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2013年2月10日 (日)

恐ろしき者の末の末 6

 

 シリーズの前々回では、

 
  大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる
 

…と書き、前回には、

 

  伊江朝助はここで、あくまでも沖縄の「祖国復帰」を主張しているわけだが、

   どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。

  …とまで言ってしまう心情は悲痛である。
 

…と書いた。その伊江朝助の曾祖父は伊江朝直であり、「伊江王子」として、まさに明治のいわゆる「琉球処分」の際の琉球王国側の当事者となっている人物である。

 
 

 伊江朝直の次男である朝信の三男であった伊江朝貞は、「琉球処分」を以下のように描いている。

 

 

 明治と琉球

明治五年六月琉球国王を補佐し政務の枢機に与る最高官摂生与那城王子病気辞任の後を承けて尚健挙げられて摂生となった之琉球に於ける国相の最後である徳川幕府は政権を奉還し封建は廃されて廃藩知県となり茲に薩藩との従来の関係は絶たれたので鹿児島県参事大山綱良朝旨を承けて琉球使臣の入朝を促したので明治五年七月王政維新の慶賀正使尚健副使宜湾朝保参議官喜屋武朝扶等一行十名東上入朝する事となった琉球が足利時代より徳川幕府の末葉に至るまで将軍家へ入朝した事は屡々であったが皇室に対し奉り朝参の礼を修めたのは之が始てである此慶賀使を迎える政府は破格の優遇をして遠来の臣を歓待犒った当時の記録に依る

琉球使臣入京接遇の事
 近日上京に付き接待に付ては接待振の儀見込可申進旨致承知候国家は同所属の義に付外国人と視做し接待候には不及候乍去客礼を以て被遇候に付琉人に附添来る鹿児島県官員とも総て本省に属し右接待御用係被命御維新以来初て入京の義に付き優渥の御取扱相成可然存候右にて可然候わば本省並に鹿児島県へ速に御沙汰有之度候也壬申(明治五年)八月十五日 外務省
正院御中
とあり斯くて大蔵省は費用一万円を支出したのは当時に在りては其接待費の如何に巨額であったかが思われる正使一行の旅館は芝愛宕下の毛利邸が充てがわれた
 此処で思うのは外務省発文書中の外国人と視做し接待候には不及候の字句で既に当然領土であり同胞である事を明かにして在る事で朝鮮は暫く措き之を本島の領有に観る本島は支那より割譲されたものであり同時に島内の反抗する残兵を掃蕩駆逐し然して住民に布告して安堵して其儘永住する者は大日本帝国臣民とす之を嫌厭するものは何年何月何日迄に退去すべしと其去就の自由を与えた然も此事実に触れる事を避けて徒らに施政に反感を懐き或種の盲動をこれ事とする者有るは奇怪である聞く国家の慶弔日に国旗の樹立を肯ぜざる輩の如き児戯とあらば不問然らざれば当年の布告の精神の如く郷等は宜しく去って支那籍民たるべきである

表文の奉呈
使臣伊江朝直等は明治五年九月十五日午後一時参朝し正使伊江朝直、副使宜湾朝保、参議官喜屋武朝は式部輔に誘われて桜の間に憩い軈て伶人の奏楽裏に明治大帝出御遊ばされて玉座につかせられ太政大臣外務卿各省長官及次官の侍立を使臣は式部輔に誘われて進み畏くも竜顔に呎尺し式部輔より三使の名を披露言上すれば三使は磐折謹拝後天皇皇后両陛下へ尚泰王の表文並に献貢目録等を式部輔へ奉呈、輔は之を読上げて後上進した

尚泰王の表文
 恭惟、皇上登極以来乾綱始強庶政一新黎庶、皇恩に浴し歓欣鼓舞せざるなし尚泰南陬に在て伏して盛事を聞恐懼の至りに勝えず今正使尚健、副使向有恒、参議官向有新を遣し謹で朝賀の礼を修え且方物を貢す伏て奏聞を請う
 明治五年壬申七月十五日
 琉球尚泰謹奏
 恭惟、皇后位を中宮に正し徳至尊に配し天下の母儀となり四海日々文明の域に進み黎庶生を楽し三業に安ず尚泰海陬に在て伏て盛事を聞き懼祚の至りに勝えず今正使尚健副使向有恒参議官向有信を遣し謹んで慶賀の礼を修め且方物を貢す伏て奏聞を請う
 年月日 琉球尚泰謹奏
使臣等亦各自の献物目録を読上げ式部輔を経て奉献した、之に対し尚泰王には
 琉球の薩摩に附庸たる年久し今維新の際に会し上表且方物を献ず忠誠無二朕之を嘉納す
使臣等には
 汝等入朝す聞く汝の主の意を奉じて失うなし自ら方物を献ず深く嘉納す
陛下には冊封の勅を取らせられて之を外務卿に授け給い卿は宣伝し畢って使臣に伝えられた
 朕上天の景命に膺り万世一系の帝祚を紹き奄に四海を有ち八荒に君臨す今琉球近く南部に在り気類相同く言文異なる無く薩摩附庸の藩たり而して爾尚泰能く謹誠を致す宜く顕爵を与うべし聘して琉球藩王となし敍して華族に列す咨爾尚泰其れ藩屏の任を重し衆庶の上に立ち切に朕が意を体し永く皇室に輔たれ欽哉
此時使臣等謹拝して尚泰に代り謹て捧呈した請書は
 臣健等謹白す臣寡君の命を奉じ天朝に入貢す今、聖恩寡君を封じて藩王となし且華族に班せしむ、聖恩重渥恐感の至に堪えず健等代って詔命の辱を拝す
 月日
 正使尚健、副使向有恒、参議官向有新
次いで藩王の妃へ賜物の目録を式部輔宣読して之を授けた斯くて使臣等へも夫々御下賜金品を授けられたが、一行の為めには尚軍艦にて横須賀製鉄所其他を縦覧せしめて其の知見を博めしめる事に努めた
 この政府の措置に依って日本本土の文化の程度を識り帰って頑迷な守旧派に悩まされた伊江朝直外使臣一行の境遇が追て敍述するように頗る明治維新当時渡欧した伊藤博文其他の国士が帰って我国の頑迷者に悩まされた点と酷似して居る

