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2013年7月

2013年7月28日 (日)

『私はシベリヤの捕虜だった』を観る

 

 本日(7月27日)、1952(昭和27)年に制作公開された日本映画『私はシベリヤの捕虜だった』を観る機会を得た(「長らくその存在が不明となっていた映画」として紹介されていた作品である)。

 成蹊大学アジア太平洋研究センター主催の「映画を通じて知るアジア大平洋の世界」の第三回目として、監督:阿部豊・志村敏夫、制作:シュウ・タグチ・プロダクションによる『私はシベリヤの捕虜だった』が上映されるというので、吉祥寺の成蹊大学まで出かける。

 

 

 

 上映に先立ち、富田武教授による、映画の背景としてのシベリア抑留、そして製作当時の時代状況についての簡単なレクチャーがあった(作品についての先入観につながらないように配慮された、文字通りに簡単なレクチャーである)。

 ちなみに上映案内のチラシには、「制作された1952年当時、日本は、なおGHQの影響下にあり、国際情勢としては、朝鮮戦争や東西冷戦の激化がありました。その点をご理解の上でご鑑賞ください」との一文が添えられており、ソ連による日本軍将兵のシベリア抑留を描くことを通しての「反共プロパガンダ」的作品という期待を、つい、私などは抱いてしまうわけである(また、プロローグとエピローグ部分に欠落があるとも書かれており、作品の上映としては完全なものではないということである)。

 

 

 上映が始まり(もちろんモノクロ映像)、まず驚かされるのが、作品タイトル(あるいは冒頭のキャプション)の文字で、日本語でも英語でもロシア語でもなく(多分)タイ語なのだ。荒涼とした雪のシベリア(ロケ地は北海道だったという)の風景に、タイ語の文字がかぶさるわけである。

 この問題は上映後の質疑でも取り上げられたが、今回発見されたフィルムが(国内上映用のものではなく)タイ(もっとも、現時点では、タイ語の文字であると確定されたわけではないが)での上映用のものである可能性が指摘されていた(米国の冷戦プロパガンダの一環としてのシベリア抑留体験映画上映との位置付けである)。

 

 ストーリーとしては(註:1)、日本軍としての編成を残したまま(つまり将校から初年兵までの階級関係を残したまま)、シベリアの収容所での強制労働を課せられた部隊の将兵の見舞われた過酷な運命を描いたものということになる(もちろん、この部隊が特異ということではなく、シベリアではありふれた話なのだが)だろう。

 主人公の親しい戦友が、厳しい労働が続く中、(階級関係の残された部隊での)下士官による情に欠けた取り扱いにより命を落とす。

 もちろん、ソ連が抑留者に課した強制労働自体が根本的な問題であるはずなのだが、日本軍の組織のあり方が、ここでは影を落としているようにも見えるわけである。

 そんな日々が続くが、やがてダモイ(帰国)の決定が告げられ、部隊は列車で移送される。しかし、移送先は帰国船の待つ港ではなく、別の収容所であった。

 落胆した将兵を新たな収容所で待ち受けていたのは、元日本軍兵士による民主グループ(親ソ連の、つまりソ連共産党に代表される共産主義に親和的なグループ)によって管理された世界であった(将校と兵士は別にされ、それまでの階級による部隊の統制は失われる)。

 収容所もスタハノフ運動の渦中に取り込まれ、つまるところ、それが民主グループを通しての労働強化でしかないことが明らかとなって行く(そしてノルマの達成率に対応した食糧配給量は、部隊内の人間関係に分断をもたらす)。

 そんな中、主人公は民主グループに同調しない態度を貫くのだが、かつての下士官たちは民主グループに接近し、民主グループへの帰依者として、再び部隊を支配する側としての利益を享受し始める。過酷な労働を回避し、早期の帰国(ダモイ)の可能性を大きくするためにも、民主グループに同調することは有利な選択なのである(もちろん自己に特に有利な、つまり利己的な選択は、他者には不利な状況として帰結する)。

