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2013年1月

2013年1月27日 (日)

恐ろしき者の末の末 4

 

 「石川のおじいちゃん」が、私の祖父(加来金升)の妹の結婚相手であり、海軍少将石川秀三郎であったこと、そして石川秀三郎の娘婿がミズーリ艦上での降伏文書調印式に全権団の随員として列席した柴勝男海軍大佐であったことは書いた。

 

 

 そして、その祖父のもう一人の妹の結婚相手であった「伊江のおじいちゃん」の弟の伊江朝睦が1940(昭和15)年の時点で小菅刑務所長であった話までは書いた。

 さて、ネットを検索すると、その「伊江のおじいちゃん」である伊江朝助が、戦後になっての「第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」でいったい何を語ったのかを読むことが出来る。

 

 

○男爵伊江朝助君 此ノ次ニ施行セラレマスル選擧ニ於キマシテハ沖繩縣ガ全ク選擧ノ執行ガ出来ナイト云フコトハ誠ニ遺憾ノ次第デアリマスガ、併シ情勢上已ムヲ得ズ内務大臣方ノ御苦心ニ對シテモ多トスル次第デアリマス、私ハ此ノ際少シ選擧法トハ懸ケ離レタ問題デアリマスガ、事内務省關係ノ法律案デアリマスル故ニ、少シバカリ希望ヲ述ベサセテ戴キタイト思ヒマス、現ニ沖繩縣カラ九州各縣ニ疎開シテ参リマシタ、主ニ女ト子供デゴザイマスガ、是等ハ非常ニ疲弊困憊ヲ致シテ居リマシテ、此ノ寒サニ非常ニ困難ヲ致シテ居リマス、是等ノ困難ハ、皆サン御推察下サイマスレバ能ク御分リノコトト思ヒマスルガ、實ニ沖繩縣カラ参リマシタ者ハ、此ノ寒サニ非常ニ堪ヘ難ク苦シンデ居リマス、是バカリヂヤナク、「フィリピン」ノ「ダバオ」カラ約七千名ノ移民ガ歸ッテ来テ居リマス、御承知ノ通リ、「フィリピン」ニハ日本移民ガ約一萬九千人居リマシテ、今回ノ「フィリピン」事件で約一萬三千人ニ減リ、後六千何百人ハ、向フデ戰死若クハ饑餓ニ飢エテ死ンデ居リマシテ、約一萬三千五百人バカリ居リマシテ、其ノ中ノ七割ガ沖繩縣ノ移民デゴザイマス、是ガ今日浦賀、ソレカラ鹿児島、長崎、福岡ニ皆歸ッテ来ル、サウシテ是等ノ中ニ約一日ニ十人乃至ニ十人モ死ンデ居リマス、尚是等ハ御承知ノ通リ「フィリピン」ノ暑イ所カラ参リマシタモノデスカラ、寒サニ堪ヘズ、先ニ申上ゲマス通リ、又栄養失調、其ノ他ノ為ニ死ンデ居リマス、ソシテ彼等ノ持ッテ来タ金ト云フモノハ大概軍票デゴザイマシテ、コッチデ「エックスチエンヂ」ガ出来ナイ、ソレデ以テ私ハ現ニ沖繩縣協會ノ會長ヲ致シテ居リマシテ、是等ノ救済ニ東奔西走致シテ居リマス、マダ目途ガ付カナイノデアリマス、此ノ點ニ付キマシテ、政府ノ方デモ相当ニ御援助下サツテ居リマスケレドモ、是デハナカナカ捗ラナイ、現ニ、御承知ノ通リ、沖繩縣ノ農民ト云フノハ主ニ藷ヲ作リ、砂糖ヲ作ッテ居リマシテ、耕ス耕地ガナイノデアリマス、今日各飛行場、其ノ他宮内省邊リノ御料地貸下ゲノ申請中デゴザイマスルガ、是モナカナカ捗ッテ居リマセヌ、サウシテ東京在住ノ沖繩縣民數萬ノ人間ハ、私ニ弾劾案ヲ叩キ付ケテ居リマス、甚ダ盡力ガ足リナイ、貴衆両院議員宜シク自決スベシト云フヤウナ弾劾案ヲ戴イテ居ル關係上、私モ無論力ガ足リナイデ、唯謝罪ヲ致シテ居ルダケデアリマスルガ、此ノ點ニ於キマシテモ、内務省ノ方デモ然ルベク善慮サレムコトノ希望ヲ述ベマシテ、若シ之ニ對スル内務大臣ノ適当ノ御考デモゴザイマシタラ、承リタイト思ヒマスガ、内務大臣ノ方デモ適当ナル御案ガ今日御アリデナケレバ、必ズシモ今日御答弁ヲ承ラナクテモ宜シウゴザイマスカラ、一ツ然ルベク善処シテ戴キタイコトヲ希望シテ置キマス

