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2013年7月16日 (火)

フタバから遠く離れて・無人地帯・A2

 

 

 東京経済大学での、「カルチュラル・スタディーズ学会」の「カルチュラル・タイフーン 2013」に参加するために、本日(2013年7月14日)は午前中に家を出た。

 目的は、「シネマ・タイフーン : 記憶の表象、表象の記憶―「フクシマ」を撮るということはどういうことか」という企画への参加である。

 

  舩橋淳 監督 『フタバから遠く離れて Nuclear Nation』 2012

  藤原敏史 監督 『無人地帯 No Man’s Zone』 2011

  イアン・トマス・アッシュ 監督 『A2』 2013

 

 この三本の上映と、上映後にニコラ・リスティンさんを司会としての三人の監督のディスカッション。

 

 

 

 『フタバから遠く離れて』は、福島県双葉町から埼玉県の高校校舎だった建物に避難した人々の日々を記録したもの。以前に観た松林要樹監督の『相馬看花』が、東日本大震災津波・原発事故被災地巻き込まれ型のドキュメントとすれば、こちらは避難者との距離感を保とうとしつつ(避難者のプライベートにまで踏み込むことへの躊躇と言えようか)、原発災害の深刻さを避難先での双葉町の人々の姿から描いた作品。

 「原発災害の深刻さ」ついて付言すると、埼玉県の元高校の校舎に暮らす避難者の姿は、一過性の報道により取り上げられた震災当初以降は「ニュース」ではなくなり、その存在そのものが忘れ去られているような状況に立ち至る。

 報道されなければ、日本人の意識から、彼らが原発災害避難者として存在する事実もが失われてしまうのである。

 その事実が、抑制的な画面から伝わってくる。

 冒頭で、町ぐるみでの避難の状況を「ノアの箱舟」と喩えていたが、しかし、これは、あまりふさわしい比喩とも思えない。元高校の校舎での千人を超える町民の避難生活は、むしろ「強制収容所」でのそれに近いものだ。まったくプライバシーのない場所で、しかも期限のない集団生活を強いられているのだ。

 確かに食事は用意され「飢え」の心配はないとは言えるし(しかし、毎食が市販の冷えた弁当である)、強制労働が課せられているわけではないとも言えるにしても(しかし、個人としての生活基盤がまったく存在しないままの生活である)、そのプライバシーのない空間(仕切りのない教室の床上に数家族が暮らすのである)には強制収容所との本質的違いはないし、そこに流れる無期限の時間(解放=帰還の日までの期限、つまり希望は示されていない)は、強制収容所のそれと同じである。

 

 『無人地帯』もまた、東日本大震災のもたらした原発災害により、住むべき、住める地であるべき故郷から引き離されてしまうことの意味を、人々の語る言葉と土地の映像(その美しさ!)を通して描く(同作品については、あらためて「藤原敏史監督の『無人地帯』(2012)を再び観る 」として論じてある―2014年2月)。こちらは、土地の人の語りで構成されるだけではなく、英語のナレーションが付くのだが、ナレーションでは映像に対するメタレベルでの思索が語られるという特徴を持つ(ミラン・クンデラの小説のように)。映像記録というものの意味をメタレベルで問いながら、無人地帯と化した、そして無人地帯と化していく、福島の震災津波被害に重ねての原発事故被災地の情景が映し出されるのである。

 『無人地帯』でのメタレベルでのナレーションが問うことのひとつは、

  映像が存在しなければ事実も存在しないものとして理解されてしまう

そして、

  どのような映像も消費と忘却の対象でしかない

…という、そんな、私たちの認識の構造である。

 映像の不在は、映像の不在が「事実も存在しない」こととイコールになってしまう、そんな私たちの認識構造への想像力への回路すらあらかじめ奪ってしまう。

 監督は日本人であり、男性であるのに対し、「メタレベルでのナレーション」は英語であり、それも女性によるものである。そのことによって、映像は、より相対化されて、観客の前に示される(メタレベルでのナレーションが英語である意味は、日本人の観客にとって、より大きく機能するはずである)。

 そして、この、

  映像が存在しなければ事実も存在しないものとして理解されてしまう

  どのような映像も消費と忘却の対象でしかない

…という問題は、報道陣が去った後は日本社会から忘却され、埼玉県の元高校に放置され続ける、『フタバから遠く離れて』の避難者の姿に重なる。

 

 『A2』は甲状腺検査のレベルで、のう胞が発見された段階を示す数値。伊達市に住む家族の姿を通して、不十分な除染への不安や、甲状腺被曝の影響(もちろん甲状腺がん発症リスクの問題である)への不安の中で生活し続けることが、更に不安の再生産状況を生み出してしまう現実を記録している。監督は撮影に応じたそれぞれの家族に密着し、母親達の「不安」に密着することで、「不安」が生み出す「不安」の増殖という、原発事故と事故処理における当事者(東電および行政)の当事者能力の欠如(被災者=被害者の境遇への想像力の欠如でもある)と無責任に大きく起因する問題を描く。

 被写体となった母親たちの抱く「不安」への密着は、ドキュメンタリー作家と被写体との距離を失わせ、作家が被写体と一体化したような状況を生み出してしまう。

 被写体との距離の喪失は、映像を相対化するメタレベルでの思考を作家から奪いかねない。

 その危うさが、この作品の魅力であると同時に問題点である。

 上映後のディスカッションの際の会場からの指摘にもあったように、甲状腺検査の「A2」判定については、その後の対照群検査により、放射線被曝と無関係に高率で発生する事実が確認されている。のう胞の発生と癌化の関係は直線的ではないのである。

 その事実への言及なしに映像作品が独り歩きしてしまうことは危険である。

 「A2」判定が放射線被曝と関係なく、実際には広く存在するという、対照群調査の結果(それが撮影時期以後の話であるにしても)がある以上、現状では、伊達市の子供たちの甲状腺検査での「A2」判定を、放射線被曝との直接的因果関係で把握する段階にはないということは考慮しておく必要がある(因果関係は、まだ可能性としてしか存在しないのである)。

 映像は、あくまでもカメラの前で展開される事実のみを撮影しているのだが、 母親たちの因果関係に対する心配と一体化した、被写体と距離のない取材方法は、

 放射線被曝→「A2」判定→甲状腺がん発症

…という図式が既定の事実のような印象を観客に与えかねないし、そういう情報(のみ)を欲している人々の中では事実として「拡散」されてしまうであろう。カメラの前の「事実」の記録がプロパガンダに転化してしまいかねないのである。言うまでもなく、母親たちの抱く放射線被曝への不安は正当なものである。しかし、彼女たちの前にあるカメラの存在は、不安の増幅に役立ち、増幅された不安と一体になったカメラの映像からは、不安を対象化しようとする姿勢(映像を相対化するメタレベルでの思考)が、既に失われてしまっているように見えてしまう。

 

 

 

 上映後のディスカッションも、それぞれの監督の持ち味が出て面白かった。

 ドキュメンタリー作品と被写体の関係性という、ドキュメンタリー作品の持つ(いわば)永遠の問題について、また、当初のスタンスが撮影の過程で、そして上映後の反応で変化していく話も加えられ、こちらの想像力も十二分に刺激された。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/07/14 23:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/205490/

 

 

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