« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月

2013年2月23日 (土)

琉球國の「独立」と伊江朝直 5

 

 明治5(1872)年、琉球国王を華族に列することの可否に関して、左院の答義には次のようにあった。

 

 

 華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノニシテ今般更ニ琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

 

 

 ここで左院は、まず華族宣下の意味を、

  国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノ

…として示している。左院にとっては、宣下の対象は「国内人類」に限定すべきものなのである。琉球国王に対する「華族宣下ノ不可ナル所以」の核心は、

  琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

…という認識にある。その認識を要約すれば(前回に書いたように)、

 

  あくまでも琉球は日本の「外部」の存在、ということ

 

…なのである。

 

 琉球國の「両属」という状態に対する左院の認識を見ておくと、それは、

  

  琉球ノ我ニ依頼スルコト清ヨリ勝レルハ清ニハ名ヲ以テ服従シ我ニハ実ヲ以テ服従スレハナリ

 

…というものであった。ここにある「名」と「実」の関係については「名ハ虚文ナリ実ハ要務ナリ」とされ、「我其要務ノ実ヲ得タレハ其虚文ノ名ハ之ヲ清ニ分チ与ヘ必シモ之ヲ正ササルヘシ」という判断を示していた。

 ここでは、左院により、琉球國は「我ニハ実ヲ以テ服従」しているような存在として位置付けられてもいることに留意しておきたい。

 つまり、琉球は日本の外部であり、しかし同時に、日本に「実ヲ以テ服従」している存在として位置付けられていたことになる。

 

 

 それに対し、井上馨は、

 

  抑臣等居ル所ハ即チ 天子ノ土臣等牧スル所ハ即チ 天子ノ民ナリ安ンソ私有セへケンヤ今謹テ其藩籍ヲ収メテ之ヲ上ル願クハ 朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ凡列藩ノ封土更ニ宜シク 詔命ヲ下シテコレヲ改メ定ムヘシ

 

…との論理の延長に琉球國を位置付け、「速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度ニ御引直相成」るべきであると主張していた。琉球国王への対応は、井上馨には、あくまでも国内問題なのであった。

 

 

 

 結果から言えば、明治新政府は、左院ではなく井上馨が代表する大蔵省及び華族藩王化を主張する外務省の路線を採用する。

 明治5(1872)年9月14日、伊江王子以下の維新慶賀使は、明治天皇に謁見し、

 

 

 朕上天ノ景命ニ膺リ萬世一系ノ帝祚ヲ紹キ奄ニ四海ヲ有チ八荒ニ君臨ス今琉球近ク南服ニ在リ気類相同ク言文殊ナル無ク世々薩摩ノ附庸タリ而シテ爾尚泰能ク勤誠ヲ致ス宜ク顕爵ヲ予フヘシ陞シテ琉球藩王ト為シ叙シテ華族ニ列ス咨爾尚泰其レ藩屏ノ任ヲ重シ衆庶ノ上ニ立チ切ニ朕カ意ヲ体シテ永ク皇室ニ輔タレ欽ヨ哉

 

 

…との、(琉球国王)尚泰を華族とし琉球藩王とする旨の詔書(註:1)を受け取ることになる。

 

 

 以前にも紹介した琉球大学付属図書館の貴重書展の解説では、

 

 

 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。

 

 

…として示されていた歴史的過程である。ただし、この解説では、「琉球藩の設置」の意味が十分に説明されていないようにも思われる。

 冊封体制の下では、琉球国王は、あくまでも中国(明・清)の皇帝の臣下なのであり、国王の地位は中国の皇帝の権力と権威に基くものであった。確かに琉球國は、日本にとっては「我ニハ実ヲ以テ服従」するような存在であったが、君臣関係においては、琉球国王はあくまでも中国皇帝の臣下なのであって、天皇を頂点とする日本国内の君臣関係の外部の存在だったのである。

 琉球大学図書館の解説文にある、

 

  琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした

 

…ということの意味は、単に新たに琉球藩を設置したことにあるのではなく、冊封体制内の(中国皇帝の臣下としての)琉球国王尚泰を明治新体制内の華族とし琉球藩王とすることで、新たに天皇の臣下として位置付けたことにある。

 このようにして明治の新政権は、琉球の取り扱いを国内問題として再定義することに成功したのである。

 

 

 

【註:1】
 実際の詔書の文中では、「琉球国王」との称号は予め取り除かれ、ただ尚泰とのみ名が記されている点にも留意。尚泰を、日本の外部に存在する国家の王として位置付けることになりかねない称号に言及する文言を排除することで、尚泰を当初からの日本の内部存在として位置付けておこうとする明治日本政府の意図が見出されるであろう。
 そのような意味で、詔書の文言は実に周到であり巧妙なものである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/09 21:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/201153/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月21日 (木)

琉球國の「独立」と伊江朝直 4

 

 前回には、

 

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

 

…と問いを立て、それに日本政府がどのように答えて来たのかを確認してみたわけである。

 

 

 第二次橋本内閣(自民党)及び第三次小泉内閣(これも自民党政権)の下での政府答弁からは、

 

  結局、照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問に対して、日本政府は「いつ」を明確にすることは出来なかったし、鈴木宗男衆議院議員による「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」という質問に対しても、「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」としか答えることが出来なかったのである。

  つまり「日支両属」時代の琉球國(琉球王国)に関しては、日本の国家領域の内部の存在として明確に位置付けることが困難であることを、日本政府は明言していたことになる。

 

…として要約され得るような日本政府の認識が明らかとなった。そのことを確認した上で、

 

  しかし、照屋議員の問いは、「沖縄の人」が日本人=日本民族(いわゆるヤマト民族)かどうかの問題(民族的帰属問題)としても展開し得るものであり、これもまた一義的に決定され得るような問題ではないのである。

 

…という問題の所在にも言及したわけである。念のために照屋議員の問いを再確認しておくと、

 

  沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか?

 

…というものであった。この問いを、

 

  沖縄の人(沖縄人あるいは琉球人)は、日本の外部の存在なのか、それとも内部の存在なのか? 内部の存在だとしたら、いつから日本の内部の存在となったのか?

 

…という問題として考えてみたい。

 

 

 

 明治の新政府の側にいた人々に、その問題はどのように認識されていたのだろうか?

 ここに明治5(1872)年の有名なやり取りがある(いわゆる「琉球処分」の過程の最初の段階のものである)。

 

 明治維新とは、国内の再統一と中央集権化の試みでもあった。そして、藩政奉還・廃藩置県という手続きを介して、日本列島は明治政府の一元的支配下に再編成される。

 それまでの「日支両属」という琉球國(琉球王国)との関係も、再検討されることになる。そこでは、「日支両属」という関係を解消し、琉球國を日本の国家領域内の存在として再編成する方途が政策課題として浮上した。

 方向性としては、「日支両属」を維持しながら日本との関係を強化する(させる)のか? あるいは、琉球國と清国の冊封関係を清算させた上で、琉球を日本の排他的国家領域内部の存在として確定させるのか? という二者に代表されるものとなった。

 

 後者の代表として問題提起をしたのが、当時、大蔵大輔の地位にあった井上馨であった。井上の建議には、

 

 彼ノ酋長ヲ近ク 闕下ニ招致シ其不臣ノ罪ヲ譴責シ且前文慶長大捷以後ノ情況順逆ノ大義土地ノ形勢其他伝記典章待遇交渉ノ上ニ表見スル証跡ヲ挙ケ詳細ニ説明シ彼ヲ使テ悔過謝罪茅土ノ不可私有ヲ了得セシメ然後速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰シ国郡制置租税調貢等悉皆内地一軌ノ制度ニ御引直相成一視同仁 皇化洽浹ニ至候

 

…とあった。井上は琉球国王に対し、「速ニ其藩籍ヲ収メ明ニ我所轄ニ帰」するよう求めることを提案したのである。この問題について大蔵省サイドでは、

 

 抑臣等居ル所ハ即チ 天子ノ土臣等牧スル所ハ即チ 天子ノ民ナリ安ンソ私有セへケンヤ今謹テ其藩籍ヲ収メテ之ヲ上ル願クハ 朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ凡列藩ノ封土更ニ宜シク 詔命ヲ下シテコレヲ改メ定ムヘシ

 

…という言い方もされていた。「朝廷其宣ニ処シ其与フ可キハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ」との主張である。

 一方、外務省サイドの建議書では「尚泰ヲ藩王ニ封シ華族ニ列シ其外交ヲ遏メン」と主張された。琉球国王尚泰をあらためて琉球藩王に封じ、華族とする方策である。

 

 その両者に対する左院(立法院)の対応が興味深いわけである。左院は、建議に対し否定的な見解を示したのである。左院の答義には次のようにあった

 

 華族宣下ノ不可ナル所以ハ国内形成沿革ノ自来ルニ従テ人ノ族類ヲ区別シテ皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類ニ於テ自然ニ斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サル勢ニ立至リシモノニシテ今般更ニ琉球国王ニ華族ノ称ヲ宣下スヘキ謂レアラス琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

 

 左院は、

  琉球国王ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スへカラス

…との理由で、琉球国王尚泰に対し「華族ノ称ヲ宣下」することの不可を主張したのであった。「藩王」という名称をめぐっても、

 

 琉球王トカ中山王トカニ封スルハ可トス琉球藩王ニテハ藩号穏当ナラス内地ハ廃藩置県ノ令ヲ布テ琉球ニ更ニ藩号ヲ授ルハ名義ヲ以テ論シテモ前令ト相応セス琉球ハ兵力単弱ニシテ皇国ニ藩屏タル能ハサルハ世ノ知ル処ナレハ実際ヲ以テ論シテモ藩号ノ詮ナシ故ニ藩号ヲ除テ琉球王ノ宣下アルヲ可ナリトス

 

…と批判した。

 左院によって、「琉球ノ人類」は「国内ノ人類ト同一」ではないのであり、琉球は「内地」の「藩」とは異なる取り扱いをすべきものとして主張されたのである。あくまでも琉球は日本の「外部」の存在、ということなのだ。

 もっとも、左院によれば、

 

 皇国ハ東西洋一般ニ知ル所ノ帝国ナレハ其下ニ王国アリ候国アルハ当然ノ事ナレハ琉球ヲ封シテ王国ト為ストモ候国トナストモ我為ント欲スル所ノ儘ナレハ藩号ヲ除キ琉球王ト宣下アリテモ我帝国ノ所属タルニ妨ケナシ

 

…ということなのでもあった。つまり、帝国としての日本の内部の王国として位置付けようというわけである。しかし、この主張は、

 

 右ノ如ク我ヨリ琉球王ニ封シタリトモ更ニ清国ヨリモ王号ノ封冊ヲ受ルヲ許シ分明ニ両属ト看做スヘシ

 

…という認識(「両属」という形式の容認)に伴われるものであり、明治日本が対応を迫られていた近代国際法的秩序(そこでは排他的支配領域の確定が重要になる)に対する理解の不足を示すものと考えることも出来る。

 

 

 しかし、いずれにせよ、ここに明らかに存在したのは、琉球國を、琉球国王を、そして沖縄の人々を、日本なるものの外部の存在として位置付けるような認識のあり方である。

 

 再確認すれば、

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

…という問いに対し、何の躊躇もなく、

  琉球は日本である

…との認識を示すような対応は、明治初年の段階では、政府当局者にとってさえも、自明のものではなかったのである。

 そこに見出されたのは、「異国」としての琉球觀である。

 

 「異国」としての琉球を「征伐」した薩摩藩・徳川幕府権力が、将軍の代替わりや琉球国王の代替わりに際し、「異国」としての琉球からの使節団を迎えることで、その実力を誇示した歴史が反映されているのである。

 「日本」が、琉球をどのように位置付けていたのかという問題は、単純に一刀両断出来るような性質の話ではないのである(註:1)。

 

 

 

【註:1】
 今回の記事で紹介した明治初年の政府サイドの認識と、シリーズの第一回で示した幕末の徳川幕府サイドの認識とを重ねることで、日本と琉球の関係をいかに捉えるのかという問題が、明治維新前後の段階においては、決して自明のものではなかったことが理解されるはずである。以下に再録しておく。

 1850年代に入ると、琉球・日本への外圧はさらに増大した。「黒船」を率いて来日したペリー提督との開国交渉の前後に、江戸幕府の内部では琉球の「所属」問題が重要議題として論議され、老中の阿部正弘は琉球を日清両属と位置づけることが妥当かどうか、関係部門へ諮問した。林復斎(儒官、大学頭)らは琉球を日清「両国に随従」している国としながらも、最終的には「唐土の属国と申し候て然るべし」と答申し、井戸石見守(海防掛)らは「矢張り両国随従の国」とみなし日清両属論を妥当としたが、川路(勘定奉行)らはいずれとも「差し極め申し上げ難く」と態度を保留し、琉球を管轄する薩摩藩主島津斉彬の意見を聞くべきだと回答した。斉彬は17世紀の明清交替時点における幕府の選択(琉球切り捨て論)に注目しながらも、最終的には琉球の意思を確かめる必要があるとして、自らの直接の意思表示を避けた(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』「付録2」)。
     西里喜行 琉球処分再考(上)沖縄タイムス(2009・06・29)

 示されているのは、徳川幕府の公式見解における混乱ぶりであり、明治以前の段階での、琉球國が日本の内部の存在であるのか外部の(独立した)国家であるのかについての共通認識の不在の事実である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/08 21:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/201127/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月20日 (水)

琉球國の「独立」と伊江朝直 3

 

 琉球國を独立国として取り扱うことが適切であるかどうかについて考えてきたわけだが、今回は、

 

  琉球國は日本の国家領域内の存在であったのかどうか?

 

…という観点から、問題に照明を当ててみたい。

 

 

 

 与儀武秀氏によれば、日本政府の見解は以下のようであったという。

 

 

 1997年4月の参院特別委員会で、当時参院議員の照屋覚徳氏が「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問を行った。これに対し、答弁に立った当時の政府担当者は「明治32年(1899年)に旧国籍法が制定された。沖縄の方々はその旧国籍法施行の前から一般に日本国籍を有するものとされていたというふうに承知している」との返答を行っている。
 …(中略)…
 質疑の前に、通例に従ってあらかじめ質問通告をした際には、議員からの「質問取り」のため照屋氏を訪れた法務省の担当者が、再三にわたり「ウチナーンチュはいつから日本人になったか、との質問は取り下げてもらえないか」「むつかしくて答えられません」と申し入れてきたという。
 だが結局、質疑は取り下げられず、前出のやりとりがなされた。その上で、引き続き論議は、近代沖縄の帰属とそのあり方についての根本的な関連質疑へとつながっていく。
     与儀武秀 「沖縄は何時から日本か」 (「沖縄タイムス」09.06.29)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/history02yogi.html#y01

 

 

 これが、自民党第二次橋本政権下での日本政府の見解である。また、

 

 

 近代日本という統一的な国家内に沖縄が組み込まれた経線について、2006年3月の臨時国会では、衆院議員の鈴木宗男氏が政府の見解を質している。
 鈴木氏は琉球王国についての質疑で、「政府は明治維新の時点で琉球王国は日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」と尋ねた上で、19世紀中ごろに琉球とアメリカ、フランス、オランダとの間で締結された修好条約が法的根拠を持つ国際条約かを確認した。政府側は「沖縄については、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確か」と説明。各修好条約については「日本国としてこれら各国との間で締結した国際約束ではなく、その当時における法的性格につき政府として確定的なことを述べることは困難である」と答弁した。
 これを受け、鈴木氏は「理由を明示せずに答弁を拒否している部分があるところ、追加質問する」とした上で、「1871年にいわゆる廃藩置県が行われ、藩を撤廃する形での行政改革が行われたにもかかわらず、なぜ沖縄では(1879年に)藩が設置されたのか」「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」などとあらためて質問。
 これに対し答弁では「1872年当時、沖縄において県ではなく藩が設置された理由については、承知していない」「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」と答えている。
     同 (沖縄タイムス 09.07.13)

 

 

 こちらは自民党第三次小泉政権下での政府見解である。

 結局、照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という質問に対して、日本政府は「いつ」を明確にすることは出来なかったし、鈴木宗男衆議院議員による「政府は、1868年に元号が明治に改元された時点において、当時の琉球王国が日本国の不可分の一部を構成していたと認識しているか」という質問に対しても、「いつから日本国の一部であるかということにつき確定的なことを述べるのは困難であるが、遅くとも明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置の時には日本国の一部であったことは確かである」としか答えることが出来なかったのである。

 

 つまり、日本政府は、

 

  元号が明治に改元された時点において当時の琉球王国が日本国の一部を構成していた

 

…のかどうかという質問を前に、明確な返答を与えることが出来なかった(「確定的なことを述べるのは困難である」と言っているわけだから)、ということになる。

 別の言い方をすれば、「明治初期の琉球藩の設置及びこれに続く沖縄県の設置」以前の時期の琉球王国については、「日本国の一部であったことは確か」とは言えないということなのである。

 つまり「日支両属」時代の琉球國(琉球王国)に関しては、日本の国家領域の内部の存在として明確に位置付けることが困難であることを、日本政府は明言していたことになる。

 

 

 照屋覚徳参議院議員の「沖縄の人、ウチナーンチュはいつから日本人になったんでしょうか」という問いについて言えば、鈴木宗男氏の質問とは異なる問題として考えることも出来る。

 「沖縄の人」が日本人であるかどうかという問題を国籍問題として考えれば、琉球王国の領域が日本の国家領域の内部にあったかどうかという問題(鈴木宗男氏の問い)と重ねて考えることは可能である。

 しかし、照屋議員の問いは、「沖縄の人」が日本人=日本民族(いわゆるヤマト民族)かどうかの問題(民族的帰属問題)としても展開し得るものであり、これもまた一義的に決定され得るような問題ではないのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/06 21:46 → http://www.freeml.com/bl/316274/201079/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月19日 (火)

琉球國の「独立」と伊江朝直 2

 

 前回は、言うなれば、

 

  琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ない

 

…という認識の正当性の一端を確認したようなものかも知れない。

 

 

 再び、安良城盛昭氏の、

 

 

 しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確である

 

 

…という一文を取り上げるなら、「日支両属」という「首里王府の主張」に対し「歴史認識として不正確である」と指摘する安良城氏の論自体(あるいは言い方)に、問題が集約されているとも考えられる。

 

 果たしてこれは「首里王府」の「歴史認識」の問題なのであろうか? そして、その「不正確」さの問題なのであろうか?

 「歴史認識」の問題として考えるなら、ヨーロッパのローカルな国家間システムを支えたウェストファリア条約以来の主権国家概念が、19世紀の半ば以降の東アジア世界をも拘束するものとなり、最終的に冊封体制を支えた国家概念と置換されるに至ったという歴史的事実があるだけではないだろうか?

 東アジアの冊封体制の下では、近代的国際法を支える主権国家概念とは異なる構図によって諸国家が存立していたわけであり、近代国際法的な主権国家概念を遡及的に当てはめて「琉球國」の「独立」を問うこと自体に問題があるように思われる。首里王府の持った「歴史認識の不正確さ」の問題ではなかろう(国際情勢理解の甘さの問題ではあっても)。

 

 琉球國の国王の地位について言えば、その地位は中国皇帝の権威によって保障されたものであり、天皇を頂点とする律令制の官職の体系の完全な外部の存在なのである。

 

 

 
 しかし、一方で、薩摩藩の支配下となったことで「首里王府」は、、

 

 

 1611(慶長16)年、島津家久は尚寧に領有すべき知行目録(ちぎょうもくろく)を与えて、琉球が守るべき事柄を記した「掟十五条」(おきてじゅうごじょう)を言い渡し、琉球への帰国を許しました。
 同年9月には薩摩藩主家久宛の起請文(きしょうもん)(誓約書)を書かされました。島津氏は薩摩支配の全期間にわたり琉球国王以下、摂政(せっせい)・三司官(さんしかん)の個々人からそれぞれ起請文をとり、薩摩支配に服する旨の誓約を行わせました。
     http://www.archives.pref.okinawa.jp/publication/2012/04/post-168.html

 

 

…という状況にも立ち至るわけである。

 琉球国王の起請文を以下に示せば、

 

 

 慶長十六年辛亥九月十九日尚寧誓文

一 琉球古ヨリ島津氏ノ附庸タリ太守任ヲ襲カハ紋船ヲ發シテ祝シ奉リ歳時使ヲ派シ方物ヲ獻シ禮義怠ルナシ太閤秀吉公薩摩ニ定附シ諸般ノ徭役ニ從ハシム但タ遠陬法令ニ遵ハス自カラ罪戻ヲ招キ國破レ身擒ニセラレ生歸ノ念ヲ絶チ鳥ノ籠中ニ在ルカ如クナリシニ何ソ圖ラン家久公ハ窮囚ヲ哀憐セラレントハ既ニ放歸ヲ得又タ諸島ヲ割テ以テ下賜セラル此ノ如キ厚恩ハ何ヲ以テ之ニ報セン永世ニ薩州ノ君ニ對テ敢テ或ハ背クナカラン

一 子々孫々相ヒ傳へ此誓言ニ服シ敢テ失遺セス

一 定ムル所ノ法度ハ敢テ違亂セス

右敢テ背ク有ラハ神明コレヲ殛セン

     『日本外交文書』(ただし、大山梓 「琉球帰属と日清紛議」による)

 

 

…という内容であり、「琉球古ヨリ島津氏ノ附庸タリ」のような史実と異なる不当な文言さえ含まれるものであった。

 ここで琉球国王は、「薩州ノ君」への服従を誓約している(永世ニ薩州ノ君ニ對テ敢テ或ハ背クナカラン)わけである。

 国王のこのような薩摩への服従状況を前にして、その国王の統治する国家の「独立」を自明のこととして主張するのも困難であろう。

 冊封体制下の琉球國に対し、中国(明・清)の皇帝権力による排他的支配の事実はないし、薩摩藩(あるいは徳川幕府、あるいは天皇家)による排他的支配の事実があるわけでもなく、琉球国王が琉球國を排他的に支配していたということも出来ないわけである。

 ここに「日支両属」という、冊封体制下での独特の地位(国家の位置付け)があると考えておくべきなのであろう。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/05 22:30 → http://www.freeml.com/bl/316274/201055/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月17日 (日)

琉球國の「独立」と伊江朝直 1

 

 維新慶賀使としての伊江朝直(伊江王子)の評価を語ろうとするに際し、

 

  「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか? その問いに簡単に答えることは難しい。

  伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか? そこから考えなければならない問題なのである。

 

…という話をした(「恐ろしき者の末の末 8」 )が、実際、歴史学の世界で、どのように論じられているのかを読んでおこう。

 

 

 

 西里喜行氏による「琉球処分再考(上)」には、次のような事例が紹介されている。

 

 

 1850年代に入ると、琉球・日本への外圧はさらに増大した。「黒船」を率いて来日したペリー提督との開国交渉の前後に、江戸幕府の内部では琉球の「所属」問題が重要議題として論議され、老中の阿部正弘は琉球を日清両属と位置づけることが妥当かどうか、関係部門へ諮問した。林復斎(儒官、大学頭)らは琉球を日清「両国に随従」している国としながらも、最終的には「唐土の属国と申し候て然るべし」と答申し、井戸石見守(海防掛)らは「矢張り両国随従の国」とみなし日清両属論を妥当としたが、川路(勘定奉行)らはいずれとも「差し極め申し上げ難く」と態度を保留し、琉球を管轄する薩摩藩主島津斉彬の意見を聞くべきだと回答した。斉彬は17世紀の明清交替時点における幕府の選択(琉球切り捨て論)に注目しながらも、最終的には琉球の意思を確かめる必要があるとして、自らの直接の意思表示を避けた(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』「付録2」)。
     西里喜行 琉球処分再考(上)沖縄タイムス(2009・06・29)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/history02.html

 

 

 示されているのは、明治政府による「琉球処分」に先立つ時期の日本国家を代表する徳川幕府の公式見解(の混乱)と言えるだろう。

 ここに明らかなことは、明治以前の段階での、琉球國が日本の内部の存在であるのか外部の(独立した)国家であるのかについての共通認識の不在の事実である。つまり琉球國の位置付けは、近世日本の統治者にとって自明のものではなかったのである(もちろんそれは、ヨーロッパ起源の「国際法」に基く国家概念の適用という新たな課題を前にしてのことであったが)。

 

 

 安良城盛昭氏は「琉球処分論」の補注で、琉球王国(琉球國)側の認識について、

 

 

 しかしながら、琉球王国は、他方、「異国=外国」ともみなされており、それ故に、琉球国王が中国の皇帝から冊封をうけることが容認され、琉球王国内では中国年号が使用されていた。島津の「領分」であるという点で、日本=幕藩体制社会の一環に組みこまれていながらも、他方、「異国=外国」であり、琉球国王は中国皇帝の冊封を受けているという、琉球王国の特殊な地位を、首里王府は「日支両属」ととらえたのであった。この首里王府の主張は、島津の実質的な琉球支配と、形式的な冊封=朝貢関係以外に現実的な支配=従属関係は一切存在しなかった中国との関係を、等置している点で歴史認識として不正確である

 

 

…と指摘している。

 しかし、本文においては、

 

 

 先にも指摘したように、琉球は薩藩領の一部分であって、したがって、島津氏の琉球領知は、代々の将軍による領知判物によって確認されていた。したがって、本土の諸藩の通例を以てすれば、薩摩藩主島津久光の版籍奉還は、島津の琉球に対する明治2(1869) 年の島津久光の版籍奉還は琉球をも含んでいた筈である。しかしながら、その版籍奉還は、島津久光の琉球支配権の返上=放棄ではありえても、そのことが直ちに、琉球国王尚泰の琉球統治権の天皇への返上に必ずしも直結しないところに、当時の琉球の歴史的地位の特殊性が浮彫りされているのである。
 たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていたのである。かかる歴史的事実は、本土諸藩の通例を以てしては、その版籍泰還を論じられないことを暗示しているのであって、島津久光の版籍泰還によって琉球の版籍泰還が完了しているとは単純にみなし難いのである。
 事実、本土の廃藩置県後、薩摩藩が鹿児島県に移行するにともなって、一応鹿児島県の管轄下に置かれていた琉球王国を、明治5(1872)年、外務省の管轄下に移し、改めて琉球藩とし藩主ならぬ「藩王」という沖縄だけにみられる特殊身分=地位に琉球国王尚泰を任じ、さらに、副島種臣外務卿は、「御国体・御政体永久不相替」と上京した藩吏に約束しているのである。そしてまた琉球藩設置後一応は、「先年来其藩二於テ、各国ト取結候条約、並ニ今後交際ノ事務、外務省ニテ管轄候事」と琉球藩に指示しながらも(明治5年9月28日)、進貢貿易について、明治政府はこれを積極的に公認しないまでもともかく容認しており、明治7年(1874)年秋に沖縄を出帆した進貢船二隻には進貢使国頭親雲上外17名が搭乗しており、翌明治8(1875)年3月一行は北京に現われ、明治7(1874)年10月31日の台湾事件についての日清和議成立以来、琉球の日本帰属の確定を信じて疑わない北京の日本公使館員を驚かせているのである。
     安良城盛昭「琉球処分論」(『新・沖縄史論』沖縄タイムス社1980)
     http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/arakimoriaki78.htm

 

 

…と、「琉球処分」(明治12年の琉球藩に対する「廃藩置県」により完成される「琉球処分」の起点に明治5年の維新慶賀使派遣が位置付けられる)に至る過程を記している。明治新政府の側も、琉球國の処遇を最初から国内問題として取り扱ってはいないことがわかるはずである。

 実際、安良城氏は、

  たしかに、琉球は島津の「領分」に属してはいたが、その国王尚泰は中国皇帝の冊封をうけ、琉球国に対する統治についても、島津の指令権・監督権を容認した上で、かつ、島津に対する一定の貢納義務を負うことを絶対的義務としてはいたが、王府は広汎な内政上の自裁を許されていた

…と書いており、ここにあるのは琉球國に君臨し統治する(「王府は広汎な内政上の自裁を許され」ていたという意味において)琉球國の国王の姿である。しかも、その国王尚泰は中国皇帝の冊封により地位にあるのであって、天皇により律令制官職内部の地位に任じられているわけではない。つまり「国体」(いわゆる天皇制)の外部の存在なのである(私はこれは重要な問題だと考える)。

 当初、琉球藩が外務省の管轄であった事実も、琉球國を日本国の国内の一地方としてストレートに位置付けることの困難さの存在を示しているだろう。

 

 

 しかし、同時に安良城氏は、真境名安興の『沖縄現代史』(1923)に、

 

 

 (1)「是より先幕府の末路より維新に至りし政変が、如何に沖縄に於て観測せられしかといふに、慧敏なる沖縄の政治家は当時外国船?々渡来して外国関係を生ぜしより、夙に世界の気運に鑑み、我国の開国の巳むべからざるを察知し、延いて亦沖縄の政界にも何時か低気圧の襲来すべきことを予測せり。安政5(1858)年即ち明治12(1879)年に於ける沖縄の廃藩置県を距ること20年前に於て、当時73歳の紫金大夫林文海 (城間親方) は、英仏の勢力が漸く東亜に瀰漫し来り、支那に朝貢せし安南の未路を観て、琉球の運命を揣摩し、支那と朝貢を絶ちて、我本土と併合統一せられべきことを論断し

 (2)「当時の碩学本国興 (津波古親方政正)の如きは、明治4 (1871) 年に於ける各藩の廃藩置県の処分を観て、沖縄の将来を揣摩し、視察員を内地の藩に派遣して、その状況を調査せしめ、寧ろ我より進んで、版籍奉還を為すを以て沖縄の国益なりと主張し、建策する所ありしも、当時の国論は之を腐儒迂人の言として一顧を与えられざりきといふ。又彼は、本土の事情を知らしむる為に、初めて当時の新聞紙を尚泰王に奉りたるに依り、益々世人の指弾を受けた

 

 

…との記述のあることを指摘することで、琉球國側の帰属意識もまた変容の渦中にあった、あるいは一元的なものではなかったことを示している。

 ここには、「両属」が国家としての独立を意味するのか二元的従属を示すのかという問題も残されているだろう。

 以前に用いた言葉を繰り返せば、

 

 琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ない

 

…ということなのである。

 

 

 

(引用文の文言の表記には問題があるが、ここではネット上のものをそのまま利用している)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/04 22:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/201036/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月12日 (火)

恐ろしき者の末の末 8

 

 クンデラは、

 

 

 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
      ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282~283ページ

 

 

…と書いていたわけだが、その悲惨な三十年戦争はウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)により終結する。

 ウェストファリア条約によって、現在の「国際法」の基礎となった国家観が確立されたわけである。

 

 『ウィキペディア』先生にご登場願うと、「ウェストファリア条約」の結果ヨーロッパにもたらされた「ウェストファリア体制」について、

 

 

 もっとも大事なのは国家における領土権、領土内の法的主権およびと主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立されたことである。体制自体は、当時のヨーロッパ列強、フランス王国、神聖ローマ帝国、スウェーデン王国(バルト帝国)及びヨーロッパの経済大国、イングランド王国、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)によって維持されたが、18世紀の戦争(大北方戦争、第2次百年戦争)によって形骸化し(1740年以降は、グレートブリテン王国、ハプスブルク帝国、フランス王国、プロイセン王国、ロシア帝国の五頭体制に移行する)、ナポレオン戦争をもって完全に崩壊する。

 しかし、本条約の原則を基礎とする国際法は以後も継続されたため、現在の主権尊重の国際法そのものの現在のあり方を「ウェストファリアシステム」と呼ぶこともある。

 

 

…と説明されている(「ヴェストファーレン体制」の項)。

 これ以後、国家の統治権力による排他的な一元的領域支配に基礎を置く「主権国家」間の関係として、ヨーロッパの国家間の外交は展開されるようになる。そこでは統一的な権力が国境線内を排他的に支配する事実に、主権の存在を見るのである。

 

 その17世紀ヨーロッパの、そもそもはローカルな国家間関係を律するものであった「主権国家」概念は、ヨーロッパ諸国が「列強」としてアジア・アフリカを植民地化するにつれ、地球全体を覆うものとなる。

 19世紀の後半には、日本を含む東アジアも、その国際法(「萬国公法」などと訳されていたが)システムの中に組み込まれてしまうのである。

 

 それまでの東アジア世界は、帝国としての中国を中心とした冊封体制を国家間システムとしており、それはヨーロッパ流の主権国家とは異なる国家概念に基づくものであった。

 

 そこでは琉球國は、その国王の地位を中国(明・清)の皇帝に保障され、それに対し朝貢の義務を果たすことで、東アジアの(冊封体制内の)一国家として位置付けられていたが、その一方で17世紀以降は薩摩藩の支配下にも置かれ、その状況を「両属」と呼ぶことで処理されてきた。琉球國の統治権力は、排他的に領域支配をするという意味での、ヨーロッパ的な「主権」を行使する主体ではなかったわけである。

 

 ここで問題となるのは、そのような琉球國を「独立国」と見做し得るのかどうかである。

 冊封体制内の諸国家は、形式的には中国皇帝権力の従属的な存在であり、そもそもその意味では、ヨーロッパ的概念での主権国家とは異なる側面があることは否定出来ない。しかし、その「従属」は形式的なものであって、諸国家の国王は領域内での排他的な権力行使の主体でもあった。

 

 ただし、琉球國には薩摩藩の支配を排除する軍事的基盤はなく、その意味で琉球国王の権力は限定されたものだったが、しかし薩摩藩(そして徳川幕府)の側もまた、琉球國と中国皇帝権力との関係を放置し、琉球國に対する排他的支配を確立することもなかったのである。

 

 その意味で、琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ないのである。

 

 

 「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか? その問いに簡単に答えることは難しい。

 

 伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか? そこから考えなければならない問題なのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/02/03 23:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/201010/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月11日 (月)

恐ろしき者の末の末 7

 

 かつてミラン・クンデラは、

 

 

 歴史も、個人の人生と似たようなものである。チェコ人の歴史はたったの一度しかない。トマーシュの人生と同じようにある日終わりを告げ、二度繰り返すことはできないであろう。
 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
 三百年後、一九三八年のミュンヘン会談の後、全世界はチェコ人の土地をヒットラーに捧げることを決めた。当時八倍もの強力な敵に自分たちで戦ってみるべきであったろうか? 一六一八年と違って当時は勇気よりも多くの慎重さを持っていた。チェコの占領により、何十年あるいは何百年とチェコ民族の自由の究極的喪失へとつながる第二次世界大戦が始まった。当時慎重さよりもより多くの勇気を持つべきであったのであろうか? 何をなすべきであったのか?
 もしもチェコの歴史を繰り返すことが可能であるなら、そのつど違うほうの可能性を試してみて、そのあとで二つの結果を比較してみればもちろんいいに違いなかろう。このような実験がないなら、あらゆる考察は単に仮説の遊びにすぎない。
      クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282~283ページ

 

 

…と書いていたわけだが、1618年のチェコの歴史と1938年のチェコの歴史だけではなく、ここには1968年のチェコの歴史も埋め込まれているわけである。いわゆる「プラハの春」と、それを戦車で踏み潰したブレジネフの「社会主義共同体の利益」の論理が、である。

 

 1618年のチェコの貴族の勇気ある判断は、しかしチェコを荒廃に導いた。

 1938年のチェコ人は、ミュンヘン協定の結果を受け入れることで、ヒトラーの占領下に置かれることになった。1942年になり、慎重さより勇気を選択したチェコ人が副総督ラインハルト・ハイドリヒの暗殺に成功したが、ナチスの報復には容赦がなく、リディツェの村は完全に破壊され、村の男性のすべてが殺害され、女と子供は強制収容所に送られた。

 
 『存在の耐えられない軽さ』は、まず1968年のプラハの出来事が舞台とされる小説である。第一書記アレクサンドル・ドプチェクの下で、共産党の独裁的支配が否定され、社会主義と民主化の両立への希望が芽生えていた時代である。

 しかし、ソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフにも、その他の東欧の政治指導者にとっても、チェコスロバキアで進行している事態は容認出来るものではなく、ワルシャワ条約機構の軍隊はチェコスロバキアの国境内に侵攻し、「プラハの春」などなかったことにされるのである。再び秘密警察と密告の時代に逆戻りするのだ。

 

 

 クンデラの問いは、1968年のプラハに生きた主人公の姿に託されたものだが、侵入したソ連の戦車への抵抗の可能性と1938年のチェコの経験とを重ね合わせ、そこに1618年の経験をも重ね合わせ、暴力による支配に対する「態度決定の正しさ」の決定不能性を明らかにしているわけである。

 
 正しさへの殉教は確かに美しく、人を感動させる。支配者ハイドリヒを暗殺する行為は、「正義」の名に値するものかも知れない。ソ連の戦車の前に身を投げて轢き殺されることは、確かに気高い行為であろう。

 しかし、ハイドリヒの暗殺はナチス支配を終焉させることには結びつくことはなかったし、ソ連の戦車に轢き殺されることによりブレジネフの態度が変化することもなかった。

 

 

 現在、ウィーンにチェコを支配する皇帝はいないし、ヒトラーの帝国がチェコを支配してはいないし、プラハの街角にソ連の戦車の姿はない。勇気ある抵抗者の姿は、確かに私達の心情を高揚させるが、その勇気が現在の皇帝の高官もヒトラーの兵士もブレジネフの戦車もいないプラハをもたらしたわけでもない。「勇気ある抵抗者の姿」は美しいエピソードであるが、それが暴力支配の終焉に直接結び付くものとなったわけではないのである。

 1618年の、1938年の、1968年のチェコの選択、ひとりひとりのチェコ人の選択の何が正しかったのかを決定することは難しい。

 しかし、それは、ヒトラーと手を結ぶこと、ブレジネフと握手をすることが正しかったという認識を意味するわけでもないだろう。

 

 

 

 琉球大学附属図書館の貴重資料展の解説では、

 
 

 琉球処分とは、明治政府のもとに琉球が日本の近代国家のなかに組み込まれる一連の過程をいう。その期間は、沖縄が1872年(明治5)の琉球藩として設置され、1879年(明治12)に廃藩置県となり、その翌年に分島問題が起こるまで、前後9年間にまたがる。
 1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。続いて政府は台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾出兵を実行、それを機に1875年(明治8)、松田道之処分官は琉球藩に対し、(1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封を受けることを今後禁止すること、(2)明治の年号を使用すること、(3)謝恩使として藩王(尚泰)みずから上京すること、などの政府の命令を伝えた。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県をおこなうことを通達。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった。
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/digia/tenji/tenji2001/m05.html

 
 

…と「琉球処分」の過程を要約している。

 

 ここには、

  1872年(明治5)、明治政府は鹿児島県を通じ、初めて琉球の入朝を促してきた。これを受けて王府は維新慶賀使を派遣したが、同年9月14日、政府は琉使を参朝させ、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文をくだした。いわゆる琉球藩の設置である。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官の任免権を明治政府が掌握することになった。

…とあるわけだが、この明治5年の「維新慶賀使」(琉使)の一員が伊江王子・伊江朝直であり、その伊江朝直の明治政府への対応が、琉球王国(正確な国号は「琉球國」)の明治日本への併合(ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった)のスタートとなってしまっているわけである。

 結果として、明治日本国家内部の琉球藩となった「琉球國」へ帰国した「慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受け」ることとなり、

  茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

…ような経験をすることに立ち至る(「沖縄秘話」 台湾日日新報 1929)。

 

 

 

 ここにクンデラのあの問いが再び浮かび上がるだろう。

 

 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?

 

 
 
 
 

 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 :2013/02/02 22:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/200977/
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月10日 (日)

恐ろしき者の末の末 6

 

 シリーズの前々回では、

 
  大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる
 

…と書き、前回には、

 

  伊江朝助はここで、あくまでも沖縄の「祖国復帰」を主張しているわけだが、

   どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。

  …とまで言ってしまう心情は悲痛である。
 

…と書いた。その伊江朝助の曾祖父は伊江朝直であり、「伊江王子」として、まさに明治のいわゆる「琉球処分」の際の琉球王国側の当事者となっている人物である。

 
 

 伊江朝直の次男である朝信の三男であった伊江朝貞は、「琉球処分」を以下のように描いている。

 

 

 明治と琉球

明治五年六月琉球国王を補佐し政務の枢機に与る最高官摂生与那城王子病気辞任の後を承けて尚健挙げられて摂生となった之琉球に於ける国相の最後である徳川幕府は政権を奉還し封建は廃されて廃藩知県となり茲に薩藩との従来の関係は絶たれたので鹿児島県参事大山綱良朝旨を承けて琉球使臣の入朝を促したので明治五年七月王政維新の慶賀正使尚健副使宜湾朝保参議官喜屋武朝扶等一行十名東上入朝する事となった琉球が足利時代より徳川幕府の末葉に至るまで将軍家へ入朝した事は屡々であったが皇室に対し奉り朝参の礼を修めたのは之が始てである此慶賀使を迎える政府は破格の優遇をして遠来の臣を歓待犒った当時の記録に依る

琉球使臣入京接遇の事
 近日上京に付き接待に付ては接待振の儀見込可申進旨致承知候国家は同所属の義に付外国人と視做し接待候には不及候乍去客礼を以て被遇候に付琉人に附添来る鹿児島県官員とも総て本省に属し右接待御用係被命御維新以来初て入京の義に付き優渥の御取扱相成可然存候右にて可然候わば本省並に鹿児島県へ速に御沙汰有之度候也壬申(明治五年)八月十五日 外務省
正院御中
とあり斯くて大蔵省は費用一万円を支出したのは当時に在りては其接待費の如何に巨額であったかが思われる正使一行の旅館は芝愛宕下の毛利邸が充てがわれた
 此処で思うのは外務省発文書中の外国人と視做し接待候には不及候の字句で既に当然領土であり同胞である事を明かにして在る事で朝鮮は暫く措き之を本島の領有に観る本島は支那より割譲されたものであり同時に島内の反抗する残兵を掃蕩駆逐し然して住民に布告して安堵して其儘永住する者は大日本帝国臣民とす之を嫌厭するものは何年何月何日迄に退去すべしと其去就の自由を与えた然も此事実に触れる事を避けて徒らに施政に反感を懐き或種の盲動をこれ事とする者有るは奇怪である聞く国家の慶弔日に国旗の樹立を肯ぜざる輩の如き児戯とあらば不問然らざれば当年の布告の精神の如く郷等は宜しく去って支那籍民たるべきである

表文の奉呈
使臣伊江朝直等は明治五年九月十五日午後一時参朝し正使伊江朝直、副使宜湾朝保、参議官喜屋武朝は式部輔に誘われて桜の間に憩い軈て伶人の奏楽裏に明治大帝出御遊ばされて玉座につかせられ太政大臣外務卿各省長官及次官の侍立を使臣は式部輔に誘われて進み畏くも竜顔に呎尺し式部輔より三使の名を披露言上すれば三使は磐折謹拝後天皇皇后両陛下へ尚泰王の表文並に献貢目録等を式部輔へ奉呈、輔は之を読上げて後上進した

尚泰王の表文
 恭惟、皇上登極以来乾綱始強庶政一新黎庶、皇恩に浴し歓欣鼓舞せざるなし尚泰南陬に在て伏して盛事を聞恐懼の至りに勝えず今正使尚健、副使向有恒、参議官向有新を遣し謹で朝賀の礼を修え且方物を貢す伏て奏聞を請う
 明治五年壬申七月十五日
 琉球尚泰謹奏
 恭惟、皇后位を中宮に正し徳至尊に配し天下の母儀となり四海日々文明の域に進み黎庶生を楽し三業に安ず尚泰海陬に在て伏て盛事を聞き懼祚の至りに勝えず今正使尚健副使向有恒参議官向有信を遣し謹んで慶賀の礼を修め且方物を貢す伏て奏聞を請う
 年月日 琉球尚泰謹奏
使臣等亦各自の献物目録を読上げ式部輔を経て奉献した、之に対し尚泰王には
 琉球の薩摩に附庸たる年久し今維新の際に会し上表且方物を献ず忠誠無二朕之を嘉納す
使臣等には
 汝等入朝す聞く汝の主の意を奉じて失うなし自ら方物を献ず深く嘉納す
陛下には冊封の勅を取らせられて之を外務卿に授け給い卿は宣伝し畢って使臣に伝えられた
 朕上天の景命に膺り万世一系の帝祚を紹き奄に四海を有ち八荒に君臨す今琉球近く南部に在り気類相同く言文異なる無く薩摩附庸の藩たり而して爾尚泰能く謹誠を致す宜く顕爵を与うべし聘して琉球藩王となし敍して華族に列す咨爾尚泰其れ藩屏の任を重し衆庶の上に立ち切に朕が意を体し永く皇室に輔たれ欽哉
此時使臣等謹拝して尚泰に代り謹て捧呈した請書は
 臣健等謹白す臣寡君の命を奉じ天朝に入貢す今、聖恩寡君を封じて藩王となし且華族に班せしむ、聖恩重渥恐感の至に堪えず健等代って詔命の辱を拝す
 月日
 正使尚健、副使向有恒、参議官向有新
次いで藩王の妃へ賜物の目録を式部輔宣読して之を授けた斯くて使臣等へも夫々御下賜金品を授けられたが、一行の為めには尚軍艦にて横須賀製鉄所其他を縦覧せしめて其の知見を博めしめる事に努めた
 この政府の措置に依って日本本土の文化の程度を識り帰って頑迷な守旧派に悩まされた伊江朝直外使臣一行の境遇が追て敍述するように頗る明治維新当時渡欧した伊藤博文其他の国士が帰って我国の頑迷者に悩まされた点と酷似して居る

御歌会に詠進
今年九月十八日、皇上吹上離宮の御歌会に三使臣をも召された歌人である副使宣湾朝保有恒の詠進歌は
 動きなき御代を心の厳が根にかけて絶えせぬ滝つ白糸
でいたく御嘉賞遊ばされたとある歌詞の巧拙は筆者此れを判い難きも同文の国であるとの考証には充分なる

光栄に輝く使臣
御歌会参列の光栄に浴した使臣は更らに同日皇太后、皇后両陛下に拝謁仰せ付かり献上物を願出て御嘉納あらせられた上御饗宴を賜わり数々の御下賜品あり明治五年十月勅諭並に御下賜品を奉じ光栄に輝きつつ退京品川を解纜して鹿児島に暫時滞留翌六年一月再び発般して琉球に向う途中逆風に遭って鬼界ヶ島に漂著したが折良く本島よりの使臣伊地知貞の乗船が碇泊して居たのへ移乗して帰国した此行が我王政維新の宏謨に基き琉球が朝勤の礼を修めた最初である爾来琉球は政府の直属として制度の革新と共に新文明に適応する施政を見んとしたが古来日支両国間に介在した情弊は一概に日本の文物を喜ぶ者斗りでなく就中守旧派は日本の封権制度の廃止四民平等権と云った形が其儘に琉球に行わるる事を怖れ厭いて新制度を呪咀して旧制度を復せしめんとし人心は恟々不穏の徴を来した当時政府は琉球の積弊を打破する一面租税を減免し征台の役を起して藩民を救恤したが(現在高雄州恒春郡四重渓統埔に墓碑を存する西郷従道侯の明治七年の役)征台の役も終りて対支問題漸く解決するや此処に琉球古来の両属政治は根本より革正し支那関係を断絶せしめんと廟議は決する所があった是より前伊江朝直は東京滞在中知行二百石を加増されて六百石の禄高となった慶賀使の功に依って更らに二百石の加増及恩賞金の沙汰のあったのを固辞したが翌七年九月藩庁は久米具志川切総地頭職を世子尚典(尚泰の世子俊の侯爵)に伊江朝直の殊勲を認めて之を恩納間切総地頭職に挙げた

琉球維新の序幕
政府は翌明治八年琉球藩に命じて清国と従来の関係を絶たしめ且征台役の謝恩として藩王尚泰の入勤を促し尚藩制改革等重大な問題に際会したので藩論は恰も明治維新の如く甲論乙駁極度に沸騰したが日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した守旧派の多数党が明治九年三月藩主に提出した弾劾建議書は
 去る申年、伊江玉子、前宜湾親方喜屋武親、雲上東京へ御使者にて被御遣候時、藩主の御封冊直様御受仕り候処より重大の事件被申掛候に付藩主御称号御取返し御願被仰越候上、右御書面の相当の御咎被仰付度先達て奉願候処、急に御咎被仰付候わば差掛御願願筋の御障りに可相成も難計候間事能御願済御使者衆御聴相済候間可奉承知旨被仰渡奉畏候、臣として主君の御爵軽々敷御請右式国難の事供仕出候儀不忠無比上適恐入の書面差出被相真居候も御役場出勤等被仰付御咎向御無沙汰の様相見得申候刑罰は基い天心に順い、一人を罪して万人を救い給う忠愛の道此儀御国家の大典にて、君主さえも得々私に難被遊趣相見得候処右通出勤被仰付候儀は世上甚敷疑迷申居候尤御咎被仰付候わば御願筋の御障と可相成候との御沙汰候え共、於東京者国評不相円人心区々有之候抔と新聞致批判候由、左様候えば此涯君をなみし候方は早々御咎被仰付候わば人心一致に相堅候段は政府に相響き御願筋の為め可被成と奉存候間、急々御咎被仰付度奉存候以上
 子旧三月(明治九年丙子)
 (当時既に新聞は批判致居り候由と云う字句の使われて在るのは鳥渡眼を惹く)

琉球処分の一節
当時琉球の処分官であった松田内務大書記官の著『琉球処分』巻の下に一節は能く当時の事情を敍して在る
 『六月三日午前十時首里、那覇、久米、泊の士族総代二百名を出張所(在那覇内務省出張所)に集め予懇篤是等に説諭して曰く、此頃士族の中に於て伊江王子及故宜湾親方の子息某を殺害すべしと称して頻りに暴論を放つ者がある而して其趣意とする所は伊江王子及宜湾親方は先年立藩の令下った時上京して之を奉じた者に付今日の廃藩知県は彼の両人が立藩の令を奉じたるに依り起りたりとして之を憎むに出でたる由なれ共是れ甚だ誤見なり夫れ立藩の事たる政府は国制上行いしもので彼両人に於て之を如何ともする事は出来ない、特に故宜湾親方の如きは本琉球の一人物で忠良であり藩主に対し何等不忠の事を為すべきでない然るに漫りに罪を彼両人に帰して一般を煽動するは甚だ悪むべき所為なり而して拙者は能く其人物を探知し居るに付若し弥甚しければ之を縛して安寧を保護せんとするのである故に子等は其子弟を警戒して罪に抵らしめないように注意せよ』
文中故宜湾云々とあるが副使であった宜湾朝保は藩吏等の政府に対する会議を開く毎に社稷を安ずるに之れ努めず専ら己の門閥を保つ事に汲々たるを憂い長大息して
 野にすだく虫の声々かまびすし誰が聞わけてしなさだめせん
と口吟み党人等の跋扈迫害の裏に悶々の日を送り遂に病んで明治九年八月五十四歳で永眠した其長男亦那覇里主(那覇市尹)の冠を挂げて閉居した当時藩庁では党人等に対し偏に緩和策を講じたが熱狂する人心を鎮圧する事は出来なかった其処で政府は当時在京の琉球三司宮池城安規を召喚し責て曰く、先年使臣伊江王子及宜湾親方の封王の勅書を奉拝せしは恭順の道なり然るに士族者の之を罪に陥入れんとして沸騰するは叛逆無道の所為にして寛恕すべきでない速かに警官を派して之を調査し厳罰に処せん、と言渡したので池城は大に驚き是れ即ち頑迷無智の者の盲動であるから琉球藩に示達し自ら鎮圧の道を講じ度いから暫く政府の手を下すのを猶予され度いと陳弁し直ちに在京中の与那原親方、内間親雲上の両人を帰国させ政府の命を伝達させたので漸く事無きを得たのである
 斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けたが其後日清戦役も終え領台当時頃には沖縄県民も大に覚醒し二区三郡七万人以上の有識階級を代表して尚順男爵は当時尚存命中の伊江朝直に昔日の罪を謝したとか、些か以て亡き宜湾朝保の霊も冥すべきか

琉球から沖縄へ
廃藩知県は明治十二年に行われ旧琉球藩は茲に沖縄県として更正したのである同時に尚泰王の弟尚弼並に伊江朝直は共に華族に列せられた伊江朝直の前半生は内に重大な疑獄事件を処断し外に英仏米蘭等の諸国船と通商貿易の衡に当り幕末迄徳川に入貢し王政復古の慶賀使としては永遠に琉球を泰山の安きに置くの措置に出でしも反対党の為めに極度の弾劾と圧迫を蒙り多事多難の生涯を経たが後年は報いられて県民崇高の的となり慰められつ風月を友とし明治二十九年一月四日七十九歳の高寿を保って永眠した、人となり謹直剛健、躯幹肥大の士であったと

台湾日日新報(新聞) 1929.1.27-1929.2.7(昭和4) 沖縄秘話
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10086836&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA

 
 
 
 

 「台湾日日新報」の記事は、

 

  本秘話は伊江氏の旧稿を披見し未だ見ぬ沖縄を情話のように砕いて其の経緯をと筆を取ったのではあるが系図にも等しい心血を注いだ原文は動もすると其儘に筆を走らせる然も想い付いては卑見を挿み時に原文を改訂したので或は氏の心に悖るものがありはせぬかを懼る、原文は氏が父祖の偉業を後昆に残さんが為めの主感の熱涙随所に迸るに対し第三者としての本稿は唯に事実の羅列に過ぎない事も亦告白する

 

…と結ばれているように、朝貞の文章そのままではないが、それでも原文が身内の視線の下に書かれたものであることは確実である。

 

 注目しておきたいのは、

 

  日本の文物制度に暗く世界の大勢を窺知せぬ多数の守旧派は斯かる事態を醸せし因は慶賀使一行の措置の過ちにありとて守旧派は国中に檄を飛ばして多数の士族を国学院に会して凝議し藩王に諫書を上呈し慶賀使一行を迫害弾劾至らざるなく遂に一行を刑に処せんとまで絶叫するに至った茲に悲惨なのは伊江朝直の夫人で住居に石塊を抛け込む悪罵の限りを尽す迫害の裏に煩悶病を得て女児を挙げて間もなく逝去した

 

…という記述である。伊江王子(伊江朝直)は、琉球ナショナリズムの視線からは、いわば「売国の徒」として「斯様に慶賀使一行は当時弾劾と迫害の限りを受けた」のであった。軍事的に無力な国家の王家の一員が、無抵抗なままに併合を受け入れことが「守旧派」から「弾劾」された、というわけである。

 
 

 伊江王子は抵抗すべきであったのだろうか? そこに抵抗の手段は存在したのであろうか?

 

 思い出すのはクンデラのあの問いである。

 
 してみると、どうすることが正しい選択であったのか? 署名することか、それとも、署名しないことか?
 この問いは次のように定式化することもできよう。大声でどなり、自分の終末を早めるのがいいのか? それとも黙って、ゆっくりした死にいたるほうがいいのか?
 この問いに対してそもそも答えが存在するのであろうか?
 そしてふたたび、もうわれわれが知っている考えが彼をとらえる。人生はたった一度かぎりだ。それゆえわれわれのどの決断が正しかったか、どの決断が誤っていたのかを確認することはけっしてできない。所与の状況でたったの一度しか決断できない。いろいろな決断を比較するための、第二、第三、第四の人生は与えられていないのである。
      ミラン・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 (集英社文庫 282ページ)
 
 
 
 
 
(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/31 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/200929/
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年2月 9日 (土)

恐ろしき者の末の末 5

 

 シリーズの前回では「第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」の場で、「伊江のおじいちゃん」(祖父の妹の夫であった伊江朝助)が何を語ったのかを読んだ。

 

 

 その最後に、

 

  大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる

 

…と書いたわけだが、今回は「第十回国会 外務委員会」の場での「伊江のおじいちゃん」の言葉を読んでおきたい。

 昭和26(1951)年、講和条約調印に至る時期に「沖繩及び奄美大島諸島の帰属問題の件」が主題となった場での話である。

 

 

 

第010回国会 外務委員会 第3号
昭和二十六年二月六日(火曜日)
   午後一時五十一分開会
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○講和に関連する諸問題並びに国際情
 勢等に関する調査の件(沖繩及び奄
 美大島諸島の帰属問題の件)
  ―――――――――――――
○委員長(櫻内辰郎君) これより外務委員会を開会いたします。 昨日に引続き、領土問題について陳情のために御上京になつておりまする諸君から御意見を聽取することにいたします。最初に沖繩諸島日本復帰期成会の元貴族院議員の伊江朝助君、元首里市長仲吉良光君、都立大学教授東恩納寛惇君但し今日は東恩納寛惇君は御出席になりませんから、更に全国奄美連合総本部の委員長の昇直隆君、弁護士の谷村唯一郎君から御意見を伺いたいと存じます。最初に伊江朝助君。尚ちよつと申上げますが、大体御発言は二十分くらいとしてございます。
○参考人(伊江朝助君) ダレス大使のもたらすところの米国の対日七原則中に、沖繩諸島の軍事基地継続使用條件として沖繩諸島を米国の管理の下に、国際連合の信託統治下におくということを要望されておるのであります。信託統治というものは御承知の通り軍事的信託統治と普通の信託統治があるのでありまして、軍事的信託統治は安全保障理事会の承認を得なければなりませんが、この理事国であるところの英・米・仏・ソ・中国の五カ国が若し一カ国たりともこれを拒否するようなことがありましたならば、この案は廃案になるということは皆さん御承知の通りであります。普通の保託統治は国連憲章によりますと、自治不能の地域の住民に施行せられるのが原則になつておるのであります。もう一つは将来独立するという下に国際連合の指導を受けて独立するということに規定されておるのであります。然るに沖繩は御承知の通り内地の他府県と少しも異ならざる県会を持ち市町村会を持ち代議士も正名の代議士を出しまして国政に参與いたしておるのであります。又文化、社会制度その他におきましてもことごとく日本内地と異なるところがないのであります。これを自治不能の区域の住民と見るということは甚だ穏かならん話と私どもは思うのであります。米国におきましては信託統治として軍事政略的のものであるか、普通の統治かということをはつきりいたしておりません。又我々は祖国を離れて独立しようなどというような考えは毛頭起したこともなければ話合つたこともないのであります。我々は祖国と共に苦楽を共にし、日本再興の一メンバーとして奉公をしたいのが私どもの念願であります。併し敗戰国として無條件降伏をいたしました以上はこれは基地を貸す、日本宗主権の下に基地を設定するということは私共止むを得ないものだと諦めておる次第であります。この点につきましては政府当事者を始めとして、日本の三大政党はこれを支持して頂いたのであります。我々は思い起しまするというと、若し信託統治になりますると、我々の戸簿は殆んどどこの国の人間やらわからないという甚だ悲しむべき状態に陥らなければなりません。又ハワイのごときは、米国が領有以来五十年間に急激の大発展をしたのでありますが、ハワイの在来の住民は今日殆んど行方不明というような状態になつて、我々の子孫の将来を考えますと誠に悲痛な感じがいたすのであります。どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。余り長くなりますとほかの皆さんにもお困りがありましようからして、私どもはただこれだけを申述ぺましてそうして皆さんの御盡力を仰ぐ次第であります。どうぞよろしくお願いします。
 なお御質問でもございましたら歴史、言語、風俗、宗教その他の点につきまして、私の思慮で及ぶだけお答えをするつもりでございます。私の陳情はこれだけにしておきます。

 

 

○参考人(伊江朝助君) 只今團さんの御質問でありますが、我々は終戰当時から、仲吉君が私より事情に詳しいのでありますが、仲吉君を中心として、私どもはマッカーサー司令部及び政府当局に陳情して復帰運動を続けているのであります。それに対して一部の人間、ここで申していいか惡いか知りませんが、いわゆる共産党の諸君が独立運動をしているのであります。共産党の宣伝で以て琉球は独立するということをほうぼうに宣伝している。併し我々はこういう問題に対して一顧も與えないものだといつて始終刎ねつけているのでありますが、共産党以外の人間で日本復帰に反対している人間は殆んどおりません。併し最近又いわゆるアメリカの信託統治になるであろうという声が大分盛んになりましたために、御承知の通り共産党はアメリカ嫌いでありますからして、又日本に復帰運動をするということでやつております。彼らのやることは始終自分本位でやつしている次第であります。なお又米国におりまする沖繩出身の有力なる連中がことごとく我々に同情してくれまして始終鞭撻をしてくれるのであります。しまいにはお前がたは運動費がないだるうから、幾らでも運動費をくれるがどうだというようなことまで言います。併し私どもはこの点については余り運動費も使いませず、ただ我々の希望を以て努力をしておりますから一厘たりとも補助を受けておりません。そうして向うにおります国務省のいろいろの人、殊にあのラジオの米国通信をやる坂井米夫君が断えず盡力してくれている。そういつたような按配で、独立運動というようなものは先にも申上げましたが、我々は夢想だにいたしません。独立しようはずはないのであります。我々は飽くまでも祖国本位であります。祖国と共に苦しみ祖国と共に楽しみ、そうして国家再建に盡したいのが我々沖繩県出身の者一同の殆んど全部の希望であります。

 

 

○参考人(伊江朝助君) 甚だ恐縮ですが、御承知の通り徳田球一君は沖繩の出身者でありまして徳田球一君なんかの考えは、アメリカの委任統治になると共産党の復帰はできない、宣伝ができない、そういう意味で独立といえば共産党の温床になる、こういう思想でおるのであります。
 それからもう一つは、先程仲吉君が知事の選挙があつたと言いましたが、共産党から一人立ちましたが殆んどものにならん、一万何千かあつたそうであります。十九万と八方と一万何千こういうような状態でありまして、徳田球一君の管下で一万人ぐらいは或いはおるかも知れません。それだけは一つ附加えて申上げておきます。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/010/0082/01002060082003a.html

 

 

 

 伊江朝助はここで、あくまでも沖縄の「祖国復帰」を主張しているわけだが、

  どうぞこの際におきまして、余計なことは決して申上げません、日本の宗主権の下に沖繩の基地を当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる次第であります。どうぞ皆さんにおかれましても我々の希望が通るように一層の御盡力を仰ぎたいと思うのであります。

…とまで言ってしまう心情は悲痛である。

 結局、講和条約締結後も沖縄は米軍統治下に置かれ、やっと1972年になって「祖国復帰」を果たすわけだが、その後も(現在に至るまで)米軍基地の存在は続くことになってしまう。

 あくまでも、

  当分の間、期限をつけて置くということに対して、我々は止むを得ないと諦めておる

…ということであったにもかかわらず、米軍基地の存在は21世紀まで続くものとなってしまったのである。

 

 

 

 背景史料として、前年度の国会の外務委員会の場での「請願」を記録しておく。

 

第009回国会 外務委員会 第4号
昭和二十五年十二月六日(水曜日)

十二月二日
 在外公館等借入金返還促進に関する請願(田口
 長治郎君紹介)(第三〇一号)
同月四日
 在外同胞引揚の国民運動強化に関する請願(若
 林義孝君外一名紹介)(第四四六号)
の審査を本委員会に付託された。
同月二日
 海外同胞救出国民運動費国庫負担の陳情書外一
 件(甲府市山梨県議会議長星野重治外一名)(
 第一三八号)
 沖繩の日本復帰促進に関する陳情書(東京都千
 代田区有楽町石川ビル沖繩諸島日本復帰期成会
 伊江朝助外三十四名)(第一四六号)
 海外同胞引揚促進の陳情書(全国町村議会議長
 会長齋藤邦雄)(第一八四号)
同月五日
 海外同胞引揚促進の陳情書(秋田市北海道東北
 七県社会事業協議会議長本間金之助)(第二二
 八号)
 在外公館等立替金即時返還に関する陳情書(東
 京都千代田区麹町一番町引揚者団体全国連合会
 理事長北條秀一)(第二四三号)
 密入国者取締費全額国庫負担の陳情書(東京都
 全国自治体公安委員会協議会会長小畑惟清)(
 第二九〇号)
 在外公館等立替金即時返還に関する陳情書(広
 島市広島県華中引揚者在外資産補償措置促進会
 理事長米沢大槌)(第三一五号)
を本委員会に送付された。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/009/0082/00912060082004a.html

 

 「沖繩の日本復帰促進に関する陳情書(東京都千代田区有楽町石川ビル 沖繩諸島日本復帰期成会 伊江朝助外三十四名)(第一四六号)」に名を連ねている一人に「伊江のおじいちゃん」がいるわけだが、前後に並ぶ「請願」の内容を読むと、前後6年目になっても「海外同胞引揚促進」が政治的課題の一つであったことがわかる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/30 22:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/200918/

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »