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2012年12月26日 (水)

資産家の息子

 

 私の母方の祖父について、

 

  …、明治十八年大分県に生まれ、父政太郎は恵良家より養子に入り、母サダは中津の恩田家より嫁している。素封家で、「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かないし、サダさんは、ハトの肉しか食べないそうな」と噂されたという話が残っているように、カンガルーの皮のように軽くてやわらかい靴しか履かず、ハトの肉のようなやわらかい肉しか食べないとの例え話で、その優雅な生活が想像される。福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族であったようだ。
     林和代 『「斜陽」の家 雄山荘物語』 (東京新聞出版局 1994)

  

…なんて書いてあるのを読む。

 (私にとっては曽祖父である)政太郎の「政太郎さんはカンガルーの靴しか履かない」という噂、それもそれが明治十年代の話であることに、ちょっと驚いたりする。私の履いているのは、基本的に牛革の靴である。

 「福沢諭吉の同世代の文明開化に啓蒙された見本のような、大分の一族」とあるが、実際に福沢諭吉のことを「ゆきっつぁん」と呼んでいたりするような「一族」であったらしい(それは母から聞いた)。

 庄屋・名主という種類の出身階層が、明治以降にも富裕な生活に結びついていた、ということのようである。祖父に嫁いだ相手(つまり祖母)も、こちらの先祖は『平家物語』(「緒環」の章)にも登場するような家で、祖母の父は明治の草創期海軍に参加し将官にまでなっている。

 祖父の姉妹の嫁ぎ先にも海軍将官がいたりするので、文明開化的であると同時に富国強兵的風潮からも無縁ではなかった一族なのであろう。

 

 

 その祖父は、応用化学畑から写真技術へと進み、美術印刷会社を設立・経営するに至る(註:1)。先の本には、

 

  美術印刷が主な仕事であったらしく、画集、写真集などたくさんあるが、大正十五年に発行されている『明治大帝御写真帖』は部厚い大変立派なもので、明治天皇から後の昭和天皇までの皇族のすべて、明治維新後の歴史的な事、天皇ゆかりの宝物から、めのと(乳母)に至るまで皇族のことが網羅されており、カラー印刷の立派な本である。

 

…なんて書いてあるが、「美術」というインターナショナルでもあるジャンルを手掛ける一方で、『明治大帝御写真帖』(こちらは単に印刷の請負ではなく出版元となっている)のようなナショナリズムにつながる系譜の仕事もこなしていたわけである。

 

 文明開化と富国強兵が共存していた世界の話である。それは富国強兵が支えた文明開化でもあった。

 

 

 

 父方の家は、小田原藩の下級武士階層だったようだが、江戸詰めになり文人生活化の道を辿ったらしい。蜀山人と交わした手紙が残されていたという話があるから、ま、江戸の都市生活を文人的に楽しんでいた公務員(武士)ということになるのであろうか。一族の中には文人的生活の延長として(?)絵画の世界の住人となった人物もいるようで、明治期の勧業博覧会の類で入賞した話を聞いた覚えもある(作品はボストン美術館収蔵品にもなっているらしい)。

 父方の祖父は若くして亡くなった(註:2)らしいが、日銀勤務であったというので、こちらは公務員家系の一員として文明開化の一翼を担ったことになる。

 ま、私は(父方で言えば)公務員系列ではなく文人系列の血を受け継いでしまったらしい。

 

 

 母方の祖父の話に戻ると、

 

  戦時中も従軍画家の画集や陸軍大将の写真集など軍事色の濃い仕事が増えていたが、四百名もいた従業員が次々と出征してしまい、技術者の人手が足りなくなって会社を継続するのが困難となり、凸版印刷に技術も会社もすべて譲ってしまった。

 

…という戦時生活を経験することになる。その影には統制経済体制の進行による会社合同があるだろうし、戦時利得という形式の金儲けに向かない当人の気質もあったのかも知れない(註:3)。

 

 いずれにしても、明治から戦前期昭和までは「カンガルーの靴しか履かないし、ハトの肉しか食べないそうな」と言われた一族も戦争ですべてを失い、今では相続財産とも金儲けとも縁のない世代が跡を継いでいるような状況である。

