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2013年4月

2013年4月30日 (火)

従軍と軍属 2 (ネズミとリスの中間の味)

 

 「従軍」という語をテーマに考えをめぐらす中で手に取った一冊が、フィリップ・ナイトリーの『戦争報道の内幕 隠された真実』(中公文庫 2004)であった。

 

 以前に読んでいるのだが、(情けないことに)ほとんど内容は忘れている。

 

 

 ちなみに、「従軍記者」の英訳は一般的に ”war correspondent” が用いられているようだが、"war correspondent" をそのまま日本語に訳すと「戦争特派員」となる。『ウィキペディア』の英語版では、

  A war correspondent is a journalist who covers stories firsthand from a war zone.

…となっている。日本語の「従軍」では「戦争」との直接の関係よりは「軍」との関係に焦点が当てられ、英語の "war correspondent" では「戦争(war)」あるいは「戦場(war zone)」との関係に焦点があるように見える。

 ナイトリーの著作で「従軍記者」と訳されている語の原語表記はわからないが、"war correspondent" であると推測して大きな誤りはないであろう。

 

 

 

 ナイトリーの著作は、ウィリアム・ハワード・ラッセルによるクリミア戦争取材の逸話から始まる。1854年の話である。ナイトリーは、近代ジャーナリズムとしての新聞と戦地取材の関係という視点からラッセルの存在に着目しているのである。

 普仏戦争の取材に活躍した記者として、ナイトリーは、アーチボルト・フォーブズとヘンリー・ラブシェアの名を挙げているが、ここではラブシェアのエピソードを紹介しておきたい。

 

 

 フォーブズが包囲中のプロシア軍に随行して独創性を発揮していたとき、イギリスの新聞オーナーで、フォーブズ以上に多彩な才能を持つヘンリー・ラブシェアは、包囲下のパリの生活を刺激的かつ娯楽的に描いて、『デーリー・ニューズ』の読者を喜ばせていた。銀行家の息子ラブシェアは、ウィットに富み、才能に恵まれ、いくらか好事家(ディレッタント)的傾向があった。ケンブリッジの学生時代には賭けで六〇〇〇ポンドの借金を作ったし、外交官になったものの、ブエノスアイレス駐在イギリス大使館の二等書記官に任命されたとき、バーデンバーデンを行動の根拠地として認めてくれないのを不服として、この任命を拒否し、早々に外交官生活をやめてしまった。その後『デーリー・ニューズ』の株主になっていたが、包囲下のパリに足止めを食うと、同紙の子持ちの駐在通信員を説得して、パリを出る最後の列車に乗せた。そのあとラブシェアは気球を使って一連の速報を送り始めたが、『デーリー・ニューズ』は、フランス人による報復行為からラブシェアを守るため、「包囲下の一市民」の署名で、これらの記事を掲載した。
 ラブシェアは、従軍記者に期待されていた強がりを軽蔑した。「私は、遠くから戦闘の匂いを嗅ぎつけて、その真っ只中に急行するという抗し難い欲望は持ち合わせていない。自分の好奇心を満たすためだけに頭部に砲弾を受けるなどは、私には愚の骨頂としか思えない……」。そこでラブシェアは一〇人から一二人が殺される毎日の砲撃のことは無視し、食糧補給が途絶えたために動物園の獣を食べ、やがてこれまでは食物と思われなかった物まで料理し始めたパリ市民の生き残りの決意を克明に書くことに専念した。
 ラブシェアが最近食べた献立の記事に読者はぞっとしながらも、『デーリー・ニューズ』の発行部数は着実に伸びていった。彼によると、猫は「ネズミとリスの中間の味ながら、独特の風味がある。美味である。子猫は、玉ネギで蒸し煮にするか、シチューにすると最高である」。ロバはマトンに似ているし、「ドブネズミのサラミ」はカエルとウサギの中間の味がした。イギリス人の彼には、犬を喰うのはとても無理だった。「私は、人間の友である犬を食べるときは、罪悪感をおぼえる。こないだはスパニエルを一切れ食べた。決して悪い味ではなく、子羊のようだったが、人食い人種の気分だった」
     ナイトリー 前掲書 37~38ページ

 

 