 それでも、部隊にも帰国の機会が訪れ、ナホトカに集結するのだが、部隊に合流した将校は兵士たちによる人民裁判(もちろん、その背後には民主グループの存在がある)の対象とまでなってしまう(そこでも、下士官たちは自身に有利なように立ち回る)。

 

 ソ連による不当な抑留があり、ソ連により課せられた不当な強制労働があり、ソ連に同調することで勢力を誇る民主グループによる不当な収容所内の統制がある。

 確かに、冷戦下での反共(反ソ連)プロパガンダとしての機能は備えているのかも知れない。

 しかし、強く印象付けられるのは、旧軍以来の「要領」で立ち回り、収容所内での自らを有利な立場に置こうとし、実際に有利な立場に居続ける連中の存在である(註:2)。

 天皇の軍隊が、スターリンの収容所内の軍隊へと姿を変えようが、「要領のよさ」こそがものをいう実質に変化はないのである(註:3)。

 

 

 上映後に発言した元抑留者の方も、シベリア抑留体験の辛さの核心として、飢え、寒さ、重労働に加えて、人間関係の破壊と、帰国後のレッドパージによる社会復帰の困難を語っていた。

 「日本人同士の醜い悲惨な実態」という言い方が強く印象に残っているが、映画の中では、その現実が実感をもって再現されていたとも評価していた(そして「観ているのが実に辛かった」とも語る)。

 ソ連による処遇の問題、共産主義支配の問題を抜きに語ることは出来ないことは確かであるが、しかし、日本人同士の人間関係のあり方(日本人としての「要領のよい」処世術)のもたらす問題も、(制作者の側が意図してのことであるかどうかはわからないが)実に見事に描き出されていたようにも思われる。タイ(そして東南アジアでの日本軍占領地)での上映に際し、その地の人々にどのように映画が(映画の中に描かれた日本人の姿が、日本軍将兵の姿が)受け取られていたのかは興味深いところでもある。

 

 

 

【註:1】
 ネット上で紹介されているストーリーとは、若干の違いがある。
 ネット上で紹介されている「あらすじ」が脚本段階のものであり、公開時の作品との相違が生じたものなのかどうか(あるいはタイ上映用バージョンと日本での上映用の編集との違いなのか)については、私には判断出来ない。

【註:2】
 主人公は民主グループに同調しないことで筋を通す(しかし、それは決定的な不利益を彼にもたらす)のであり、観客はその主人公の姿に共感を持つことになる。主人公は、確かに、民主グループに代表される共産主義の現実に同調しない姿勢を貫く人物として描かれてはいるわけだが、むしろ主人公が同調しないのは「要領」が幅を利かす日本の軍隊社会の本質的あり方についてであるようにも感じられてしまうのである。

【註:3】
 上映後の質疑によれば、製作者のタグチ氏もシベリア抑留を体験しているというし、配布されたレジュメに転載された当時の映画評によれば、撮影の藤井静氏もシベリアでの収容所生活からの帰還者だという(そのカメラワークは見事である)。
 1952年の作品であるということは、出演者とスタッフ共に、シベリア抑留者の同時代人であり、その多くは皇軍への従軍体験を持っていたであろうし、若くても少国民としての戦時生活の体験者なのである。
 これは演出以前の問題として(自身の実体験として、そして自明の前提として)、作品内の皇軍将兵の姿に反映されていたはずである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/07/27 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/205909/

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2013年7月27日 (土)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 3

 

 前回の最後には、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言明に至った。

 この言明は、多細胞生物の個体の「生」のあり方から導き出されたものだ。そこにあったのは、多細胞生物の個体の一生というものをどのように描くことが出来るのか、という観点である。

 この言明に追加して、

  生まれ、生き、子を残し、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言い方も可能であるし、それは、より精密な言い方であるようにも感じられるかも知れない。

 

 しかし、この生殖(子を残す)という問題は、どこまで個体にとっての問題なのであろうか?

