« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月

2013年3月16日 (土)

琉球國の「独立」と伊江朝直 8

 

 前回は、安良城氏の紹介する、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)により、既に1858年の時点で、

 

  安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

 

あるいは、維新後間もない時期の、

 

  当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり

 

…といった、琉球國支配層による主張の存在事例を示した。

 ここには、それぞれ、

  支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し

  各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し

…とあるように、あくまでも問題の焦点は「琉球の運命」であり「沖縄の将来」であって、その問題意識の上に、

  支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきこと

  寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり

…との判断があるという構図に留意しておく必要がある。

 

 そこでは、「英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来」るような国際情勢の中での、琉球國の国家としての存続の可能性が問われているわけである。小さな島々で成り立つ小国の存続可能性という問題である。

 

 

 

 

 ここで21世紀の議論を見ておきたい。

 松島泰勝氏は、「島嶼経済」の置かれた条件という観点から、

 

 

 島嶼経済を論じるにあたってまず認識しなければならないのは、島嶼性という地理的条件の中で経済活動が行われているということである。島嶼性から生じる問題としては次の諸点を指摘できる。

(1) 面積に限りがあるため「規模の経済」が働かない。大量生産、大量消費が不可能であり、生産、消費においてコスト高になりやすい。
(2) 天然資源の賦存量に限りがある。幾つかの島嶼を除いて、その限定性は開発用の資源だけでなく、環礁島において生活必需のための土地、水、野菜等が不足しがちになる。
(3) 少ない熱帯商品の輸出に依存している。島嶼は経済規模が小さいため交易条件に対して影響力をもちえず、世界市場の動向に左右される。
(4) 大市場との距離が離れすぎており、国内または国外における輸送コストが高くなり、それが島内のインフレを増進させる。
(5) 島内企業が競争力をもたず、輸入品が増大するため、国際収支が赤字になりやすい。
(6) 技能のある労働力が不足し、外国人技能者に依存する。一方で教育を受けた者の職場の確保困難であるという理由で、島外に職を求めるという頭脳流出問題が存在する。
(7) 島内資本の規模が小さく、少数の多国籍企業によって島内経済が支配される場合が多い。
(8) 金融と生産との有機的関係が強くなく、域外からの援助金に大きく依存する構造になりやすい。
(9) 自然災害の影響を大きく受けやすい。台風、飢饉等で島嶼経済が混乱し、経済基盤を最初から作り直す必要が生じる場合がある。その際、他国からの援助金を必要とし、それが更に援助依存の構造を強化することになる。
(10) 生態系や物理的環境が非常に脆い。また、遺伝子の種類や量も少なく、植物や動物が絶滅しやすい。
(11) 海によって隣国と隔てられているため、経済活動をする上で不効率性が生じやすい。例えばクック諸島とリヒテンシュタインは人口や領土面積はほぼ同じである。しかし、後者の場合、陸地によって隣国とつながっているため容易に隣国のインフラ等を利用できるが、前者ではそれが不可能である。
(12) 輸送コスト、工事監督者への給与、エネルギーコスト等、工業化のための様々な追加的費用が必要となる。それらは島内の低い賃金率、無税地域の設定、為替レートの調節等によっては補うことが困難である場合が多い。ゆえに島嶼は恒常的に財政赤字体質になりやすい。

 以上のように多種多様な経済問題の解決を島嶼地域は迫らせている。上に紹介した島嶼問題は、島嶼のみに焦点をあわせた、それから派生する問題であるといえる。島嶼経済問題を新たな観点から分析した議論に、MIRAB経済論がある。MIRABとは次の言葉の頭文字を組み合わせたものである。MIは移民社会、Rは送金収入、Aは経済援助、Bは官僚組織の肥大化と民間セクターの欠如をそれぞれ意味している。島嶼民には移民が多く、彼らによる送金、そして、外国援助を主な対外収入として得ており、その結果、政府部門が拡大するという島嶼経済の現状を示している言葉である。
     松島泰勝 「西太平洋島嶼貿易圏構想の可能性」 2001
     http://www.spf.org/yashinomi/pacific/international/matsushima03.html

 

 