○國務大臣(堀切善次郎君) 沖繩縣ノ諸君ハ、従来海外雄飛ノ先頭トシテ各地ニ活躍サレテ居リマス、又此ノ戰争中、沖繩縣ガ戰場ト相成リマシタ際ニ縣民ノ諸君ガ現ハサレタ忠誠ノ事實ニ付キマシテハ、我々國民ト致シマシテモ、誠ニ感激ニ堪ヘナイ次第ナノデアリマス、其ノ後各地カラ引揚ゲテ来マスル人達、或ハ又九州方面ニ引揚ゲテ居リマスル人達ノ状態ニ付キマシテハ、只今伊江男爵ノ御話ニナリマシタ通リ、誠ニ御気ノ毒ニ堪ヘナイ次第デアリマス、浦賀ノ方ニ参ラレマシタ人達ニ付キマシテハ、是ハ伊江男爵モ御承知ト存ジマスガ、数日前ニ此ノ議會中、忙シイ所ヲ厚生大臣ガ實地視察ニ参リマシテ、皆ノ誠ニ御気ノ毒ナ、苦シンデ居ラレル模様ヲ視察シテ歸リ、歸郷ノ對策ヲ急イデ居ルノデアリマス、内務省ト致シマシテモ、各地方長官ヲ督励致シマシテ、又沖繩縣ニ對シマシテハ、只今、福岡縣、其ノ他ニ沖繩縣ノ事務所ヲ置キマシテ、沖繩縣ノ内務部長ヲ置イテ、是ガ沖繩縣ノ方々ノ御世話ヲサレルコトニナツテ居ルノデアリマスガ、尚其ノ方面、或ハ各地方長官ヲ能ク督励致シマシテ、出来ルダケノ御世話ヲ致シタイト考ヘテ居ル次第デアリマス

○男爵伊江朝助君 是以上申上ゲル必要モナイノデアリマスルケレドモ、尚一ツ御参考ノ為ニ、向フノ方ノ事情ヲホンノ五分間位御話致シマス、御承知ノ通リ沖繩本島ノ人口ハ、本島ダケデアリマス、離島ハ別ト致シマシテ、人口ハ四十萬居ルノデアリマス、其ノ中ニ疎開者ガ約五萬人、後三十五萬人デ、其ノ中ノニ十萬人ノ女ト年寄ハ北ノ方ニ居ル、後十五萬ガ南ノ方ニ出マシテ戰線ニ参加シテ居ル次第デアリマス、恐ラクハ此ノ十五萬人ハ戰死シテ居ルダラウト思フノデアリマスルガ、併シハツキリシタ事情ハ分リマセヌ、是等ノ者ハ男女共ニ奮戰シテ皆討死シタモノト思ヒマスルガ、沖繩終戰ノ三日前ニ、盛脇ト云フ陸軍ノ中尉ガ牛島司令官ノ命ヲ受ケテ沖繩カラ脱出シタ、其ノ道案内ヲシタ者ガ海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男、此ノ男ハ沖繩出身デ、大学ノ学生デアリマシタケレドモ、召集サレマシテ海軍ニ入ッタ男デアリマス、是ガ萬難ヲ冒シテ盛脇ト云フ中尉ヲ連レテ脱出シテ、奄美大島ノ徳之島迄行ツタ、盛脇中尉ハ非常ニ感謝シテ居ツタノデアリマスガ、徳之島ニ上陸スルト盛脇中尉ハ、今回ノ沖繩戰線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ、其ノ上地二等兵曹ハ非常ニ憤慨シマシテ、刺違ヘテ、ヤラウト云フ考ヲ起シタ、然ルニ考ヘテ見ルト、司令官ノ命令デ脱出シテ大使命ヲ持ツテ居ルカラト云フノデ其ノ儘ニシテ居ッタ、サウシテ此ノ人ガ九州地方ヲ廻ッテ、九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖繩戰ハ沖繩縣人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖繩五萬ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアルノデアリマス、我々カラ考ヘマスト、非常ニ残念ニ思フノデアリマス、サウシテ疎開地ノ人間ハ迫害サレタ為ニ、帝國臣民タル光栄ニ對シテ疑問ヲ起スト云フ迄憤慨シテ居ル次第デアリマス、斯ウ云フ點ハ無論内務大臣ノ御耳ニハ達シナイデアリマセウガ、斯フ云フコトモアツタト云フコトダケハチヨツト御耳ニ入レマシテ、私ノ希望ヲ打切ルコトニ致シマス

第八十九帝國議會貴族院 衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會議事速記録第二號 13~14ページ
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/089/1200/0890120000211213.html

 

 

 ここで語られているのは、戦中、そして「終戦」の直後に沖縄県民の置かれていた状況(その苛酷な現実)である。

 