御歌会に詠進
今年九月十八日、皇上吹上離宮の御歌会に三使臣をも召された歌人である副使宣湾朝保有恒の詠進歌は
 動きなき御代を心の厳が根にかけて絶えせぬ滝つ白糸
でいたく御嘉賞遊ばされたとある歌詞の巧拙は筆者此れを判い難きも同文の国であるとの考証には充分なる

光栄に輝く使臣
御歌会参列の光栄に浴した使臣は更らに同日皇太后、皇后両陛下に拝謁仰せ付かり献上物を願出て御嘉納あらせられた上御饗宴を賜わり数々の御下賜品あり明治五年十月勅諭並に御下賜品を奉じ光栄に輝きつつ退京品川を解纜して鹿児島に暫時滞留翌六年一月再び発般して琉球に向う途中逆風に遭って鬼界ヶ島に漂著したが折良く本島よりの使臣伊地知貞の乗船が碇泊して居たのへ移乗して帰国した此行が我王政維新の宏謨に基き琉球が朝勤の礼を修めた最初である爾来琉球は政府の直属として制度の革新と共に新文明に適応する施政を見んとしたが古来日支両国間に介在した情弊は一概に日本の文物を喜ぶ者斗りでなく就中守旧派は日本の封権制度の廃止四民平等権と云った形が其儘に琉球に行わるる事を怖れ厭いて新制度を呪咀して旧制度を復せしめんとし人心は恟々不穏の徴を来した当時政府は琉球の積弊を打破する一面租税を減免し征台の役を起して藩民を救恤したが(現在高雄州恒春郡四重渓統埔に墓碑を存する西郷従道侯の明治七年の役)征台の役も終りて対支問題漸く解決するや此処に琉球古来の両属政治は根本より革正し支那関係を断絶せしめんと廟議は決する所があった是より前伊江朝直は東京滞在中知行二百石を加増されて六百石の禄高となった慶賀使の功に依って更らに二百石の加増及恩賞金の沙汰のあったのを固辞したが翌七年九月藩庁は久米具志川切総地頭職を世子尚典(尚泰の世子俊の侯爵)に伊江朝直の殊勲を認めて之を恩納間切総地頭職に挙げた

琉球維新の序幕
政府は翌明治八年琉球藩に命じて清国と従来の関係を絶たしめ且征台役の謝恩として藩王尚泰の入勤を促し尚藩制改革等重大な問題に際会したので藩論は恰も明治維新の如く甲論乙駁極度に沸騰したが日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した守旧派の多数党が明治九年三月藩主に提出した弾劾建議書は
 去る申年、伊江玉子、前宜湾親方喜屋武親、雲上東京へ御使者にて被御遣候時、藩主の御封冊直様御受仕り候処より重大の事件被申掛候に付藩主御称号御取返し御願被仰越候上、右御書面の相当の御咎被仰付度先達て奉願候処、急に御咎被仰付候わば差掛御願願筋の御障りに可相成も難計候間事能御願済御使者衆御聴相済候間可奉承知旨被仰渡奉畏候、臣として主君の御爵軽々敷御請右式国難の事供仕出候儀不忠無比上適恐入の書面差出被相真居候も御役場出勤等被仰付御咎向御無沙汰の様相見得申候刑罰は基い天心に順い、一人を罪して万人を救い給う忠愛の道此儀御国家の大典にて、君主さえも得々私に難被遊趣相見得候処右通出勤被仰付候儀は世上甚敷疑迷申居候尤御咎被仰付候わば御願筋の御障と可相成候との御沙汰候え共、於東京者国評不相円人心区々有之候抔と新聞致批判候由、左様候えば此涯君をなみし候方は早々御咎被仰付候わば人心一致に相堅候段は政府に相響き御願筋の為め可被成と奉存候間、急々御咎被仰付度奉存候以上
 子旧三月(明治九年丙子)
 (当時既に新聞は批判致居り候由と云う字句の使われて在るのは鳥渡眼を惹く)

