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2013年4月22日 (月)

聞こえない木下さんと屠場の人の声

 

 想像力の及んでいない領域が存在することを、映像作品との出会いを通して知る。

 百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』、そして久保田智咲さんの『屠場を巡る恋文』。

 

 どちらも「武蔵美優秀展(平成24年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作・大学院修了制作 優秀作品展)」で出会った映像作品である。

 

 

 

 

 百瀬さんの作品の「聞こえない木下さん」とは木下知威さんのことで、若手の建築史・視覚文化研究者として紹介されていた。「聞こえない」というのは、彼は、実際に(生まれつきまったく)耳が聞こえないからである。

 その木下さんとの「対談」の映像記録として作品は作られている。

 生まれつきまったく耳の聞こえなかった木下さんは、「口話」という手段で、相手の発言を把握する。口の動きから発せられた音声を判断し、言葉として再構成し理解する。そのことも、「対談」を通して明らかにされる。

 木下さん自身は、自身の音声で相手の問いかけに答える。自然でなめらかな発声とは言い難いが、何を言っているかを理解することは難しくはない(それに、「対談」する二人の言葉にはすべて字幕がつけられている)。

 

 聞こえないということは、そして口の動きで音声を判断するということは、似た口の動きの音を弁別することの困難であることも意味する(ということも対談の過程で明らかにされる)。たとえば、バとパとマ、アとカとハの違いを口の動きだけから判別することは難しい。

 そこで重要となるのは前後の文脈である。もちろん、耳の聞こえる人間でも、相手の発音がはっきりしなかった場合、語を聞き落とした場合、同音異義語を判断する場合など、前後の文脈を参照することで、正確な把握を目指す。

 しかし、「聞こえない木下さん」の場合は、会話の全体にわたってそれが必要とされるような条件下にある、ということなのだ。

 

 百瀬さんの映像作品では、さらに絶妙な仕掛けを用いることで(作品の構成上、この仕掛けについてここで語ることは出来ないが、字幕の存在が大きく意味を持つことにもなる「仕掛け」であった)、音声情報による対面的コミュニケーションの限界と可能性を露わにして見せる(聞こえる者にとっての限界が聞こえない者にとっての可能性となる瞬間!)。

 「暴力的」という言い方も可能な「仕掛け」ではあるが、しかし、「聞こえない木下さん」の側も、聞こえる側の思いもよらない視点で相手を見取っていることが明らかにもされる(本人の意図しない所で引き起こされた「仕掛け」への「反撃」にさえ見える)。

 

 30分に満たない作品であるが、多くのことを考えさせられる(その詳細は「追記」を参照)ことになるのだ(百瀬さんは油絵コースの院生、学部の卒制時にも優秀作品に選ばれていたような記憶がある)。

 

 

 

 

 『屠場を巡る恋文』の「屠場」とは、まさに家畜を食肉として処理するための場所(屠畜の場)である。その「屠場」を巡るドキュメンタリー作品だ。

 

 生きていた家畜が殺され解体され、肉と皮と内臓と血液に分けられる。その肉を食べるのは我々である。いわば、現代社会に欠くことの出来ぬ装置である。

 

 主人公は屠場の労働者であり、屠場そのものである。

 

 屠場で働くのは解体のプロである。刃物による作業では怪我もする。保育園に子供を迎えに行く際に、怪我の原因について聞かれる。あるいは、子供のお父さんの仕事を問われる。そこで「屠場で仕事してます」と答えても、しかし「トジョー」という語は日常会話での理解の対象ではない。「トジョー」という音が「屠場」という語に変換され、職業として把握されないのである。

 つまり、肉を食べている我々の想像力の外部に「屠場」は存在するということだ。

 それは聞こえのよい言い方であって、屠場での労働は差別意識の対象となっているのが現実というものである。

 

 近世以来の、部落差別の「伝統」は、現在でも「屠場」の存在を見えないものとしているのである。

 

 屠場で働く人々へのインタビューと、屠場での取材を通して、その「現実」を明るみに出していく。明らかになるのは、伝統的な差別の問題に加えて、「他者の死に依存しているところに生命体の本質がある」あるいは「お互いが生きていくためには死が必要である」との言い回しで以前に友人が見事に要約してみせた、(日常的意識からは排除されている)生き物としての「生存」にまつわる原理的問題である。病院の遍在により、日常生活から人の死が排除され、屠畜・解体作業を屠場に閉じ込めることにより、日常生活には食肉だけが残り、動物の死への想像力は排除される。

 映像は、屠場を見えないものとしていく伝統的差別意識、そして死の事実を排除していこうとする現代的な意識構造に対する告発であると同時に、あるいはそれ以上に、屠場で働くプロフェッショナルたちへの「恋文」として仕上がっている。

 

 屠場という知らない世界へ分け入って行くという意味でも、我々が現に生きる社会の問題を屠場の存在を通して可視化したという意味においても、その屠場の現場で出会ってしまった人々の魅力を伝えるという意味においても、ドキュメンタリー作品として見事である(久保田さんは映像学科の卒業生)。

 

 

 

[追記](映像作品を作品として楽しみたい人は、作品を見る前には読まない方が良いかも知ない)

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…》

 一つの映像作品がある。

 そこでは、生まれつき耳の聞こえない若い男性と、耳に問題はない若い女性が対談をしている。

 対談は、音声による会話として成立している。

 つまり、両者は共に、言葉を声に出して語りかけ、言葉を声に出して応じている。

 そこでは、音声情報による双方向のコミュニケーションが成立しているように見える。

 しかし、若い男性は耳が聞こえず、若い女性の語る声を聞き取ることは出来ない。

 つまり、若い女性の語る言葉を音声情報として受け取ることは出来ない。

 耳の聞こえない若い男性は、「口話」という手法を用いて、若い女性の言葉を理解している。

 「口話」とは、口の開き方と音声の間にある対応関係に基づいて、口の開き方という視覚情報を用いて音声情報を理解可能にする技術である。

 そこでは、口の開き方という視覚情報により、音声情報としての言葉が理解されることになる。

 対談は映像を前にした第三者から見て成立しており、その意味で双方向のコミュニケーションとして成立していると判断される。

 しかし、既に明らかになっているように、そこで成立しているのは音声情報による双方向のコミュニケーションではない。

 若い女性の言葉は音声情報として発せられているが、その言葉は視覚情報として若い男性に処理され、言葉として理解されているのである。

 若い男性の言葉は音声情報として発せられ、若い女性は若い男性の言葉を音声情報として受け取っているが、若い男性自身は自分の発する言葉を音声情報として聴き取ることは出来ない。

 「口話」の限界は、相手の口元が視覚情報として確保されなければ成立しない点と、視覚的に同型の口元に異なる音声情報が対応してしまうという点にある。

 後者の例としては、「ア」と「カ」と「ハ」、「パ」と「バ」と「マ」のケースなどがあり、文脈の参照という助けなしには、音声の推定は困難である。

 もちろん、耳の聞こえる人間にとっても、よく聞こえなかった言葉や聞き落とした言葉、同音異義語からの絞り込みなどの際には、文脈を参照することは必要なものとなっている。

 耳の聞こえない人間にとっては、それが会話の全体となる。

 

百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』は、そのような枠組みに条件づけられた二人の対談の映像記録となっている。

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

そんなところが気になる。

(2013/04/25 21:50)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考える中で、

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

…などという話を書いたわけだが、耳が聞こえる人間がどのように会話の言葉を理解しているかと言えば、通常は音声情報として聴き取り、音声情報として発話しているということになりそうである。

同音異義語の解釈の必要な局面では、聴き取られた音声情報から文字情報への変換による同音異義語の参照がされるにせよ、日常会話のレベルでは、音声情報として聴き取り、そこでは音声情報のままに言葉を理解し、音声情報として自らの言葉を発する。

そもそも文字情報としての言葉に先立つものとして音声情報としての言語の長い歴史があり、言語の文字情報化は歴史的には新しい話だし、音声言語は人類に普遍的なものだが、文字言語はそうではない。

言語を支えていたのは基本的に聴覚であった事実は、たとえば、

 すでに見たように、言語記号は二つのまことに異なった事象の間に精神が樹立する結合であるが、それらの事象は二つとも心的なものであり主体の中に存在する。一つの聴覚映像が一つの概念に結合されているのである。

…というソシュールの表現にも反映されている。ここで丸山圭三郎は、ソシュールの用いた”image acoustique”という語を「聴覚映像」と訳しているわけだが(丸山圭三郎 『ソシュールを読む』 講談社学術文庫 2012 205ページ)、そこには基本的に言語が音声情報であるという事実と同時に、ソシュール自身が”image”という語を用い、そのソシュールの用語を「image=映像」として取り扱わざるを得なかった事実もまた興味を引く。「映像」という「視覚」に関わる語を用いている事実に、である。

丸山はソシュールの思想の成立過程と関連させて上記の一節を示しており、この「聴覚映像」と「概念」は後に「シニフィアン」と「シニフィエ」としてソシュールの言語論の核心を示す語へと洗練されていくものであることも記されている。

単純化すれば、記号としての音(シニフィアン)と、(記号としての音の志向対象としての)概念(シニフィエ)の結合として語が説明されることになるわけだ。文字情報は、音声情報の視覚情報化の産物として説明可能であろう。記号としての音(聴覚映像)ではなく視覚的記号としての文字を人類が獲得したことを示す。

音声情報の視覚化の問題として考えれば、音声と文字の関係も恣意的なものであることを付言しておこう(音としての「ア」を「あ」と表記するか「阿」と表記するのか「a」と表記するのかは本質的問題ではないという意味で)。いずれにしても、そこに存在するのは、文字情報として視覚化された音声情報=シニフィアンとなる構図である。

そのような関係を確認した上で、当初の問いに戻る。「問い」を次のように書き改めることが出来るだろう。

聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

(2013/04/27 21:29)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えているわけだが、前回は、

 聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

 聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

…という形で、私にとっての問題の構図がどのようなものであるのかについて表現してみた。

もちろん、当人の話を聞けば済む話ではあるのだが、ここでは「話を聞くとはどういうことなのか?」という問題を耳の聞こえる側がどのように取り扱えるのかを、想像力の中だけで、もう少し考えておきたい。

想像力の中で考えるという方向ではなく、脳内過程の問題(「脳科学」の対象)として取り扱えば、当人の話を聞くのとは別の形で、実際のメカニズムは明らかになるであろうが、それは私の力の及ぶところではない。

聞こえない状態、聴覚のない状態を想像することは、一見したところ、それほど難しいものとは思えない。

しかし、聞こえる側の人間にとって、聞こえない現実は想像力を超えたところにある。

視覚の場合、眼が顔の前面についているために、視界は顔の向きに規定される。要するに視界は前方に限られ、視覚情報から後方は常に除外されているのである。

それに対し聴覚の場合は、(前方に優位性があることは確かであるが、それでも)全方向が対象となる。後方は聴覚情報からは除外されていないのである。

つまり、視覚の喪失は前方情報の喪失を意味する(後方情報は最初から存在しない)が、聴覚の喪失は全方向にわたる情報の喪失を意味するのである。
耳が聞こえないということは、視覚が確保されていれば前方の外界情報は得られても、それ以外の方向の外界情報を持たないということを意味する。

「口話」の問題に戻れば、「口話」が可能になるのは、相手が前方に位置し、しかも口元が見える場合のみなのである。耳の聞こえない人間にとっての音声情報の取得は、「口話」を通してであれ(「手話」による「翻訳」を通してであれ)視覚に依存せざるを得ないのであり、それは当人の前方に提示されない限り、存在しないのと同じなのである。逆に言えば、耳の聞こえる人間にとっては、音声情報は、前方に限定されることはなく、遍在するものなのである。


耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

(2013/04/30 21:04)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えながら、シリーズの前回では、

 耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

 文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

 その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

…なんて書いたわけだが、これは言うまでもなく文字による言語表現として「書いた」ものである。

しかし、別の言い方も可能で、通常は、

 私の考えを文章として書いてみた

…などと表現されたりする行為である。

ここには「言語と思考」というテーマが隠されており、その核心は、

 言語という形式に拠らずして思考は可能なのであろうか?

…と表現される。で、当初の、

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

…という言明に戻れば、ここでは「思考が言語という形式により可能になっている」との認識が(「人が言葉を用いて考えをめぐらしている」との言い回しの裡に)表明されていると言えるだろう。

その際に、文字による表現が採用され(文字により記述され)、そのことにより、私の思考は私の内部に閉じ込められることなく、ネットを介して私の外部でも共有可能なものとなっているわけである。

音声による思考の表明も可能であるが、その場にいた者以外には伝達不可能であるし、その場にいても話を聞いていなかった者には伝わることもなく消えてしまう。何より再参照が不可能なのである。もちろん現在では録音という手段もあるにせよ、録音をそのまま再生するだけでは、耳の聞こえない人には音声情報の伝達は不可能事である。

文字言語が可能にしているのは、思考内容の繰り返しの参照可能性の確保であり、それを自他の両者に可能にしているところに、音声言語からの絶対的な隔絶がある。

思考とは言葉を選び確定する過程、そのように言うことも出来るだろう。

そこには、選び確定された言葉を(音声として)発話するか(文字として)記述するかという違いがあるにせよ、思考は表明されることなくしては「言葉を選び確定する過程」として完了しないという、「言語と思考」問題の原理的構図の存在もある(思考を対象化可能にするという意味で「完了」していないのである)
音声として発話するのか文字として記述するのか、そのいずれであるにせよ、発話(あるいは記述)行為により、音声(あるいは文字)情報としての言葉が確定したものとして世界の中に生まれる。その際に言葉として確定されるのは思考である。

発話以前・記述以前の、言葉を選び確定させようとする過程において、言葉とはどのように存在するものであるのか?
その過程において、耳の聞こえないことは何らかの影響を与え、何らかの相異をもたらすものなのであろうか?

(2013/05/02 22:26)

 

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…
 http://www.freeml.com/bl/316274/202847/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2
 http://www.freeml.com/bl/316274/202886/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3
 http://www.freeml.com/bl/316274/202959/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4
 http://www.freeml.com/bl/316274/203002/

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/21 20:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/202736/

 

 

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