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2013年10月 9日 (水)

検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁

 

 昭和19年7月31日付の小暮泰用による「復命書」の提出先であった内務省管理局長竹内徳治に関するネット検索結果の続きである。

 

 

 竹内徳治の結婚相手は、あの「味の素」(当時鈴木商店)の二代目社長(初代社長の弟)であった鈴木忠治の長女千栄子と判明。

 検索で見つかったのは、鈴木忠治の子供たちに関する、

 

長男三千代東京商大卒(現一橋大学)元三楽オーシャン会長
次男松雄東大工学部卒、元東工大教授、多摩電気社長、相談役
三男竹雄東大法学部卒、元東大教授、元法学部長、商法の権威
四男義雄東大法学部卒、商工省鉱山局課長、軍需省軽金属課長
           貿易庁輸出局課長、通産省重工業局長
           日本輸出入銀行理事、元日揮社長
五男治雄東大法学部卒、野村証券、元昭和電工社長、会長
六男正雄東大卒学部不明、元三菱重工副社長、元三菱自販社長
七男秀雄東大法学部卒、大蔵省、在NY領事、財務調査官、
           国際金融局長、世界銀行IMF理事、
           大蔵省顧問、野村證券顧問を歴任
八男泰男東大経済学部卒、次男と多摩電気工業を設立、社長を歴任
長女千栄子は竹内徳治と結婚、竹内は内務省管理局長、香川県知事を歴任
http://taizo3.net/hietaro/2010/04/post-274.php

 

…という情報。大日本帝國を支えた錚々たるエリート家族の姿を見る思いがするが、若き日の竹内徳治には、理想に燃えたエスペランティストとしての側面もあったようである(もっとも、現時点では、以下の記述に登場する竹内徳治が、後の内務省管理局長と同名の別人である可能性も残されているが)。
 (その後、執筆者である東北大学の後藤斉氏からメールをいただき、同一人物であることが判明した:追記を参照)

 

 また、1921年東北宣伝隊に加わり(ほかに東大生の川原次吉郎、竹内徳治、堀真道、長谷川理衛、東京商大生の進藤静太郎)、武藤於菟(むとうおと. 1876~1942)が受け入れた仙台では、7月21日に二高を会場として「普及大講演会」を行った。翌1922年にも、5月28日、フィンランド公使ラムステット(1873~1959)、小坂狷二(おさかけんじ. 1888~1969. のち日本エスペラント学会会長)、何盛三(がもりぞう. 1884~1948))らとともに講師になって、東北大エスペラント会の主催により二高講堂で「大講演会」を行っている。
      (東北人井上万寿蔵)
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/historio/masuzoo.html

 

 

 竹内徳治の香川県知事就任は、まだ戦後間もない知事官選時代のことで、

 

1946 (昭和21年)
 1・25 知事田中省吾が依願免官となり,代って東北興業株式会社副総裁の竹内徳治が第36代知事に任官(歴代香川県知事調)
 6・8 知事竹内徳治が依願免官し,代って警視庁警務部長増原恵吉が第37代知事に任官(歴代香川県知事調)
『香川県史 別編Ⅱ』
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-22.html

 

…という経緯であった。『香川県史』により、香川県知事就任までは、竹内が東北興業株式会社副総裁の地位にあったことも判明。

 

 

 また、内務省管理局長就任までの経歴についても、

 

企画院人第一〇〇一号 昭和十六年八月二十三日 企画院総裁鈴木貞一 内閣総理大臣公爵近衞文麿殿 企画院部長竹内徳治儀本月二十日拓務省殖産局長ニ任ゼラレ候処同人ハ去ル昭和九年十二月対満事務局事務官ニ任ゼラレ、同十五年七月ニハ本院部長ニ任ゼラレ転任迄勤続六年九ケ月ニ及ブ此ノ間事務格別勉励ニ付此ノ際特ニ左記頭書ノ金額ヲ賞賜相成度此段及上申候 記 金千百円 元企画院部長竹内徳治
(アジア歴史資料センタ― A04018595600)

 

…という検索の成果で、

 

 昭和9年12月 対満事務局事務官
 昭和15年7月 企画院部長
 昭和16年8月 拓務省殖産局長
 昭和17年11月 内務省管理局長(→大阪朝日新聞 1942.11.2記事 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105829&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

…との流れまでがつかめた。

 

 

 対満事務局事務官就任の昭和9年には、竹内徳治の自宅も完成している。

 ネット検索の結果、竹内の自宅は義父の味の素社長鈴木忠治邸の敷地内に建設されたもの(設計図面では「鈴木忠治邸第2号舎」と呼ばれる)であり、鈴木忠治邸の築造と同時に、しかも鈴木忠治の三男の竹雄邸(設計図面では「鈴木忠治邸第1号舎」と呼ばれる)と共に設計施工された(昭和7年から昭和9年にかけての図面が残されている)ことが、東京都立中央図書館の「木子文庫」資料(解説には、「代々内裏の作事に関わる大工であった木子家伝来の建築関係資料です。1975年に木子清忠氏(1913-1995)から寄贈されました。明治宮殿及び明治期洋風建築の図面類が最も多く、江戸中期以降の近畿地方の寺社、御所等の建築図面、工匠他家の資料も含まれています」とある)から明らかになった。
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/930/Default.aspx
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/931/Default.aspx

 

 「木子文庫」資料の図面には「三番町鈴木邸詳細」といったタイトルが付されているが、現在の千代田区三番町には(少なくとも)鈴木忠治邸として築造された洋館は現存し、駐日ローマ法王庁大使館として使用されているようである。

