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2013年10月

2013年10月21日 (月)

兵站勤務ノ困難(資料篇)

 

 前回は、佐々木輜重兵大佐の『兵站勤務ノ研究』(偕行社 昭和7年)に「附録」として収録されている日清戦争時のエピソードに、

 

平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ其人足カ十月末頃沸々到著シタカ荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ

 

…との記述があることを紹介した(「 兵站勤務ノ困難(苦笑篇) 」)わけだが、今回は、その背景について確かめておきたい。

 

 

 

 八月二日の『読売新聞』は、以下のような記事を載せている。

  日本橋南茅場町に住みて有名なる侠客石定の乾児(こぶん)数百名は、何も生命は親分に預け置くと云ふ血気の盛んな連中計なるゆゑ、其中より五百名の壮健者を撰抜し、運送人夫として使用せられ度き旨、已に其筋へ出願せし由にて、許可あり次第、広島へ向け出発せしめんとて昨今専ら準備中。

 侠客石定こと高橋大吉は、七月に子分千人を率いて従軍を願い出たが容れられず、あらためて軍夫として従軍を願い出ている。義勇軍がだめなら、せめて軍夫としてでも従軍したいというのである。同日の『読売』は、同じく麹町の侠客、柴田喜太郎が子分五十人を率いて渡韓することになった、とも伝えている。ほかにも山梨県甲府では、侠客早川勘十、佐々木勘吉が、子分五百名を集めて従軍を志願している。
 このような従軍志願熱は、剣客や力士など「腕に覚えのある」男たちのあいだにも広まっていく。従軍志願はたんに政治的な運動というだけでなく、「男らしさ」の表現でもあった。七月三十日の『読売』は、青森県を巡業中の高砂浦五郎や西ノ海、小錦、朝汐といった力士たちが従軍を志願していて、準備に余念がないと伝えている。
 相次いだ従軍志願には、愛国心からというだけでなく、軍人や軍夫になって一旗挙げたいという目論見もあったようだ。七月二十二日『郵便報知』は、人力車夫たちが「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込み、日々の仕事にも手が附かざる有様ゆゑ、各雇主はすこぶる迷惑しをる由」と伝えている。
     佐谷眞木人 『日清戦争 「国民」の誕生』 講談社現代新書 2009  147~148ページ

 

 

 日清戦争に際しては、ある種の国民の間で、「義勇軍」の結成と、「義勇軍」による戦争参加の動きが盛んであった。

 

  原田敬一は、新聞記事に見えるだけでも、五十二の事例があること、これらの参加者には旧士族の再結集がもっとも多く、国権派・民権派、侠客がそれに次ぐと指摘している(『日清戦争の社会史』)。
     同書  144ページ

  当然のことながら、義勇軍の戦争への参加を政府は認めなかった。にもかかわらず、各地で義勇軍の結成が相次いだため、政府は警察を通じてその動きを抑えようとした。しかし、沸騰する国民の熱意は、警察には抑えきれず、八月七日、政府はついに「義勇兵ニ関スル詔勅」を発した。
  詔勅は「各地ノ臣民義勇兵ヲ団結スルノ挙アルハ忠良愛国ノ至情ニ出ルコトヲ知ル」と述べる。しかし、続けて「国ニ常制アリ民ニ常業アリ」と諭す。つまり国には「常制」つまり正規軍、民には「常業」すなわち日々の仕事があるから、「義勇兵ノ如キハ現今其ノ必要ナキヲ認ム」というのである。この詔勅によって、ようやく義勇軍運動は下火となっていった。
  義勇軍運動に旧士族が熱心なのはともかくも、侠客が多数参加していることに興味が惹かれる。幕末の尊王攘夷運動にも侠客は大きな役割を果たしていた。侠客というと、ならず者のように思われがちだが、幕末維新期には在野の政治勢力という側面も有していたのである。そのような気風が、この時代までは残っていたのであろう。
     同書  146~147ページ

 

…という次第で、義勇軍による戦争への参加から、軍夫(つまり「軍」に使用される「運送人夫」)としての参加へとシフトしていったわけである。

 佐谷氏の伝える「剣客や力士など腕に覚えのある男たち」の「従軍熱」については、後の支那事変段階で生起した、「剣士」による捕虜の「試し斬り」にまでつながる問題と思われる。

 いずれにしても、軍の訓練を経ていない人間たちが、軍夫として「従軍」することに、日清戦争時の日本の戦争遂行は依存していたのである。

 

 

 

 さて、前回にも紹介した一ノ瀬俊也氏の『旅順と南京』の記述に戻ると、

 

 前述の通り、第一師団は野戦師団と兵站部に大別されるが、その野戦師団の総員は二万八六人、そのうち軍夫が三七六八人、兵站部は総員四八〇四人、うち軍夫は四二五六人であった。つまり、第一師団の総員二万四八九〇人中、八〇二四人が「国際法上の戦闘員としての資格の疑わしい」(大谷正「「文明戦争」と軍夫」1994)軍夫であった。馬は馬は乗馬・輓馬・駄馬の動員計画が五三八三頭だったのが、実際の動員数は二五四四頭であった。減らされた約二七〇〇頭の駄馬を徒歩車輛(大八車)一四〇五台で補い、それを軍夫が引いたのである。
 軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった。熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇うほうが安上がりという意見を上申した師団もあった。かくして八月下旬以降各師団は大量の「人夫」雇用を開始した。結局日清戦争を通じて内地から雇用した軍夫は一五万三九七四人、清国・台湾にて現地雇用した人員は実に延べ一二一一万人余にのぼった。日本人軍夫は形式的には読法式(軍の規範である「読法」を朗読させる宣誓式)を済ませていちおう軍属の資格を備え、陸軍刑法の管轄に属した(大谷正「旅順虐殺事件再考」1995、原田敬一「軍夫の日清戦争」1997)
     一ノ瀬俊也 『旅順と南京』 文春新書 2007  45~46ページ

