に関わる。

 肉屋は家業であり、現在で七代目となる。その家族の物語であり、土地の物語であり、肉屋という職業の物語であり、屠畜に関わることへの差別の歴史の物語であり、差別への抵抗の歴史の物語でもある。

 

 普段、私たちは屠畜作業のことなどまったく考えずに肉を食べているわけであるが、肉を食べるという行為は屠畜作業なしには存在し得ない。

 屠畜場までは、牛を曳いて市街地の普通の街並みの中を歩く(住宅街の朝の光景の中に牛がいるのだ)。市営の小さな屠畜場に到着し、屠畜作業はいきなり(と初めて見る者には感じられるようなタイミングで)始まる。血抜きがされ、一連の解体作業が続く。その手際の良さには、(思いもよらぬことであったが)一種の爽快ささえ感じられるのである。

 映画は、そのような屠畜作業のシーンから始まるのであった。私たちの食卓の肉料理は、実はそのシーンから始まっているのである。

 

 主役となるのは店を営む兄弟とその家族。男たちの物語であり、女たちの物語であり、親と子の物語であり、家族の物語である。

 牛鍋は文明開化の象徴、明治の近代化の象徴的食物であったが、その牛鍋を支えた牛肉は、前近代的差別の存続する中(むしろ、近代における新たな差別、と言うべきかも知れない)を生きることを強いられた人々によって供給されていたことを忘れてはならないということを痛感させられる物語でもあった。牛は肉となるだけではなく皮も残し、太鼓に張られ、祭りの芸能を支えることになるが、それを支えるのも被差別者としての彼らであった(実際、兄弟の一人は太鼓づくりにも挑戦する)。

 

 私たちが美味しく肉を食べていられる日常を支える人々の日常の物語であり、食べられる牛の物語であり、牛を食べられる事実を支えるすべてについての物語であり、そのように生きていることの事実を描いた映像作品である。

 絶妙のカメラワークがドキュメンタリーを支え、纐纈あや監督の北出精肉店の家族への惚れ込み具合は、スクリーンの前の私たちにも伝染する。

 カメラによって捉えられた肉の美しさ! このような肉そのものの美しさを私は知らなかったようにも思う。その美しさは「神々しさ」と言い換えてもよいかも知れない。食欲をそそる対象である以前に、それ自体が美しいのである。

 その神々しいばかりの美しさを現前させる北出精肉店の人々の姿には、画面に見入る誰もが惚れ込まざるを得ないだろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/12/08 21:37 → http://www.freeml.com/bl/316274/211160/

 

 

 

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