 ここでは、「是以上申上ゲル必要モナイノデアリマスルケレドモ、尚一ツ御参考ノ為ニ」との言葉と共に、わざわざ後半の発言で語られた問題に注目しておきたい。

 そこで「男爵伊江朝助君」が憤慨している「盛脇」中尉は、実際には「森脇」中尉であったらしいが(註:1)、いずれにしても、ここでは盛脇(森脇)中尉による、

  今回ノ沖繩戰線ノ失敗ハ琉球人ノ「スパイ」行為ニ因ルト云フコトヲ放送シタ

…という行為のために、

  九州ノ疎開地ニ、今回ノ沖繩戰ハ沖繩縣人ノ「スパイ」ニ因ッテ負ケタノダト云フヤウナコトガ流行ッテ、沖繩五萬ノ疎開民ガ受入地カラ非常ニ脅迫サレタト云フ事情モアル

  サウシテ疎開地ノ人間ハ迫害サレタ為ニ、帝國臣民タル光栄ニ對シテ疑問ヲ起スト云フ迄憤慨シテ居ル次第デアリマス

…として、戦中の帝國陸軍軍人による沖縄県民のスパイ視と、沖縄戦敗北の責任を沖縄県民のスパイ行為に負わせようとする姿勢、その陸軍軍人の姿勢が招いた疎開地での脅迫・迫害という現実に対する「帝國臣民」としての沖縄県民の「憤慨」を、帝國議会の「衆議院議員選擧法中改正法律案特別委員會」の場(つまり、「場違い」な場である)であえて発言し、伝えようとしているということなのである(もちろん、伊江朝助自身も「憤慨」する当事者の一人として、である)。

 この森脇中尉について、山梨学院大学の我部政男教授は、

 

 

  元陸軍中尉森脇弘二の稿本「沖縄脱出記」が、防衛研究所図書館に所蔵されている。その稿本の扉にこう説明してある。「本人は陸軍歩兵学校教官として該地巡回教育の途上沖縄において戦闘の渦中に投じて、32軍司令部付きに命課され、独立混成第44旅団司令部において勤務して作成に従事した。本記事は司令部より戦訓報告のため大本営へ派遣され脱出記事である」と。その第一巻のなかの6月8日の条に次のような箇所がある。少し長い引用になるがいとわず引いておく。

  「洞窟の中を歩いて見ると、以前の顔ぶれが揃っていた。変に思って聞いて見ると、昨日2組出発したが敵のスパイらしいが崖の上で発火信号したため、敵の掃海艇に攻撃せられ、陸軍切込隊は全員行方不明、海軍の組は一名を失っただけで舟をやられて辛うじて流れて帰って来たとのことであった。海軍の兵曹長が今晩スパイを斬って来ると張り切っているそうだ。夕刻になって伊良波が帰ってきた。軍命令は貰って来ていた。「軍命令なくして戦線離脱すべからず軍占領地区内にあるくり舟は軍命令なくしては一艘たりとも使用すべからず、所在部隊は軍命令により森脇中尉に能う限りの協力をせよ」という趣旨のものであった。既に軍の秩序は麻の如く乱れ、その統制は全く行われていない。人は軍律よりも自己の生命の危険に戦いている。この時期に一片の軍命令が何程の効果を発揮し得るだろうか。私は迷ったまま、黙っていた。日暮時兵曹長が「今からスパイを斬って来ます」と言って来た。私は「御苦労さん、拳銃を貸そうか」と言ったが、「何、これさえあれば沢山ですよ」と軍刀を見せ乍ながら出て行った暫くたつと「やはり借りて行った方がよかったですな。手負ひだけど一人逃がしてしまったよ」と残念そうに行って来た。スパイはハイカラな服装をした男一人と女二人で先ず男に一太刀あびせ次に女二人を斬ったが女を斬っている隙に男が拳銃を撃ち乍ら逃げてしなったのだということであった。然し、もう妨害は出来ないだろうと思って安心した。」

 

 

…と森脇弘二陸軍中尉自身の証言と伊江朝助の帝國議会での発言との照応関係を指摘している。

(『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』  平成19年12月25 
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会  「沖縄戦に関する私見」 山梨学院大学我部政男  http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf

 

 

 

 あの「琉球処分」以来の、近代沖縄の直面させられた厳しい現実が凝縮されたエピソードだと感じられる。大日本帝國により実質的に植民地化(併合・同化)された沖縄の現実が、である。

 植民地住民は、宗主国の軍人からは潜在的なスパイ視されるような存在ということなのである。

 大日本帝國に併合・同化され独立を失った琉球王国の王家の血統に属する(「伊江御殿」の当主としての「伊江王子」である)伊江朝助が、ここでは大日本帝國の忠良な臣民(貴族院議員の地位はその事実を示す)として、盛脇(森脇)中尉の行為を告発している構図を読むと、その真摯さに打たれると同時に、小国の運命の象徴的存在としての痛ましさをも深く感じさせられる。

 

 

 

【註:1】
 「海軍ノ二等兵曹ノ上地ト云フ男」から伝えられた時点(その時点が「伝聞」であった可能性もある)では文字情報ではなく「モリワキチュウイ」という音声情報のみであった可能性が高く、帝國議会での発言もまた音声によるものなので、伊江朝助自身に「盛脇」という漢字表記が意識がされていたかどうかまでは議事録からは判断出来ない。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/16 21:57 → http://www.freeml.com/bl/316274/200591/

