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2013年2月11日 (月)

恐ろしき者の末の末 7

 

 かつてミラン・クンデラは、

 

 

 歴史も、個人の人生と似たようなものである。チェコ人の歴史はたったの一度しかない。トマーシュの人生と同じようにある日終わりを告げ、二度繰り返すことはできないであろう。
 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
 三百年後、一九三八年のミュンヘン会談の後、全世界はチェコ人の土地をヒットラーに捧げることを決めた。当時八倍もの強力な敵に自分たちで戦ってみるべきであったろうか? 一六一八年と違って当時は勇気よりも多くの慎重さを持っていた。チェコの占領により、何十年あるいは何百年とチェコ民族の自由の究極的喪失へとつながる第二次世界大戦が始まった。当時慎重さよりもより多くの勇気を持つべきであったのであろうか? 何をなすべきであったのか?
 もしもチェコの歴史を繰り返すことが可能であるなら、そのつど違うほうの可能性を試してみて、そのあとで二つの結果を比較してみればもちろんいいに違いなかろう。このような実験がないなら、あらゆる考察は単に仮説の遊びにすぎない。
      クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282~283ページ

 

 

…と書いていたわけだが、1618年のチェコの歴史と1938年のチェコの歴史だけではなく、ここには1968年のチェコの歴史も埋め込まれているわけである。いわゆる「プラハの春」と、それを戦車で踏み潰したブレジネフの「社会主義共同体の利益」の論理が、である。

 

 1618年のチェコの貴族の勇気ある判断は、しかしチェコを荒廃に導いた。

 1938年のチェコ人は、ミュンヘン協定の結果を受け入れることで、ヒトラーの占領下に置かれることになった。1942年になり、慎重さより勇気を選択したチェコ人が副総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功したが、ナチスの報復には容赦がなく、リディツェの村は完全に破壊され、村の男性のすべてが殺害され、女と子供は強制収容所に送られた。

 
 『存在の耐えられない軽さ』は、まず1968年のプラハの出来事が舞台とされる小説である。第一書記アレクサンドル・ドプチェクの下で、共産党の独裁的支配が否定され、社会主義と民主化の両立への希望が芽生えていた時代である。

 しかし、ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフにも、その他の東欧の政治指導者にとっても、チェコスロバキアで進行している事態は容認出来るものではなく、ワルシャワ条約機構の軍隊はチェコスロバキアの国境内に侵攻し、「プラハの春」などなかったことにされるのである。再び秘密警察と密告の時代に逆戻りするのだ。

 

 

 クンデラの問いは、1968年のプラハに生きた主人公の姿に託されたものだが、侵入したソ連の戦車への抵抗の可能性と1938年のチェコの経験とを重ね合わせ、そこに1618年の経験をも重ね合わせ、暴力による支配に対する「態度決定の正しさ」の決定不能性を明らかにしているわけである。

 
 正しさへの殉教は確かに美しく、人を感動させる。支配者ハイドリヒを暗殺する行為は、「正義」の名に値するものかも知れない。ソ連の戦車の前に身を投げて轢き殺されることは、確かに気高い行為であろう。

 しかし、ハイドリヒの暗殺はナチス支配を終焉させることには結びつくことはなかったし、ソ連の戦車に轢き殺されることによりブレジネフの態度が変化することもなかった。

 

 

 現在、ウィーンにチェコを支配する皇帝はいないし、ヒトラーの帝国がチェコを支配してはいないし、プラハの街角にソ連の戦車の姿はない。勇気ある抵抗者の姿は、確かに私達の心情を高揚させるが、その勇気が現在の皇帝の高官もヒトラーの兵士もブレジネフの戦車もいないプラハをもたらしたわけでもない。「勇気ある抵抗者の姿」は美しいエピソードであるが、それが暴力支配の終焉に直接結び付くものとなったわけではないのである。

 1618年の、1938年の、1968年のチェコの選択、ひとりひとりのチェコ人の選択の何が正しかったのかを決定することは難しい。

 しかし、それは、ヒトラーと手を結ぶこと、ブレジネフと握手をすることが正しかったという認識を意味するわけでもないだろう。

 

 

 

 琉球大学附属図書館の貴重資料展の解説では、

 
 

 琉球処分とは、明治政府のもとに琉球が日本の近代国家のなかに組み込まれる一連の過程をいう。その期間は、沖縄が1872年(明治5)の琉球藩として設置され、1879年(明治12)に廃藩置県となり、その翌年に分島問題が起こるまで、前後9年間にまたがる。
 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。続いて政府は台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾出兵を実行、それを機に1875年(明治8)、松田道之処分官は琉球藩に対し、(1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封を受けることを今後禁止すること、(2)明治の年号を使用すること、(3)謝恩使として藩王(尚泰)みずから上京すること、などの政府の命令を伝えた。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県をおこなうことを通達。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/digia/tenji/tenji2001/m05.html

 
 

…と「琉球処分」の過程を要約している。

 

 ここには、

  1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。

…とあるわけだが、この明治5年の「維新慶賀使」(琉使)の一員が伊江王子・伊江朝直であり、その伊江朝直の明治政府への対応が、琉球王国(正確な国号は「琉球國」)の明治日本への併合(ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった)のスタートとなってしまっているわけである。

 結果として、明治日本国家内部の琉球藩となった「琉球國」へ帰国した「慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受け」ることとなり、

  茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

…ような経験をすることに立ち至る(「沖縄秘話」 台湾日日新報 1929)。

 

 

 

 ここにクンデラのあの問いが再び浮かび上がるだろう。

 

 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?

 

 
 
 
 

 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 :2013/02/02 22:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/200977/
 
 

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