 

 

 

 宮澤賢治の場合は、その出自が農村社会の中での質屋という家業であったことが、彼の人生に大きく影を落としていることを感じさせるが、同じ戦前期の資産家階層であっても私の祖父の姿からは賢治のような負い目は感じられない。

 

 文化学院の創設者であった西村伊作もまた、継承した莫大な資産をその事業の原資としているわけだが、西村伊作にも賢治的な形での負い目は感じられない。伊作の場合は山林地主としての資産であることが、賢治的な負い目から身を離すことにつながっているように思われる(農民からの直接的搾取により資産形成をしたわけではない)。

 もっとも七歳時の濃尾地震で(目の前で)両親を失ったことが、資産継承の機縁であった(母方の祖母の家の相続者となった)こと。敬愛していた叔父の大石誠之助が大逆事件で連座させられ処刑されたことは、伊作を単なる金持ちの道楽息子として考え、文化学院の事業を金持ちの道楽として捉えようとする類の視点から私たちを遠ざける(註:4)。

 

 

 賢治の場合、単に資産家の家庭に生まれたという問題なのではなく、質屋という家業の落とした影が、大きく彼の人生を決定付けてしまった。

 そのように考えるわけだが、彼の自然科学的な文学的な宗教的な資質の基本は、彼自身のものであったはずである。質屋の息子であるということだけでは、彼の作品は存在し得ないのである。

 

 

 

【註:1】
 その後に判明したところによれば、

 東京高等工業学校 工業図案科選科
 明治41年(1908)7月入学 明治42年(1909)7月卒業

 明治44年(1911)~大正7年(1918) 九州帝国大学工科大学・応用化学教室 助手

 大正14年(1925)~アサヒ印刷所(東京)を設立・経営

…というのが経歴をめぐる事実関係の詳細のようであるが、調べて下さった未知の方(小野一雄氏のブログによる)には頭が下がる。
(より詳しくは→ http://blog.zaq.ne.jp/kazuo1947/article/459/)。

 この「アサヒ印刷所」の仕事をめぐって私が母から聞いていたことの一つに、出版社「アルス」の北原鉄雄(白秋の弟)との親密な関係がある。

【註:2】
 あらためて確認したところ、父方の祖父が亡くなったのは大正7年、父が18歳、父の妹が8歳、弟はまだ6歳の時点であった。

【註:3】
 1942(昭和17)年に日本印刷文化振興会から刊行された『講演と座談会の報告書』(昭和17年上半期会報)には、「印刷統制の現状を語る会(鈴木正文,加来金升両氏をかこんで)」なる記事が掲載されているようである(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000684488-00)。まだ戦勝気分に覆われた時点での「講演と座談会」と位置付けられるが、当人の時局意識(大東亜戦争観)を窺う上でも興味深い資料となりそうである(目を通す機会を作りたいと思う)。

【註:4】
 あらためて調べてみると、西村伊作が明治17(1884)年生まれで、私の祖父(加来金升)が明治18(1985)年生まれ。宮澤賢治は明治29(1896)年生まれであった。
 賢治の没年(37歳)である昭和8(1933)年には、西村伊作は49歳、祖父は48歳という関係になる。

 西村伊作は戦前の自由主義の代表格のような人物だが、祖父の立ち位置がどうであったかは(今のところ)よくわからない。
 ただ、母の小学校時代の恩師が小林宗作で、母は小林宗作への尊敬の念を最後まで語っていた。この小林宗作こそは黒柳徹子のトモエ学園時代の恩師であり、大正自由教育運動の推進者の一人であったわけで、そのように母を育てたのも祖父だ、ということにはなる。
 祖父の仕事としては陸軍美術協会関係の出版物もあるし、海軍関係の親戚もあるわけで、大日本帝國の国策を受け容れていたであろう可能性は考えられるが、祖父に育てられた子供たちの気質を見ると、大正デモクラシーの良質な部分を感じさせられもする。

 私の場合、父が五十代、母が四十代での生まれなので、周囲の遊び友達の両親とは一世代分のズレがあった。私の祖父は、普通なら曽祖父に相当する年代の人間である。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/12 00:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/188704/

 

 

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