 

 

 経緯としては、「軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった」(『兵站勤務ノ研究』に「平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ」として経緯が記述されている問題である)結果として、「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込」むような男たちが「軍夫」として雇用されることになったわけである。そして、軍は、

 

  東京出発直前まで、丸木の属する第一師団第二糧食縦列では「不品行なる人夫」が続々と解雇される有様であった。『縦列陣中日子』によると九月一九日四名、二一日六名、二二日二名、二三日一名、二十四日八名、二五・六日四名がその理由で解雇され、「直ちに補充」されている。
     一ノ瀬 同書  46ページ

 

…と、「不品行なる軍夫」の問題を抱え込むこととなった。

 しかし、その「不品行なる軍夫」への軍の待遇自体もまた不十分なものであった。

 

  先にふれたように、軍夫ばかりが凍死しているのは、兵士と異なり十分な防寒装備が与えられなかったためである。当初は前述のように「寒さを凌ぐためチャンの明家に行き衣類を持来り着て居るのを見られ罰を食う」(一〇月二八日)者があったが、死者が続出する有り様に、本来「文明の義戦」の建前を堅持すべき上官も黙認せざるをえなかったのであろうか。
     同書  118~119ページ

  丸木日記には「とびら打こわし焚物にした」とあるが、一月一九日、金州で出された第一師団会報(『連隊歴史』所収)にも「報告によれば、家屋の戸扉を脱し持ち去る者あり、甚しきは昨夜軍法会議の戸扉を脱し持ち去る、右は物を弁えざる者の所為と思わる、是等も一層取締をなし不都合なき様にすべし」とある。軍法会議の扉までも持ち去るほど、兵士・軍夫たちは寒さに苦しめられていた。
     同書  137ページ

 

 つまり、十分な防寒装備の支給がないために、軍夫による「不品行」な略奪行為も発生してしまうのである(軍夫への冬服の支給はやっと12月2日になってのことであった)。 

 

 軍夫は戦争の遂行に不可欠な存在でありながら、正規軍の兵士ではなかった。

 

 一ノ瀬氏は、以下のように記している。

 

 

 例えば、原田敬一がいうように、日清戦争における軍夫の戦死者数が公式に集計され顕彰されることはなかった。だから丸木は自らそれを日記の末尾に書き付けた。

  日清戦役日本軍死亡者は、有栖川宮殿下及北白川宮殿下始め、その数実に一万五四七人の多きに達し、もしこれに軍夫を加うれバ、その数また数千人まさん、この死亡者を区別すれば
  〇戦死一一二五人〇傷死二九一人〇病死八九九七人
  〇死亡者一〇七人 〇生死不明二七人
     〇総計一万五四七人
  右の内死亡者多きは第二師団也、威海衛その外遼東半島を守備して後ち台湾へ赴き、日数多き故なり、第五師団第三師〔団〕に戦死者多きは、遼東〔半島〕にて寒気烈しきに奮戦せる故なり、右に書きしはその当時二年間も毎日官報に出たるヲうつす

 原田は丸木のこの一文について、「物資輸送の根幹を担った軍夫が、戦後忘れ去られた状況への異議申し立てであろう」という(原田敬一『シリーズ日本近現代史③日清・日露戦争』岩波新書2007)が、筆者も同感である。
 ただ、やはり軍夫たちのことは急速に世間から忘れられていった。一〇年後の日露戦争では軍夫という制度にかわり、大量の「補助輸卒」が動員された。賃金を支払う必要のない徴兵の一部として、本来あまり兵役に向かない人たちを補充招集し、日清戦争時の軍夫と同一の仕事をさせたのである。今日でも日本軍の補給軽視について語られるさい、「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ歌が持ち出されることがあるが、その輜重輸卒よりさらに下の身分である。第三師団第五補助輸卒隊第一〇分隊所属の補助輸卒だった西村真次なる人物は著書『血汗』(精華書院、一九〇七年)において、自己の日露戦争従軍体験を記している。
 彼らはほとんど訓練も受けず、銃剣一本すら持たされないまま(そのため彼らを「無帯剣輸卒」と称したという)戦場に送られ、「徒歩車輛」を引いて中国人から「噯呀(アイヤア)、日本苦力(イイベンクリイ)」と言われるほどの辛い物資輸送にあたった。大工、左官から役場の書記、銀行員まで「有らゆる階級の人が集まって」いたあたりも、丸木たち軍夫とそっくりである。西村は『血汗』のなかで、なぜ自分たちが補助輸卒として戦場に行く羽目になったのかについて、次のように書いている。

  由来、二十七八年戦役〔日清戦争〕までは、補助輸卒と云うものはなかったので有るが、同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかったので、「これでは成らぬ」と当局者は早速名案を案出した。その名案の祭壇に捧げられた犠牲こそは、即ちこの補助輸卒であったのだ。

 かつて同じ中国の地で同じ仕事をしていた(『血汗』には、かつて丸木らが荷物を運んだ普蘭店などの地名が出てくる)はずの軍夫たちに対する共感の念はまったくない。丸木が同時代人として、もしこの件を読んでいたら、激怒しただろうか、それとも苦笑したであろうか?
     同書  211~213ページ

 

 

 

 西村真次の記す「同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかった」との評価は、『兵站勤務ノ研究』にある「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ」との評価に確実に照応するものである。

 これを、日露戦争時の補助輸卒が軍組織の最底辺で酷使された自身の経験を振り返るに際し、日清戦争時の「軍夫」と比較することで、自らのプライドを維持しようとしたものとして読むことも可能であろう。しかし、軍組織の最底辺で酷使された状況に違いはない。