…と、「島嶼経済」の抱える様々な困難を提示している。

 経済的困難は、政治的独立の困難に直結する問題である。

 かつて伊波普猷が「孤島苦」と表現した琉球・沖縄の宿命的困難の、現代的表現と言えるだろうか。

 

 佐藤優氏は、「沖縄の独立」をめぐって、

 

 

 まず沖縄独立に関してです。結論から言って、私は沖縄独立に反対です。その第一の理由は、独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります。他方、沖縄国家の独立は可能と私は考えます。沖縄独立に関して、内地(ここでは沖縄以外の日本を内地と言います)の人々はもとより、沖縄の人々もその可能性を明らかに過小評価しています。沖縄独立は可能です。おそらく3年くらいあればできるでしょう。まずですね、沖縄の独立論云々と言ってもそれは「居酒屋独立論」じゃないか、圧倒的大多数の沖縄県民は独立なんて考えていないという議論がよくなされ、それが常識として通用しているところがあります。国家独立、民族独立、--沖縄の人々は、日本人の中の2つの国家を作っていくという方向なのか、別の民族として国家を作っていくことなのかは、とりあえずここでは詰めないでおきます。いずれにせよ独立可能性についての過小評価があるのです。
 まず、「居酒屋独立論」という言い方ですが、すべての独立運動というのは居酒屋から始まっているんです。これはヨーロッパで見ていただければ分かるんです。パブであり、あるいはコーヒー・ハウス、ティー・ショップ、そこに入るのは誰でも自由なんですね。こういう場所で、「おい、俺たちちょっとコケにされてるんじゃないか」「ふざけやがって」と、こういう話を飲みながらするうちに、だんだん国家独立という方向へ向かっていくわけなんです。ですから、居酒屋独立論というものが出てきているということは、それは一つの独立へ向けた土壌だということです。ちなみに沖縄の人々が居酒屋独立論だと言うことは構わないんです、若干の自嘲であれ、アイロニーだからです。ところが、内地の沖縄の置かれた状況を理解しようとしない人間が居酒屋独立論だと言うことはいけないんです。それは揶揄だからです。言葉というのは、その中に言霊が宿っています。ですから、それを発声する人の誠意によってその言葉の内容が異なるものになるからです。
     佐藤優 「沖縄の独立は3年くらいあれば可能だ」 『情況』2008年7月号
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/jokyo0807.htm#satomasaru

 

 

…と語っていた。

 佐藤氏は、

  独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります

…という政治的な困難の大きさを理由に沖縄の独立には反対しているわけだが、

  他方、沖縄国家の独立は可能と私は考えます。沖縄独立に関して、内地(ここでは沖縄以外の日本を内地と言います)の人々はもとより、沖縄の人々もその可能性を明らかに過小評価しています。沖縄独立は可能です。おそらく3年くらいあればできるでしょう。

…と、独立の可能性を評価もしているのである。

 その先では、

 

 