 

 

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2013年1月26日 (土)

恐ろしき者の末の末 3

 

 ミズーリ艦上での降伏文書調印の場に、日本側全権団の随員として臨んでいた一人が柴勝男海軍大佐であり、それが「石川のおじいちゃん(石川秀三郎)」の娘婿なのであった。

 私からは、祖父の妹と夫の間に生まれた娘の結婚相手ということになり、かなり距離がある存在だが、母にとっては従姉妹の結婚相手であり、実際に顔を合わせる機会も少なくなかったと思われる。

 

 

 私からすれば、「ミズーリの降伏文書調印式」のエピソードをこそ聞いてみたい人物となるが、母からはそんな話を聞いた記憶はない。ヒトラー全盛時代のベルリンに駐在した親戚の存在についての話だけが記憶に残っている。

 相沢淳氏による「日本海軍の対独認識」(1996)によれば、確かに柴勝男は1935年5月からドイツに滞在しており、同年12月からが「武官補佐官」としての資格によるものとなっている(1937年7月まで)。1936年のベルリンオリンピックを挟む、いわばナチスの黄金期である。柴勝男の妻の従弟(つまり私の母)も、親戚の集まりなどで、そんなベルリンの姿を印象深く聞いていたのであろう。

 武官補佐官の前任者は神重徳であり、海軍内の親独派の中心となった人物である。その神と柴は、対米英開戦に至る時期の軍令部勤務を共にしているわけで、つまり国策としての対米英開戦の決定に関与していたことになる。

 

 

 

 祖父(加来金升)の妹の夫という意味では、母から「伊江のおじいちゃん」と呼ばれていた人物も、その一人である。

 その伊江朝助についてネット検索をすると、「1940年の沖縄県人会」の名簿を見ることが出来るのだが、そこに「伊江朝助(男爵、貴族院議員)ー中野区高根町、伊江朝睦(小菅刑務所所長)ー葛飾区小菅町」として記載されている前者が当人であり後者がその弟ということになる。

 今回の検索で、伊江朝睦の名を再確認することになったわけだが、母の話には「刑務所長をしていた伊江のおじいちゃんの弟」として登場していたことは覚えている。「収容者からも信頼を得ていた刑務所長」というような言い方であったが、あらためて考えれば、大日本帝國の法の執行の現場の長という捉え方も出来る。受刑者の側からは様々な評価があったものと思われる(註:1)。

 

 「伊江のおじいちゃん」は母が私淑していた人物であり、(現在に至る)沖縄の戦後の歴史にも関与している人物でもある。

 

 

 

 いずれにしても、このようにしてネット経由での情報と、母からの話を重ね合わせてみると、大日本帝國の国策をトップとして決定するような立場となったことはないが、大日本帝國の国策に近いところで近代化を推進し(時には統治する側の一員として)、その利益を享受していた一族だった、ということになりそうである。

 

 

 

【註:1】
 ネット検索すると、戦後になって(昭和23年の時点)、参議院の司法委員会で、伊江朝睦が「関東行刑管区長」として管区内の拘置所・刑務所・少年刑務所が置かれていた状況を証言しているのを読むことが出来る。戦後も継続した伊江朝睦の司法行政上の地位を確認すると同時に、(「終戦」から間もない)戦後の刑務所状況が管理者側からどのように認識されていたのかが読み取れるものである(収容者の過剰拘禁状況や食糧事情等、その要因も含めて、敗戦後日本の一断面として興味深い問題でもあるので、その証言の一部を掲載しておく)。

参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/002/1340/00201281340003a.html

第002回国会 司法委員会 第3号 昭和二十三年一月二十八日(水曜日)
  ―――――――――――――
  本日の会議に付した事件
○行刑問題調査に関する件(証人より証言あり)