 しかし…「ネズミとリスの中間の味」とはどんな味なのだろうか?
(この一件で、当初の「従軍」という語の問題はどっかに行ってしまうことになるが、これぞ読書の醍醐味であって、ネット上で都合のよい情報だけを漁る輩には味わえない瞬間であろう)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/24 21:42 → http://www.freeml.com/bl/316274/202815/

 

 

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2013年4月28日 (日)

従軍と軍属 1

 

 ネットで「従軍」や「軍属」という語を検索していると、

 

  従軍という言葉は軍属という正式な身分を表す言葉であって、それは軍から給与をもらっていることを意味する。

 

  「従軍記者」「従軍看護婦」「従軍技師」 といった言葉があったが、これらの軍属は基本的に志願してなったものである。 「従軍」慰安婦なる言葉があったとしたら、 それはあくまで「志願慰安婦」と同じ意味を指す。

 

  従軍看護婦など軍属の身分を表す用語と.並べて「従軍慰安婦」という造語にしたため、従軍には強制の意味が含まれるので、 これが容易に強制連行に結びつき、強制連行が性的奴隷を想像させ…

 

…などといった主張が存在することを知ることが出来る。

 要するに「従軍慰安婦」という語の用語法を非難するものだが、興味深いのは相互に矛盾したものとなっている点である。

 

 他にも、シンプルなものとして「大東亜戦争当時には従軍慰安婦という呼称は存在しなかったから歴史用語として妥当ではない」というものがあるが、これは「源頼朝は自分が鎌倉時代に生きていると思っていたのか?」という問題を指摘することで、主張自体がナンセンスであることが明らかになるだろう。

 

 

 

 さて、まず、「従軍という言葉は軍属という正式な身分を表す言葉」との主張の真偽の検討から始めよう。

 

 岡本綺堂は自身の日清戦争時の「従軍記者」としての体験を回想し、

 

  これ等の従軍記者は宇品から御用船に乗込んで、朝鮮の釜山又は仁川に送られたのですが、前にもいふ通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律といふものが無いので…
     岡本綺堂 『随筆想ひ出草』相模書房 1937 (佐谷眞木人 『日清戦争 国民の誕生』 講談社現代新書 2009 50ページ)

 

…と、昭和12年出版の本で書いている。

 結論から言えば、日清戦争当時の「従軍」記者は「軍属」の「身分」にはなかったのである。もちろん岡本綺堂の給与の支払者は軍ではなく新聞社である。しかし岡本はその著書で自らの体験を書き記すに際して、「従軍」記者という表記を用いているのだ。「軍属」の「身分」にないものに対し「従軍」という語が用いられている戦前の事例である。

 

 そもそも「軍属」は軍の法規に規定された地位・身分だが、「従軍」は法令上の用語ではなく、語義の範囲も広いのである。

 

 日露戦争当時、戦地取材を求める外国人記者に対し、石本新六陸軍次官名で「外国通信員諸君ニ告グ」と題された文書が発せられたが、その冒頭には、

 

  今回、外国通信員諸君ガ海外万里ヲ遠シトセズ我陸軍ニ従軍シ、以テ其ノ戦況ヲ本国ニ通信スルノ労ヲ採ラレントスルハ、我帝国軍隊ノ名誉トスル所ナリ。此名誉アル外国通信員諸君ノ従軍ニ関シ、充分ナル便宜ヲ与ヘ…

 

…とある。ここで「従軍」の用語を以て語られている「外国通信員」にもまた「軍属」の「身分」など与えられてはいなかった。陸軍次官名で発せられた日露戦時の陸軍の公的文書中に、「軍属」ではない「外国通信員諸君」に対する「従軍」の用例があるということだ。

 

 要するに、日清日露の戦争から昭和に至るまで、「従軍」という語と「軍属」という語の用語法の範囲は異なるものであり、「従軍という言葉は軍属という正式な身分を表す言葉」との主張はまったくの誤りなのである。

 

 

 

 また、「従軍=強制」なのか「従軍=志願」なのかという問題にしても、これは用語法としてはどちらも存在し、どちらかが正しいという話にはならない。

 岡本綺堂は公的機関による強制ではなく自らの意思で「従軍記者」となったのだし、大東亜戦争期の「徴用」による「報道班員」としての「従軍」には「強制」として認識されていた側面がある(もちろん、積極的に報道班員となった者がいるのも事実だが)。

 

 

 