 建築愛好家のサイトに掲載されている現状写真も見ることが出来る。

 

◆旧鈴木忠治邸(現・駐日ローマ法王庁) 
  ◎設計:木子幸三郎
  ◎竣工:昭和9(1934)年
  ◎所在地:東京都千代田区三番町9
現在ローマ法王庁として使われているこの建物、もとは味の素の創業者の一人・鈴木忠治の邸宅として建てられた。この写真は正門から撮影したものだが、法王庁の敷地はかなり広く他にもこの当時建てられた施設が多くあると思われる。
http://fkaidofudo.exblog.jp/7218933/

 

 この敷地内の一角に、後に内務省管理局長、香川県知事となる竹内徳治も暮らしていたわけである。

 

 

 

〔追記〕
 後藤氏からのメールによれば、柴田巌・後藤斉編、峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房 2013)の「竹内徳治」の項の記述は以下のようになっているという。

 竹内徳治/たけうち とくじ/1899.11.1~1991.5.10/群馬/前橋中(1917),一高(1920),東大(1923)/味の素社長鈴木忠治(1875~1950)の娘婿。鈴木松雄の義弟。大蔵省主計局をへて,対満事務局事務官,内務省管理局長など。その間の24年英国赴任。戦後,46年1~6月官選の香川県知事。のち日本長期信用銀行監査役,多摩電気工業取締役など。井上万寿蔵,長谷川理衛と一高独法科の同期。20年5月日本エスペラント学会に入り,21年委員。21年井上,長谷川,川原次吉郎,堀真道らと東北信州E宣伝隊に参加し,信濃尻学生キャンプで舟橋諄一とエスペラント講習。/[著]『満支貿易の現状並に将来』(日満実業協会, 1935)。/[参]『日本エスペラント運動史料 Ⅰ』。/[協]香川県立図書館。

 これもまたネットの力ということになるだろうか? 私には未知の方がブログ記事に目をとめ、メールという形で情報を提供して下さったのである。
 後藤氏には、あらためて御礼を申し上げると共に、昨年の10月にメールをいただいていたのにもかかわらず、記事に反映させるまでに時間を要してしまったことを、まず、お詫びしなければならない。

 この『日本エスペラント運動人名事典』の簡潔な記載内容は、同時にネットの限界をも明らかにしているようにも思われる。当ブログ記事本文執筆時のネット検索で明らかにすることが出来なかったのが、竹内徳治の生没年であった。そのような基本情報が、ネット上には存在しなかったのである(補注参照)。

 一方で、ネット検索で見つけた塚崎昌之氏による「アジア太平洋戦争下の大阪府協和会・興生会の活動と朝鮮人」(『東アジア研究』 第54号 大阪経済法科大学 2010 19-46ページ http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia/bulletin/pdf/asia_54.pdf)には、昭和19(1944)年12月に閣議決定された「朝鮮及台湾同胞ニ対スル処遇改善ニ関スル件」に先立つ時期に、内務省管理局長として、大阪の朝鮮人組織の代表による処遇改善要望の窓口となっていた竹内徳治の姿が見出される。小暮泰用による「復命書」と同年の竹内は、朝鮮人の処遇改善という政策課題を遂行する立場にあったことになる。竹内に対し、朝鮮人組織の代表者は、かなり直載に問題を指摘し、要望を伝えているように見える。
 小暮泰用の「復命書」の内容といい、在日朝鮮人組織代表との関係のあり方といい、そこに若き日のエスぺランティストとしての(理想主義者としての)竹内徳治の面影を見出すことが出来るのかも知れない。
 もっとも、アイヒマンとユダヤ人組織代表の関係にもまた、そのような側面があったことを、私などは思い出してしまう。アイヒマンもユダヤ人組織代表を丁重に扱っていたのである。有能な行政官の類型の問題として、両者を考えることも視野に入れておく必要はあるだろう。しかし、もちろん、竹内徳治がアイヒマンと同様であったという話ではない。何らかの結論を得られる段階にはないのである。
 現在のところは、かつてのエスぺランティスト(理想主義者)としての竹内徳治という構図を再確認することで満足しておくべきであろう。
     (2014年1月3日記)

 

 

【補注:2014年1月28日記】
 その後、後藤氏からあらためて、

 なお、現在ではwikipediaに竹内徳治の項目ができています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%BE%B3%E6%B2%BB
 履歴によれば、 この項は2013年11月27日に作られたとのこと。
 参考文献も挙げられています。ただし、官僚としての経歴が主で、
 味の素社長鈴木忠治の娘婿やエスペランティストとしての側面については
 記述がないようです。

…とのメールをいただいた。これで、竹内徳治の「生没年」については、ネット上でもアクセス可能な情報のひとつとなったわけである。
 ちなみに、『ウィキペディア』の「竹内徳治」の項の記載内容は以下の通り(2014年1月10日閲覧―同年1月28日に再確認したが変化はなし)。

竹内徳治
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日[1] - 1991年(平成3年)5月10日[2])は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。
経歴
 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる[1]。第一高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる[1][3]。
 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める[1]。
 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。公職追放となった[1][3]。
 その後、三光汽船 (株) 監査役、同顧問、日本長期信用銀行監査役などを務めた[1][2]。
脚注
 1.^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』907頁。
 2.^ a b 『現代物故者事典 1991-1993』360頁。
 3.^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』237頁。
参考文献
 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
 『現代物故者事典 1991-1993』日外アソシエーツ、1994年。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/18 22:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/207778/

 

 

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