« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2 | トップページ | 『私はシベリヤの捕虜だった』を観る »

2013年7月27日 (土)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3

 

 前回の最後には、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言明に至った。

 この言明は、多細胞生物の個体の「生」のあり方から導き出されたものだ。そこにあったのは、多細胞生物の個体の一生というものをどのように描くことが出来るのか、という観点である。

 この言明に追加して、

  生まれ、生き、子を残し、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言い方も可能であるし、それは、より精密な言い方であるようにも感じられるかも知れない。

 

 しかし、この生殖(子を残す)という問題は、どこまで個体にとっての問題なのであろうか?

 生殖の問題というのは、むしろ、種レベルでの生物の存続の問題であって、個体レベルの問題としての「生物としての適切性」という観点からは、いささかの留保が必要な事象のようにも思われる。

 

 実際問題として考えれば、個体レベルでの出来事としては、多くの生き物は子孫を残す前に他の生き物の食物となり死を迎えるのが、生物としての現実というものである。個体レベルで考えれば、生殖と関係なく死は現実化し、個体相互の問題として考えれば、他の個体の死は自身の食料の確保を意味するものでもある。生殖と関係なく、個体の生死の問題は語り得るものであるように思われる。ある個体の死は、別の個体の生の存続を意味してしまうのである。

 

 そのような観点から先ほどの言明を見直せば、そしてそこに修正の必要があるのだとすれば、

  生まれ、生き、可能であれば子を残し、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…との言い方となるだろうか。

 しかし、個体レベルの問題として考えれば、食べることも生殖行為も、個体として「生きる」という過程に含まれてしまっているようにも思われるのである。

 そのように考えてしまえば、やはり当初の、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言い方で十分のようにも思われて来るのである。

 

 むしろ問題は、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるのか?

…として記述されるべきものではないのか?

 そして、それを問うのはあくまでも人間である我々なのであり、我々にとっての問題は、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることは、人間として「正しいこと」であるのか?

…として記述されるものとなるのであろう。

 

 

 

 さて、今回、私はあらためて、

 

  しかし、個体レベルの問題として考えれば、食べることも生殖行為も、個体として「生きる」という過程に含まれてしまっているようにも思われるのである。
 そのように考えてしまえば、やはり当初の、

   生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

 …という言い方で十分のようにも思われて来るのである。

 

…というまとめ方をしたみたわけだが、その点についてもう一度考えてみたい。

 

 「死ぬべき時が来たら死ぬこと」という表現であるが、これは、それに対し「死ぬべき時が来ても死なないこと」との選択肢が用意されており、「死ぬこと」の方を選択するという話ではない。

 「生き物」であることは「生きている」状態に由来し、「死」が意味するのは「生きている状態の終焉」である。生き物の「死体」とは、それが「かつて生きていた」存在であったことに由来する表現である。

 「生きている過程」は、「生きている状態の終焉」すなわち「死」によって終了するように事実としてなっており、それは選択の対象ではないのだ。

 

 生きていることは状態であり、過程である。生き物であることが意味するのは、生きていることを目的として存在しているということではなく、生きている状態にあり、生きている過程の渦中にあるということを意味すると言うべきではないのか?

 それが個体としての生き物(多細胞生物の個体レベルでの存在)にとっての「生」のありようではないのか?

 

 生物の個体にとって、食は個体の「生きている状態」の維持の手段として「生」の過程に組み込まれており、生殖もまた「生」の過程での(個体の行動として組み込まれた)一つの現象であって、どちらも個体にとっての目的として位置付けられるものではないし、「生きていること」自体も「目的」として位置付けられる性格のものではないように思われる。

 

 個体が維持され、個体が生殖に成功することは、種レベルでの利益には確かに合致するものであり、種レベルにおいてこそ合目的的行為として位置付けられるものとして考える方が、事態の理解として実際的なのではないだろうか?

 そもそも種の存続というレベルでは、個々の個体の生死は問題とならないのである。「生死」の問題が前景化するのは、それが個体レベルでの個々の個体にとっての問題としてであり、個体としての存在である我々自身の問題としても切実さを持っているからなのである。

 

 

 人間の特異性は、「生きている状態」にある自身を自覚的に意識し、「生きている状態」の維持を「生きている過程」の目的として位置付けるようになってしまっているところにある。危険の回避は、「生きている状態」の存続の障害となる事態を回避することとして、他の生き物においても組み込まれている行動であるが、そこに目的意識が伴われているとは考え難い。人間の場合は、自意識の中で「生きている状態の維持」が目的化され、様々な行動(そして意思決定)に反映されているのではないだろうか?

 そこにこそ、我々にとっての問題が、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることは、人間として「正しいこと」であるのか?

…として記述されるものとなることへの起源がある。

 

 

 「殺される」とは、人間において目的化された「生きている状態の維持存続」に対する、外部からの強制終了を意味する事態である。

 殺すのは他人であり、他人の都合により「生きている状態の強制終了」が引き起こされるのだとすれば、(「生きている状態の維持存続」を既に目的化している)殺される当人の都合には反する事態なのである。

 

 他人の都合が当人の都合に優先されるべき理由はない。他人の利益を当人の利益に優先させるべき理由は、原理的には存在しないはずである。ここでの他人と当人の立場の相互変換可能性を、社会的合意としての、

  人は人を殺してはいけない

…との、人類に広く共有された社会規範の起源として位置付けておくべきではないだろうか?

 シリーズの初回で示したように、

  もちろん、社会を構成する多くの人間は自分が他人から殺されることを願ってはいないし、親密な者の死を願うこともないのであって、社会の多数者の「気持ち」の問題としても、「人は人を殺してはいけない」という社会規範の存在は適合的である。

…ということなのである。

 

 殺人の禁止は相互の利益に合致し、殺人の奨励は相互の利益に反するものとして、社会の多数者に理解されていると考えるのが現実的理解というものであるように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/09 23:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/205317/
     投稿日時 : 2013/07/10 14:13 → http://www.freeml.com/bl/316274/205336/

 

 

|

« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2 | トップページ | 『私はシベリヤの捕虜だった』を観る »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/52623698

この記事へのトラックバック一覧です: 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3:

« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2 | トップページ | 『私はシベリヤの捕虜だった』を観る »