 さらにですね、住民の圧倒的大多数が賛成していないから独立ができないということは、ありません。1991年3月に、ソ連全体でソ連維持に関する国民投票というのをやったんですね。8割のソ連人が「ソ連維持」です。バルト諸国でも過半数が独立反対です。ところが、その年の終わりにソ連は崩壊してしまって、15の独立共和国ができたじゃないですか。過去3回、「ウチナー評論」という「琉球新報」の評論に、ルーマニア人とまったく同じモルドバ人という人たちがいるんですが、これがルーマニア人からモルドバ人となって別の国家を建てていくプロセスについて書きました。国家がどういうときに独立するかという興味深い実例だからです。簡単に言いますと、独立というのは県会議員が国会議員になりたいと本気で思って、県会議長が国会議長になりたいと思って、知事が大統領になりたいと思う、商工部長が商工大臣になりたいと思う、と。そう思うと瞬く間に実現するんです。住民全体にとっては非常に不利になってもそれでも実現するんです。この例は、東欧の崩壊の中でも、ソ連の崩壊の中でもよく見られる現象でした。ですから、去年、教科書検定に対する抗議行動として11万6千人という一つの物語なり神話ができたということがすごく重要なんですね。
 あの11万6千人という数字は、一つ一つカウントすればそこまではいかないなということは、集会の主催者や参加者がいちばんよく知ってます。他方、内地の沖縄に対する目つきのよくない連中が、「航空写真で数えてみたら1万数千人しかいない」などと言うと話が変わってきます。沖縄戦の意味が何かを理解しようとしていない人間がアヤをつける。そんなことになるんだったら断固11万6千でいこう、とこう思うんです。沖縄の人々の心理を考えた場合、こうなるのは当たり前なんです。こうやって神話を作らせるようなことをしているのは、沖縄を軽く見てる奴ら、内地の一部の有識者なんですね。ただこういう雰囲気になって、仲里利信県会議長あたりが、けっして革命的と言う人ではないですからね、その人がカーッとする。この雰囲気というのは、独立の土壌を作るのに明らかに貢献しているわけなんです。この辺のことは、ナショナリズムの成立過程とか、ソ連や東欧の崩壊再編過程というものと比較してみると、私は端的に言いまして、1987年のバルト諸国の様子に今の沖縄は似ているなと思うんです。そして、翌1988年にはソ連からの分離独立の動きが本格化しました。そしてその3年後の1991年にソ連は崩壊しました。ですから、今後、沖縄がそのまま内地との統合の力を強めていくのか、あるいはどんどん独立の方向に行くのか、これは誰も分からないというところです。

 

 

…と、バルト諸国のソ連からの分離独立の経験に重ねて、沖縄の独立を現実的可能性として論じているのである。

 しかしそこには、

  独立した沖縄(琉球)共和国は、アメリカ、中国、日本という3つの帝国主義国に囲まれます。そのような環境で生き残るには多大なエネルギーがかかります

…という政治的困難と同時に、松島氏の指摘する経済的困難が存在しているわけである。

 

 

 

 これは21世紀の時点での判断だが、振り返って、19世紀後半の世界の中で、独立した琉球國の可能性は現実的なものであったのだろうか?

 隣国に日本という国家の存在がある。それが19世紀後半の琉球國の置かれた状況であった。

 19世紀後半、「列強」によるアジアの植民地化が進行する、まさに「英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来」るような国際情勢の中で、維新後の日本は「富国強兵」による近代化を国策として採用することで国家としての独立の維持を図っていた。それは西欧起源の植民地主義の内面化による生き残り策でもあった。そこに琉球國の独立の維持の可能性が存在し得たのかどうか?

 もちろん、そもそも、

  17世紀以後の琉球國を独立国と呼べるのか?

…という問題も存在するわけだが、これまでに論じたように、

  東アジアの冊封体制における国家の独立とは何であるのか?

…という問題も存在し、話は簡単ではない。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/21 23:17 → http://www.freeml.com/bl/316274/201398/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月 4日 (月)

琉球國の「独立」と伊江朝直 7

 

 「琉球処分」とは、日本と清国への「両属」状態にあった琉球國が、日本の内部存在として再定義される歴史的過程であった。

 

 その時点で、琉球(あるいは沖縄)の人々は、日本という国家の内部存在となる。琉球人(あるいは沖縄人)は、日本という(やがて大日本帝國と自称するに至る)国家に帰属する存在とされることになるわけである。

 

 

 

 論を先に進める前に、琉球人と呼ぶべきか沖縄人と呼ぶべきかの呼称の問題について、ここでの私の考え方を書いておこう。

 もちろん、これは、まずもって当事者の意識の問題であり、当事者の自称の問題である。

 ただ、沖縄という名称を用いた場合、それがかつての琉球國の領域及びその領域を継承している沖縄県の領域全体を指すものであるのか、あるいは特に沖縄本島を指すものとして用いているのであるのかが判別し難くなるという問題が生じる。その点を考慮し、引用文の場合は別として、今後の私の論の上では、「沖縄人」を沖縄本島に住む人として限定的に用い、琉球國の領域民あるいは沖縄県の領域民について(後者については沖縄県民あるいは沖縄県人とする場合もあるだろうが)は包括的に「琉球人」と呼ぶことにする。
     (あくまでも混乱を避けるための便宜的措置である)

 

 