 生殖の問題というのは、むしろ、種レベルでの生物の存続の問題であって、個体レベルの問題としての「生物としての適切性」という観点からは、いささかの留保が必要な事象のようにも思われる。

 

 実際問題として考えれば、個体レベルでの出来事としては、多くの生き物は子孫を残す前に他の生き物の食物となり死を迎えるのが、生物としての現実というものである。個体レベルで考えれば、生殖と関係なく死は現実化し、個体相互の問題として考えれば、他の個体の死は自身の食料の確保を意味するものでもある。生殖と関係なく、個体の生死の問題は語り得るものであるように思われる。ある個体の死は、別の個体の生の存続を意味してしまうのである。

 

 そのような観点から先ほどの言明を見直せば、そしてそこに修正の必要があるのだとすれば、

  生まれ、生き、可能であれば子を残し、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…との言い方となるだろうか。

 しかし、個体レベルの問題として考えれば、食べることも生殖行為も、個体として「生きる」という過程に含まれてしまっているようにも思われるのである。

 そのように考えてしまえば、やはり当初の、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言い方で十分のようにも思われて来るのである。

 

 むしろ問題は、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるのか?

…として記述されるべきものではないのか?

 そして、それを問うのはあくまでも人間である我々なのであり、我々にとっての問題は、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることは、人間として「正しいこと」であるのか?

…として記述されるものとなるのであろう。

 

 

 

 さて、今回、私はあらためて、

 

  しかし、個体レベルの問題として考えれば、食べることも生殖行為も、個体として「生きる」という過程に含まれてしまっているようにも思われるのである。
 そのように考えてしまえば、やはり当初の、

   生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

 …という言い方で十分のようにも思われて来るのである。

 

…というまとめ方をしたみたわけだが、その点についてもう一度考えてみたい。

 

 「死ぬべき時が来たら死ぬこと」という表現であるが、これは、それに対し「死ぬべき時が来ても死なないこと」との選択肢が用意されており、「死ぬこと」の方を選択するという話ではない。

 「生き物」であることは「生きている」状態に由来し、「死」が意味するのは「生きている状態の終焉」である。生き物の「死体」とは、それが「かつて生きていた」存在であったことに由来する表現である。

 「生きている過程」は、「生きている状態の終焉」すなわち「死」によって終了するように事実としてなっており、それは選択の対象ではないのだ。

 

 生きていることは状態であり、過程である。生き物であることが意味するのは、生きていることを目的として存在しているということではなく、生きている状態にあり、生きている過程の渦中にあるということを意味すると言うべきではないのか?

 それが個体としての生き物(多細胞生物の個体レベルでの存在)にとっての「生」のありようではないのか?

 

 生物の個体にとって、食は個体の「生きている状態」の維持の手段として「生」の過程に組み込まれており、生殖もまた「生」の過程での(個体の行動として組み込まれた)一つの現象であって、どちらも個体にとっての目的として位置付けられるものではないし、「生きていること」自体も「目的」として位置付けられる性格のものではないように思われる。

 

 個体が維持され、個体が生殖に成功することは、種レベルでの利益には確かに合致するものであり、種レベルにおいてこそ合目的的行為として位置付けられるものとして考える方が、事態の理解として実際的なのではないだろうか?

 そもそも種の存続というレベルでは、個々の個体の生死は問題とならないのである。「生死」の問題が前景化するのは、それが個体レベルでの個々の個体にとっての問題としてであり、個体としての存在である我々自身の問題としても切実さを持っているからなのである。

 

 

 人間の特異性は、「生きている状態」にある自身を自覚的に意識し、「生きている状態」の維持を「生きている過程」の目的として位置付けるようになってしまっているところにある。危険の回避は、「生きている状態」の存続の障害となる事態を回避することとして、他の生き物においても組み込まれている行動であるが、そこに目的意識が伴われているとは考え難い。人間の場合は、自意識の中で「生きている状態の維持」が目的化され、様々な行動(そして意思決定)に反映されているのではないだろうか?

 そこにこそ、我々にとっての問題が、

  生まれ、生き、殺される時が来たら殺されることは、人間として「正しいこと」であるのか?

