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2012年12月10日 (月)

外交の自主性の確保と軍事力保有の有効性の関係

 

 私達は毎日、「北朝鮮による事実上のミサイル打ち上げ」について報道するテレビ画面の衛星画像を通して、北朝鮮国内のミサイル発射場の発射準備作業の進行状況を観察しているわけである。

 ここに21世紀における軍事力のあり方を見ておくことも、無駄ではないだろう。

 

 各国は軍事偵察衛星を保有し、相互に地上の軍事上の重要な変化の詳細を把握しているわけである。国家による軍事偵察衛星の運用にとどまらず、民間の保有する衛星の提供する情報により、地上における軍事的変化は、民間人である我々にさえも(テレビ画面やPC画面を通して)確認が可能なのである(註:1)。

 つまり、「真珠湾」が再現されることはないのだ。もちろん、現在においても「軍事機密」は存在する。しかし、かつてのように、国境線が、「軍事機密」としての軍の配置の変化の隠蔽に役立つ時代ではなくなったのである。

 

 軍事的攻撃の意図(それは軍の配置の変化として表現されてしまう)は、宇宙から検証されてしまい、奇襲攻撃の可能性は失われてしまったのだ。現在では、奇襲攻撃による国境線の侵犯による国境線の変更は、ほぼ不可能なものと言える。

 第二次世界大戦は占領統治のコストという問題(リスクが利益を上回るのである)としても経験され、軍事的侵略による国境線の変更は時代遅れの発想として理解されているのが現状である。しかも、先進国は相互に経済的依存関係にあり、先進国間の戦争は経済的損失を生み出すばかりなのである。国家間戦争の選択は、経済的利益の喪失に結びつくものとして理解されるに至ったということであるし、国家間の全面戦争を前提とした無制限な軍備増強は国家経済を崩壊させ得ることも、既にソ連邦の歴史が示している(北朝鮮における「先軍政治」の帰結も現在進行中の国家経済崩壊の事例である)。

 かつてのような形式での先進国における国家間戦争の可能性は失われてしまった、ということなのである。軍事的緊張状態の創出は、むしろ統治権力への求心力を確保するための国内向けのパフォーマンスとして位置付けた方が、リアリズムに基づく政治過程の理解として現実的である(それは双方の統治権力の利益に結びつく)し、軍事的緊張の創出を国家間関係の問題として考えれば、外交的利益の確保のための威嚇・恫喝手段としての機能(つまり外交上の演出である)に注目する方が、リアリズムに基づく国際政治過程の理解として適切なものに思われる。

 

 

 現在における軍事力保有の意味は、外交における威嚇の手段として考えるべきであるし、外交における威嚇の手段として軍事力を保有する国家に対する外交の自主性の確保のための軍事力保有として考えるべきであろう。

 現に、外交における威嚇の手段として保有する軍事力を活用する国家が存在する以上(尖閣の問題は日中の二国間問題にとどまるものではなく、南沙諸島をめぐるベトナム及びフィリピンを相手にした中国外交の覇権主義的展開と連動したものであるし、その中国外交は米国の保有する軍事力の外交上に果たす意味から多くを学んだものであるはずである)、そのような外交手法の無効化のための対抗的軍事力保有という選択は、自国の外交の自主性の確保の上で合理的なものである。 

 もちろん、ここでの課題は外交の自主性の確保なのであり、軍事力保有とその強化が自己目的化されてしまえば、あるいは保有する軍事力を外交上の威嚇の手段として考えるようになってしまえば、それは本末転倒な話と評価せざるを得ないことになる。軍事的緊張の創出が軍事衝突の現実化として帰結してしまえば、その時点で、リアリズムに基づく政治過程としての外交は失敗なのである。軍備増強の自己目的化は、そのような事態を招くものとなりかねない。外交的リアリズムにまず求められるのは自己抑制能力なのである。

 そもそも軍事力の行使による二国間の外交案件の解決は現代の国際法秩序に反するものとなっているのであり、外交的威嚇の手段を超えての実際の軍事力行使の可能性は小さなものなのである。米国でさえ、単独での軍事力行使ではなく、たとえばイラクでは多国籍軍の形式を採用していた事実の意味は大きい。米国による軍事力行使でさえも、国際社会の同意という見かけを必要としているのである。