 

 さて、あらためて、琉球人の帰属意識の問題に戻ることにしよう。

 

 首里王府の国王により支配された琉球國について考える場合、そこに存在するのは近代的意識の下にある国民国家ではない。

 琉球國の支配層にとっては、琉球國こそが帰属意識の向かう先であったにせよ、被支配民として琉球國の領域住民であった人々には、琉球国民としての意識など存在しなかったはずである。生まれ育った村あるいは島が帰属意識の対象となることはあっても、琉球國の領域全体を帰属意識の対象とすることはなかったであろう。

 

 そこには、大里知子氏の言う、

 

  「琉球処分」はまさに、近代化、文明化、日本化の名のもと「頑迷固陋」と称された旧体制からの「解放」の側面もあったが、同時にそれは沖縄の歴史や伝統文化に対する「差別」「偏見」を伴い、強圧的な政策により「同化」を迫ってくる「抑圧」の側面も強くあった。

 

…という構図が存在する。

 首里王府と薩摩の二重支配による過重な搾取の対象であった被支配層に属する琉球人からすれば、そのような「旧体制」への帰属意識を持つことを期待される謂われはない。「琉球処分」はむしろ、そのような旧体制からの脱却・解放として、被支配層としての琉球人からは受け取られた側面がある。

 

 

 また、安良城氏が紹介していた、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)に、

 

(1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

(2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けた

 

…とあったように、琉球國の支配層の中にも、当時の国際情勢の把握や明治維新後の日本の国内状況の観察から、

  支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断

  寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張

…するに至った人物の存在が知られてもいるのである。

 

 「版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なり」とあるように、琉球國の支配層に属しながら、しかも琉球國の「国益」という視点に基づき、「藩籍奉還」という形式での琉球國の消滅(日本の内部化)を主張する姿には、近代世界に呑み込まれようとする小国の運命が反映されているように思われる。

 林文海 (城間親方)や 本国興 (津波古親方政正)に「日本」への帰属意識があったとは考え難いが、琉球の日本への積極的帰属が、合理的選択肢として彼らの中では位置付けられたわけである(ただし、琉球國支配層の支持を得るには至らなかったが)。

 

 

 琉球人の帰属意識の問題もまた近代と近代以前では異なるわけである。

 近代以前の問題として言えば、支配層には国家としての琉球國への帰属意識は存在していただろうが、被支配階層に属する琉球人に琉球國への帰属意識があったとは考えにくい。

 近代の問題として考えれば、「日本」への帰属意識の内発性と外発性、帰属意識の定着と反発の双方を視野に入れる必要がある。「四民平等」としての近代化は被支配階層民の「解放」への可能性であると同時に、「富国強兵」の資本制経済原理が支配する過酷な世界への一元化過程でもあった。

 確かに「四民平等」と「一君万民」は、「富国強兵」に国家としての活路を見出した近代日本を根底から支える国民形成のスローガンであった。しかし現実の明治の国家体制には、「一君」としての天皇の周囲に、親任官、勅任官、奏任官、判任官という官吏の階層序列が存在していたし、華族は「皇室の藩屏」としての特権を行使し、帝國議会への参加は高額納税者に限定され、それらはそれぞれに社会の平等性ではなく臣民間の序列的階層性の存在を意味し、天皇からの距離の序列の存在を意味していた。琉球人は、「四民平等・一君万民」であるはずの世界の中で、天皇からの距離の最も遠い存在である自身の姿に気付くことになる(朝鮮人がやって来るまでは)。

 スローガンとしての「四民平等・一君万民」からの現実の乖離の認識は、スローガンを疑う方向へではなく、むしろスローガンの理念の原理主義的徹底の方向へ意識を導くというのもまた現実というものである。しかも「日本」を相手にして、ダイレクトに理念の徹底を求めるという方向ではなく、平等であるはずの「日本」の四民・万民として自身を徹底するという方向が選択されるのである。つまり「日本」への帰属意識の徹底化であり、「日本」への同化の徹底である。1900年に高等女学校開校式の演説で、「クシャミする事まで他府県の通り」にすべきとの象徴的な言葉を述べたのは太田朝敷であった。