…として記述されるものとなることへの起源がある。

 

 

 「殺される」とは、人間において目的化された「生きている状態の維持存続」に対する、外部からの強制終了を意味する事態である。

 殺すのは他人であり、他人の都合により「生きている状態の強制終了」が引き起こされるのだとすれば、(「生きている状態の維持存続」を既に目的化している)殺される当人の都合には反する事態なのである。

 

 他人の都合が当人の都合に優先されるべき理由はない。他人の利益を当人の利益に優先させるべき理由は、原理的には存在しないはずである。ここでの他人と当人の立場の相互変換可能性を、社会的合意としての、

  人は人を殺してはいけない

…との、人類に広く共有された社会規範の起源として位置付けておくべきではないだろうか?

 シリーズの初回で示したように、

  もちろん、社会を構成する多くの人間は自分が他人から殺されることを願ってはいないし、親密な者の死を願うこともないのであって、社会の多数者の「気持ち」の問題としても、「人は人を殺してはいけない」という社会規範の存在は適合的である。

…ということなのである。

 

 殺人の禁止は相互の利益に合致し、殺人の奨励は相互の利益に反するものとして、社会の多数者に理解されていると考えるのが現実的理解というものであるように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/09 23:28 → http://www.freeml.com/bl/316274/205317/
     投稿日時 : 2013/07/10 14:13 → http://www.freeml.com/bl/316274/205336/

 

 

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2013年7月26日 (金)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 2

 

 前回の最後には、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

…と書いたわけだが、その直前には、

  ここでは「正しい」という言葉の意味が問われてしまうことになる。
  誰にとっての「正しさ」であるのか?

…という問いも示しておいた。

 あらためて問題を示せば、

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

…ということになるであろうか? ここでは、問いを、

  生き物にとって、生きることは「善なること」であるのか?

…とはしていない。

 問題は、生きることが善であるかどうか、という点(善悪の価値判断は社会的なものである)ではなく、生きることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ、という話だ。ここでは、善悪の二項対立として問題を提示しているのではなく、「正しさ」に対立するものが何であるのかが、まず、問われることになる。

 そのように考えると、これは正邪の二項対立ではなく、正誤の二項対立の問題として考えるのが「正しい」ように思われる。

 つまり、問いは、

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

…という形になる。

 

 この問い方の「正しさ」の検討に入る前に、ここでの「生き物」という語の対象について考えておく必要がある。

 ここでは、いわゆる「生き死に」の問題が問われているわけだが、それはあくまでも生物の個体上に生起する出来事の話として想定されているはずである。もちろん、多細胞生物の場合、現象としては細胞の生死の問題でもあり得るし、種レベルでの維持存続の問題としても「生死」は語り得るものだ。

 しかし、実際には、あるいは現実には、「生き物にとって」という際に「生き物」として想定されているのは生物の個体であって、細胞でもなければ生物種でもないことに、まずは気付いておく必要がある。

 

 

 そのように考えた上で、あらためて(個体としての)「生き物」とはどのような存在であるのかを問うてみると、

  生き物とは、生きて死ぬものである

  生き物とは、生まれ、生き、死ぬものである

…との定義的記述が得られる。

 もちろん、ここでは「生きている」とはどのような状態であり、それに対し「死ぬ」とはどのような状態であるかが問題となるわけだが、今回はそこには立ち入らないでおく。

 

 さて、この、

  生き物とは、生きて死ぬものである

あるいは、

  生き物とは、生まれ、生き、死ぬものである

…との定義からすれば、先に示した、

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

…との問いへの答えも自ずから導かれることになるであろう。

 まず、問い自体が修正される必要がある。この問いは、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…となるであろうし、「生き物」であることの定義からすれば、この問いへの答えとしては、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは誤りではない

…と記述されるものとなるであろう。すなわち、正誤の二項対立の問題として考えれば、「正しい」と判断されるものと言い得るであろう。

 

 もちろん、これは言葉の上での話である。しかし、言葉を用いずしては、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…との問い自体が存在しないのである。

 

 つまるところ、これは人間にとっての問いなのである。

 

 

 

今回は、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

…という問いに向き合うことから始め、その問いを精密化することを試みたわけだ。当初の問いは、

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

  生き物にとって、生きることは正しいことなのか、誤りなのか?