琉球処分の一節
当時琉球の処分官であった松田内務大書記官の著『琉球処分』巻の下に一節は能く当時の事情を敍して在る
 『六月三日午前十時首里、那覇、久米、泊の士族総代二百名を出張所(在那覇内務省出張所)に集め予懇篤是等に説諭して曰く、此頃士族の中に於て伊江王子及故宜湾親方の子息某を殺害すべしと称して頻りに暴論を放つ者がある而して其趣意とする所は伊江王子及宜湾親方は先年立藩の令下った時上京して之を奉じた者に付今日の廃藩知県は彼の両人が立藩の令を奉じたるに依り起りたりとして之を憎むに出でたる由なれ共是れ甚だ誤見なり夫れ立藩の事たる政府は国制上行いしもので彼両人に於て之を如何ともする事は出来ない、特に故宜湾親方の如きは本琉球の一人物で忠良であり藩主に対し何等不忠の事を為すべきでない然るに漫りに罪を彼両人に帰して一般を煽動するは甚だ悪むべき所為なり而して拙者は能く其人物を探知し居るに付若し弥甚しければ之を縛して安寧を保護せんとするのである故に子等は其子弟を警戒して罪に抵らしめないように注意せよ』
文中故宜湾云々とあるが副使であった宜湾朝保は藩吏等の政府に対する会議を開く毎に社稷を安ずるに之れ努めず専ら己の門閥を保つ事に汲々たるを憂い長大息して
 野にすだく虫の声々かまびすし誰が聞わけてしなさだめせん
と口吟み党人等の跋扈迫害の裏に悶々の日を送り遂に病んで明治九年八月五十四歳で永眠した其長男亦那覇里主(那覇市尹)の冠を挂げて閉居した当時藩庁では党人等に対し偏に緩和策を講じたが熱狂する人心を鎮圧する事は出来なかった其処で政府は当時在京の琉球三司宮池城安規を召喚し責て曰く、先年使臣伊江王子及宜湾親方の封王の勅書を奉拝せしは恭順の道なり然るに士族者の之を罪に陥入れんとして沸騰するは叛逆無道の所為にして寛恕すべきでない速かに警官を派して之を調査し厳罰に処せん、と言渡したので池城は大に驚き是れ即ち頑迷無智の者の盲動であるから琉球藩に示達し自ら鎮圧の道を講じ度いから暫く政府の手を下すのを猶予され度いと陳弁し直ちに在京中の与那原親方、内間親雲上の両人を帰国させ政府の命を伝達させたので漸く事無きを得たのである
 斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けたが其後日清戦役も終え領台当時頃には沖縄県民も大に覚醒し二区三郡七万人以上の有識階級を代表して尚順男爵は当時尚存命中の伊江朝直に昔日の罪を謝したとか、些か以て亡き宜湾朝保の霊も冥すべきか

琉球から沖縄へ
廃藩知県は明治十二年に行われ旧琉球藩は茲に沖縄県として更正したのである同時に尚泰王の弟尚弼並に伊江朝直は共に華族に列せられた伊江朝直の前半生は内に重大な疑獄事件を処断し外に英仏米蘭等の諸国船と通商貿易の衡に当り幕末迄徳川に入貢し王政復古の慶賀使としては永遠に琉球を泰山の安きに置くの措置に出でしも反対党の為めに極度の弾劾と圧迫を蒙り多事多難の生涯を経たが後年は報いられて県民崇高の的となり慰められつ風月を友とし明治二十九年一月四日七十九歳の高寿を保って永眠した、人となり謹直剛健、躯幹肥大の士であったと

台湾日日新報(新聞) 1929.1.27-1929.2.7(昭和4) 沖縄秘話
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10086836&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

 
 
 
 

 「台湾日日新報」の記事は、

 

  本秘話は伊江氏の旧稿を披見し未だ見ぬ沖縄を情話のように砕いて其の経緯をと筆を取ったのではあるが系図にも等しい心血を注いだ原文は動もすると其儘に筆を走らせる然も想い付いては卑見を挿み時に原文を改訂したので或は氏の心に悖るものがありはせぬかを懼る、原文は氏が父祖の偉業を後昆に残さんが為めの主感の熱涙随所に迸るに対し第三者としての本稿は唯に事実の羅列に過ぎない事も亦告白する

 

…と結ばれているように、朝貞の文章そのままではないが、それでも原文が身内の視線の下に書かれたものであることは確実である。

 

 注目しておきたいのは、

 

  日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

 

…という記述である。伊江王子(伊江朝直)は、琉球ナショナリズムの視線からは、いわば「売国の徒」として「斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けた」のであった。軍事的に無力な国家の王家の一員が、無抵抗なままに併合を受け入れことが「守旧派」から「弾劾」された、というわけである。

 
 

 伊江王子は抵抗すべきであったのだろうか? そこに抵抗の手段は存在したのであろうか?

 

 思い出すのはクンデラのあの問いである。

 
 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?
 そしてふたたび、もうわれわれが知っている考えが彼をとらえる。人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたのかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。
      ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 (集英社文庫 282ページ)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/31 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/200929/
 
 

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