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2013年7月25日 (木)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 1

 

 「人は人を殺してはいけない」という言明については、社会的合意のレベルの問題として考えるのが実際的であって、社会に超越した倫理的命令として取り扱おうとする試みには無理があるように思われる。

 

 

 「人は人を殺してはいけない」という規範を持たない社会を私は知らないが、しかしその規範には常に例外状態が存在していることは知っている。

 戦争における敵(社会の外部の人間である)、「人を殺してはいけない」という規範に社会内で背いた者(いわゆる殺人犯である)、ある場合には姦通の当事者(ただし女性のみである場合が多い)、ある場合には権力者への批判を口にしたと見なされた者は、社会により、その社会の規範に基づき、合法的に殺されることになる。

 

 「人は人を殺してないけない」という命題は、多くの社会の共通に保有する規範として見出されるものであるが、常に例外状態に伴われており、我々がまず確認すべきは、「人は人を殺してはいけない」という規範が社会に超越した倫理的命令などではなく、社会的合意に過ぎないという事実である。

 

 

 しかし、ここで、「人は人を殺してはいけない」という規範が社会に超越した倫理的命令などではなく、社会的合意に過ぎないということが事実であるからといって、規範の存在を過小評価したり、悲観的な現実として考える必要はない。

 むしろ、それぞれに例外状態に伴われているにせよ、「人は人を殺してはいけない」という社会的合意はほとんどの社会(人類社会と言い直しても間違いではないだろう)に共有されている合意でもあるのだ。

 つまり、「人は人を殺してはいけない」という命題は、社会的に有用なもの、社会の存続に有用なものとして理解されているからこそ、人類に共有された規範として存在している。そのようにも考えられるのである。

 

 

 人を殺したい個人は存在し、他人に殺されたいと願う個人も存在し、自身を殺してしまう個人も存在するにせよ、つまり例外的個人は常に存在するにせよ、社会的合意というレベルでは、「人は人を殺してはいけない」という命題は(例外状態の規定を常に伴いながらも)社会的規範として機能しているということなのだ。

 もちろん、社会を構成する多くの人間は自分が他人から殺されることを願ってはいないし、親密な者の死を願うこともないのであって、社会の多数者の「気持ち」の問題としても、「人は人を殺してはいけない」という社会規範の存在は適合的である。

 社会は例外的個人を超えた場所に存在し、その社会が例外状態を規定するのだ。

 

 

 「人は人を殺してはいけない」という命題を社会に超越的な倫理的命令として取り扱おうとする試みが失敗するのは、社会的視点が欠落しているからであるように思える。

 人間の問題を考えるに際し、個人の意思にのみ着目したり、社会にさえも超越的な倫理を想定することからは、人間としての行為を規定する社会の存在への想像力が失われてしまう結果が導かれる、ということなのかも知れない。

 

 

 

 さて、ここであらためて、先に示した、

 

  つまり、「人は人を殺してはいけない」という命題は、社会的に有用なもの、社会の存続に有用なものとして理解されているからこそ、人類に共有された規範として存在している。そのようにも考えられるのである。

 

…という話を出発点として問題を考えてみたい。

 

 殺人の禁止に対し、殺人の奨励を規範として採用する社会を考えれば、その社会の存続は、殺人を禁止する社会に比べて不利なものとなるだろう。

 社会を安定した状態で維持することに、殺人の禁止は役立つはずだ。

 そこでは同時に、

  自分が他人から殺されることを願ってはいない
  親密な者の死を願うこともない

…という社会の多数者に属する個人の気持ちも満たされるはずである。

 社会的利益となり、多くの個人の利益ともなる「殺人の禁止」は、社会規範として合理的なものなのである。

 

 「殺人の禁止」は例外的個人のケースを除けば、社会というレベルにおいても個人というレベルにおいても、自らの存続に適合的な規範として理解され、受容されることになるだろう。

 「殺人の禁止」は、ある場合には神の命令という形式で社会規範化され、ある場合には法的条項として社会規範化されることになる。

 そこにあるのは社会的合意の表現形式の違いに過ぎない。

 

 

 この「殺人の禁止」を構成するのは、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人を殺さない。

…という形式の論理ではなく、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。

…という形式の論理であろう。より詳しく言えば、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人を殺さない。

…とは、

  私は殺されたくない。
  だから、
  私は人を殺さない。

…として記述されるが、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。

…について「私」の行為規範として記述するならば、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。

…ということになるはずだ。

 

 「殺人の禁止」を構成するのが、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。

…という論理だとしても、この論理は「正当防衛」による殺人に対しては一義的ではない。

 

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  しかし、
  私が殺されるより、
  私が生き延びることを選ぶ。
  だから、
  その際には人を殺すかも知れない。

 

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

 

 そのどちらもが成立するはずである。

 そして、多くの社会では前者を採用している。そこでは、正当防衛による殺人は容認されるのである。

 しかし後者を採用する社会が皆無というわけではない。ナチス政権下の「エホバの証人」は後者を採用していたのである。そして彼らは殺されていった。

 

 

 現在のところ、多くの社会では、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

…という行為規範は例外的個人のものとして理解されているのであろう。

 しかしその行為規範が社会内での多数者のものとなれば、その社会は、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

…との論理の下に、「正当防衛」の合法性を否定することになるだろう。

 

 どちらが「正しい」選択であるのか?

 

 ここでは「正しい」という言葉の意味が問われてしまうことになる。

 誰にとっての「正しさ」であるのか?

 そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/03 21:24 → http://www.freeml.com/bl/316274/205139/
     投稿日時 : 2013/07/04 22:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/205164/

 

 

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