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しいことなのか、誤りなのか?

…と修正され、問いに対する答えとしての、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは誤りではない

…との認識が導かれた。すなわち、当初の問いにおける「正しさ」を、正誤の二項対立の問題として考えれば、「正しい」と判断されるものと言い得るであろう。すなわち、

  生き物にとって、生まれ、生き、死ぬことは正しい

…という言明となる。

 

 当初の展開の中では、

  生きることが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ

…という言い方をしたが、これも、

  生まれ、生き、死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」であるかどうかだ

…として精密化され、その答えとしては、

  生まれ、生き、死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…ということになる。

 

 ここにあるのは、「生き物」であること(ここでは多細胞生物の個体が想定されている)が、ただ単に「生きる」ことで完結しているのではなく、「死」との組合せにおいて完結するのだという認識である。

 当然の話と思うであろうが、しかし、当初の、

  そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

  生き物にとって、生きることは「正しいこと」であるのか?

…との問い方においては、生物の生が、生と死の組み合わせにおいて完結するという意識は明瞭ではない。

 

 さて、ここで重要なのは、死ぬことの正しさである。

 死によって生を完結させることの、生き物としての「正しさ」なのである。

 つまり、

  生まれ、生きることだけでは、(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…とは言えないのだ。「生きること」だけの追求は、生物としては「誤り」なのである。

 

  死ぬべき時が来たら死ぬ

 それこそが、生物として正しい「生」のあり方と言うべきであろう。先の表現を精密化すれば、

  生まれ、生き、死ぬべき時が来たら死ぬことが(生物としての適切性の問題として)「正しいこと」である

…という言明となる(註:1)。

 もちろん、これは人間以外の生物にとって(意識されることはないであろうが)常に実行されていることであり、一方で現代人が最も抵抗するであろう認識のあり方なのかも知れない。現代社会で医療に求められているのは、人間の現実から死を徹底的に遠ざけることである事実からすれば。

 

 

 

【註:1】
 「生き物(多細胞生物の個体)」とは、

  既に生まれてしまったもので、

  現に生きているもので、

  いつか死ぬべき時には死ぬもの

…として記述されるものであり、一文にまとめれば、

 既に生まれてしまったから現に生きていてやがて死ぬもの

…ということになる。

  当面の問題として、生き物がしているのは「現に生きていること」であろうか?

 で、「現に生きていること」は、やがて死ぬことを免れない。

 不老のナントカクラゲも、老化では死ななくても、病気なり怪我なりでは死ぬわけで、死なない「生き物」は、もしそんなものがいるとすれば、「生き物」とは別の何か、ということになるのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/07 22:51 → http://www.freeml.com/bl/316274/205265/
     投稿日時 : 2013/07/08 18:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/205284/

 

 

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2013年7月25日 (木)

「なぜ人は人を殺してはいけないのか」問題の構図 1

 

 「人は人を殺してはいけない」という言明については、社会的合意のレベルの問題として考えるのが実際的であって、社会に超越した倫理的命令として取り扱おうとする試みには無理があるように思われる。

 

 

 「人は人を殺してはいけない」という規範を持たない社会を私は知らないが、しかしその規範には常に例外状態が存在していることは知っている。

 戦争における敵(社会の外部の人間である)、「人を殺してはいけない」という規範に社会内で背いた者(いわゆる殺人犯である)、ある場合には姦通の当事者(ただし女性のみである場合が多い)、ある場合には権力者への批判を口にしたと見なされた者は、社会により、その社会の規範に基づき、合法的に殺されることになる。

 

 「人は人を殺してないけない」という命題は、多くの社会の共通に保有する規範として見出されるものであるが、常に例外状態に伴われており、我々がまず確認すべきは、「人は人を殺してはいけない」という規範が社会に超越した倫理的命令などではなく、社会的合意に過ぎないという事実である。

 

 

 しかし、ここで、「人は人を殺してはいけない」という規範が社会に超越した倫理的命令などではなく、社会的合意に過ぎないということが事実であるからといって、規範の存在を過小評価したり、悲観的な現実として考える必要はない。

 むしろ、それぞれに例外状態に伴われているにせよ、「人は人を殺してはいけない」という社会的合意はほとんどの社会(人類社会と言い直しても間違いではないだろう)に共有されている合意でもあるのだ。

 つまり、「人は人を殺してはいけない」という命題は、社会的に有用なもの、社会の存続に有用なものとして理解されているからこそ、人類に共有された規範として存在している。そのようにも考えられるのである。

 

 

 人を殺したい個人は存在し、他人に殺されたいと願う個人も存在し、自身を殺してしまう個人も存在するにせよ、つまり例外的個人は常に存在するにせよ、社会的合意というレベルでは、「人は人を殺してはいけない」という命題は(例外状態の規定を常に伴いながらも)社会的規範として機能しているということなのだ。

 もちろん、社会を構成する多くの人間は自分が他人から殺されることを願ってはいないし、親密な者の死を願うこともないのであって、社会の多数者の「気持ち」の問題としても、「人は人を殺してはいけない」という社会規範の存在は適合的である。

 社会は例外的個人を超えた場所に存在し、その社会が例外状態を規定するのだ。

 

 

 「人は人を殺してはいけない」という命題を社会に超越的な倫理的命令として取り扱おうとする試みが失敗するのは、社会的視点が欠落しているからであるように思える。

 人間の問題を考えるに際し、個人の意思にのみ着目したり、社会にさえも超越的な倫理を想定することからは、人間としての行為を規定する社会の存在への想像力が失われてしまう結果が導かれる、ということなのかも知れない。

 

 

 

 さて、ここであらためて、先に示した、

 

  つまり、「人は人を殺してはいけない」という命題は、社会的に有用なもの、社会の存続に有用なものとして理解されているからこそ、人類に共有された規範として存在している。そのようにも考えられるのである。

 

…という話を出発点として問題を考えてみたい。

 

 殺人の禁止に対し、殺人の奨励を規範として採用する社会を考えれば、その社会の存続は、殺人を禁止する社会に比べて不利なものとなるだろう。

 社会を安定した状態で維持することに、殺人の禁止は役立つはずだ。

 そこでは同時に、

  自分が他人から殺されることを願ってはいない
  親密な者の死を願うこともない

…という社会の多数者に属する個人の気持ちも満たされるはずである。

 社会的利益となり、多くの個人の利益ともなる「殺人の禁止」は、社会規範として合理的なものなのである。

 

 「殺人の禁止」は例外的個人のケースを除けば、社会というレベルにおいても個人というレベルにおいても、自らの存続に適合的な規範として理解され、受容されることになるだろう。

 「殺人の禁止」は、ある場合には神の命令という形式で社会規範化され、ある場合には法的条項として社会規範化されることになる。

 そこにあるのは社会的合意の表現形式の違いに過ぎない。

 

 

 この「殺人の禁止」を構成するのは、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人を殺さない。

…という形式の論理ではなく、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。

…という形式の論理であろう。より詳しく言えば、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人を殺さない。

…とは、

  私は殺されたくない。
  だから、
  私は人を殺さない。

…として記述されるが、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。

…について「私」の行為規範として記述するならば、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。

…ということになるはずだ。

 

 「殺人の禁止」を構成するのが、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。

…という論理だとしても、この論理は「正当防衛」による殺人に対しては一義的ではない。

 

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  しかし、
  私が殺されるより、
  私が生き延びることを選ぶ。
  だから、
  その際には人を殺すかも知れない。

 

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

 

 そのどちらもが成立するはずである。

 そして、多くの社会では前者を採用している。そこでは、正当防衛による殺人は容認されるのである。

 しかし後者を採用する社会が皆無というわけではない。ナチス政権下の「エホバの証人」は後者を採用していたのである。そして彼らは殺されていった。

 

 

 現在のところ、多くの社会では、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

…という行為規範は例外的個人のものとして理解されているのであろう。

 しかしその行為規範が社会内での多数者のものとなれば、その社会は、

  私は殺されたくない。
  だから、
  人は人を殺すべきではない。
  だから、
  私も人を殺さない。
  だから、
  たとえ私が殺されても、
  私は人を殺さない。

…との論理の下に、「正当防衛」の合法性を否定することになるだろう。

 

 どちらが「正しい」選択であるのか?

 

 ここでは「正しい」という言葉の意味が問われてしまうことになる。

 誰にとっての「正しさ」であるのか?

 そもそも生きることは「正しい」ことであるのか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、
     投稿日時 : 2013/07/03 21:24 → http://www.freeml.com/bl/316274/205139/
     投稿日時 : 2013/07/04 22:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/205164/

 

 

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2013年7月16日 (火)

フタバから遠く離れて・無人地帯・A2

 

 

 東京経済大学での、「カルチュラル・スタディーズ学会」の「カルチュラル・タイフーン 2013」に参加するために、本日(2013年7月14日)は午前中に家を出た。

 目的は、「シネマ・タイフーン : 記憶の表象、表象の記憶―「フクシマ」を撮るということはどういうことか」という企画への参加である。

 

  舩橋淳 監督 『フタバから遠く離れて Nuclear Nation』 2012

  藤原敏史 監督 『無人地帯 No Man’s Zone』 2011

  イアン・トマス・アッシュ 監督 『A2』 2013

 

 この三本の上映と、上映後にニコラ・リスティンさんを司会としての三人の監督のディスカッション。

 

 

 

 『フタバから遠く離れて』は、福島県双葉町から埼玉県の高校校舎だった建物に避難した人々の日々を記録したもの。以前に観た松林要樹監督の『相馬看花』が、東日本大震災津波・原発事故被災地巻き込まれ型のドキュメントとすれば、こちらは避難者との距離感を保とうとしつつ(避難者のプライベートにまで踏み込むことへの躊躇と言えようか)、原発災害の深刻さを避難先での双葉町の人々の姿から描いた作品。

 「原発災害の深刻さ」ついて付言すると、埼玉県の元高校の校舎に暮らす避難者の姿は、一過性の報道により取り上げられた震災当初以降は「ニュース」ではなくなり、その存在そのものが忘れ去られているような状況に立ち至る。

 報道されなければ、日本人の意識から、彼らが原発災害避難者として存在する事実もが失われてしまうのである。

 その事実が、抑制的な画面から伝わってくる。

 冒頭で、町ぐるみでの避難の状況を「ノアの箱舟」と喩えていたが、しかし、これは、あまりふさわしい比喩とも思えない。元高校の校舎での千人を超える町民の避難生活は、むしろ「強制収容所」でのそれに近いものだ。まったくプライバシーのない場所で、しかも期限のない集団生活を強いられているのだ。

 確かに食事は用意され「飢え」の心配はないとは言えるし(しかし、毎食が市販の冷えた弁当である)、強制労働が課せられているわけではないとも言えるにしても(しかし、個人としての生活基盤がまったく存在しないままの生活である)、そのプライバシーのない空間(仕切りのない教室の床上に数家族が暮らすのである)には強制収容所との本質的違いはないし、そこに流れる無期限の時間(解放=帰還の日までの期限、つまり希望は示されていない)は、強制収容所のそれと同じである。

 

 『無人地帯』もまた、東日本大震災のもたらした原発災害により、住むべき、住める地であるべき故郷から引き離されてしまうことの意味を、人々の語る言葉と土地の映像(その美しさ!)を通して描く(同作品については、あらためて「藤原敏史監督の『無人地帯』(2012)を再び観る 」として論じてある―2014年2月)。こちらは、土地の人の語りで構成されるだけではなく、英語のナレーションが付くのだが、ナレーションでは映像に対するメタレベルでの思索が語られるという特徴を持つ(ミラン・クンデラの小説のように)。映像記録というものの意味をメタレベルで問いながら、無人地帯と化した、そして無人地帯と化していく、福島の震災津波被害に重ねての原発事故被災地の情景が映し出されるのである。

 『無人地帯』でのメタレベルでのナレーションが問うことのひとつは、

  映像が存在しなければ事実も存在しないものとして理解されてしまう

そして、

  どのような映像も消費と忘却の対象でしかない

…という、そんな、私たちの認識の構造である。

 映像の不在は、映像の不在が「事実も存在しない」こととイコールになってしまう、そんな私たちの認識構造への想像力への回路すらあらかじめ奪ってしまう。

 監督は日本人であり、男性であるのに対し、「メタレベルでのナレーション」は英語であり、それも女性によるものである。そのことによって、映像は、より相対化されて、観客の前に示される(メタレベルでのナレーションが英語である意味は、日本人の観客にとって、より大きく機能するはずである)。

 そして、この、

  映像が存在しなければ事実も存在しないものとして理解されてしまう

  どのような映像も消費と忘却の対象でしかない

…という問題は、報道陣が去った後は日本社会から忘却され、埼玉県の元高校に放置され続ける、『フタバから遠く離れて』の避難者の姿に重なる。

 

 『A2』は甲状腺検査のレベルで、のう胞が発見された段階を示す数値。伊達市に住む家族の姿を通して、不十分な除染への不安や、甲状腺被曝の影響(もちろん甲状腺がん発症リスクの問題である)への不安の中で生活し続けることが、更に不安の再生産状況を生み出してしまう現実を記録している。監督は撮影に応じたそれぞれの家族に密着し、母親達の「不安」に密着することで、「不安」が生み出す「不安」の増殖という、原発事故と事故処理における当事者(東電および行政)の当事者能力の欠如(被災者=被害者の境遇への想像力の欠如でもある)と無責任に大きく起因する問題を描く。

 被写体となった母親たちの抱く「不安」への密着は、ドキュメンタリー作家と被写体との距離を失わせ、作家が被写体と一体化したような状況を生み出してしまう。

 被写体との距離の喪失は、映像を相対化するメタレベルでの思考を作家から奪いかねない。

 その危うさが、この作品の魅力であると同時に問題点である。

 上映後のディスカッションの際の会場からの指摘にもあったように、甲状腺検査の「A2」判定については、その後の対照群検査により、放射線被曝と無関係に高率で発生する事実が確認されている。のう胞の発生と癌化の関係は直線的ではないのである。

 その事実への言及なしに映像作品が独り歩きしてしまうことは危険である。

 「A2」判定が放射線被曝と関係なく、実際には広く存在するという、対照群調査の結果(それが撮影時期以後の話であるにしても)がある以上、現状では、伊達市の子供たちの甲状腺検査での「A2」判定を、放射線被曝との直接的因果関係で把握する段階にはないということは考慮しておく必要がある(因果関係は、まだ可能性としてしか存在しないのである)。

 映像は、あくまでもカメラの前で展開される事実のみを撮影しているのだが、 母親たちの因果関係に対する心配と一体化した、被写体と距離のない取材方法は、

 放射線被曝→「A2」判定→甲状腺がん発症

…という図式が既定の事実のような印象を観客に与えかねないし、そういう情報(のみ)を欲している人々の中では事実として「拡散」されてしまうであろう。カメラの前の「事実」の記録がプロパガンダに転化してしまいかねないのである。言うまでもなく、母親たちの抱く放射線被曝への不安は正当なものである。しかし、彼女たちの前にあるカメラの存在は、不安の増幅に役立ち、増幅された不安と一体になったカメラの映像からは、不安を対象化しようとする姿勢(映像を相対化するメタレベルでの思考)が、既に失われてしまっているように見えてしまう。

 

 

 

 上映後のディスカッションも、それぞれの監督の持ち味が出て面白かった。

 ドキュメンタリー作品と被写体の関係性という、ドキュメンタリー作品の持つ(いわば)永遠の問題について、また、当初のスタンスが撮影の過程で、そして上映後の反応で変化していく話も加えられ、こちらの想像力も十二分に刺激された。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/07/14 23:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/205490/

 

 

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