« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 1 | トップページ | 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3 »

2013年7月26日 (金)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2

 

 前回の最後には、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

…と書いたわけだが、その直前には、

  ここでは「正しい」という言葉の意味が問われてしまうことになる。
  誰にとっての「正しさ」であるのか?

…という問いも示しておいた。

 あらためて問題を示せば、

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

…ということになるであろうか? ここでは、問いを、

  生き物にとって、生きることは「善なること」であるのか?

…とはしていない。

 問題は、生きることが善であるかどうか、という点(善悪の価値判断は社会的なものである)ではなく、生きることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ、という話だ。ここでは、善悪の二項対立として問題を提示しているのではなく、「正しさ」に対立するものが何であるのかが、まず、問われることになる。

 そのように考えると、これは正邪の二項対立ではなく、正誤の二項対立の問題として考えるのが「正しい」ように思われる。

 つまり、問いは、

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

…という形になる。

 

 この問い方の「正しさ」の検討に入る前に、ここでの「生き物」という語の対象について考えておく必要がある。

 ここでは、いわゆる「生き死に」の問題が問われているわけだが、それはあくまでも生物の個体上に生起する出来事の話として想定されているはずである。もちろん、多細胞生物の場合、現象としては細胞の生死の問題でもあり得るし、種レベルでの維持存続の問題としても「生死」は語り得るものだ。

 しかし、実際には、あるいは現実には、「生き物にとって」という際に「生き物」として想定されているのは生物の個体であって、細胞でもなければ生物種でもないことに、まずは気付いておく必要がある。

 

 

 そのように考えた上で、あらためて(個体としての)「生き物」とはどのような存在であるのかを問うてみると、

  生き物とは、生きて死ぬものである

  生き物とは、生まれ、生き、死ぬものである

…との定義的記述が得られる。

 もちろん、ここでは「生きている」とはどのような状態であり、それに対し「死ぬ」とはどのような状態であるかが問題となるわけだが、今回はそこには立ち入らないでおく。

 

 さて、この、

  生き物とは、生きて死ぬものである

あるいは、

  生き物とは、生まれ、生き、死ぬものである

…との定義からすれば、先に示した、

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

…との問いへの答えも自ずから導かれることになるであろう。

 まず、問い自体が修正される必要がある。この問いは、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…となるであろうし、「生き物」であることの定義からすれば、この問いへの答えとしては、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは誤りではない

…と記述されるものとなるであろう。すなわち、正誤の二項対立の問題として考えれば、「正しい」と判断されるものと言い得るであろう。

 

 もちろん、これは言葉の上での話である。しかし、言葉を用いずしては、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…との問い自体が存在しないのである。

 

 つまるところ、これは人間にとっての問いなのである。

 

 

 

今回は、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

…という問いに向き合うことから始め、その問いを精密化することを試みたわけだ。当初の問いは、

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…と修正され、問いに対する答えとしての、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは誤りではない

…との認識が導かれた。すなわち、当初の問いにおける「正しさ」を、正誤の二項対立の問題として考えれば、「正しい」と判断されるものと言い得るであろう。すなわち、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しい

…という言明となる。

 

 当初の展開の中では、

  生きることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ

…という言い方をしたが、これも、

  生まれ、生き、死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ

…として精密化され、その答えとしては、

  生まれ、生き、死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…ということになる。

 

 ここにあるのは、「生き物」であること(ここでは多細胞生物の個体が想定されている)が、ただ単に「生きる」ことで完結しているのではなく、「死」との組合せにおいて完結するのだという認識である。

 当然の話と思うであろうが、しかし、当初の、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

…との問い方においては、生物の生が、生と死の組み合わせにおいて完結するという意識は明瞭ではない。

 

 さて、ここで重要なのは、死ぬことの正しさである。

 死によって生を完結させることの、生き物としての「正しさ」なのである。

 つまり、

  生まれ、生きることだけでは、(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…とは言えないのだ。「生きること」だけの追求は、生物としては「誤り」なのである。

 

  死ぬべき時が来たら死ぬ

 それこそが、生物として正しい「生」のあり方と言うべきであろう。先の表現を精密化すれば、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言明となる(註:1)。

 もちろん、これは人間以外の生物にとって(意識されることはないであろうが)常に実行されていることであり、一方で現代人が最も抵抗するであろう認識のあり方なのかも知れない。現代社会で医療に求められているのは、人間の現実から死を徹底的に遠ざけることである事実からすれば。

 

 

 

【註:1】
 「生き物(多細胞生物の個体)」とは、

  既に生まれてしまったもので、

  現に生きているもので、

  いつか死ぬべき時には死ぬもの

…として記述されるものであり、一文にまとめれば、

 既に生まれてしまったから現に生きていてやがて死ぬもの

…ということになる。

  当面の問題として、生き物がしているのは「現に生きていること」であろうか?

 で、「現に生きていること」は、やがて死ぬことを免れない。

 不老のナントカクラゲも、老化では死ななくても、病気なり怪我なりでは死ぬわけで、死なない「生き物」は、もしそんなものがいるとすれば、「生き物」とは別の何か、ということになるのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/07 22:51 → http://www.freeml.com/bl/316274/205265/
     投稿日時 : 2013/07/08 18:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/205284/

 

 

|

« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 1 | トップページ | 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/52610802

この記事へのトラックバック一覧です: 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2:

« 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 1 | トップページ | 「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3 »