○委員長(伊藤修君) 次は関東行刑管区長伊江朝睦君。
○証人(伊江朝睦君) 先ず私共に証言の機会に與えて頂きましたことを感謝いたします。関東行刑管区内の刑務所の名前の先に申上げますれば、東京拘置所、府中刑務所、豐多摩刑務所、横濱刑務所、千葉刑務所、宇都宮刑務所前橋刑務所、長野刑務所、甲府刑務所新潟刑務所、靜岡刑務所それに少年刑務所といたしまして水戸、川越、松本八王子この四ケ所で、合計十一ケ所の刑務所でございます。
 先ず第一番に関東行刑管区内における拘禁並びに作業状態の概要を申上げたいと存じます。最初に拘禁状態から申上げます。管内の各所の收容総人員は一月の二十日現在で受刑者が一万七千四百十三名、初犯、累犯の内訳を申上げますれば、初犯が六八%、累犯が三二%であります。被告は、その他に五千四百六十五名おります。そうすると收容者の総人員が計二万二千八百七十八名であるます。收容定員の二万一千百五名を超過すること千七百七十三名であります。刑務所の施設から見まして実に飽和状態でありまして、種の刑務事故発生の一つの原因をなしておる現状であります。過剰拘禁の原因は、收容者の漸増がその一つに数えられますが、昭和二十一年の末には二万六百九十八名でありましたが、昨年昭和二十二年の末には二万二千百八十三名で、実に一年間に千四百八十五名の増加を示しておる状態であります。それに附加えまして宇都宮、前橋、甲府、靜岡、浦和、この江刑務所が戰災を被りましてその復旧工事の途方にあつて著しく收容施設が減殺されておる関係もありまするが、更に御承知の巣鴨にありました刑務所、並びに中野の豐多摩刑務所が連合軍の使用せらるるところとなつておりますのが、大きな影響を及ぼしておる所以であります。この過剰拘禁の対策といたしましては、戰災刑務所の復旧工事に進捗に促して、その根本的の改善を図りつつありますり外、健全なる構外泊込も作業の新設を図りますると共に各所間の合理的な移送を計画実施して、辛うじてこの住居の問題を解決しておる次第であります。
 それから食糧川情につきまして申上げますると、主食、副食物を併せまして平均的二千三百カロリーを攝取せしめるように努力しております。それから衣類、寝具は最近繊維事情の緊迫に伴いまして、非常に努力いたしております結果、辛うじて最低限度の物を支給しておる程度でありまして、尚管内の寒冷地にある刑務所に対しては、更に相当数これ以上支給しなければならん必要に迫られておりまして、目下関係方面に要望して、極力繊維類の入手に努めておる次第であります。
 管内の仮釈放に人員は昭和二十二年の一年間に累計九千三百十名を出しております。それから管内の病氣休養者の合計は現在約八百三十名であります。病氣に因る死亡者は、昭和二十二年の一ケ年を通じまして二百四十四名であります。丁度昭和二十一年の九百九名に比較いたしまして六百三十五名減少いたしておるわけでございます。その他刑務所全般の衞生には特に留意いたしまして、收容者をして明るい希望を持たせながら、行刑の完遂を期しておる次でございます。

(表記に不備があるように思われるが上記「参議院会議録情報 第002回国会 司法委員会 第3号」の文言をそのまま用いた)

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/09 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/200416/

 

 

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2013年1月25日 (金)

恐ろしき者の末の末 2

 

 前回の記事にある石川秀三郎は、母から「石川のおじいちゃん」として聞かされていた人物であった。それが私の祖父(加来金升)の妹の結婚相手であったという具体的関係を知ったのは、母の死後に相続関係の書類(古い戸籍謄本)に目を通していた際だから、母の話を聞いていた時点では、私とどういう関係にある「おじいちゃん」であるのかまでは把握してはいなかったというのも我ながら呑気な話ではある。

 

 そんな話の際に母から聞いた「石川のおじいちゃん」のエピソードというのは、「三笠の艦長」だった親族であるという話と、海軍軍人のハイカラな生活ぶりについての話だけで、具体的にどのような軍歴の持ち主なのかは知らず仕舞いだったのが実情である。

 それが、ネット検索の結果、時代の中での「石川のおじいちゃん」の姿が、急に立体的に見えて来たわけである。

 

 ちなみに、「海軍軍人のハイカラな生活ぶりについての話」として覚えているのは、「自宅を訪問すると紅茶でもてなされ」、「応接間にあるピアノをお嬢さんが弾いているような世界」であったというくらいではあるが、これが「戦前」の話(それも軍人一家の話)なわけである。

 それをすべてダメにしてしまったのが「戦争」というのは、いささかに皮肉な話ではある。

 

 

 ここは強調しておいた方がいい点なのかも知れないが、私にとって(私が育った家族の世界の中では)、戦前は決して「暗い時代」ではないのである。

 で、これも強調しておいた方がいい点なのかも知れないが、そんな戦前の生活が「敗戦」により失われた、ということなのだ。

 もちろん、「戦前」とは「格差社会」そのものであり、その意味では、全面的に肯定出来るような世界ではない。「格差社会」の中で、恵まれた場所にいられた一族が、敗戦を境に、恵まれた場所を失っただけの話でもある(註:1)。

 

 

 明治以来の富国強兵的世界の中で、それなりに恵まれた場所にいたということ、それも草創期以来の海軍の一翼を担って来た歴史を持つということは、敗戦に至る過程に関しても、分相応の責任を感じるような意識につながるわけである。「敗戦」もまた、恵まれた場所の延長に位置する歴史的事象、ということなのである。なので、私の大日本帝國に対する批判的な言動には、敗戦に至る歴史の中に埋め込まれた家族の歴史の問題と密着した所で発せられるものという側面もある。ある意味で「身内の問題」なのである。

 

 

 で、この石川秀三郎の娘婿が柴勝男であるということも、今回のネット検索から、あらためて明らかになったのであった。

 柴は海軍内の親独派の中心として知られたような人物なので、結局、身内が「すべてをダメにした」ような話でもあるという、より一層、何とも皮肉な話となるわけだ。柴との関係を知ることで、先に示した「身内の問題」という感覚は強められることになる。

 

 母からは、ヒトラー時代のベルリン勤務をしていたという、親戚の誰だかの話は聞いていたのだが、それが「誰」であるのかは知らなかった(あるいは覚えていなかった、あるいはわざわざ確かめようとまではしなかった)。今回、それが柴勝男であることが判明したわけである。尾形惟善にしても、「石川のおじいちゃん」にしても中央での軍歴はなく、その意味で政治過程からは離れていたことになる。

 しかし、この柴勝男は、昭和15~18年といった時代を軍令部で過ごし(中佐から大佐)、対米英開戦の決定に深く関与した人物なのである(昭和20年の降伏調印式の際には、全権団の随員としてミズーリ艦上にいた人物でもある)。

 

 

 対米英開戦決定に深く関与し、敗戦の象徴的シーンにも登場するのが身内なのであった。

 この事実は、私の中では、敗戦に至る歴史の責任のある部分を身内が負っているという認識(を、より強化すること)につながる。

 しかし、だからと言って、いわゆる「じっちゃんの名誉」(私の祖父ではないが身内のひとりである)のために、あの歴史的過程を正当化することに腐心するのは、私の採る態度ではない(註:2)。

 その都度の主張や決断の理路を、より詳しく理解したいという欲求が強くなっただけである。

 

 

 

【註:1】
 まさに「斜陽」である。
 以前の記事で紹介した太田静子の『斜陽日記』のエピソード(「丸ノ内ホテルのサンドウィッチ 」を参照)は、「戦前」ではなくて「戦中」の話だが、このノーテンキな太田静子の母娘の姿から、「暗い時代」ではない「戦前」のイメージがつかめるかも知れない。
 この母娘の疎開先として「別荘」を貸したのが、私の祖父である(「別荘」の詳細については「雄山荘焼失を惜しむ 」を参照)。

【註:2】
 政治的決定・軍事的決定のトップに身内がいたということではないが、しかし、まったく無関係と言うことも出来ない。

 そのような意味で、日本の「敗戦」に至る歴史は、私には、

  どこかの誰かが悪い

…という捉え方ではしっくりこない、ということなのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/05 22:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/200307/

 

 

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2013年1月24日 (木)

恐ろしき者の末の末 1

 

 「夜な夜な女性を訪ねて妊娠させた大蛇の末裔」の血が、私の半分を構成していることが判明してしまった(恐ろしき者の末 )のは思いもよらないことであったが、勢いに乗って尾形惟善を始めとした親族関連の名をネット検索してみたら、それなりにヒットするではないか!

 

 

 

 たとえばこんな ↓ 具合。

 

 

石川 秀三郎 いしかわ ひでさぶろう 千葉 海兵25期 (16/32)
Ishikawa, Hidesaburo

発令日階級その他身分補職/任官
明 9(1876).12.20
功五級
明30(1897).12.18 海軍少尉候補生 金剛乗組(海兵卒)
明31(1898). 9.27 橋立乗組
明32(1899). 2. 1 海軍少尉 高砂乗組
明32(1899). 9.29 金剛乗組
明33(1900). 8.11 高千穂乗組
明33(1900). 9.25 海軍中尉
明33(1900).10.22 鎮西乗組
明34(1901). 1.18 陽炎乗組
明34(1901).12.12 呉水雷団水雷敷設隊分隊長心得
明35(1902). 5. 8 平遠分隊長心得
明35(1902). 8. 1 大湊水雷団水雷敷設隊分隊長心得
明35(1902).10. 6 海軍大尉 大湊水雷団水雷敷設隊分隊長
明36(1903). 9.14 大湊敷設隊分隊長
明37(1904). 5. 8 筑紫分隊長
明38(1905). 3.15 厳島分隊長
明39(1906). 1.25 海大乙種学生
明39(1906).12.20 常磐砲術長心得
明40(1907). 9.28 海軍少佐 常磐砲術長
明40(1907).11.22 常磐砲術長/分隊長
明41(1908). 4.20 砲術校教官
明42(1909). 5.25 砲術校教官/水雷校教官
明44(1911). 3.11 肥前砲術長
明44(1911).11. 1 河内砲術長/横工廠艤装員
明45(1912). 1.15 河内砲術長心得/横工廠艤装員
明45(1912). 4. 1 河内砲術長心得
大元(1912).12. 1 海軍中佐 橋立副長/砲術校教官
大 2(1913).12. 1 佐世保海兵団副長
大 3(1914).12. 1 河内副長
大 4(1915).12.13 大和艦長
大 5(1916). 2.10 労山指揮官
大 5(1916).12. 1 海軍大佐 利根艦長
大 6(1917).12. 1 周防艦長
大 7(1918).12. 1 敷島艦長
大 8(1919). 6.10 三笠艦長
大 8(1919).11.20 安芸艦長
大 9(1920).11.20 日向艦長
大10(1921).11.20 佐鎮附
大10(1921).12. 1 海軍少将 待命
大11(1922).12. 1 休職
大12(1923). 3.31 予備役
昭 9(1934).12.20 後備役
昭14(1939).12.20 退役
昭20(1945). 7.13 横須賀人事部軍事普及事務嘱託
昭42(1967).12.28 歿 (91)

http://homepage2.nifty.com/nishidah/px25.htm#r001

 