 とは言え、一ノ瀬氏の言葉を繰り返せば「今日でも日本軍の補給軽視について語られるさい、「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ歌が持ち出されることがあるが、その輜重輸卒よりさらに下の身分である」ということなのであり、その補助輸卒より「さらに下の身分」の存在として、「軍夫」が位置付けられていることになる。そもそもが「熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇うほうが安上がりという意見を上申した師団もあった」という程度の認識だったのである。

 

 『兵站勤務ノ研究』では、日本人軍夫は朝鮮人軍夫の能力との比較において非難され、『血汗』においては、日清戦争時の日本人軍夫は日露戦争時の補助輸卒との比較において蔑まれているのである。

 しかし、そこには確かに、近代の入り口の日本を生き抜こうとする庶民の情けなくもたくましい姿が見出されもするはずである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/18 20:11 → http://www.freeml.com/bl/316274/208900/

 

 

 

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2013年10月20日 (日)

兵站勤務ノ困難(苦笑篇)

 

 前回の記事(「 兵站勤務ノ困難(笑) 」)で紹介した偕行社刊行の『兵站勤務ノ研究』(昭和7年)の「附録」として収録されている日清戦争時のエピソードの続きである。

 

 

 「幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ」兵站司令官の話の前に触れられているのが、

 

兵站監ハ鹽屋方圀少将テアツタカ、大任セノ人ニテ餘リ仕事ハシナイ人テアル丈ケ、自分ノ役目カ忙シイ、當時兵站司令官ニハ豪傑カ多イノミナラス、相手カ朝鮮人ノコトテアルカラ、迚モ遣リ切レタモノテハ無イ、嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル米ヲ運ハスレハ弱虫ニテモ三俵負ヒタカル、ソシテ途中叺ヲ破リバラバラ米ヲ零シ目的ノ兵站部ニ到著スル頃ニハ中身ハ二俵シカナイ、夫レモ一俵一里十銭ト定ツテ居ルカラ三俵ノ代価ハ払ハネハナラヌ(後略)

韓人夫ハ銀貨ヲ盗ム妙ヲ得テ居ル當時ハ銀貨二千圓入ノ箱テ、一箱毎ニ一人ノ監視ヲ附ケレハ論ハ無イカ、兵站司令部の兵卒カ極メテ小数テアルカラ韓人夫二名ニ一監視兵ヲ附ケルコトニナツタ、所カ内一名ハ腹痛ト號シ後レ勝チニナリ他ノ一名ハ委細構ハスズンズン急キ出ス監視兵ハ中間ヲ歩イテ一方ヲ止メ一方ヲ急カスカ言語不通テハアリ命令中々徹底シナイ、其内先頭ノ者カ駆ケ出スカラ之ヲ捕ヘ様ト追ヒカケ顧ミテ後方ヲ見ルト腹痛ハ頓ニ直リ後方ニ向ツテ駆ケ出シ前狼モ後虎モ夫ヒシコト五六囘モアツタ、中ニハ責任觀念上監視兵テ自殺シタ者マテアツタ
     佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年  144~145ページ (「兵站参考第二十二 日清戦争ニ於ケル第一軍ノ兵站」から「兵站勤務ノ困難」の項より)

 

…との「兵站勤務ノ困難」である。

 「兵站勤務」の中心には、戦地における戦闘部隊への補給の問題があるわけだが、日清戦争時には軍の組織としては十分なものではなく(もっとも、大東亜戦争時に至っても不十分なままではあったわけだが)、軍による訓練を経ていない大量の人夫(軍夫)に依存するものであった。

 

 その間の事情を、一ノ瀬俊也氏の『旅順と南京 日中五十年戦争の起源』(文春新書 2007)により確認しておくと、

 

 この第一師団は野戦師団と兵站部に大別される(内地の守備隊などを除く)が、野戦師団の員数は兵科(軍人)一万五五五九人・衛生部等四五二七人(うち軍夫三七六八人)挽馬(荷車を引く馬)三八四頭、徒歩車輛(大八車)一四〇五台、一方の兵站部の人員数は兵科三七〇人・衛生部等四四三四人(うち軍夫四二五六人)、駄馬一一頭、徒歩車輛一二一六台、つまり野戦師団、兵站部とも軍夫が多数含まれており、「彼らがいなければ動かない構造となっていた」(原田二〇〇七、前記の数字は『明治二十七八年戦役統計』上巻〈1〉「動員人馬総員」による)のである。
     同書 28ページ

 

…ということになる。

 先に引用した「兵站勤務ノ困難」に描かれているのは、「彼らがいなければ動かない構造になっていた」戦地の日本軍が実際に軍夫として採用した(つまり現地調達した)朝鮮人の人夫が、「相手カ朝鮮人ノコトテアルカラ、迚モ遣リ切レタモノテハ無イ、嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」ような連中であったことがもたらす「困難」だということである。

 

 

 この話は、いかにもネトウヨ諸氏を喜ばせそうなものであるが、しかし、「兵站勤務ノ困難」の実際は、引用したエピソードを読んで喜んでいられるようなものではない。

 

 「嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」ような現地調達の朝鮮人を軍夫とすることのもたらす困難を克服するための措置は、より大きな困難を日本軍にもたらす結果となるだけであった。

 

 

平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ其人足カ十月末頃沸々到著シタカ荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ、然ラハ後送センカ、傷病兵スラ還スノニ困ツテ居ル時分故ソレモ出来ス萬策窮シタ末、大東溝ノ横田兵站司令官カラ日本人夫ノ亂暴狼藉ナル始末ヲ略説シタル末今日ニ於テハ何トモ仕方ナイカラ不良分子ハ悉ク撲殺致シタケレハ其ノ承認ヲ請フトノ親展電報カ来タ、予ノ之ニ對スル返電ハ極メテ簡單テアツタ、「人夫モ陛下ノ赤子ナリ宜シク愛護スヘシ」ト
 親展ノ内容、前略日本人夫程困却致シ候モノハ無之糧食ノ少キ方面ニ此米喰虫ヲ送ラルルコトハ養育院ナラハ格別此米穀ノ貴重ナル場合斷シテ不可ナリ日本人夫ノ力ヲ補フニ地方力ヲ以テスヘシトハ貴部ノ常套語ナレトモ日本人夫千人ハ牛車二十輌ニ相當ス、此簡便有力ナル牛車ヲ止メテ困難千萬ナル日本人夫千人ヲ使用セントスル議ニハ何レノ兵站司令官モ皆不同意ナリ〇屋組人夫ノ如キハ凡テ乞食同様ノ姿ニシテ國辱此上ナシ〇〇司令官ノ如キハ之ヲ悉ク切リ捨テント申居候少シハ當方ノ苦境モ御推察可被下候云々
  二十七年十二月二十六日
     『兵站勤務ノ研究』  146~147ページ 「人夫モ亦陛下ノ赤子ナリ」の項

 

 

 ここには、「第一軍ノ給養事務カ絶對不安」に直面した軍が、「日本人足一萬人」の調達により「絶對不安」の解消を図ったにもかかわらず、到着した「日本人足」の実状が「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カ」という、まことにもってどうしようもないものであり、「今日ニ於テハ何トモ仕方ナイカラ不良分子ハ悉ク撲殺致」すことを兵站司令官自身が提案するような事態にまで発展してしまった(「嘘ヲ突クコト、盗ムコトハ人間ノ道徳ナリト心得居ル」朝鮮人に交代させるべき日本人が「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ」と評すしかなかった)という、ネトウヨ諸氏が死んじゃいたくなるような「兵站勤務ノ困難」が記録されているのである(ただし、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/17 21:08 → http://www.freeml.com/bl/316274/208844/

 

 

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2013年10月19日 (土)

兵站勤務ノ困難(笑)

 

 以前に古書店で購入した『兵站勤務ノ研究』(偕行社 昭和7年)を拾い読みしていて大笑い、というのは思いもかけない展開であったが、これもまた読書の楽しみであろうか。

 

 表紙には表題の他に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と印刷されており、著者名は扉ページに佐々木輜重兵大佐とのみ記されている。内容的には、帝國陸軍将校による帝國陸軍将校向けの「兵站勤務」の参考書的な一冊であり、全編文語体カタカナ表記の実にお堅いとしか言いようのない一冊である。

 構成としては、本編が、

  想定
  第一 兵站設定要領
  第二 兵站線
  第三 軍ノ後方ニ何本ノ兵站線ヲ要スルヤ
   其一 給養兵額ノ算定
   其二 所要輸送力ノ算定
   其三 運行表ノ調整
   其四 軍ノ前進ニ伴フ運行表
  …

…という感じで、実際の作戦を想定したシミュレーション。それが本書の前半(~68ページ)を構成し、後半に「附録」(兵站参考)として、日清・日露戦争時の実際の事例が多数収録されている(~147ページ)。

 

 

佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年

 (『兵站勤務ノ研究』 表紙)

 

  佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年 奥付

   (『兵站勤務ノ研究』 奥付)

 

    佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年 扉

     (『兵站勤務ノ研究』 扉頁)

 

 

 その文語体カタカナ表記のお堅い一冊に、以下のような日清戦争時のエピソードが記されていたのだ。

 

 

其兵站司令官ハ幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ偶々小黒山ニ兵站司令部ヲ移ス爲ニ途中義州ノ兵站監部ニ立寄ラレタ、予ハ午餐ヲ饗シ其席上ニ於テ兵站勤務ノ爲ニ餘計ニ電報ヲ用ユルトキハ作戰上ノ通信ヲ遅カラシムル大害アルカラ、貴官ニ毎度御注意シタル如ク電文ハ極メテ簡單ニセラレタシトシテ態々依頼シタ然ルニ其夜九時過同官カラ電報ガ来タ副官ガ怒リ乍ラ之ヲ讀ムノヲ聞クト「小官義兵站部員(人五人、馬一頭、人夫六人)ヲ率ヒ本日午後五時四十二分當小黒山ヘ安著致候間此段御届申上候」ト云フ馬鹿氣タ電報テアルカラ「本日アレ程八釜敷云フタニ何故コンナ冗長ナ電信ヲ掛ケルカ」ト僕ノ名前テ直ク電報シ給ヘト白井二郎副官ニ吩附ケタ、翌日ニナツタラ過クト電信カ届イタ、「昨日参謀長殿ヨリ長文ノ電報ヲ掛ケルコトニ關シ懇々御説明アリシニ拘ラス電文長キニ失シ候段重々恐レ入リ候也」モー打遣ツテ置ケ迚モ駄目タカラトテ爾後何モ云ハナカツタ、兵站司令官ノ取扱難キコト概ネ此類テアツタ
     佐々木輜重兵大佐 『兵站勤務ノ研究』 偕行社 昭和7年  146ページ  「兵站参考第二十二 日清戦争ニ於ケル第一軍ノ兵站」から「兵站勤務ノ困難」の項の一部

 

 

 

 まぁ、現代を生きる我々も、この手の上司・同僚・部下・取引先には恵まれており、まったくもって他人事ではないのである。

 もっとも、あくまでも、「日清戦争ニ於ケル第一軍」の某兵站司令官の「幾ラ言フテモ長イ電報ヲ打ツ癖カ止マナカツタ」件に関しては、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」の話ではあるのだが…

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/10/16 21:50 → http://www.freeml.com/bl/316274/208803/

 

 

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2013年10月 9日 (水)

検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁

 

 昭和19年7月31日付の小暮泰用による「復命書」の提出先であった内務省管理局長竹内徳治に関するネット検索結果の続きである。

 

 

 竹内徳治の結婚相手は、あの「味の素」(当時鈴木商店)の二代目社長(初代社長の弟)であった鈴木忠治の長女千栄子と判明。

 検索で見つかったのは、鈴木忠治の子供たちに関する、

 

長男三千代東京商大卒(現一橋大学)元三楽オーシャン会長
次男松雄東大工学部卒、元東工大教授、多摩電気社長、相談役
三男竹雄東大法学部卒、元東大教授、元法学部長、商法の権威
四男義雄東大法学部卒、商工省鉱山局課長、軍需省軽金属課長
           貿易庁輸出局課長、通産省重工業局長
           日本輸出入銀行理事、元日揮社長
五男治雄東大法学部卒、野村証券、元昭和電工社長、会長
六男正雄東大卒学部不明、元三菱重工副社長、元三菱自販社長
七男秀雄東大法学部卒、大蔵省、在NY領事、財務調査官、
           国際金融局長、世界銀行IMF理事、
           大蔵省顧問、野村證券顧問を歴任
八男泰男東大経済学部卒、次男と多摩電気工業を設立、社長を歴任
長女千栄子は竹内徳治と結婚、竹内は内務省管理局長、香川県知事を歴任
http://taizo3.net/hietaro/2010/04/post-274.php

 

…という情報。大日本帝國を支えた錚々たるエリート家族の姿を見る思いがするが、若き日の竹内徳治には、理想に燃えたエスペランティストとしての側面もあったようである(もっとも、現時点では、以下の記述に登場する竹内徳治が、後の内務省管理局長と同名の別人である可能性も残されているが)。
 (その後、執筆者である東北大学の後藤斉氏からメールをいただき、同一人物であることが判明した:追記を参照)

 

 また、1921年東北宣伝隊に加わり(ほかに東大生の川原次吉郎、竹内徳治、堀真道、長谷川理衛、東京商大生の進藤静太郎)、武藤於菟(むとうおと. 1876~1942)が受け入れた仙台では、7月21日に二高を会場として「普及大講演会」を行った。翌1922年にも、5月28日、フィンランド公使ラムステット(1873~1959)、小坂狷二(おさかけんじ. 1888~1969. のち日本エスペラント学会会長)、何盛三(がもりぞう. 1884~1948))らとともに講師になって、東北大エスペラント会の主催により二高講堂で「大講演会」を行っている。
      (東北人井上万寿蔵)
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~gothit/historio/masuzoo.html

 

 

 竹内徳治の香川県知事就任は、まだ戦後間もない知事官選時代のことで、

 

1946 (昭和21年)
 1・25 知事田中省吾が依願免官となり,代って東北興業株式会社副総裁の竹内徳治が第36代知事に任官(歴代香川県知事調)
 6・8 知事竹内徳治が依願免官し,代って警視庁警務部長増原恵吉が第37代知事に任官(歴代香川県知事調)
『香川県史 別編Ⅱ』
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_2033-22.html

 

…という経緯であった。『香川県史』により、香川県知事就任までは、竹内が東北興業株式会社副総裁の地位にあったことも判明。

 

 

 また、内務省管理局長就任までの経歴についても、

 

企画院人第一〇〇一号 昭和十六年八月二十三日 企画院総裁鈴木貞一 内閣総理大臣公爵近衞文麿殿 企画院部長竹内徳治儀本月二十日拓務省殖産局長ニ任ゼラレ候処同人ハ去ル昭和九年十二月対満事務局事務官ニ任ゼラレ、同十五年七月ニハ本院部長ニ任ゼラレ転任迄勤続六年九ケ月ニ及ブ此ノ間事務格別勉励ニ付此ノ際特ニ左記頭書ノ金額ヲ賞賜相成度此段及上申候 記 金千百円 元企画院部長竹内徳治
(アジア歴史資料センタ― A04018595600)

 

…という検索の成果で、

 

 昭和9年12月 対満事務局事務官
 昭和15年7月 企画院部長
 昭和16年8月 拓務省殖産局長
 昭和17年11月 内務省管理局長(→大阪朝日新聞 1942.11.2記事 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105829&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

…との流れまでがつかめた。

 

 

 対満事務局事務官就任の昭和9年には、竹内徳治の自宅も完成している。

 ネット検索の結果、竹内の自宅は義父の味の素社長鈴木忠治邸の敷地内に建設されたもの(設計図面では「鈴木忠治邸第2号舎」と呼ばれる)であり、鈴木忠治邸の築造と同時に、しかも鈴木忠治の三男の竹雄邸(設計図面では「鈴木忠治邸第1号舎」と呼ばれる)と共に設計施工された(昭和7年から昭和9年にかけての図面が残されている)ことが、東京都立中央図書館の「木子文庫」資料(解説には、「代々内裏の作事に関わる大工であった木子家伝来の建築関係資料です。1975年に木子清忠氏(1913-1995)から寄贈されました。明治宮殿及び明治期洋風建築の図面類が最も多く、江戸中期以降の近畿地方の寺社、御所等の建築図面、工匠他家の資料も含まれています」とある)から明らかになった。
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/930/Default.aspx
http://www.library.metro.tokyo.jp/edo_tokyo/tokubun_guide/kigo_html/tabid/931/Default.aspx

 

 「木子文庫」資料の図面には「三番町鈴木邸詳細」といったタイトルが付されているが、現在の千代田区三番町には(少なくとも)鈴木忠治邸として築造された洋館は現存し、駐日ローマ法王庁大使館として使用されているようである。

 建築愛好家のサイトに掲載されている現状写真も見ることが出来る。

 

◆旧鈴木忠治邸(現・駐日ローマ法王庁) 
  ◎設計:木子幸三郎
  ◎竣工:昭和9(1934)年
  ◎所在地:東京都千代田区三番町9
現在ローマ法王庁として使われているこの建物、もとは味の素の創業者の一人・鈴木忠治の邸宅として建てられた。この写真は正門から撮影したものだが、法王庁の敷地はかなり広く他にもこの当時建てられた施設が多くあると思われる。
http://fkaidofudo.exblog.jp/7218933/

 

 この敷地内の一角に、後に内務省管理局長、香川県知事となる竹内徳治も暮らしていたわけである。

 

 

 

〔追記〕
 後藤氏からのメールによれば、柴田巌・後藤斉編、峰芳隆監修『日本エスペラント運動人名事典』(ひつじ書房 2013)の「竹内徳治」の項の記述は以下のようになっているという。

 竹内徳治/たけうち とくじ/1899.11.1~1991.5.10/群馬/前橋中(1917),一高(1920),東大(1923)/味の素社長鈴木忠治(1875~1950)の娘婿。鈴木松雄の義弟。大蔵省主計局をへて,対満事務局事務官,内務省管理局長など。その間の24年英国赴任。戦後,46年1~6月官選の香川県知事。のち日本長期信用銀行監査役,多摩電気工業取締役など。井上万寿蔵,長谷川理衛と一高独法科の同期。20年5月日本エスペラント学会に入り,21年委員。21年井上,長谷川,川原次吉郎,堀真道らと東北信州E宣伝隊に参加し,信濃尻学生キャンプで舟橋諄一とエスペラント講習。/[著]『満支貿易の現状並に将来』(日満実業協会, 1935)。/[参]『日本エスペラント運動史料 Ⅰ』。/[協]香川県立図書館。

 これもまたネットの力ということになるだろうか? 私には未知の方がブログ記事に目をとめ、メールという形で情報を提供して下さったのである。
 後藤氏には、あらためて御礼を申し上げると共に、昨年の10月にメールをいただいていたのにもかかわらず、記事に反映させるまでに時間を要してしまったことを、まず、お詫びしなければならない。

 この『日本エスペラント運動人名事典』の簡潔な記載内容は、同時にネットの限界をも明らかにしているようにも思われる。当ブログ記事本文執筆時のネット検索で明らかにすることが出来なかったのが、竹内徳治の生没年であった。そのような基本情報が、ネット上には存在しなかったのである(補注参照)。

 一方で、ネット検索で見つけた塚崎昌之氏による「アジア太平洋戦争下の大阪府協和会・興生会の活動と朝鮮人」(『東アジア研究』 第54号 大阪経済法科大学 2010 19-46ページ http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia/bulletin/pdf/asia_54.pdf)には、昭和19(1944)年12月に閣議決定された「朝鮮及台湾同胞ニ対スル処遇改善ニ関スル件」に先立つ時期に、内務省管理局長として、大阪の朝鮮人組織の代表による処遇改善要望の窓口となっていた竹内徳治の姿が見出される。小暮泰用による「復命書」と同年の竹内は、朝鮮人の処遇改善という政策課題を遂行する立場にあったことになる。竹内に対し、朝鮮人組織の代表者は、かなり直載に問題を指摘し、要望を伝えているように見える。
 小暮泰用の「復命書」の内容といい、在日朝鮮人組織代表との関係のあり方といい、そこに若き日のエスぺランティストとしての(理想主義者としての)竹内徳治の面影を見出すことが出来るのかも知れない。
 もっとも、アイヒマンとユダヤ人組織代表の関係にもまた、そのような側面があったことを、私などは思い出してしまう。アイヒマンもユダヤ人組織代表を丁重に扱っていたのである。有能な行政官の類型の問題として、両者を考えることも視野に入れておく必要はあるだろう。しかし、もちろん、竹内徳治がアイヒマンと同様であったという話ではない。何らかの結論を得られる段階にはないのである。
 現在のところは、かつてのエスぺランティスト(理想主義者)としての竹内徳治という構図を再確認することで満足しておくべきであろう。
     (2014年1月3日記)

 

 

【補注:2014年1月28日記】
 その後、後藤氏からあらためて、

 なお、現在ではwikipediaに竹内徳治の項目ができています。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%BE%B3%E6%B2%BB
 履歴によれば、 この項は2013年11月27日に作られたとのこと。
 参考文献も挙げられています。ただし、官僚としての経歴が主で、
 味の素社長鈴木忠治の娘婿やエスペランティストとしての側面については
 記述がないようです。

…とのメールをいただいた。これで、竹内徳治の「生没年」については、ネット上でもアクセス可能な情報のひとつとなったわけである。
 ちなみに、『ウィキペディア』の「竹内徳治」の項の記載内容は以下の通り(2014年1月10日閲覧―同年1月28日に再確認したが変化はなし)。

竹内徳治
竹内 徳治(たけうち とくじ、1899年(明治32年)11月1日[1] - 1991年(平成3年)5月10日[2])は、日本の大蔵官僚。官選香川県知事。
経歴
 群馬県前橋市出身。竹内清次郎の三男として生まれる[1]。第一高等学校を卒業。1922年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に入省し主計局属となる[1][3]。
 以後、財務書記(英仏駐在)、司税官、主計官を歴任。1935年、対満事務局経済課長に就任。さらに、企画院第五部長、拓務省殖産局長、内務省管理局長、東北興業副総裁を務める[1]。
 1946年1月、香川県知事に就任し四国地方行政事務局長官を兼務した。県下の治安維持に尽力。同年6月に知事を辞任。公職追放となった[1][3]。
 その後、三光汽船 (株) 監査役、同顧問、日本長期信用銀行監査役などを務めた[1][2]。
脚注
 1.^ a b c d e f 『新編日本の歴代知事』907頁。
 2.^ a b 『現代物故者事典 1991-1993』360頁。
 3.^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』237頁。
参考文献
 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
 『現代物故者事典 1991-1993』日外アソシエーツ、1994年。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/18 22:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/207778/

 

 

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2013年10月 8日 (火)

検索の道(3) 内務省管理局長竹内徳治

 

 昭和19年7月31日付の、小暮泰用による「復命書」の提出先の内務省管理局長の名が、竹内偲治ではなく竹内徳治であることまでは明確となった( 検索の道(2) 竹内偲治と竹内徳治(小暮泰用の上司の名は?) )。

 そして、当時、竹内が東洋拓殖株式会社の監理官の肩書も保有していたことも判明した。昭和10年には対満事務局事務官であったことからも、竹内が大日本帝國による植民地経営に深く関与した高級官僚と判断した。

 

 さて、そうなると、あらためて、内務省の管理局という部署について知っておく必要を感じる(そういう問題は、恥ずかしながら、私には未知の領域である)。

 で、ネット検索の道を進むと、水野直樹氏が内務省管理局について書いている文章に行き当たる。

 水野氏によれば、

 

 朝鮮や台湾に対する日本の植民地支配の歴史は、研究者のレベルだけでなく、強制連行や従軍慰安婦問題に見られるように社会的にも注目を集めるテーマとなっている。しかし、植民地に対する日本の政策や認識、支配の実態を明らかにするために必要な資料がすべて公開されているわけではない。むしろいまだに非公開のまま眠っている資料の方が多いかもしれない。
 その代表的な例が旧内務省文書である。内務省といえば、警察・土木・地方行政・社会衛生などを担当し、戦前日本の中央官庁の中で最も規模が大きかったが、1943年には「外地行政事務」をも管轄することになった。
 それ以前、植民地の事務を扱う中央官庁としては、1929年に設置された拓務省があった。ところがアジア太平洋戦争期に大東亜省が新設されると、拓務省は廃止され、朝鮮・台湾に関する事務は内務省が管轄することになり、内務省管理局が設けられた。「内政」の中心である内務省が「外地」=植民地の行政事務を扱うというのは、少し不思議な気がするが、大東亜省に朝鮮・台湾の事務を任せるわけにはいかないこと、当時は「外地の内地化」が目標とされていたこと(ただし「外地」という実態には変わりなかったが)から、内務省に植民地行政事務が移管されることになった。
 戦時期のごく短い期間であったが、植民地行政を扱う内務省にそれに関する文書が蓄積されたと考えられる。拓務省とそれ以前の植民地行政官庁の文書も引き継いだはずであるし、戦争末期の植民地に関する文書が内務省で作成されたり、送付されたりしたはずである。内務省文書というと、主に在日朝鮮人の民族運動・社会運動に関わる特高警察の資料を思い浮かべるが、植民地全般に関わる資料が含まれているのである。
 戦後内務省は解体されたが、「旧外地」に関わる事務は内務省管理局から外務省管理局に移管され、在外日本人の引揚げなどを担当した。このような経緯から、外務省は旧内務省管理局の文書を引き継いだ。それらは現在外交史料館にあり、一部が公開されている。「本邦内政関係雑件 植民地関係」と題された6冊のファイルが公開されているが、興味深い文書が数多く含まれている。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/naimusho.html

 

…ということなのであった。抜き書きすれば、

  内務省といえば、警察・土木・地方行政・社会衛生などを担当し、戦前日本の中央官庁の中で最も規模が大きかったが、1943年には「外地行政事務」をも管轄することになった。
  それ以前、植民地の事務を扱う中央官庁としては、1929年に設置された拓務省があった。ところがアジア太平洋戦争期に大東亜省が新設されると、拓務省は廃止され、朝鮮・台湾に関する事務は内務省が管轄することになり、内務省管理局が設けられた。

…との経緯が、問題の焦点として明らかになったわけだ。

 

 さて、更にネット検索の道を進むと、神戸大学の電子図書館に、以下のような昭和17年11月2日の『大阪朝日新聞』記事があった。

 

必勝の官界体制確立
 大東亜相に青木一男氏
     各省新陳容一斉に発令

政府は大東亜戦争勃発以来戦争完遂に必要な国内体制強化のためあらゆる部面において着々各般の施策を講じて来たが最後まで取残され国民から久しく要望されて来たところの官界新体制の確立、行政の刷新の懸案も一日行政簡素化、大東亜省設置並に内外地行政一元化勅令の公布施行によりここに結実を見るにいたり戦争必勝の行政機構が完成した、しかして一日午前十時宮中において大東亜大臣の親任式がとり行わせられ国務相青木一男氏が初代大臣に就任し征戦下大東亜建設に邁進すべき重大使命を担当することとなり、また同日大東亜省はじめ各省の新機構による陣容が一斉に発令せられた、かくて青木一男氏の大東亜大臣就任によって東条内閣の陣容はここに整備せられるとともに新機構の発足によって政府の陣頭指揮が強力に運営されることとなった、政府は刷新された新機構の上に立って直ちに対議会策に専念するとともに今後執拗に来るべき米英の反撃を撃砕しつつ長期建設戦を完遂するため当面喫緊の要務たる生産の増強、国民生活の安定確保その他戦争遂行上の重要施策の実行に挺身て行くことと期待される
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105829&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 

 東條内閣での大東亜省発足を伝える記事であるが、その続きに、各省の人事を伝えるものがあり、その中に竹内徳治の内務省管理局長任命記事もあった。

 

内務省
 拓務省殖産局長 竹内徳治
任内務省管理局長(二)
 内務書記官 金子辰太郎
命管理局経済課長
命管理局監理課長 同 橋爪恭一
命管理局理財課長 同 中尾荘兵衛
命管理局殖産課長 同 佐藤勝也
命管理局民政課長 同 荒木和成
(竹内徳治のみ写真付きで掲載されている)

 

 拓務省の殖産局長であった竹内徳治は、大東亜省の設置に伴う拓務省の廃止により、拓務省の管轄であった「朝鮮・台湾に関する事務」を内務省管理局の初代局長として取り仕切ることになったわけである。

 

 小暮泰用に朝鮮への出張調査を命じたのは、そのような人物なのであった。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/14 23:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/207625/

 

 

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2013年10月 7日 (月)

検索の道(2) 竹内偲治と竹内徳治(小暮泰用の上司の名は?)

 

 「朝鮮人強制連行問題の基本構図」の「註」を充実させておこうと思い、1944年の小倉泰用による「復命書」について、当初は、

 

【註:3】
小暮泰用による「復命書」 内務省 1944年7月31日
アジア歴史資料センター B02031286700

 

…と、史料へのアクセス先のみを記したものだったのを、最終的に、

 

 【註:3】
小暮泰用による「復命書」 内務省 1944年7月31日
アジア歴史資料センター B02031286700

参考のために、文書の冒頭部と目次を掲げておく。

   復命書
        嘱託 小暮泰用

依命小職最近ノ朝鮮民情動向竝邑面行政ノ状況調査ノ為朝鮮ヘ出張シタル處調査状況別紙添付ノ通ニ有之右及復命候也
     昭和十九年七月三十一日

   管理局長 竹内徳治

     目次
一、 戦時下朝鮮ニ於ケル民心ノ趨勢
     殊ニ知識階級ノ動向ニ関スル忌憚ナキ意見
二、 都市及農村ニ於ケル食糧事情
三、 今次在勤文官加俸令改正ノ官界並ニ民間ニ及シタル影響
四、 第一線行政の実状
     殊ニ府、邑、面ニ於ケル行政浸透ノ現状如何
五、 私立専門学校等整備ノ知識階級ニ及シタル影響
六、 内地移住労務者送出家庭ノ実情
七、 朝鮮内ニ於ケル労務規制ノ状況並ニ学校報国隊ノ活動状況如何
               以上

 小暮泰用は内務省の嘱託として、大日本帝國による朝鮮の植民地化、朝鮮人への皇民化政策を肯定していることが、文書の全体を読むことで理解出来る。「復命書」で植民地主義批判をしているわけではない。
 戦時期の朝鮮人の動向としては、基本的に日本への戦争協力姿勢を明確化しつつあるものとして、肯定的に評価している。ただし、植民地統治上、戦争遂行上の障害となる可能性のある問題のひとつとして、労務動員の実態を報告しているのである。
 「復命書」の提出先である竹内徳治は、昭和19年当時、内務省管理局長であると同時に、朝鮮の植民地化のための国策会社であった東洋拓殖株式会社の監理官の肩書も保有しており、大日本帝國の植民地経営に深く関与していた(対満事務局勤務の経歴もあり、昭和15年には企画院部長として叙勲(勲等進叙ノ儀)対象となり翌年には「満洲國皇帝陛下ヨリ肇國鴻業ニ關シ功勞アリタル廉ニ依リ御紋章附銀杯一組贈與相成候」ような)高級官僚である。

 

…という内容へと、大幅に加筆した。

 「文書の冒頭部と目次」に関しては、アジア歴史資料センターにアクセスし、「復命書」の画像から書き起こしたものだ(旧字体の漢字表記については不完全であるが)。

 その上で、文書全体の内容について、植民地主義批判を目的として書かれたものではなく、あくまでも大日本帝國内務省サイドの植民地統治者の視線により書かれたものであることを説明しておくことにした。

 さて、文書の冒頭の書き起こしに最初のハードルがあった。管理局長の名が判然としないのである。「竹内〇治」という状態。私は「徳」であると判断したが、あらためてネット上の関連記事を検索すると、竹内偲治となっているものと、竹内徳治となっているものがある。

 実際問題としては、画像を一見した限りでは、「徳」であるより「偲」に見えるのである。

 この文書は、水野直樹編『戦時期植民地統治資料』第7巻 (柏書房 1998)に収録されており、そこからの引用としてネットにアップされているものに「偲治」表記が採用されているようである。

 一方、外村大氏による論考では、「徳治」が採用されていた。

 

 で、あらためてアジア歴史資料センターにアクセスし、画像の名前の部分を拡大してみることにした。ところが、拡大しても、問題の一字だけが鮮明とは言い難い(それでも「偲」よりは「徳」らしく思えるようになったのだが)。

 

 で、次の策を考え、あらためてアジア歴史資料センターの検索機能を利用し、「竹内徳治」で文書の検索をかけてみた。

 すると多くの文書がヒットする。内容を確認すると、昭和10年代のもので、「対満事務局事務官」だの「企画院部長」だのの肩書のあるものが続き、問題の昭和19年のものに、確かに「内務省管理局長 竹内徳治」となっている複数の文書を発見。これで一件落着である。

 

 加えて、昭和19年のものに、内務省管理局長の肩書に加えて東洋拓殖株式会社監理官が併記されている文書(東洋拓殖株式会社の朝鮮半島の支店長人事に関するもの)まで見つかり、竹内徳治という人物の具体像も、当初に比べれば格段に明確になったわけである。

 で、小暮泰用も、そんな竹内の社会的位置付けを知った上で、竹内の命により朝鮮半島に出張し、「朝鮮民情動向竝邑面行政ノ状況」を調査し、竹内の意に添うべく「復命書」の文章を考えたに違いない。

 

 

 続きの記事(「検索の道(3) 内務省管理局長竹内徳治」及び「検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁」)でも明らかにしたように、ネット上には、実はこれだけの情報がアクセスされるを待っているのである。ネット情報を吟味することなく安易に「拡散」に励む人々にも、このような情報発掘の楽しさを一度は味わって欲しいとは思うのだが(無理な望み、望んでも無駄な話であろうか?)。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/13 21:49 → http://www.freeml.com/bl/316274/207590/

 

 

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