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2013年4月 1日 (月)

歴史としての「原子力の明るい未来」 東独製原付トラバント篇

 

 結城丈二と言えば「仮面ライダーシリーズ(『仮面ライダーV3』)」に登場するライダーマンだが、ライダーマンマシンと呼ばれる専用バイクは原子力エンジン搭載という設定になっている。特殊な原付バイク(原子力エンジン付きバイク)と言えようか?

 

 番組(『仮面ライダーV3』)は1973年から放送されており、放映当時は、原子力エンジン付きバイクが、高性能な未来的バイクとしてイメージされるものであったことが理解出来る。

 

 

 結城丈二の人物設定は(『ウィキペディア』によれば)、

 

  『仮面ライダーV3』第43話で初登場する彼は1950年11月3日生まれ(改造時22歳)で、日本国籍を持つ、青年科学者であった。

 

…ということで、存命であれば2013年の11月には63歳を迎えるはずである。

 『鉄腕アトム』の主人公であるアトムもまた、原子力をエネルギー源とするロボットという設定であった。

 『鉄腕アトム』は(これも『ウィキペディア』によると)、

 

  1951年(昭和26年)4月から、翌年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを主人公として、1952年(昭和27年)4月から1968年(昭和43年)にかけて、「少年」(光文社)に連載され、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてフジテレビ系で日本で初めての国産テレビアニメとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映された。

 

…ということなので、結城丈二の年齢設定は、同時代に『鉄腕アトム』を愛読し、テレビアニメも観たであろう世代に相当する。

 

 

 原子力エンジン搭載のバイクを想像しようとすれば、福島第一原発事故経験後の日本人の多くは、バイクが事故ったら…という方に頭が働いてしまうに違いない。事故のあった交差点から3キロ圏内は強制避難地域とされてしまうような状況である。

 

 しかし、鉄腕アトムは希望に満ちた未来の夢の形象であり、結城丈二の原付(原子力エンジン付)バイクもまた、当時の子供にとって(大人にとっても、だが)、未来的高性能マシン以外の何物でもなかったのである。

 

 

 

 1955年の末に日比谷公園で開催された「原子力平和利用博」に際しても、「原子力運転による飛行機、汽車、汽船」の登場する未来が語られていたように(たとえば吉見俊哉 『夢の原子力』 ちくま新書 2012)、結城丈二の原付(原子力エンジン付)バイクは決して唐突で荒唐無稽な設定であったわけではない。戦後日本、高度成長期の日本人にとって、原子力エネルギーは明るい未来イメージの象徴的存在であったと考えるべきなのである。

 

 

 

 

 1962年というから、ベルリンの壁建設から間もないころの東ドイツ(ドイツ民主共和国)でも事情は同じであった。

 原子力エンジン駆動の小型乗用車の構想が伝えられている(英誌『モーター・ヒストリー』 2006年4月号掲載記事)。将来的には原子力エンジン搭載のトラバントが夢見られていたのである。現在知られているトラバント(P601)は1964年に生産が開始されたものであり、1962年にはより丸みを帯びたデザインの旧タイプのトラバント(P60)が生産されていた。そのトラバントの原子力エンジン化という構想なのであった(1964年以降は、もちろん、P601タイプへの搭載構想に移行するが、モデルチェンジはボディー外観の変更の問題に過ぎず、大枠では同じとみてよい)。

 

 ポーランド国境に近いオスト・シャイスに、産業省次官補であったハインツ・ミューラー博士の指導により秘密研究施設が建設されたのは1962年の10月のことである。

 研究の中心として考えられたのが、当時はソ連で核兵器開発に従事していたドイツ出身の科学者達であった。言うまでもなくナチス時代の原爆開発に従事していた科学者である。

 

 ハインツ・ミューラー自身も、ドイツの敗戦まではカイザー・ヴィルフェルム研究所に所属する物理学者であった。かつての同僚の招聘を目論んだわけである。

 しかし、ソ連にとっても有能なドイツ人科学者の存在は重要であり、ミューラーの構想は困難に直面する。1960年代初期のソ連にとって、核兵器保有での西側に対する優位の確保は最優先課題であり、小型乗用車搭載用の原子力エンジン開発に関心は持たれなかったのである。

 しかし、民生用小型原子力エンジン開発は軍事技術としても転用可能なものであり、地上軍装備の今後を考えれば、むしろ将来性を期待し得るものでもあった。そのような論理でミューラーはソ連当局者を説得し、ヴァルター・ホーエンハイム博士の研究所長就任に漕ぎつける。

 

 研究が実際にどのように進展したのかは現在のところ明らかになっていないというが、研究所は1968年まで存続しており、何らかの成果は得ていた可能性も指摘されている。

 1968年に研究施設は閉鎖されることになるが、これはホーエンハイム博士の西側亡命(米政府の保護下となった)という、ミューラーにとっても予期せぬ出来事の結果であった。ミューラーの昇進の可能性も閉ざされ(年金生活入り)、東ドイツにおける小型原子力エンジン開発の歴史はここで終わる。

 

 市街地で原子力エンジン駆動の乗用車を走行させることの危険性は、結城丈二のバイクについて指摘した通りである。

 それが東ドイツにおける設計となると、その危険性は倍加すると思われる。チェルノブイリ原発事故が大惨事となったのは、原子炉格納容器を持たない設計に起因するものと説明されるが、東ドイツ製の小型原子力エンジンに安全性への配慮を期待することは現実的ではない。トラバントのシンプルな2サイクルエンジンの設計の改良を怠った結果が、西独地域に対して著しく悪化した東独の大気汚染をもたらしたのである。

 

 

 原付トラバントが70年代に実用化されていたと考えると、それはまさに悪夢である。

 しかし、その「悪夢」は、第二次世界大戦後の世界に共有された「原子力の明るい未来」という「夢」に起源を持つものなのだということは肝に銘じておいてよい。「悪夢」が現実とならなかったことはせめての幸い、と考えておくべきなのであろう。シンプルな2サイクルエンジン搭載の電子部品なしの構造を維持したおかげで、現在でも圧倒的なファンの支持の下にヨーロッパの街角を走り続け、その姿を見る者に幸せを分かち与えているのである。

 

 

 

 

     (以上、毎年恒例のエイプリルフールのネタ記事でございます)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/01 17:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/202254/

 

 

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