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2013年7月28日 (日)

『私はシベリヤの捕虜だった』を観る

 

 本日(7月27日)、1952(昭和27)年に制作公開された日本映画『私はシベリヤの捕虜だった』を観る機会を得た(「長らくその存在が不明となっていた映画」として紹介されていた作品である)。

 成蹊大学アジア太平洋研究センター主催の「映画を通じて知るアジア大平洋の世界」の第三回目として、監督:阿部豊・志村敏夫、制作:シュウ・タグチ・プロダクションによる『私はシベリヤの捕虜だった』が上映されるというので、吉祥寺の成蹊大学まで出かける。

 

 

 

 上映に先立ち、富田武教授による、映画の背景としてのシベリア抑留、そして製作当時の時代状況についての簡単なレクチャーがあった(作品についての先入観につながらないように配慮された、文字通りに簡単なレクチャーである)。

 ちなみに上映案内のチラシには、「制作された1952年当時、日本は、なおGHQの影響下にあり、国際情勢としては、朝鮮戦争や東西冷戦の激化がありました。その点をご理解の上でご鑑賞ください」との一文が添えられており、ソ連による日本軍将兵のシベリア抑留を描くことを通しての「反共プロパガンダ」的作品という期待を、つい、私などは抱いてしまうわけである(また、プロローグとエピローグ部分に欠落があるとも書かれており、作品の上映としては完全なものではないということである)。

 

 

 上映が始まり(もちろんモノクロ映像)、まず驚かされるのが、作品タイトル(あるいは冒頭のキャプション)の文字で、日本語でも英語でもロシア語でもなく(多分)タイ語なのだ。荒涼とした雪のシベリア(ロケ地は北海道だったという)の風景に、タイ語の文字がかぶさるわけである。

 この問題は上映後の質疑でも取り上げられたが、今回発見されたフィルムが(国内上映用のものではなく)タイ(もっとも、現時点では、タイ語の文字であると確定されたわけではないが)での上映用のものである可能性が指摘されていた(米国の冷戦プロパガンダの一環としてのシベリア抑留体験映画上映との位置付けである)。

 

 ストーリーとしては(註:1)、日本軍としての編成を残したまま(つまり将校から初年兵までの階級関係を残したまま)、シベリアの収容所での強制労働を課せられた部隊の将兵の見舞われた過酷な運命を描いたものということになる(もちろん、この部隊が特異ということではなく、シベリアではありふれた話なのだが)だろう。

 主人公の親しい戦友が、厳しい労働が続く中、(階級関係の残された部隊での)下士官による情に欠けた取り扱いにより命を落とす。

 もちろん、ソ連が抑留者に課した強制労働自体が根本的な問題であるはずなのだが、日本軍の組織のあり方が、ここでは影を落としているようにも見えるわけである。

 そんな日々が続くが、やがてダモイ(帰国)の決定が告げられ、部隊は列車で移送される。しかし、移送先は帰国船の待つ港ではなく、別の収容所であった。

 落胆した将兵を新たな収容所で待ち受けていたのは、元日本軍兵士による民主グループ(親ソ連の、つまりソ連共産党に代表される共産主義に親和的なグループ)によって管理された世界であった(将校と兵士は別にされ、それまでの階級による部隊の統制は失われる)。

 収容所もスタハノフ運動の渦中に取り込まれ、つまるところ、それが民主グループを通しての労働強化でしかないことが明らかとなって行く(そしてノルマの達成率に対応した食糧配給量は、部隊内の人間関係に分断をもたらす)。

 そんな中、主人公は民主グループに同調しない態度を貫くのだが、かつての下士官たちは民主グループに接近し、民主グループへの帰依者として、再び部隊を支配する側としての利益を享受し始める。過酷な労働を回避し、早期の帰国(ダモイ)の可能性を大きくするためにも、民主グループに同調することは有利な選択なのである(もちろん自己に特に有利な、つまり利己的な選択は、他者には不利な状況として帰結する)。

 それでも、部隊にも帰国の機会が訪れ、ナホトカに集結するのだが、部隊に合流した将校は兵士たちによる人民裁判(もちろん、その背後には民主グループの存在がある)の対象とまでなってしまう(そこでも、下士官たちは自身に有利なように立ち回る)。

 

 ソ連による不当な抑留があり、ソ連により課せられた不当な強制労働があり、ソ連に同調することで勢力を誇る民主グループによる不当な収容所内の統制がある。

 確かに、冷戦下での反共(反ソ連)プロパガンダとしての機能は備えているのかも知れない。

 しかし、強く印象付けられるのは、旧軍以来の「要領」で立ち回り、収容所内での自らを有利な立場に置こうとし、実際に有利な立場に居続ける連中の存在である(註:2)。

 天皇の軍隊が、スターリンの収容所内の軍隊へと姿を変えようが、「要領のよさ」こそがものをいう実質に変化はないのである(註:3)。

 

 

 上映後に発言した元抑留者の方も、シベリア抑留体験の辛さの核心として、飢え、寒さ、重労働に加えて、人間関係の破壊と、帰国後のレッドパージによる社会復帰の困難を語っていた。

 「日本人同士の醜い悲惨な実態」という言い方が強く印象に残っているが、映画の中では、その現実が実感をもって再現されていたとも評価していた(そして「観ているのが実に辛かった」とも語る)。

 ソ連による処遇の問題、共産主義支配の問題を抜きに語ることは出来ないことは確かであるが、しかし、日本人同士の人間関係のあり方(日本人としての「要領のよい」処世術)のもたらす問題も、(制作者の側が意図してのことであるかどうかはわからないが)実に見事に描き出されていたようにも思われる。タイ(そして東南アジアでの日本軍占領地)での上映に際し、その地の人々にどのように映画が(映画の中に描かれた日本人の姿が、日本軍将兵の姿が)受け取られていたのかは興味深いところでもある。

 

 

 

【註:1】
 ネット上で紹介されているストーリーとは、若干の違いがある。
 ネット上で紹介されている「あらすじ」が脚本段階のものであり、公開時の作品との相違が生じたものなのかどうか(あるいはタイ上映用バージョンと日本での上映用の編集との違いなのか)については、私には判断出来ない。

【註:2】
 主人公は民主グループに同調しないことで筋を通す(しかし、それは決定的な不利益を彼にもたらす)のであり、観客はその主人公の姿に共感を持つことになる。主人公は、確かに、民主グループに代表される共産主義の現実に同調しない姿勢を貫く人物として描かれてはいるわけだが、むしろ主人公が同調しないのは「要領」が幅を利かす日本の軍隊社会の本質的あり方についてであるようにも感じられてしまうのである。

【註:3】
 上映後の質疑によれば、製作者のタグチ氏もシベリア抑留を体験しているというし、配布されたレジュメに転載された当時の映画評によれば、撮影の藤井静氏もシベリアでの収容所生活からの帰還者だという(そのカメラワークは見事である)。
 1952年の作品であるということは、出演者とスタッフ共に、シベリア抑留者の同時代人であり、その多くは皇軍への従軍体験を持っていたであろうし、若くても少国民としての戦時生活の体験者なのである。
 これは演出以前の問題として(自身の実体験として、そして自明の前提として)、作品内の皇軍将兵の姿に反映されていたはずである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/07/27 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/205909/

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コメント

こんにちわ。私もこの映画を見ましたが、多少印象が異なるので一言。主人公が民主化グループに同調しないのは、そうしないと物語として成立しないからでしょう。映画は常に葛藤を描き主人公が誰かと衝突しないと物語になりません、これは脚本の基本です。

そしてもし誰も民主化グループに反対せず誰もが要領よく立ち回る話を描けば、「シベリア抑留者とは、こんな酷い日和見主義のエセ人間なのか、であれば彼らを社会から排除するのは当然だ」という印象を映画は与えかねません。実はそれが、上映後発言したあの抑留者の方も含めて、実際に起きた事かもしれません。住民虐殺など、日本の戦争経験者が体験を話さないのにはそれなりの理由があるという事を一度お考えください。

私としては1949年ではなく1952年に作られたのがこの映画の性格を物語っていると思います。1949年シベリアからの帰還がブームになり「異国の丘」など歌がヒットした時に商業目的で作るならわかるが、3年後すでにかなり多くの抑留者が帰ったころになぜ作るのか、しかも「まだ30万人残っている」というアメリカの主張を入れて、と思います。

投稿: zames_maki | 2013年7月28日 (日) 19時57分

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