 平等の確保には、その前提としての徹底的同化が必要であると、琉球人自らが認識するのである。つまり、「日本人」として確保される「平等」であり、「日本人となる」ことによってのみ確保される(はずの)「平等」なのである。

 

 

 引きつづき日本に抵抗するか、それとも日本の一員になるか、それは当時多くの沖縄知識人に迫られた苦悩の選択であった。流れは後者だった。「公同会運動」にも積極的に参加した太田朝敷(1865一1938)は、運動終結後に一転して日本への同化運動に身を投じた。太田の「くしゃみの仕方まで日本化」という提唱は、「下から」の日本への同化の努力を象徴するものであった。そればかりか、太田朝敷のような人物が、沖縄の独自性を護持する立場から沖縄の徹底的な日本化を訴える立場へと変節すること自体、まさに近代以降沖縄住民のアイデンティティ葛藤史初期のシンボリックな出来事である。
     林泉忠 『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクスー沖縄・台湾・香港』 明石書店 2005
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/Lim-Chuan-Tiong0502.htm

 

 このようにして「近代」は、琉球人に、「日本」への帰属意識を保有しようとする努力の過程として生きられることになる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/20 21:37 → http://www.freeml.com/bl/316274/201382/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2013年3月 2日 (土)

ふくしまの話を聞く

 

 「ふくしまの話を聞こう 2  チェルノブイリ被災地訪問報告 ―ベラルーシ・ノルウェーで見た「放射線」と向き合う暮らし―」という企画があり、パートナーに誘われたので、中央線でお茶の水、山手線に乗り換えて秋葉原、日比谷線に乗り換えて三ノ輪、都電に乗り換えて…会場の荒川区民センターに到着。

 

 

 

 第一部が「ノルウェイの被災地における畜産業と暮らし」と題された講演。話をした佐藤吉宗氏は、スウェーデンのヨーテボリ大学研究員で、

 

 京都大学経済学部在学時の交換留学がきっかけで2000年夏以降、スウェーデンに在住。
 経済学博士。チェルノブイリ事故後のスウェーデンにおける汚染対策の知見や反省点について、同国政府がまとめた報告書を翻訳し『スウェーデンは放射能汚染からどう社会を守っているのか』として2012年に出版。ツイッターを通して安東さんらの「福島のエートス」の活動に関心を持ち、ノルウェーとベラルーシにアシスタントとして同行した。

 

…として紹介された人物。

 

 フィンランドやポーランドのチェルノブイリ事故後の対応を調べていて(ウチのパートナーが、という話ですが)、自国の保有する原発事故発生の可能性とか冷戦期ならではのヨーロッパ大陸での核戦争発生の可能性という、それぞれに大規模な放射能汚染の可能性を現実問題として考え、それに対する現実的なシミュレーションをしていた結果が、チェルノブイリ後の放射能汚染対応(迅速なヨウ素剤の配布など)にも表れているような印象を持っていたのだけど、今回の話を聞くと、ノルウェーの場合は、そもそも原発がなかったりするので、事前のシミュレーションは存在しなかったらしい。

 異常な放射線量を最初に確認したのはスウェーデンであったが、それが武装中立国としての核戦争対応システムによるものだったという点、そして異常な放射線量を当初は自国の原発事故由来と判断し、まずスウェーデン国内の原発の停止措置をとった話なども興味深く聞いた。

 で、風向きの関係などで、実際問題としてノルウェーの放射能汚染が深刻なものとなってしまったところから、様々な対策が始められたということのようだ。

 食品の安全基準などは、日本の6倍の数値で「安全」とされている(もっとも牧畜業がメインの地域なので、対象が穀物や野菜のような農産物とは性格が異なるという問題も―食習慣との関連で―あるかも知れない)ようだが、チェルノブイリ後25年以上過ぎても健康被害の問題は生じていないという話など考えさせられる(もっとも人口そのものが少ない―母集団の規模が小さい―ので健康被害発生に至る可能性のある人間の数も少なくなるという統計的問題もあるだろうが)。

 日本の安全基準はそれよりも更に低い値に設定されているということなのだが、聞く気のない人には通じないのだろうなぁ、とも思う。

 