 要するに冒頭に示した三例の主張は、いずれもが歴史的事実の認識としては誤りなのである。

 共通しているのは、歴史的事実を精査し結論を出すという態度の不在である。オレ様定義(註:1)で「従軍=軍属」だったり「従軍=志願」だったり「従軍=強制」とした上で、「従軍慰安婦」という語の「従軍」の用語法をそれぞれに否定しているわけである。

 これは本人以外に通用するような話ではないが、この程度の話がネット上では拡散され蔓延しているのが現状(註:2)である。

 実に困ったもんだ。

 

 

 

【註:1】
 「植民地化=Colonization」と「併合=Annexation」のケースも同じ。
 「植民地化」と「併合」は異なる概念と主張し、日本は韓国を「併合(あるいは同化)」したが「植民地化」はしていないと主張する、大変に知的に不誠実な手法が存在する。

 政治学上の用語としての「植民地化」と「併合(同化)」は相互に排他的な概念ではなく、「併合(同化)」は「植民地化」に包含される概念なのであり、「併合(同化)」は「植民地化」の一手法に過ぎないのである。
 それをもっともらしく(オレ様定義で)、「植民地化」と「併合(同化)」を(排他的関係にある)異なる概念とした上で、日本による韓国の「植民地化」の事実を否定しようとするのだ。
(用語法の詳細については「「植民地化=Colonization」と「併合=Annexation」 」、「昭和十一年 宮澤俊義 『憲法講義案』 (植民地としての朝鮮) 」参照のこと)

【註:2】
 参考までに私の経験した事例を示すと、

  慰安婦が軍属で軍やその関係機関から俸給を貰っていたならば従軍にあたると考えられます。例えば、「従軍記者」等々。
  近辺に普段店を構えていて軍の移動にともなって店を移動しそこで営業をしていたのならば「従軍とはいえない」と考えられます。

…との主張の相手をしたことがある。

ここでは、

  軍やその関係機関から俸給を貰っていたならば従軍にあたる

…と主張され、その例として「従軍記者」が挙げられているわけだが、本文でも取り上げたように、「従軍記者」の「棒給」は「軍やその関係機関」ではなく新聞社が支給していた事実があるので、「軍やその関係機関から俸給を貰っていたならば従軍にあたる」との主張の根拠事例として「従軍記者」を挙げるのは、まことに不適切と言わざるを得ない話なのだが、ネットで仕入れた知識を検証することなく「拡散」する手合いの用いる理路は、この程度のものなのである。

 また、後半に示された、

  近辺に普段店を構えていて軍の移動にともなって店を移動しそこで営業をしていたのならば「従軍とはいえない」

…との主張にしても、「従軍看護婦」の基本的勤務形態で言えば、最前線の野戦病院(「衛生兵」の勤務領域である)ではなく後方の兵站病院勤務だったわけで、「近辺に普段店を構えていて軍の移動にともなって店を移動しそこで営業をしていた」という「従軍慰安婦」の勤務形態と大差はないものであり、当人の無知を自ら表明しているだけの話に過ぎない。
 ちなみに日清戦争時の「従軍看護婦」について言えば、その勤務地は国内限定であったという事実さえあることを勘案すれば、「従軍」という語の用法に、「軍の移動に伴って移動する」という条件さえないことも明らかとなるだろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/23 23:02 → http://www.freeml.com/bl/316274/202803/

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2013年4月22日 (月)

聞こえない木下さんと屠場の人の声

 

 想像力の及んでいない領域が存在することを、映像作品との出会いを通して知る。

 百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』、そして久保田智咲さんの『屠場を巡る恋文』。

 

 どちらも「武蔵美優秀展(平成24年度 武蔵野美術大学 造形学部卒業制作・大学院修了制作 優秀作品展)」で出会った映像作品である。

 

 

 

 

 百瀬さんの作品の「聞こえない木下さん」とは木下知威さんのことで、若手の建築史・視覚文化研究者として紹介されていた。「聞こえない」というのは、彼は、実際に(生まれつきまったく)耳が聞こえないからである。

 その木下さんとの「対談」の映像記録として作品は作られている。

 生まれつきまったく耳の聞こえなかった木下さんは、「口話」という手段で、相手の発言を把握する。口の動きから発せられた音声を判断し、言葉として再構成し理解する。そのことも、「対談」を通して明らかにされる。

 木下さん自身は、自身の音声で相手の問いかけに答える。自然でなめらかな発声とは言い難いが、何を言っているかを理解することは難しくはない(それに、「対談」する二人の言葉にはすべて字幕がつけられている)。

 

 聞こえないということは、そして口の動きで音声を判断するということは、似た口の動きの音を弁別することの困難であることも意味する(ということも対談の過程で明らかにされる)。たとえば、バとパとマ、アとカとハの違いを口の動きだけから判別することは難しい。

 そこで重要となるのは前後の文脈である。もちろん、耳の聞こえる人間でも、相手の発音がはっきりしなかった場合、語を聞き落とした場合、同音異義語を判断する場合など、前後の文脈を参照することで、正確な把握を目指す。

 しかし、「聞こえない木下さん」の場合は、会話の全体にわたってそれが必要とされるような条件下にある、ということなのだ。

 

 百瀬さんの映像作品では、さらに絶妙な仕掛けを用いることで(作品の構成上、この仕掛けについてここで語ることは出来ないが、字幕の存在が大きく意味を持つことにもなる「仕掛け」であった)、音声情報による対面的コミュニケーションの限界と可能性を露わにして見せる(聞こえる者にとっての限界が聞こえない者にとっての可能性となる瞬間!)。

 「暴力的」という言い方も可能な「仕掛け」ではあるが、しかし、「聞こえない木下さん」の側も、聞こえる側の思いもよらない視点で相手を見取っていることが明らかにもされる(本人の意図しない所で引き起こされた「仕掛け」への「反撃」にさえ見える)。

 

 30分に満たない作品であるが、多くのことを考えさせられる(その詳細は「追記」を参照)ことになるのだ(百瀬さんは油絵コースの院生、学部の卒制時にも優秀作品に選ばれていたような記憶がある)。

 

 

 

 

 『屠場を巡る恋文』の「屠場」とは、まさに家畜を食肉として処理するための場所(屠畜の場)である。その「屠場」を巡るドキュメンタリー作品だ。

 

 生きていた家畜が殺され解体され、肉と皮と内臓と血液に分けられる。その肉を食べるのは我々である。いわば、現代社会に欠くことの出来ぬ装置である。

 

 主人公は屠場の労働者であり、屠場そのものである。

 

 屠場で働くのは解体のプロである。刃物による作業では怪我もする。保育園に子供を迎えに行く際に、怪我の原因について聞かれる。あるいは、子供のお父さんの仕事を問われる。そこで「屠場で仕事してます」と答えても、しかし「トジョー」という語は日常会話での理解の対象ではない。「トジョー」という音が「屠場」という語に変換され、職業として把握されないのである。

 つまり、肉を食べている我々の想像力の外部に「屠場」は存在するということだ。

 それは聞こえのよい言い方であって、屠場での労働は差別意識の対象となっているのが現実というものである。

 

 近世以来の、部落差別の「伝統」は、現在でも「屠場」の存在を見えないものとしているのである。

 

 屠場で働く人々へのインタビューと、屠場での取材を通して、その「現実」を明るみに出していく。明らかになるのは、伝統的な差別の問題に加えて、「他者の死に依存しているところに生命体の本質がある」あるいは「お互いが生きていくためには死が必要である」との言い回しで以前に友人が見事に要約してみせた、(日常的意識からは排除されている)生き物としての「生存」にまつわる原理的問題である。病院の遍在により、日常生活から人の死が排除され、屠畜・解体作業を屠場に閉じ込めることにより、日常生活には食肉だけが残り、動物の死への想像力は排除される。

 映像は、屠場を見えないものとしていく伝統的差別意識、そして死の事実を排除していこうとする現代的な意識構造に対する告発であると同時に、あるいはそれ以上に、屠場で働くプロフェッショナルたちへの「恋文」として仕上がっている。

 

 屠場という知らない世界へ分け入って行くという意味でも、我々が現に生きる社会の問題を屠場の存在を通して可視化したという意味においても、その屠場の現場で出会ってしまった人々の魅力を伝えるという意味においても、ドキュメンタリー作品として見事である(久保田さんは映像学科の卒業生)。

 

 

 

[追記](映像作品を作品として楽しみたい人は、作品を見る前には読まない方が良いかも知ない)

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…》

 一つの映像作品がある。

 そこでは、生まれつき耳の聞こえない若い男性と、耳に問題はない若い女性が対談をしている。

 対談は、音声による会話として成立している。

 つまり、両者は共に、言葉を声に出して語りかけ、言葉を声に出して応じている。

 そこでは、音声情報による双方向のコミュニケーションが成立しているように見える。

 しかし、若い男性は耳が聞こえず、若い女性の語る声を聞き取ることは出来ない。

 つまり、若い女性の語る言葉を音声情報として受け取ることは出来ない。

 耳の聞こえない若い男性は、「口話」という手法を用いて、若い女性の言葉を理解している。

 「口話」とは、口の開き方と音声の間にある対応関係に基づいて、口の開き方という視覚情報を用いて音声情報を理解可能にする技術である。

 そこでは、口の開き方という視覚情報により、音声情報としての言葉が理解されることになる。

 対談は映像を前にした第三者から見て成立しており、その意味で双方向のコミュニケーションとして成立していると判断される。

 しかし、既に明らかになっているように、そこで成立しているのは音声情報による双方向のコミュニケーションではない。

 若い女性の言葉は音声情報として発せられているが、その言葉は視覚情報として若い男性に処理され、言葉として理解されているのである。

 若い男性の言葉は音声情報として発せられ、若い女性は若い男性の言葉を音声情報として受け取っているが、若い男性自身は自分の発する言葉を音声情報として聴き取ることは出来ない。

 「口話」の限界は、相手の口元が視覚情報として確保されなければ成立しない点と、視覚的に同型の口元に異なる音声情報が対応してしまうという点にある。

 後者の例としては、「ア」と「カ」と「ハ」、「パ」と「バ」と「マ」のケースなどがあり、文脈の参照という助けなしには、音声の推定は困難である。

 もちろん、耳の聞こえる人間にとっても、よく聞こえなかった言葉や聞き落とした言葉、同音異義語からの絞り込みなどの際には、文脈を参照することは必要なものとなっている。

 耳の聞こえない人間にとっては、それが会話の全体となる。

 

百瀬文さんの『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』は、そのような枠組みに条件づけられた二人の対談の映像記録となっている。

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

そんなところが気になる。

(2013/04/25 21:50)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考える中で、

音声情報を視覚情報として理解するのが「口話」ということになるが、耳が聞こえる人間にとっては視覚情報による言葉とは、通常、文字情報を意味する。

木下さんの場合、視覚情報に変換された音声情報としての言葉と、文字情報として表現された視覚情報としての言葉とは重なるものなのだろうか? それともそれぞれに別のものとして存在するのだろうか?

視覚情報に変換された音声情報としての言葉は文字情報として理解されていると考えてよいのだろうか?

…などという話を書いたわけだが、耳が聞こえる人間がどのように会話の言葉を理解しているかと言えば、通常は音声情報として聴き取り、音声情報として発話しているということになりそうである。

同音異義語の解釈の必要な局面では、聴き取られた音声情報から文字情報への変換による同音異義語の参照がされるにせよ、日常会話のレベルでは、音声情報として聴き取り、そこでは音声情報のままに言葉を理解し、音声情報として自らの言葉を発する。

そもそも文字情報としての言葉に先立つものとして音声情報としての言語の長い歴史があり、言語の文字情報化は歴史的には新しい話だし、音声言語は人類に普遍的なものだが、文字言語はそうではない。

言語を支えていたのは基本的に聴覚であった事実は、たとえば、

 すでに見たように、言語記号は二つのまことに異なった事象の間に精神が樹立する結合であるが、それらの事象は二つとも心的なものであり主体の中に存在する。一つの聴覚映像が一つの概念に結合されているのである。

…というソシュールの表現にも反映されている。ここで丸山圭三郎は、ソシュールの用いた”image acoustique”という語を「聴覚映像」と訳しているわけだが(丸山圭三郎 『ソシュールを読む』 講談社学術文庫 2012 205ページ)、そこには基本的に言語が音声情報であるという事実と同時に、ソシュール自身が”image”という語を用い、そのソシュールの用語を「image=映像」として取り扱わざるを得なかった事実もまた興味を引く。「映像」という「視覚」に関わる語を用いている事実に、である。

丸山はソシュールの思想の成立過程と関連させて上記の一節を示しており、この「聴覚映像」と「概念」は後に「シニフィアン」と「シニフィエ」としてソシュールの言語論の核心を示す語へと洗練されていくものであることも記されている。

単純化すれば、記号としての音(シニフィアン)と、(記号としての音の志向対象としての)概念(シニフィエ)の結合として語が説明されることになるわけだ。文字情報は、音声情報の視覚情報化の産物として説明可能であろう。記号としての音(聴覚映像)ではなく視覚的記号としての文字を人類が獲得したことを示す。

音声情報の視覚化の問題として考えれば、音声と文字の関係も恣意的なものであることを付言しておこう(音としての「ア」を「あ」と表記するか「阿」と表記するのか「a」と表記するのかは本質的問題ではないという意味で)。いずれにしても、そこに存在するのは、文字情報として視覚化された音声情報=シニフィアンとなる構図である。

そのような関係を確認した上で、当初の問いに戻る。「問い」を次のように書き改めることが出来るだろう。

聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

(2013/04/27 21:29)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えているわけだが、前回は、

 聴覚に支障がなければ、音声言語による会話は音声情報のやり取りとしてそのまま成立し、文字情報への変換は常に必要なものではない。

 聴覚に障害があり「口話」を会話の手段とする場合、相手の発話は音声情報であっても、口の開き方という視覚情報によってのみ把握が可能になるわけだ。口の開き方という視覚情報は、常に文字情報への変換による理解を必要とするものなのであろうか? 口の開き方という視覚情報がそのまま「言葉」として理解されることはないのであろうか?

…という形で、私にとっての問題の構図がどのようなものであるのかについて表現してみた。

もちろん、当人の話を聞けば済む話ではあるのだが、ここでは「話を聞くとはどういうことなのか?」という問題を耳の聞こえる側がどのように取り扱えるのかを、想像力の中だけで、もう少し考えておきたい。

想像力の中で考えるという方向ではなく、脳内過程の問題(「脳科学」の対象)として取り扱えば、当人の話を聞くのとは別の形で、実際のメカニズムは明らかになるであろうが、それは私の力の及ぶところではない。

聞こえない状態、聴覚のない状態を想像することは、一見したところ、それほど難しいものとは思えない。

しかし、聞こえる側の人間にとって、聞こえない現実は想像力を超えたところにある。

視覚の場合、眼が顔の前面についているために、視界は顔の向きに規定される。要するに視界は前方に限られ、視覚情報から後方は常に除外されているのである。

それに対し聴覚の場合は、(前方に優位性があることは確かであるが、それでも)全方向が対象となる。後方は聴覚情報からは除外されていないのである。

つまり、視覚の喪失は前方情報の喪失を意味する(後方情報は最初から存在しない)が、聴覚の喪失は全方向にわたる情報の喪失を意味するのである。
耳が聞こえないということは、視覚が確保されていれば前方の外界情報は得られても、それ以外の方向の外界情報を持たないということを意味する。

「口話」の問題に戻れば、「口話」が可能になるのは、相手が前方に位置し、しかも口元が見える場合のみなのである。耳の聞こえない人間にとっての音声情報の取得は、「口話」を通してであれ(「手話」による「翻訳」を通してであれ)視覚に依存せざるを得ないのであり、それは当人の前方に提示されない限り、存在しないのと同じなのである。逆に言えば、耳の聞こえる人間にとっては、音声情報は、前方に限定されることはなく、遍在するものなのである。


耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

(2013/04/30 21:04)

 

 

《音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4》

百瀬文さんの映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』をめぐって考えながら、シリーズの前回では、

 耳が聞こえるということは、音声言語に(つまり言葉に)周囲を囲まれた状態にあることを意味するが、耳が聞こえないということは、外部の言葉が前方にしか存在しない状態にあることを意味するはずである。

 文字言語もまた視覚的言語であり、身体の後方に示された文字を読むことは出来ないのである。

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

 その際、言葉はどのように存在しているのであろうか。

…なんて書いたわけだが、これは言うまでもなく文字による言語表現として「書いた」ものである。

しかし、別の言い方も可能で、通常は、

 私の考えを文章として書いてみた

…などと表現されたりする行為である。

ここには「言語と思考」というテーマが隠されており、その核心は、

 言語という形式に拠らずして思考は可能なのであろうか?

…と表現される。で、当初の、

 しかし、耳が聞こえないという状況にあっても、人が言葉を用いて考えをめぐらしていることは確かであり、そこでは身体の方向に拘束されることはないはずである。

…という言明に戻れば、ここでは「思考が言語という形式により可能になっている」との認識が(「人が言葉を用いて考えをめぐらしている」との言い回しの裡に)表明されていると言えるだろう。

その際に、文字による表現が採用され(文字により記述され)、そのことにより、私の思考は私の内部に閉じ込められることなく、ネットを介して私の外部でも共有可能なものとなっているわけである。

音声による思考の表明も可能であるが、その場にいた者以外には伝達不可能であるし、その場にいても話を聞いていなかった者には伝わることもなく消えてしまう。何より再参照が不可能なのである。もちろん現在では録音という手段もあるにせよ、録音をそのまま再生するだけでは、耳の聞こえない人には音声情報の伝達は不可能事である。

文字言語が可能にしているのは、思考内容の繰り返しの参照可能性の確保であり、それを自他の両者に可能にしているところに、音声言語からの絶対的な隔絶がある。

思考とは言葉を選び確定する過程、そのように言うことも出来るだろう。

そこには、選び確定された言葉を(音声として)発話するか(文字として)記述するかという違いがあるにせよ、思考は表明されることなくしては「言葉を選び確定する過程」として完了しないという、「言語と思考」問題の原理的構図の存在もある(思考を対象化可能にするという意味で「完了」していないのである)
音声として発話するのか文字として記述するのか、そのいずれであるにせよ、発話(あるいは記述)行為により、音声(あるいは文字)情報としての言葉が確定したものとして世界の中に生まれる。その際に言葉として確定されるのは思考である。

発話以前・記述以前の、言葉を選び確定させようとする過程において、言葉とはどのように存在するものであるのか?
その過程において、耳の聞こえないことは何らかの影響を与え、何らかの相異をもたらすものなのであろうか?

(2013/05/02 22:26)

 

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と…
 http://www.freeml.com/bl/316274/202847/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 2
 http://www.freeml.com/bl/316274/202886/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 3
 http://www.freeml.com/bl/316274/202959/

 音声情報としての言葉と視覚情報としての言葉と… 4
 http://www.freeml.com/bl/316274/203002/

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/21 20:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/202736/

 

 

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2013年4月 1日 (月)

歴史としての「原子力の明るい未来」 東独製原付トラバント篇

 

 結城丈二と言えば「仮面ライダーシリーズ(『仮面ライダーV3』)」に登場するライダーマンだが、ライダーマンマシンと呼ばれる専用バイクは原子力エンジン搭載という設定になっている。特殊な原付バイク(原子力エンジン付きバイク)と言えようか?

 

 番組(『仮面ライダーV3』)は1973年から放送されており、放映当時は、原子力エンジン付きバイクが、高性能な未来的バイクとしてイメージされるものであったことが理解出来る。

 

 

 結城丈二の人物設定は(『ウィキペディア』によれば)、

 

  『仮面ライダーV3』第43話で初登場する彼は1950年11月3日生まれ(改造時22歳)で、日本国籍を持つ、青年科学者であった。

 

…ということで、存命であれば2013年の11月には63歳を迎えるはずである。

 『鉄腕アトム』の主人公であるアトムもまた、原子力をエネルギー源とするロボットという設定であった。

 『鉄腕アトム』は(これも『ウィキペディア』によると)、

 

  1951年(昭和26年)4月から、翌年3月に連載された『アトム大使』の登場人物であったアトムを主人公として、1952年(昭和27年)4月から1968年(昭和43年)にかけて、「少年」(光文社)に連載され、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてフジテレビ系で日本で初めての国産テレビアニメとしてアニメ化された。このアニメ第1作は平均視聴率30%を超える人気を博し、その後、世界各地でも放映された。

 

…ということなので、結城丈二の年齢設定は、同時代に『鉄腕アトム』を愛読し、テレビアニメも観たであろう世代に相当する。

 

 

 原子力エンジン搭載のバイクを想像しようとすれば、福島第一原発事故経験後の日本人の多くは、バイクが事故ったら…という方に頭が働いてしまうに違いない。事故のあった交差点から3キロ圏内は強制避難地域とされてしまうような状況である。

 

 しかし、鉄腕アトムは希望に満ちた未来の夢の形象であり、結城丈二の原付(原子力エンジン付)バイクもまた、当時の子供にとって(大人にとっても、だが)、未来的高性能マシン以外の何物でもなかったのである。

 

 

 

 1955年の末に日比谷公園で開催された「原子力平和利用博」に際しても、「原子力運転による飛行機、汽車、汽船」の登場する未来が語られていたように(たとえば吉見俊哉 『夢の原子力』 ちくま新書 2012)、結城丈二の原付(原子力エンジン付)バイクは決して唐突で荒唐無稽な設定であったわけではない。戦後日本、高度成長期の日本人にとって、原子力エネルギーは明るい未来イメージの象徴的存在であったと考えるべきなのである。

 

 

 

 

 1962年というから、ベルリンの壁建設から間もないころの東ドイツ(ドイツ民主共和国)でも事情は同じであった。

 原子力エンジン駆動の小型乗用車の構想が伝えられている(英誌『モーター・ヒストリー』 2006年4月号掲載記事)。将来的には原子力エンジン搭載のトラバントが夢見られていたのである。現在知られているトラバント(P601)は1964年に生産が開始されたものであり、1962年にはより丸みを帯びたデザインの旧タイプのトラバント(P60)が生産されていた。そのトラバントの原子力エンジン化という構想なのであった(1964年以降は、もちろん、P601タイプへの搭載構想に移行するが、モデルチェンジはボディー外観の変更の問題に過ぎず、大枠では同じとみてよい)。

 

 ポーランド国境に近いオスト・シャイスに、産業省次官補であったハインツ・ミューラー博士の指導により秘密研究施設が建設されたのは1962年の10月のことである。

 研究の中心として考えられたのが、当時はソ連で核兵器開発に従事していたドイツ出身の科学者達であった。言うまでもなくナチス時代の原爆開発に従事していた科学者である。

 

 ハインツ・ミューラー自身も、ドイツの敗戦まではカイザー・ヴィルフェルム研究所に所属する物理学者であった。かつての同僚の招聘を目論んだわけである。

 しかし、ソ連にとっても有能なドイツ人科学者の存在は重要であり、ミューラーの構想は困難に直面する。1960年代初期のソ連にとって、核兵器保有での西側に対する優位の確保は最優先課題であり、小型乗用車搭載用の原子力エンジン開発に関心は持たれなかったのである。

 しかし、民生用小型原子力エンジン開発は軍事技術としても転用可能なものであり、地上軍装備の今後を考えれば、むしろ将来性を期待し得るものでもあった。そのような論理でミューラーはソ連当局者を説得し、ヴァルター・ホーエンハイム博士の研究所長就任に漕ぎつける。

 

 研究が実際にどのように進展したのかは現在のところ明らかになっていないというが、研究所は1968年まで存続しており、何らかの成果は得ていた可能性も指摘されている。

 1968年に研究施設は閉鎖されることになるが、これはホーエンハイム博士の西側亡命(米政府の保護下となった)という、ミューラーにとっても予期せぬ出来事の結果であった。ミューラーの昇進の可能性も閉ざされ(年金生活入り)、東ドイツにおける小型原子力エンジン開発の歴史はここで終わる。

 

 市街地で原子力エンジン駆動の乗用車を走行させることの危険性は、結城丈二のバイクについて指摘した通りである。

 それが東ドイツにおける設計となると、その危険性は倍加すると思われる。チェルノブイリ原発事故が大惨事となったのは、原子炉格納容器を持たない設計に起因するものと説明されるが、東ドイツ製の小型原子力エンジンに安全性への配慮を期待することは現実的ではない。トラバントのシンプルな2サイクルエンジンの設計の改良を怠った結果が、西独地域に対して著しく悪化した東独の大気汚染をもたらしたのである。

 

 

 原付トラバントが70年代に実用化されていたと考えると、それはまさに悪夢である。

 しかし、その「悪夢」は、第二次世界大戦後の世界に共有された「原子力の明るい未来」という「夢」に起源を持つものなのだということは肝に銘じておいてよい。「悪夢」が現実とならなかったことはせめての幸い、と考えておくべきなのであろう。シンプルな2サイクルエンジン搭載の電子部品なしの構造を維持したおかげで、現在でも圧倒的なファンの支持の下にヨーロッパの街角を走り続け、その姿を見る者に幸せを分かち与えているのである。

 

 

 

 

     (以上、毎年恒例のエイプリルフールのネタ記事でございます)

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/04/01 17:19 → http://www.freeml.com/bl/316274/202254/

 

 

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