 我々が対処を迫られているのが、基本的に(軍事的侵攻のための軍事力ではなく)外交的威嚇の手段としての軍事力を保有する国家の存在なのであるとすれば(註:2)、実際問題としては、軍事衝突の現実化を想定しないところでの外交的課題という話になってしまうわけである。しかも各国共通の少子化局面は、国民が戦死者の発生を歓迎しない状況にあることを意味する(一人息子の戦死は、父母にとって忌むべき話なのである)。そのように考えれば、外交の自主性の確保の基盤としての軍事力保有の必要性を認めるにしても、全面戦争を勝ち抜くような軍事力保有の必要はないという事実にも思い至るはずである(その意味でも、軍備増強の自己目的化は誤りなのである)。もちろん、非武装を選択した上で外交を展開する道も存在するが、非武装状態への国民の不安感の払拭という課題を説得力をもってクリアしておく必要がある。

 

 

 私の右側にいる人々には、軍事力保有が外交上の威嚇の手段としてイメージされ、かつ自己目的化されてしまっている印象があるし、私の左側にいる人々には、外交の自主性の確保の手段としての軍事力保有という政治的リアリズムへの想像力が存在しないように思われる。

 重要なのは外交における政治的リアリズムであり、政治的リアリズムに基づく外交の展開である。軍事力の保有とその増強が政治的に稚拙な外交を補完することはないし、国際社会における理想の追求も、政治的リアリズムの裏打ちがなければ実現を見ることはないのである。

 非武装の選択は、外交における、より高度の政治的リアリズムを必要とするはずである。

 非武装を主張するのであれば、非武装が理想状態であるから非武装を選択するということではなく、非武装が現実的であるから非武装を選択することを、希望的観測や願望ではなく政治的リアリズムの帰結として示すことが、まず求められるのである。

 

 

 

【註:1】
 その後、「打ち上げ延期情報」の取り扱いをめぐり、偵察衛星情報の信頼性に疑問符を付すような議論もされたが、それは情報の解釈の妥当性の問題であって、実際には打ち上げは瞬時に把握され、軌道は追尾され、必要ならば撃破されていた事実は無視されるべきではない。(2012年12月16日追記)

【註:2】
 ここでは中国と北朝鮮の軍事力の評価が問題となっているわけだが、近年の中国による海軍力の増強とその覇権主義的展開は明らかであるし、北朝鮮による核開発とロケット技術の軍事転用の構図も明らかである。

 ただし、中国も実際の軍事衝突を前提とした攻撃的軍事力として海軍力を増強しているというよりは、外交的威嚇の手段としての軍事力保有という側面が強いように思われる。
 北朝鮮についても、北朝鮮の関心の焦点は現体制の継続の確保にあり、通常兵器であれ核兵器であれ、その攻撃的使用は現体制の継続には役立つものではないことは(彼らの現実主義において)自覚されているはずである。その意味で、北朝鮮の保有する軍事力も攻撃的な性格において評価することは適切ではなく、現体制継続の保障手段として理解する方が妥当であろう。北朝鮮の発信する言葉は確かに攻撃的であるが、実際に攻撃的に軍事力を使用してしまえば、それは現体制の終焉をのみ意味するものとなってしまうのである。

 そのように理解すれば、中国にせよ北朝鮮にせよ、必ずしも、日本に対する現実的な軍事的脅威として考える必要はない。両者共に、外交的威嚇の手段としての軍事力保有として位置付けておくことで、より現実的な外交の展開も可能になるはずである。
 もちろん、軍事力の保有は外交の威嚇手段としてであるだけではなく、外交の自主性の確保の手段としても(そのための防衛力としても)機能するし、望むならば攻撃的使用も可能なものである。
 しかし、あくまでも、保有する軍事力の攻撃的使用への誘惑への遮断が、外交の役割であり政治の果たすべき機能ということなのである。(2012年12月16日追記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/12/07 22:05 → http://www.freeml.com/bl/316274/199654/

 

 

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