 

 第二部は「ベラルーシで見たこと、聞いたこと、会った人」というタイトルでの安東量子さんの講演。安東さんは、「福島のエートス」の代表で、

 

 1976年生まれ、福島県いわき市在住。
 放射線を測り、知り、対処しながら、コミュニティでの生活再建を目指す住民活動を行っている。
 「エートス」は、チェルノブイリ事故10年後のベラルーシで始められた、ETHOS プロジェクトから。

 

…と人物紹介にある通りで、現に福島県に住み続けている方。

 

 ベラルーシでのチェルノブイリ原発事故対応が本格化するのは1991年で、つまり既に事故後5年が過ぎてからのことになるようだ。

 これは、以前のETV特集でのウクライナの話でも、放射能汚染地図の作成と除染や食料品規制に代表される対策の本格化が(確か)1992年以降となっていたから、まともな対応がされたのが両国共にソ連崩壊後になってのことになる(つまり事故後5年は放置状態だった)。

 この構図は重要で、今回のフクシマの対応がウクライナ・ベラルーシより酷いという言い方がされ、今後の福島での被害の深刻化が喧伝さているわけだが、ウクライナやベラルーシの現状は、事故後5~6年過ぎての本格的放射線防護がもたらしたものなのである。日本政府の対応が十分であるなどと主張するつもりはまったくないが、事故後の5~6年間、必要な対応がされないまま放置された結果の現地での健康被害の問題(ETV特集に詳しいが)を、そのまま日本の現状と同列に語ることは理解として正確ではないはずなのである。(この辺は、安東さんの話そのものではなくて、こちらの感想だが)

 

 ベラルーシの人々のインタビューの内容を聞いても、避難する権利を保障することの重要性は明らかだし、確かに避難は現実の放射能汚染と放射能汚染への不安から距離を置くことには役立つけれど、故郷を離れた生活もまた精神的不安定の原因となるということも伝わってくる。精神的ストレスもまた、身体的不調をもたらし得るのであるし、人間関係を不安定化させる要因ともなるし、そのことが新たな精神的ストレスを生み出すという問題は、避難者にも残留者にも降りかかるものなのである。

 避難指定地域への帰還が可能になったとしても、生活基盤が失われた土地への帰還の決断も簡単なものではない。また、たとえ当初の放射線値の低減化が果たされたにせよ、ホットスポットの存在への注意深い対応の必要は依然として残されるのである。であるからこそ、安東さんの人物紹介にある「放射線を測り、知り、対処しながら、コミュニティでの生活再建を目指す」とは、放射能汚染からの安全の宣言としてではなく、被災地に居住する当事者の注意深い行動の指針として理解されねばならない。

 「放射能汚染」がもたらす「不安」にどのように対応すべきかという問題として考えれば、強制的避難指定地域以外の場合、避難することも居住し続けることも、そのどちらもが強制されてはならず、どちらもが保障される必要がある。被災地域からの距離が「不安」の解消に役立つ場合もあれば、自らが注意深い対処の当事者となることで「不安」に距離を置くことが可能になると考える人々も存在することを理解しておくべきであろう。

 それは結局のところ、かつて存在したコミュニティが元通りになる保障はないということを意味するものでもある。それが原発事故が住民にもたらす過酷な現実である。

 

 いずれにしても、以前にも指摘したことだが、原発被災者には、

  避難する権利は保障されなければならない

…ということと同時に、

  住み続ける権利も保障されなければならない

…ということなのである。

 それを二者択一で考えてはいけないということなのであって、その両方を保障するだけで膨大なコストが必要となるが、そのコストを最終的に支えるのは主権者としての我々だということなのだと思う。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/24 23:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/201484/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年3月 1日 (金)

琉球國の「独立」と伊江朝直 6

 

 明治初頭のいわゆる「琉球処分」の過程と伊江朝直との関係を考えようとするに際して、

 

  維新慶賀使としての伊江王子・伊江朝直は、琉球國の独立喪失にいかなる責任を負うべきなのか?

 

…との問いを発するところから始めてみたわけだ。

 

 しかし、そもそもは、いつ、琉球國は独立を喪失したのか? まず、そこから問わねばならないと、私は判断し、あらためて、

 

  「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか?

  伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか?

 

…という問題から考えてみようと思ったわけである。

 

 

 ただ、その際に、

 

  「琉球処分」以前の琉球國における独立の問題は、戦後の本土復帰運動の評価とも連動する問題であり、つまり論者の政治的立場が反映されるような性格の問題であったこともあり、余計に複雑な展開を見せるものとなっている。

 

…という構図への目配りの必要も痛感させられた。

 

 

しかしこの問題については、私が詳細に立ち入るよりは、まず、大里知子氏の「『琉球処分』論と歴史意識」にある、

 

 

 屋嘉比は、近代以降の沖縄人が「日本帝国臣民でありながら、同時に近代日本国家の中で抑圧された沖縄人でもあるという、両義的位置」におかれたことで、常に「二重意識」を持つ存在としてあり、沖縄の統治政策は、「一方で沖縄に近代化や文明化としての『解放』をもたらした側面もあったが、他方で沖縄の歴史や文化に対して差別的偏見に基づく『抑圧』の歴史」でもあったとしている。「琉球処分」はまさに、近代化、文明化、日本化の名のもと「頑迷固陋」と称された旧体制からの「解放」の側面もあったが、同時にそれは沖縄の歴史や伝統文化に対する「差別」「偏見」を伴い、強圧的な政策により「同化」を迫ってくる「抑圧」の側面も強くあった。
 そしてこの「両義性」や「二重意識」は、現在もなお沖縄に影を落とし続けているという意味において、「琉球処分」の論者自身が、「解放」の側面を享受した・享受したい・享受すべきという立場から論じているのか、それとも「抑圧」に対する抵抗、怒りを表す立場から論じているのかによってえがかれる「琉球処分」像は変わってくる。逆に、読者がどちらの意識をもって「琉球処分」を読むかによってもまた捉えられる歴史像は違ってくる。いいかえれば、「琉球処分」当時に沖縄社会にもたらされた「解放」と「抑圧」の「両義性」、そしてその後の歴史過程の中で、「琉球処分」を描く側、読み取る側がもつ「両義性」と拠って立つ立場、それらがどのように相互に作用しているるかをみることによって、別の視点から「琉球処分」を問い直すことが出来るのではないだろうか。
     大里知子 「『琉球処分』論と歴史意識」 2012  374~376ページ
     http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/7171/1/12_oki_38_ozato.pdf

 

 

…という形での整理の仕方から全体の構図をつかんでおきたい(ここで大里氏は、屋嘉比収氏の『〈近代沖縄〉の知識人 島袋全発の軌跡』 吉川弘文館 2010 にある問題意識を継承しているわけである)。

 

 

 戦後の米軍統治下の沖縄には、いわゆる「革新」陣営の側が「本土復帰・祖国復帰」運動を展開した歴史がある。

 そこに見出されるのは日本への帰属意識であろう。「復帰」は、「独立」した沖縄(かつての琉球國)への復帰としてではなく、「日本」の一部(つまり沖縄県)への復帰として描かれたわけである。

 沖縄のマジョリティーは、「平和憲法」を持つ「祖国日本」への「復帰」を望み、米軍基地の縮小を期待したのであった(大里氏の論考の言葉を流用すれば、「琉球処分」の「解放」の側面を享受した・享受したい・享受すべきという立場が生み出した種類の願望、とでも言えるだろうか)。

 しかし、祖国復帰が実際にもたらしたのは、沖縄県民の望まない、米軍基地の固定化であった。本土では米軍基地が縮小されていたにもかかわらず、それが沖縄に及ぶことはなかったのである(これも大里氏の言葉を借りれば、復帰後の現実が、「琉球処分」後の現実としての明治国家による「抑圧」に対する抵抗、怒りを表す立場の正当性を、沖縄県民に再認識させることになったわけだ)。

 あらためて、日本という国家への帰属意識自体が問われることになる。琉球國の末裔にとって、日本は復帰すべき祖国であったのかどうか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/19 22:22 → http://www.freeml.com/bl/316274/201365/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »