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2013年1月26日 (土)

恐ろしき者の末の末 3

 

 ミズーリ艦上での降伏文書調印の場に、日本側全権団の随員として臨んでいた一人が柴勝男海軍大佐であり、それが「石川のおじいちゃん(石川秀三郎)」の娘婿なのであった。

 私からは、祖父の妹と夫の間に生まれた娘の結婚相手ということになり、かなり距離がある存在だが、母にとっては従姉妹の結婚相手であり、実際に顔を合わせる機会も少なくなかったと思われる。

 

 

 私からすれば、「ミズーリの降伏文書調印式」のエピソードをこそ聞いてみたい人物となるが、母からはそんな話を聞いた記憶はない。ヒトラー全盛時代のベルリンに駐在した親戚の存在についての話だけが記憶に残っている。

 相沢淳氏による「日本海軍の対独認識」(1996)によれば、確かに柴勝男は1935年5月からドイツに滞在しており、同年12月からが「武官補佐官」としての資格によるものとなっている(1937年7月まで)。1936年のベルリンオリンピックを挟む、いわばナチスの黄金期である。柴勝男の妻の従弟(つまり私の母)も、親戚の集まりなどで、そんなベルリンの姿を印象深く聞いていたのであろう。

 武官補佐官の前任者は神重徳であり、海軍内の親独派の中心となった人物である。その神と柴は、対米英開戦に至る時期の軍令部勤務を共にしているわけで、つまり国策としての対米英開戦の決定に関与していたことになる。

 

 

 

 祖父(加来金升)の妹の夫という意味では、母から「伊江のおじいちゃん」と呼ばれていた人物も、その一人である。

 その伊江朝助についてネット検索をすると、「1940年の沖縄県人会」の名簿を見ることが出来るのだが、そこに「伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町」として記載されている前者が当人であり後者がその弟ということになる。

 今回の検索で、伊江朝睦の名を再確認することになったわけだが、母の話には「刑務所長をしていた伊江のおじいちゃんの弟」として登場していたことは覚えている。「収容者からも信頼を得ていた刑務所長」というような言い方であったが、あらためて考えれば、大日本帝國の法の執行の現場の長という捉え方も出来る。受刑者の側からは様々な評価があったものと思われる(註:1)。

 

 「伊江のおじいちゃん」は母が私淑していた人物であり、(現在に至る)沖縄の戦後の歴史にも関与している人物でもある。

 

 

 

 いずれにしても、このようにしてネット経由での情報と、母からの話を重ね合わせてみると、大日本帝國の国策をトップとして決定するような立場となったことはないが、大日本帝國の国策に近いところで近代化を推進し(時には統治する側の一員として)、その利益を享受していた一族だった、ということになりそうである。

 

 

 

【註:1】
 ネット検索すると、戦後になって(昭和23年の時点)、参議院の司法委員会で、伊江朝睦が「関東行刑管区長」として管区内の拘置所・刑務所・少年刑務所が置かれていた状況を証言しているのを読むことが出来る。戦後も継続した伊江朝睦の司法行政上の地位を確認すると同時に、(「終戦」から間もない)戦後の刑務所状況が管理者側からどのように認識されていたのかが読み取れるものである(収容者の過剰拘禁状況や食糧事情等、その要因も含めて、敗戦後日本の一断面として興味深い問題でもあるので、その証言の一部を掲載しておく)。

参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/002/1340/00201281340003a.html

第002回国会 司法委員会 第3号 昭和二十三年一月二十八日(水曜日)
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○行刑問題調査に関する件(証人より証言あり)

○委員長(伊藤修君) 次は関東行刑管区長伊江朝睦君。
○証人(伊江朝睦君) 先ず私共に証言の機会に與えて頂きましたことを感謝いたします。関東行刑管区内の刑務所の名前の先に申上げますれば、東京拘置所、府中刑務所、豐多摩刑務所、横濱刑務所、千葉刑務所、宇都宮刑務所前橋刑務所、長野刑務所、甲府刑務所新潟刑務所、靜岡刑務所それに少年刑務所といたしまして水戸、川越、松本八王子この四ケ所で、合計十一ケ所の刑務所でございます。
 先ず第一番に関東行刑管区内における拘禁並びに作業状態の概要を申上げたいと存じます。最初に拘禁状態から申上げます。管内の各所の收容総人員は一月の二十日現在で受刑者が一万七千四百十三名、初犯、累犯の内訳を申上げますれば、初犯が六八%、累犯が三二%であります。被告は、その他に五千四百六十五名おります。そうすると收容者の総人員が計二万二千八百七十八名であるます。收容定員の二万一千百五名を超過すること千七百七十三名であります。刑務所の施設から見まして実に飽和状態でありまして、種の刑務事故発生の一つの原因をなしておる現状であります。過剰拘禁の原因は、收容者の漸増がその一つに数えられますが、昭和二十一年の末には二万六百九十八名でありましたが、昨年昭和二十二年の末には二万二千百八十三名で、実に一年間に千四百八十五名の増加を示しておる状態であります。それに附加えまして宇都宮、前橋、甲府、靜岡、浦和、この江刑務所が戰災を被りましてその復旧工事の途方にあつて著しく收容施設が減殺されておる関係もありまするが、更に御承知の巣鴨にありました刑務所、並びに中野の豐多摩刑務所が連合軍の使用せらるるところとなつておりますのが、大きな影響を及ぼしておる所以であります。この過剰拘禁の対策といたしましては、戰災刑務所の復旧工事に進捗に促して、その根本的の改善を図りつつありますり外、健全なる構外泊込も作業の新設を図りますると共に各所間の合理的な移送を計画実施して、辛うじてこの住居の問題を解決しておる次第であります。
 それから食糧川情につきまして申上げますると、主食、副食物を併せまして平均的二千三百カロリーを攝取せしめるように努力しております。それから衣類、寝具は最近繊維事情の緊迫に伴いまして、非常に努力いたしております結果、辛うじて最低限度の物を支給しておる程度でありまして、尚管内の寒冷地にある刑務所に対しては、更に相当数これ以上支給しなければならん必要に迫られておりまして、目下関係方面に要望して、極力繊維類の入手に努めておる次第であります。
 管内の仮釈放に人員は昭和二十二年の一年間に累計九千三百十名を出しております。それから管内の病氣休養者の合計は現在約八百三十名であります。病氣に因る死亡者は、昭和二十二年の一ケ年を通じまして二百四十四名であります。丁度昭和二十一年の九百九名に比較いたしまして六百三十五名減少いたしておるわけでございます。その他刑務所全般の衞生には特に留意いたしまして、收容者をして明るい希望を持たせながら、行刑の完遂を期しておる次でございます。

(表記に不備があるように思われるが上記「参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号」の文言をそのまま用いた)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/09 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/200416/

 

 

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