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2013年8月

2013年8月16日 (金)

『学徒出陣』(1943)と『きけ、わだつみの声』(1950)を観る

 

 午前中から、「日本戦没学生記念会(わだつみ会)と「 わだつみのこえ記念館」の共催による、「「学徒出陣」70年記念  不戦へつなぐ ― 戦没学生遺稿遺品展・講演・映画 ―」に参加するために、両国の江戸東京博物館まで出かけていた。

 プログラムは8月12日~14日までの三日間で、本日(8月14日)は、

 

 10:30~10:40 『学徒出陣』 1943年 文部省制作
 10:50~13:00 旧作『きけ、わだつみの声』 モノクロ(監督:関川秀雄 1950年 東横映画京都撮影所作品) 
 14:00~16:00 講演 「『終わらざる夏』をめぐって」 講師 浅田次郎(作家、日本ペンクラブ会長)

 

…という構成。

 

 

 

 『学徒出陣』はあの有名な神宮外苑競技場での出陣学徒壮行会の記録映像。ニュースフィルム(日本映画社の「日本ニュース 第117号」)を文部省が再編集したものらしい。

 この映像は、動画サイトでも視聴することが出来る(註:1)が、一度はホールでの大画面で観たいと思っていたものだ。

 冒頭では学徒出陣に至るいきさつが、各大学構内の情景をバックに語られ、時計台の時計の映像(つまり、正確な時刻の提示により臨場感が増す)から壮行会のシーンは始まる。陸軍軍楽隊の演奏する陸軍分列行進曲をバックに、各大学の学生の行進が続くが、既に雨中の行進となっている。

 隊列を組み、カメラの前を行進する学生たちの姿を追う画面は学生たちの全身像から水たまりの中を踏みしめる足元へと移行する。しばらくは、水しぶきを上げながら行進する学生たちの足元、そして下半身が映し出されるのだが、水たまりには、学生たちの下半身が映り込んでいる。雨中の行進であるからこそ、学生たちの影ではなく、水面に反射した姿が見えるのである。しばらくしてカメラは引き、全身像とその水面に映し出された反射(倒立した全身像)を共に捉える。前から見事だと思っていたシーンだが、あらためて大画面で見て、その映像としての完成度に感嘆させられた。

 雨という悪条件の下で、しかしそれを見事な映像美へと反転させたカメラマンのセンス、その職業人としての力量、職業人としての責任意識を再確認した。とにかく事前のシナリオがあり何度でも撮り直し可能なドラマではなく、一発撮りの記録映像なのである。

 その映像美は、この『学徒出陣』というフィルムのプロパガンダとしての機能を強化することに、確かに大きく貢献したであろうが、しかし、彼らの姿をこのような形で残した撮影スタッフに、あらためて私は敬意を表したいと思う。

 

 久しぶりに観て再認識させられたのは、全員が行進を終えて競技場中央に並び終えたところでの「宮城遥拝!」の号令と共に流れる「君が代」であり、壮行会後に向かう宮城前広場での、各大学それぞれの引率者の「天皇陛下万歳!」の叫びに続く全員での万歳三唱(つまり、各大学ごとに学生全員での「天皇陛下万歳!」が三回繰り返される)であった。

 文部省制作の映像において、戦争と天皇の関連が強調され、天皇のための学徒出陣であることが強調され、つまり天皇のための戦争であることが語られていたのである。このフィルムに文部省が期待したプロパガンダとしての機能の中心には戦争と天皇の関係があり、むしろ天皇のための戦争であるからこその「学徒出陣」であることを理解することが、映画の観衆には求められていたと言うべきなのであろう。「学徒出陣」という事態への説得力は、天皇のための戦争であるところに求められていたのであり、当時の文部省の視点からすれば、映像の持ち得た説得力はプロパガンダとしての成功を意味する。「天皇のための戦争」であることを批判するのは現代の視点であり、文部省の意図は「天皇のための戦争である」ことの強調にあった。

 それをフィルムそのものが語るのを目の当たりにしたように感じる。

 

 

 

 『きけ、わだつみの声』(1950年版)の方は、同名のベストセラーの(最初の)映画化で、ベストセラーとなったのは戦没学生の遺稿のアンソロジーであったのに対し、学徒兵が実際に戦場で遭遇したであろう現実をドラマ化したものである。

 舞台となるのは昭和20(1945)年のビルマ戦線の一部隊である。皇軍の戦争、大東亜戦争が兵士にどのような経験を強いたのか、特に学徒兵の視点から、それを描こうとした作品(シナリオ)である(註:2)。

 絵に描いたような、という感さえする、精強な(精強であるはずの)皇軍のどーしようもない実情をエピソードとしており、その意味でいささか図式的なとでも言いたくなる感想を持つが、その一方で映画のエピソードは、実際のビルマ戦線を元学徒(大学講師)として経験した会田雄次の描く皇軍の実情そのものと言わざるを得ないこともまた認めないわけにはいかない。会田雄次は、たとえば、

 

 

 こうして私は、万年初年兵としての数年間をすごすのだが、それはまた人間関係としても地獄の数年間である。中隊の下士官兵士の中では、大学卒業者は一人もいなかった。私が一種のエリート意識を持ち、それが疳にさわったことは事実だろうが、根本的には大学卒というものへの憎悪が一般的だったということになるだろう。
 それに現役の古年次兵たちは私よりずっと年少だ。彼らは社会ではまだ一人前になっていない生意気ざかりである。例えば左官屋でも下働き、ないしは助手業であり、兄弟子や親方にどなられたり、こづかれたりしている存在だ。職人世界、工場、商店、農村でもそういう位置にある。私をとくに目の敵にしたのは、舞鶴の料亭で板前見習をしていたという坂井という一等兵だった。足指に肉切れか何かはさんでつき出し、会田食えという。食べると「帝国軍人が足ではさんだものを食うといういやしいことをするのか」となぐられる。食べないと「そら大学の講師さんは、わてらの食べるようなものはお口にできまへんやろな」と徹底的にいびられる。どうにもならない。しかも、そういう連中が初年兵に対し生殺与奪に近い権力を振うのである。
 平時の兵営生活ならこの苦労は、古年次兵が除隊するまでの一年足らずの辛抱ですむのだが、戦場へ行けば、補充にめぐまれないかぎり万年初年兵の運命をたどり、大抵はそのまま酷使による死へ直結してしまう。
 私の中隊でも、二十名近くのこの補充兵は、私以外だれも生き残らなかった。四か月ほど先輩である現役初年兵も、数十名中たしか助かったのは一人だけのはずだ。一般の生存は七、八人に一人だから数倍の死亡率になる。
     会田雄次 『回想 アーロン収容所』 角川文庫 1979  30~31ページ

 

 

…と、ビルマ戦線での「大学卒業者」としての「万年初年兵」の自身の置かれた境遇を語っている(もちろん、その前提には大東亜戦争末期の大日本帝國陸軍初年兵の一般的日常があり、「学徒」であり「大学卒業者」であることは、初年兵としての日常をより過酷なものとするのに役立ったのである)。

 会田雄次は帝國陸軍の「万年初年兵」として幸運にもビルマの戦場を生き延びたわけだが、敵である大英帝国の軍隊との戦闘以前に、帝國軍隊の内部でどのような目に遭っていたのかがここに記されている。もちろん、この状況は、大英帝国の軍隊との戦闘中にも継続するのである。

 帝國軍隊の中での経験について、会田は次のように続ける。

 

 

 下士官は初年兵にとって、区役所でもっとも意地悪い官僚にぶつかった町のおばあさんの気持ちに通ずる存在だ。彼らは確かに有能であり、戦争中は分隊長として頼りにしなければならぬ存在である。それに志願の職業下士官である軍曹、曹長ともなるともう私たちにとって雲の上の人であり、直接兵士をなぐったり蹴ったりすることも滅多にない。
 この分隊長というのは火野葦平の『麦と兵隊』などで有名になったが、ああいう明るさは「やくざの親分業」としての火野の持つ全く例外的なものである。日本社会の持つ何ともいえぬ陰湿さ、やりきれなさの典型がこの下士官界というものであろう。内地の下士官界は大奥のような、なめくじに肌いっぱいにはわれるような雰囲気につつまれた世界である。
 それに私たちの応召時になると士官が心細かった。中隊長は商業学校出身の現役志願の将校である。小隊長の一人は陸士卒のわがままな少年、一人はあまり気力のない中年サラリーマン、もう一人の山本という幹部候補生の少尉だけがまじめでおとなしい人であった。
 私は第二大隊の第五中隊に属していたのだが、出征当時の大隊長という直属上官をはじめ、連隊の「偉い人」の名前も顔も全く覚えていない。今でも思い出そうとか調べようとかする気は全然ない。初代連隊長は立派な人という評判だったが、私にとっては遠くからチラリと顔を一度見ただけの存在である。半年ぐらいで戦死したらしい。
 終戦直前の連隊長は不思議にも名前を覚えている。菊地という大佐だった。この男は人を見たら将校だろうが何だろうが軍刀でなぐりつけ、煮え湯をぶっかけるという異常者で、敗戦間近い七月中旬の爆撃で足をふきとばされて死んだ。そのことを私たちはジャングル行軍中に知ったのだが、みんな万歳と躍り上った。北村兵長などは丸木橋の上で両手をあげ万歳をやったものだから、銃に重心をとられ、川の中にドブンという始末である。
 あとの代理連隊長はマラリヤで寝こんでばかり。いつも防空壕に水がたまっていないかどうかだけを心配しているという噂だった。収容所ではじめて「お目にかかった」のだが、五十歳とは見えないふけた小心そうな小男だった。
 私だって西洋史をやり、「非常事態」下に生きて来た人間である。軍事知識は至って乏しいが、岩波文庫のクラウゼヴィッツの『戦争論』の輪読会ぐらいはやっている。大学院生時代に孫子の『兵法』などとマキアヴェリの『君主論』の比較という奇妙なレポートもでっちあげたこともあった。「歩兵操典」は教練の時間に買わされていたが、面白いので二、三度くりかえし読んでいる。
 召集の士官たちは、どうも、この程度の「軍事知識」をも備えていない人が多かったようである。それでも実戦上鍛えられた人ならよろしいが、そうでもなかった。私たちは擲弾筒兵である。この兵器は榴弾を使用するのだが、手榴弾も使える。もっとも手榴弾は実際上三百メートルぐらいしか飛ばない。榴弾は分隊の兵士が腰に六発ずつ携行するわけだから、補充のないビルマ戦線ではすぐなくなってしまう。
 だが中隊長代理になったある将校は、榴弾がなくなっていると告げても、優に三千メートルもある目標を指示して打てと命令して来た。手榴弾だってもう貴重品である。それに私たちの部隊はまだ銃撃はおろか砲撃も受けてはいない。熟練者だった私たちの班長代理の兵長は「熱発屋が何ボヤいとるんや」と舌うちしただけだった。熱発屋とは戦闘が近くなると進んでマラリヤになる人のことをいう。
 一般兵士の間では、高級将校や軍司令部の士官というのはラングーンやメイミョウの料亭で女遊びをする人々。一般将校は食事にうるさく敬礼ばかりをやかましく言っている連中というイメージが定着していたようだ。私たち応召兵の多い戦争末期編成の師団だけのことではない。私が入院で御厄介になった北九州の精鋭師団の「龍」部隊とか、勇名をはせた関東の「弓」部隊の患者たちの間でさえ、そういう気持ちが強く流れていた。
     同書 31~34ページ

 

 

 戦後の保守論壇を代表する会田雄次も、同様に高度成長期の保守論壇を代表する山本七平も、従軍経験者として、旧日本軍の実態については、徹底的に批判的であった。

 そのような感覚は、戦友会などでの経験者同士による回想に裏打ちされたものであり、同時代人にとっては「当たり前」のものだったことは理解しておいた方がよい。映画版の『きけ、わだつみの声』のシナリオを支えているのは、そのような同時代人にとっての「当たり前」の感覚なのである。

 会田雄次や山本七平が問題にしているのは、そして当時の従軍体験のある同時代人が問題にしていたのは、敵の銃弾に斃されるのではなく、餓死・戦病死で靖国の英霊となった多くの戦友の存在であり、その中の一人になりかねなかった自分自身の体験であり、そのような状況に陥るしかなかった日本軍の体質の問題であった。

 補給を無視した作戦用兵は、「餓死」という形の「戦死」(靖国の英霊の半数がそれだという話もある)を、第一線の兵士に強いながら、戦争を敗北に導いたのである。

 

 

 再び1950年版の『きけ、わだつみの声』の話題に戻ろう。「終戦」からわずか5年後のこの作品では、役者もスタッフも脚本家も監督も従軍世代そのものであり、彼らの従軍体験の十分に反映された、彼らにとってリアルなエピソードの積み重ねでもあるはずだ。しかしその戯画的な(とは言い過ぎかも知れないが、少なくとも戦後生まれである私の目には図式的である印象は避けられない)エピソードの積み重ねはむしろ現実感を損なう方向に働いてしまっているようにも見える。しかし、それこそが皇軍の現実、帝國軍隊のリアルというものであった、と理解しておくべきなのでもあろう。

 

 

 

【註:1】
 たとえば、

学徒出陣 昭和18年 文部省映画
→ http://www.youtube.com/watch?v=mzsU3SnUk8E

【註:2】
 演出に当たった関川秀雄自身は、制作当時の文章で、映画の脚本について以下のように語っている。

 「きけ、わだつみの声」の脚本について――無謀極まる作戦のため、人間が耐えることの出来る限界以外の所へ多くの若者が追い込まれていく。物語は戦場をビルマのイムパール後方に置き、動くことの出来ない学徒出身の病兵の一群と、それを置き去りにして敗走し、しかも全滅していく一部隊の最后を描いている。
 これは、今度の戦争で、日本軍の殆んどの部隊が体験した悲痛な事実であり、この映画は、その悲痛な体験の上に基本的な足場を置いている。私は、私なりの考えではこの行き方は正しいと思う。若しも、私たちが、登場人物の一人一人を、脚本が規定しているように酷明に描くことが出来たとしたら、具象化されたものの総和は、必ずや日本の人々の心に触れ、「戦争」そのものについて鋭い反省をなし、各人の新しい方向を決定する努力と勇気とを生み出すことに役立つてくれるだろう。
     「一九五〇、四、二二」の日付のある文章(映画パンフより)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/08/14 23:24 → http://www.freeml.com/bl/316274/206527/

 

 

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