 

 

 母からは「石川のおじいちゃん」として伝えられた親族(母の父―私の祖父―である加来金升の妹の結婚相手)の海軍での軍歴である。

 こういう調べるとなるとメンドーなものが、既にネットにアップされているとなると、ちゃんとチェックしてみなきゃいかんなぁ…と思わされるのでありました。

 このデータから検索をかければ、その時々の乗艦の画像にもアクセス出来るし(註:1)、たとえば日露戦争時の乗艦も確認出来る。

 あらためて、近代史を身内の視線から捉えることが、図書館(と古書店)に通うしかなかった時代よりは、格段に楽になっていることがわかる。

 

 

 明治初年に若くして亡くなった(のでまったく有名じゃない)父方の絵描きの描いた作品が、ボストン美術館に収蔵されているという噂は以前から知ってはいたが、当人を主題とした論文(2010)があることも発見。フェノロサが日本滞在の最初期に出会った日本画家の一人でもあったらしく、フェノロサのセレクションとして収蔵されているらしいことも判明。

 

 

 

 

 父方と母方のそれぞれの近代が交錯する果てに私がいることが実感される。

 

 

 

【註:1】
 たとえば、私にとっては曾祖父となる尾形惟善が海軍で最初に乗り組んだ軍艦の画像にも簡単にアクセス出来た。

  日進丸(にっしんまる1869蘭国製)
  http://www.access21-co.jp/sinsaku/18gunkan.html

 なんと、三本マストの蒸気船!!であった。

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/04 23:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/200277/

 

 

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2013年1月23日 (水)

恐ろしき者の末

 

 『平家物語』の巻第八、「緒環」の章に登場する緒方三郎維義は、巳年にふさわしい人物かも知れない。

 

 「件の大蛇は日向国に崇められさせ給ふ高千穂の明神の神体なりとぞ承る」という言葉で「緒環」の章は終わるが、その「件の大蛇」の末裔とされているのが緒方三郎維義なのである(以下に本文を示す)。

 

 

  豊後国は刑部卿三位頼資卿の国なりけり`子息頼経朝臣を代官に置かれたりけるが京より頼経の許へ`平家は既に神明にも放たれ奉り君にも捨てられ参らせて帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり`然るを九州の者共が請ひ取つてもてあつかふこそ然るべからね`当国に於いては従ふべからず一味同心して九国の内を追ひ出だし奉るべき`由宣ひ遣はされたりければこれを緒方三郎維義に下知す`かの維義と申すは恐ろしき者の末にてぞ候ひける`たとへば豊後国片山里に女ありき`ある人の一人娘夫も無かりけるが許へ男夜な夜な通ふほどに年月も隔たれば身もただならずなりぬ`母これを怪しんで`汝が許へ通ふ者はいかなる者ぞ`と問ひければ`来るをば見れども帰るを知らず`とぞ云ひける`さらば朝帰りせん時印を付けて見よ`とぞ教へける`娘母の教へに随ひて朝帰りしける男の水色の狩衣を着たりける首上に`賤の緒環`といふ物を付けて経て行く方を繋いで見れば豊後国に取つても日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる`女岩屋の口に佇んで聞きければ大きなる声してにえびければ`御姿を見参らせんが為にわらはこそこれまで参つて候へ`と云ひければ`我はこれ人の姿にはあらず`汝我が姿を見ては肝魂も身に添ふまじきぞ`孕める子は男子なるべし`弓矢打物取つては九州二島に並ぶ者あるまじきぞ`とぞ教へける`女重ねて申しけるは`たとひいかなる姿にてもあらばあれ日比の誼いかでか忘るべき`ただ見参せん`と云ひければ`さらば`とて岩屋の内より臥丈は五六尺ばかりにて跡枕へは十四五丈もあらんと覚ゆる大蛇にて動揺してぞ這ひ出でたる`女肝魂も身に添はず召し具したる十余人の所従共喚き叫んで逃げ去りぬ`首上に刺すと思ひし針は大蛇の喉笛にぞ立てたりける`女帰つてほどなく産をしたりければ男子にてぞありける`母方の祖父`育てみん`とて育てたれば未だ十歳にも満たざるに背大きう顔も長かりけり`七歳にて元服せさせ母方の祖父を`大太夫`といふ間これをば`大太`とこそ付けたりけれ`夏も冬も手足に皹隙なく破れたりければ`皹大太`とこそ申しける`かの維義は件の大太には五代の孫なりける`恐ろしき者の末なればにや国司の仰せを院宣と号して九州二島に廻文をしたりければ然るべき者共維義に皆従ひ付く`件の大蛇は日向国に崇められさせ給ふ高千穂の明神の神体なりとぞ承る
     (http://www.koten.net/heike/gen/117.html

 

 

 本文から抜き書きすれば、

 

  ある人の一人娘夫も無かりけるが許へ男夜な夜な通ふほどに年月も隔たれば身もただならずなりぬ

 

 つまり、ある人の独身の娘のところへ夜な夜な訪ねて来る男がいて、やがて娘を妊娠させてしまう。

 

  母これを怪しんで`汝が許へ通ふ者はいかなる者ぞ`と問ひければ`来るをば見れども帰るを知らず`とぞ云ひける`さらば朝帰りせん時印を付けて見よ`とぞ教へける`娘母の教へに随ひて朝帰りしける男の水色の狩衣を着たりける首上に`賤の緒環`といふ物を付けて経て行く方を繋いで見れば豊後国に取つても日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる

 

 で、娘は母から男の正体を問われるが、「来るをば見れども帰るを知らず」としか答えられない。そこで、母が「朝帰りせん時印を付けて見よ」と言うので、それに従い辿って行くと「日向境優婆嶽といふ嵩の裾大きなる岩屋の内へぞ繋ぎ入れたる」という展開となり、男の正体が「十四五丈もあらんと覚ゆる大蛇」であることが判明する。

 

 やがて娘は無事に出産し、その「五代の孫」が緒方三郎維義ということになる。

 

 

 

…で、その先、何代の孫になるのかは知らないが、私にはその血が流れている、ということになっている(註:1)のでありました。

 

 

 

【註:1】
 母方の祖母の父の名が尾形惟善(おがたこれよし)で、緒方三郎維義の末裔ということになる。尾形惟善は明治の草創期からの海軍軍人で、佐世保鎮守府艦隊司令官まで務めた人物(海軍少将)であった。
 その話の印象(海軍軍人のルーツとしての武将)が強くて、緒方三郎維義を母方の母方の祖としてだけ認識していたのだが、あらためて調べてみると母方の祖父の家系(加来)もルーツは一緒だということが判明。
(→ http://www.kaku-net.jp/kakuh/index.html

…ということは、つまり、「夜な夜な女性を訪ねて妊娠させた大蛇の末裔」の血が、私の半分を構成していることが明らかになったわけで、大蛇の血はこれまで思っていたより濃いいらしい。

 ついでに父方の話をしておくと、小田原藩の下っ端の武士(つまり当時のサラリーマンというか公務員)であったらしい。少なくとも文化文政期には江戸詰めの生活をしていて、大田南畝(蜀山人)なんかと遊んでいた話が伝わっている。

 ペリーが来た時には、上役について江戸城の会議に…という話を聞いた覚えもある。

 で、幕末(文久)になって先祖代々の墓を麻布の寺に移し、これで完全に江戸のシティーボーイ化(…と言う間もなく、江戸は東京になっちゃったけど)。

 つまり、江戸のシティーボーイ家系と緒方三郎維義の末裔が一緒になって、現在の私がある、ということになるらしい。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/03 22:51 → http://www.freeml.com/bl/316274/200252/

 

 

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2013年1月 1日 (火)

リュゥトゥダビィ~ (龍頭蛇尾 年賀状 2013年版)

 

 無事に年も明けて(実際には「都市喪明けて」という、「無事」ではなさそうな変換で明けてしまったのだが)、お正月となりました。

 

 今年の年賀状でございます。

 
 

賀状2013

 

 

…という出来上がり(ただし、これは住所連絡先抜きのネットバージョン)。

 

 本文に何と書いてあるかというと…

 

                 【龍頭蛇尾~】
                 リュゥトゥダビィ~
     想像上の生物として知られているが、現在でも目撃談は絶えない。
         「大言壮語」と呼ばれる幼生が脱皮を繰り返すことで、
            「龍頭蛇尾~」の成獣となるのだとされるが、
     脱皮の度に身体が萎縮・小型化していくのが特色とも言われている。
   昭和10年代後半には「ハッコーイチウ」や「エーベーゲキメツ」などと鳴き騒ぎ、
  近年では「コーシキサンパイ」や「ケンガイイセツ」といった鳴声で世間を騒がせた。

 

…という(いつもながらのしょーもない)お話。

 

 

 辰年の次は巳年ということで、今年は「龍頭蛇尾」に決定!

 ヘビネタということで最初は「蛇足」も考えたのだけれど、イマイチまとまらず、そのまま12月28日になってしまい「龍頭蛇尾」に絞り込み、29日の明け方にかけて文章を練ったり、全体のバランスをいじったり…で、29日の夜にデザイン的にはフィニッシュ。

 

 ちなみに「龍頭蛇尾~」の「~」になってるのは、

 

ヘビ

 

 ↑

こんなヤツの「尾」でございます。

 「大言壮語」の成獣も、これくらい立派な「蛇尾」なら…と思わせぬでもないですけどね。

…というわけで、本年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2013/01/01 06:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/200195/

 

 

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