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2013年9月12日 (木)

朝鮮人強制連行問題の基本構図

 

 ネット上には様々な有益な情報が存在することは確かであるが、不正確な情報の氾濫もまた、ネット上の情報源をめぐる(望ましくない)現実と言わざるを得ない。

 今回は、戦時期日本の労務動員計画をめぐる「朝鮮人強制連行はなかった」との主張(朝鮮人強制連行否定論)の正確さ、あるいはその不正確さについて検証してみたい。

 

 

 

 まずは、「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」(記事資料 昭和34年7月11日/ 昭和35年2月外務省発表集第10号より抜粋―ネット上で流布された高市早苗議員の公式サイトに掲載されたものを典拠とし、数字、仮名遣いの表記については原文を尊重したものに戻した)を読む(註:1)。もちろん、朝鮮人強制連行否定論の論拠とされるものの代表として、である。

 

 

一、第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。実情は次のとおりである。
 一九三九年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約一〇〇万人であつたが、一九四五年終戦直前にはその数は約二〇〇万人に達していた。そして、この間に増加した約一〇〇万人のうち、約七〇万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの三〇万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労働者の数はごく少部分である。しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
 元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であつた)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに一九三九年七月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく一九四四年九月に至つて、はじめて、朝鮮から内地に送り出される労務者について実施された。かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは一九四四年九月から一九四五年三月(一九四五年三月以後は関釜間の通常運航が途絶したためその導入は事実上困難になつた)までの短期間であった。

二、終戦後、在日朝鮮人の約七五%が朝鮮に引き揚げたが、その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。
 ①まず一九四五年八月から一九四六年三月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によつて、約九〇万人、個別引き揚げで約五〇万人合計約一四〇万人が朝鮮へ引揚げた。右引揚げにあたつては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
 ②ついで日本政府は連合国軍最高司令官の指令に基づき一九四六年三月には残留朝鮮人全員約六五万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約五〇万人ということであつたが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約一六%、約八万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途を選んだ。
 ③なお、一九四六年三月の米ソ協定に基づき、一九四七年三月連合国最高司令官の指令により、北鮮引揚計画がたてられ、約一万人が申し込んだが、実際に北鮮に帰還したものは三五〇人にすぎなかつた。
 ④朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかつたが、休戦成立後南鮮には常時船便があるようになつたので、一九五八年末までに数千人が南鮮に引揚げた。北鮮へは直接の船便は依然としてないが、香港経由等で数十人が、自からの費用で、船便を見つけて、北鮮に引揚げたのではないかと思われる。
 こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である。

三、すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万人であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち、戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかになつた。そして、前述のとおり、終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であつて、現在日本に居住している者は、前記二四五人を含みみな自分の自由意思によつて日本に留まつた者また日本生まれのものである。したがつて現在日本政府が本人の意思に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない。

 

《付表:在日朝鮮人の来住特別内訳》
登録在日朝鮮人数 611,085人
《内訳》
 (1) 所在不明のもの 13,898人
  (1956年8月1日以降登録未切替)
 (2) 居住地の明らかなもの 597,187人(100%)
   (2)の内訳
    (A) 終戦前からの在留者 388,359人(65・0%)
     (イ)1939年8月以前に来住したもの 107,996人(18・1%)
     (ロ)1838年9月1日から1945年8月15日までの間に来住したもの 35,016人(5・8%)
     (ハ)来住時不明のもの 72,036人(12・1%)
     (ニ)終戦前の日本生れ 173,311人(29・0%)
    (B) 終戦後の日本生れおよび入国者 208,828人(35・0%)

 

 

 これが1959(昭和34)年の外務省によるプレスリリースに相当する文書の内容であるが、「強制連行問題」との絡みで言えば、戦時期日本の国家総動員法に基づく労務動員計画の把握としては問題のあるものと言わざるを得ない。

 1944(昭和19)年9月以降の「国民徴用令」によるもの以外(あるいはそれ以前)について、「残りの三〇万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したもの」とし、それが「強制」ではなく「自由契約」によるものとして処理しているが、これは朝鮮での国民徴用令公布直前の内務省の内部文書(小暮泰用による昭和19年7月31日付の「復命書」)の指摘する認識とは合致しないし、1950(昭和25)年の大蔵省(『日本人の海外活動に関する歴史的調査』)、1955(昭和30)年の法務研修所の内部資料(『在日朝鮮人処遇の推移と現状』)の認識とも合致しない。つまり、戦中そして戦後の間もない時期に他の省庁の保有していた、労務動員計画の実態を通しての認識とは大きく異なるものとなっているのである。

 

 法務研修所資料(1955)では、「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった。この労務動員は、つぎの三段階にわけてみうる」とした上で、

 (a)自由募集による動員(十四年九月から十七年一月まで)
 (b)官斡旋・隊組織による動員(十七年二月から十九年八月まで)
 (c)国民徴用令による動員(十九年九月以後)

…との三期に区分している(註:2)。この「官斡旋・隊組織による動員」の実態を、内務省嘱託の小暮は、

 

七、朝鮮内ニ於ケル労務規則ノ状況並ニ学校報国隊ノ活動状況如何
(ハ)、動員ノ実情
 徴用ハ別トシテ其ノ他如何ナル方式ニ依ルモ出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル
 其レハ若シ事前ニ於テ之ヲ知ラセバ皆逃亡スルカラデアル、ソコデ夜襲、誘出、其ノ他各種ノ方策ヲ講ジテ人質的掠奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル、何故ニ事前ニ知ラセレバ彼等ハ逃亡スルカ、要スルニソコニハ彼等ヲ精神的ニ惹付ケル何物モナカツタコトカラ生ズルモノト思ワレル、内鮮ヲ通ジテ労務管理ノ拙悪極マルコトハ往々ニシテ彼等ノ良心ヲ破壊スルコトノミナラズ残留家族ノ生活困難乃至破滅ガ婁々アツタカラデアル
 殊ニ西北朝鮮地方ノ労務管理ハ全ク御話ニナラナイ程残酷デアル、故ニ彼等ハ寧ロ軍関係ノ事業ニ徴用サレルノヲ希望スル程デアル
 斯クテ朝鮮内ノ労務規制ハ全ク予期ノ成績ヲ挙ゲテヰナイ、如何ニシテ円満ニ出動サセルカ、如何ニシテ逃亡ヲ防止スルカガ朝鮮内ニ於ケル労務規制ノ焦点トナツテヰル現状デアル

 

…と、管理局長の竹内徳治に報告していた(1944)のである(註:3)。

 

 1950年の大蔵省による『日本人の海外活動に関する歴史的調査』においても、

 一九四〇年以降四二年末迄に労務者として主として内地に凡そ二十五万人が送出されたのであるが、四三年四四年には年二十万人、三十万人の送出要望に対し朝鮮自体の開発の為及朝鮮人の感情尊重の主意により総督府当局に極力之が減少傾向に努め時に中央当局と全く対立の関係に立つ場面すら少なくなかったのであるが、戦争遂行の為という至上命令に基く量的送出充足に急なるの余り総督府当局の意図に反し末端行政機構に於て労務者募集に当たり民族感情無視の行動随所に発生、弾圧を以てする徴用の為激情を誘発する事例稀ならず、労務者の供出は食糧の供出と共に庶民怨嗟の的となったことは、朝鮮統治史上返す返すも遺憾な事であり、直接統治者の意図に副わざる無理を敢て為さざるを得なかった事は四五年八月の終戦後数ケ月に亘り日本人が半島に於て満喫した朝鮮人の迫害の依て生じた有力な近因の一つである。

 

…との認識が示されている(註:4)。

 

 

 1959年の外務省による公式見解は、戦時期日本の朝鮮半島を舞台とした労務動員計画の実態を直視することを避け、動員の形式的側面にのみ目を向けることで成立する、ご都合主義的なものに過ぎない。

 

 「国民徴用令」による「徴用」は法的なものであり、徴用拒否に対処するための罰則も規定されていた。その意味で、国家による明らかな労働の「強制」である。

 それに対し、「官斡旋」には法的な強制力があったわけではない。形式的には、外務省の主張する通り、確かに「自由契約」に見える。しかし、実際の運用に際しては、

  徴用ハ別トシテ其ノ他如何ナル方式ニ依ルモ出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル
  其レハ若シ事前ニ於テ之ヲ知ラセバ皆逃亡スルカラデアル、ソコデ夜襲、誘出、其ノ他各種ノ方策ヲ講ジテ人質的掠奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル
     (昭和19年 内務省)

  末端行政機構に於て労務者募集に当たり民族感情無視の行動随所に発生、弾圧を以てする徴用の為激情を誘発する事例稀ならず、労務者の供出は食糧の供出と共に庶民怨嗟の的となった
     (昭和25年 大蔵省)

  政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった
     (昭和30年 法務研修所)

…というのが現場における実態であり、そこには朝鮮人労務者の自由な意思による「自由契約」と呼び得るものなど存在しないのである。

 

 

 また、 

  残りの三〇万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労働者の数はごく少部分である。しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
     (外務省 「記事資料」 1959)

…とある、動員労務者への賃金の支払い状況についても、外務省の示した認識は、実態を反映したものとは言い難い。

 小暮は、朝鮮での実態調査に基づき、以下のように賃金の支払いの実情を報告している(註:3)。

 

 蓋シ朝鮮人労務者ノ内地送出ノ実情ニ当ツテノ人質的掠奪的拉致等ガ朝鮮民情ニ及ボス悪影響モサルコト乍ラ送出即チ彼等ノ家計収入ノ停止ヲ意味スル場合ガ極メテ多イ様デアル、其ノ詳細ナル統計ハ明カデナイガ最近ノ一例ヲ挙ゲテ其ノ間ノ実情ヲ考察スルニ次ノ様デアル
 大邸府斡旋ニ係ル山口県下沖宇部炭鉱労務者九百六十七人ニ就テ調査シテ見ルト一人平均平均月七十六円二十六銭ノ内稼働先ノ諸支出月平均六十二円五十八銭ヲ控除シ残額十三円六十八銭ガ毎月一人当リノ純収入ニシテ謂ハバ之が家族ノ生活費用ニ充テラレルベキモノデアル
 斯ノ如ク一人当リノ月収入ハ極メテ僅少ニシテ何人モ現下ノ如き物価高ノ時ニ之ニテ残留家族ガ生活出来ルトハ考ヘラレナイ事実デアリ、更ニ次ノ様ナコトニ依ツテ一層激化サレルノデアル
(イ)、右ノ純収入ノ中カラ若干労務者自身ノ私的支出ガアルコト
(ロ)、内地ニ於ケル稼先地元ノ貯蓄目標達成ト逃亡防止策トシテノ貯金ノ半強制的実施及払出ノ事実上ノ禁止等ガアツテ到底右金額ノ送金ハ不可能デアルコト
(ハ)、平均額ガ右ノ通リデアツテ個別的ニハ多寡ノ凹凸ガアリ中ニハ病気等ノ為赤字収入ノ者モアルコト、而モ収入ノ多イ者ト雖モ其レハ問題ニナラナイ程ノ極メテ僅少ナ送金額デアルコト
 以上ノ如クニシテ彼等トシテハ此ノ労務送出ハ家計収入ノ停止トナルノデアリ況ヤ作業中不具廃疾トナリテ帰還セル場合ニ於テハ其ノ家庭ニトツテハ更ニ一家ノ破滅トモナルノデアル
 然シ之等ノ事情ニ対スル異論モアル様デアル、即チ労務援護ヤ労務協会ノコトヤ残留家族殊ニ婦人ノ積極的活動ニ依ル収入確保等ガアルデハナイカト云フノガ其レデアルガ、然シ朝鮮ノ労務援護ニ就テ云ヘバ左ノ如キ二ツノ方法ガアルデアラウ、一ツハ隣保相助ヲ挙グルデアラウガ、之レモ朝鮮ノ農民ト労働者ノ大衆ハ未ダ斯ル良風美俗ノ実践者タル為ニハ余リニモ貧困過ギル現状デアリ、其ノ二ハ労務協会ノ援護デアルガ之レモ労務者一人当リ五円ヲ財源トスル本会ノ実情ハ之ノ予算モ現実的ニハ宴会其ノ他ノ費用ニ充テラレテ居ル現状デアル
     (内務省 小暮「復命書」 1944)

 

 様々な問題が含まれているが、その中の、

  (ロ)、内地ニ於ケル稼先地元ノ貯蓄目標達成ト逃亡防止策トシテノ貯金ノ半強制的実施及払出ノ事実上ノ禁止等ガアツテ到底右金額ノ送金ハ不可能デアルコト

…との指摘に着目すれば、つまり、「所定の賃金等が支払われている」というのも形式的なものに過ぎず、

  逃亡防止策トシテノ貯金ノ半強制的実施及払出ノ事実上ノ禁止

…というのが実態であり、「支払われてい」たとされる「所定の賃金」も、そのすべてが、直接、朝鮮人労務者の手に渡ることはなかったのである(註:5)。

 小暮の指摘する事項は、国策として1939(昭和14)年に遡ることの出来るものである。例えば、

 

 (二)朝鮮人労働者募集並び渡航取扱要綱(朝鮮側)
 別紙(甲)
 応募労働者の内地渡航後の心得
 九、賃金は生活費に必要なる額以外はこれを貯蓄すべきこと。
     (朝鮮人労働者内地移住問題 高等外事月報 1939年8月)

 

…とあるように(註:6)、動員朝鮮人労務者に対し、「貯蓄」は「すべきこと」として指示されていたし、 1940(昭和15)年の「朝鮮人工場労務者内地移住斡旋ニ関スル件」では、「別紙 朝鮮人工場労務者斡旋申込書記載要綱」に、

 

 六、賃金ノ額(最高、最低、普通)及其ノ支給方法
 七、食事、宿舎其ノ他日常生活ニ要スル費用ノ額及其ノ負担方法
 八、貯金及稼働奨励方法

 

…との文言で(註:7)、動員朝鮮人労務者を募集し使用する企業(雇傭主)側に、賃金の額、その支給方法、貯金の奨励方法の記載が求められている。雇傭主は監督官庁に報告を義務付けられ、監督官庁は動員朝鮮人労務者の賃金の額、支払い方法、貯金の奨励方法を把握していたことになる。

 小暮の指摘した、

  内地ニ於ケル稼先地元ノ貯蓄目標達成ト
  逃亡防止策トシテノ貯金ノ半強制的実施及払出ノ事実上ノ禁止

…という賃金支払いをめぐる実態は、そのような国策レベルでの決定を背景としたものなのである。

 

 

 また、外務省の見解では、

  現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万人であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち、戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかになつた

…となっているが、これも対象を戦時期労務動員の中の「国民徴用令」によって内地に移住させられた者に限定しており、それ以前の労務動員形態による来日・残留者の存在を無視することで成立する数字である。

 ただし、大枠としては、

  こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残つたものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であつた。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残つたものは極めて少数である。

…との認識は事実を反映したものであろう。現在の在日韓国・朝鮮人の多くは、戦前からの内地移住者の子孫なのであり、戦時期の労務動員に際しての「強制連行」の犠牲者の子孫ではないし、戦後の密航者の子孫でもない。

 しかし、彼らが、同胞の受けた「強制連行」の歴史を他人事と考えないことは正当である。戦前からの内地移住者も民族差別の中を生き抜いた人々であり、内地人=日本人による朝鮮人への民族差別的視線は、戦時期の「強制連行」を生み出す土壌をも形成していたことは否定出来ない。その意味で、来日の経緯は異なるにせよ、現在の在日韓国・朝鮮人社会から、「強制連行」が「同胞の苦難の歴史」の問題として取り扱われることは正当なのである(彼ら自身が「強制連行」の被害者あるいはその子孫というわけではないが、強制連行の被害者としての同胞への彼らの共感は正当なものなのである)。

 

 

 いずれにしても、ネット上でアクセス可能な史料情報を注意深くチェックするだけで、ネット上で「近現代史の真実」と称して流布されている「朝鮮人強制連行否定論」の不正確さは明らかとなるのである。

 

 

 

【註:1】
「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに戦時中の徴用労務者について」という外務省資料     高市早苗 2010年04月02日
http://sanae.gr.jp/column_details415.html

 以下の引用では、仮名遣いについては原史料表記の尊重に留意したが、漢字表記については新字体を用いている。また、外村大研究室作成のpdf資料からの引用に際しては、カタカナ原文が平仮名表記となっている可能性のあるもの等があるが、原史料の表記の確認まではしていない。

【註:2】
法務研修所 「在日朝鮮人処遇の推移と現状」 法務研修所 1955年7月
http://www.sumquick.com/tonomura/data02/120312_tyousendouin/tyousendouin_gyousei_01.pdf

【註:3】
小暮泰用による「復命書」 内務省 1944年7月31日
アジア歴史資料センター B02031286700

参考のために、文書の冒頭部と目次を掲げておく。

   復命書
        嘱託 小暮泰用

依命小職最近ノ朝鮮民情動向竝邑面行政ノ状況調査ノ為朝鮮ヘ出張シタル處調査状況別紙添付ノ通ニ有之右及復命候也
     昭和十九年七月三十一日

   管理局長 竹内徳治

     目次
一、 戦時下朝鮮ニ於ケル民心ノ趨勢
     殊ニ知識階級ノ動向ニ関スル忌憚ナキ意見
二、 都市及農村ニ於ケル食糧事情
三、 今次在勤文官加俸令改正ノ官界並ニ民間ニ及シタル影響
四、 第一線行政の実状
     殊ニ府、邑、面ニ於ケル行政浸透ノ現状如何
五、 私立専門学校等整備ノ知識階級ニ及シタル影響
六、 内地移住労務者送出家庭ノ実情
七、 朝鮮内ニ於ケル労務規制ノ状況並ニ学校報国隊ノ活動状況如何
               以上

 小暮泰用は内務省の嘱託として、大日本帝國による朝鮮の植民地化、朝鮮人への皇民化政策を肯定していることが、文書の全体を読むことで理解出来る。「復命書」で植民地主義批判をしているわけではない。
 戦時期の朝鮮人の動向としては、基本的に日本への戦争協力姿勢を明確化しつつあるものとして、肯定的に評価している。ただし、植民地統治上、戦争遂行上の障害となる可能性のある問題のひとつとして、労務動員の実態を報告しているのである。
 「復命書」の提出先である竹内徳治は、昭和19年当時、内務省管理局長であると同時に、朝鮮の植民地化のための国策会社であった東洋拓殖株式会社の監理官の肩書も保有しており、大日本帝國の植民地経営に深く関与していた(対満事務局勤務の経歴もあり、昭和15年には企画院部長として叙勲(勲等進叙ノ儀)対象となり翌年には「満洲國皇帝陛下ヨリ肇國鴻業ニ關シ功勞アリタル廉ニ依リ御紋章附銀杯一組贈與相成候」ような)高級官僚である。

 竹内徳治の経歴・人物像に関しては、以下の記事も参照のこと(2013年10月9日追記)。
 「検索の道(2) 竹内偲治と竹内徳治(小暮泰用の上司の名は?)」(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-b189.html
 「検索の道(3) 内務省管理局長竹内徳治」(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-5daa.html
 「検索の道(4) 竹内徳治、味の素、そして駐日ローマ法王庁」(http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-fb4e.html

【註:4】
大蔵省管理局 『日本人の海外活動に関する歴史的調査』 通巻第三冊 朝鮮篇 第二分冊(第三章 朝鮮統治の最高方針 八、小磯総督時代) 1950年?
http://www.sumquick.com/tonomura/data02/120312_tyousendouin/tyousendouin_gyousei_02.pdf

 引用には外村大研究室作成のpdf資料を用いたが、外村氏が年代を「1950年?」としている(刊行年)のに対し、並木真人氏は1947年を執筆時期としており、戦後の早い時期における認識が反映されていることになる。
(→ http://d-arch.ide.go.jp/idedp/BKS/BKS003900_033.pdf

【註:5】
 「強制貯金」の実態については以下も参照のこと。

 強制貯金は企業の資金調達にとっても不可欠なものでした。朝鮮人650名を連行した明治鉱業赤池鉱業所(在福岡県)では、1944年6月から翌45年5月に至る1ケ年間に普通貯金、組合貯金、債券の合計が40万6876円から81万4188円に倍増しています。特に組合貯金は7万1707円から37万9794円へと5. 3倍に激増しています(「労務月報 明治鑛業所赤池炭鉱」林えいだい編『戦時外国人強制連行関係史料集11朝鮮人1 』下巻、1991年、1153~1197頁)。強制貯金が企業の資金調達にこれほど貢献しているのに、特定企業が国策に反して強制貯金を避けたというのは理解しがたいことです。
 資金調達の問題は別としても、企業には強制貯金を不可欠とするより積極的な理由がありました。朝鮮人労働者の逃亡阻止がそれです。任意の「勤倹貯蓄」も強制貯金としての「国民貯金」も、連行朝鮮人労働者の貯金はすべて強制貯金でした。一例を示しますと、明治鉱業平山鉱業所の貯金には愛国貯金、強制貯金、普通貯金の3形態がありましたが、いずれも強制貯金でした。

(a) 愛国貯金 「家族持坑夫ニ在リテハ一方ニ付二拾五銭(一ケ月六円二拾五銭 )、単身者ニ在リテハ一方ニ付三拾五銭(一ケ月八円七拾五銭)ヲ賃金ヨリ控除シ之ヲ愛国貯金トシテ随時事変公債又ハ貯蓄債券ノ購入ニ宛テ購入シタル債券ハ本人ノ名義別ニ会社ニ於テ之ヲ保管シ本人退職ノ場合ノ外手交セズ」
(b) 強制貯金 「右ノ外各人ニ付参拾円ノ貯蓄額迄ヲ強制トシ毎月拾円ヲ本人ノ賃金中ヨリ控除積立之ヲ会社ニ於テ預リ本貯金ニ対シテハ年七分ノ利子ヲ附スモ協和会長ノ許可アラザル限リ本人退職ノ場合ノ外引出ヲ得ザラシム」
(c) 普通貯金 「貯金参拾円(愛国貯金ヲ除ク)ヲ超過セル金額ニ於テ貯蓄ハ本人ノ随意タルモ可及的之ガ実行ヲ勧奨シ自発的貯金ヲ励行セシム本貯金ハ会社ニ於テ之ヲ預リ年七分ノ利子ヲ附ス
右ハ本人ニ於テ止ムヲ得ズ引出スノ実情アリト認メタル時ハ随時之ヲ払戻スモノトス」

 以上の3形態のうち一番問題になるのは(c)ですが、これも一種の強制貯金であったことは不二越鋼材工業や日鉄大阪製鉄所の事例から明らかです。不二越鋼材工業の預貯金には「国民貯蓄」と「預金」の2種類のものがありましたが(資料2)、いずれも強制貯金でした。不二越訴訟の原告李鐘淑と崔福年は、被告工場に就労していた1年ないし2年の間に賃金を受け取ったことはなかったと証言し、富山地裁もそれを認めています(『平成4年(ワ)第263号強制連行労働者等に対する未払賃金等請求事件』76頁、81頁)。日鉄大阪裁判の原告呂運澤と申千洙は月に2、3円の小遣い程度の現金を手渡されたのみで、残額は日鉄大阪製鉄所が設けた各徴用工名義の貯金口座に一方的に入金されていました。通帳を見せられたことはあるが、それを所持したことはなかったと両人は証言しています(『平成9年(ワ)第13134号損害賠償等請求事件』192頁)。これが朝鮮人労働者側の一方的な言い分でないことは、「徹底的に給与管理を実施し必要な金額以外は全部貯金させることにした」 (『労務時報』第256号、1944年2月7日、13頁)という日本鋼管富山工場の訓練隊長尾山久一の記述からも明らかです。強制貯金の重要な一因が朝鮮人労働者の逃亡阻止にあることは議論の余地がありません。

「供託書についての古庄正駒澤大学名誉教授の意見報告書」 2004年2月1日
三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/nkhp/koshoike.htm

【註:6】
「朝鮮人労働者内地移住問題」 高等外事月報 1939年8月
http://www.sumquick.com/tonomura/data02/120723_01.pdf

【註:7】
「朝鮮工場労務者内地移住斡旋ニ関スル件」 陸軍省 1940年
アジア歴史資料センター C01001832500

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/09/10 20:15 → http://www.freeml.com/bl/316274/207438/

 

 

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