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2012年9月29日 (土)

南京事件否定論への視点 3 松井石根の涙(俘虜の取り扱い)

  

 南京攻略戦時の司令官であった松井石根陸軍大将自身の、南京事件(いわゆる南京大虐殺)についての認識を考える際に、松井自身の言葉とされる、

 

 

 南京事件ではお恥しい限りです。……私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った。
 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。
     花山信勝 『平和の発見』 (朝日新聞社 1949  ただし引用は秦郁彦『南京事件』による)

 

 

…をどのように考えるのかは重要な論点のひとつであろう(この松井の「南京事件」をめぐる言葉については以前にも取り上げているが、今回は別の視点からの考察を試みる。「 南京事件否定論への視点 1 松井石根の涙 」も参照のこと )。

 

 

 松井石根はここで、東京裁判(極東国際軍事裁判)での死刑判決を積極的に受け入れているのである。つまり、裁判で問題とされた南京での出来事(もちろん、そこでは「虐殺」と呼ばれるに値する行為の有無が問題の焦点となる)に関して、それが自身の死に値するものとの認識を表明していることになる。松井にとって、判決は不当なものではなかった。

 

 教誨師としての花山の伝える松井の言葉の前半部分には、

  南京事件ではお恥しい限りです。……私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

…とあるわけだが、「南京事件ではお恥しい限りです」との松井の評価の理由として示されているのが、 

  日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

…との認識であり、そこでは「俘虜の取り扱い(=捕虜の取り扱い)」が問題の焦点となっている(その背景として、松井は師団長クラスの質的劣化を指摘している)。「その他」として何が想定されていたのか、あるいは後の段落にある「兵の暴行」とは誰に対するものであったのかについては必ずしも明確ではないが、少なくとも南京攻略戦時の「俘虜の取り扱い」に問題があり、その問題は松井にとって死刑判決を積極的に受け入れざるを得ないほどに大きなものであったことは明らかである。詰まるところ、それは、俘虜(捕虜)の殺害行為の有無の問題であり、その規模の問題であった。後述するように、俘虜(捕虜)に対する殺害行為は現実のものであり、その規模の大きさが、松井の積極的な死刑判決受け入れの背景になっていると考えられる。

 

 もっとも、「兵の暴行」の内実に関しては、

  折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった

…という松井の認識に対して、

  日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた

…との評価を対応させると、松井が示しているのは南京攻略戦時には、

  俘虜の取扱い、その他

…に関し問題があったという認識であり、それが、

  あの兵の暴行

…として示されていることになる。そして、その「兵の暴行」は、自身の死刑に相当するものとして松井により位置付けられていると考えることも出来る。

 しかも師団長レベルで、「兵の暴行」が「当たり前」のこととして処理されていたという事実は、「兵の暴行」(その内容が何であれ)が偶発的な一過性かつ局所的な少数の出来事ではなく、ある程度の広がりを持った出来事であったことを語るものとなるであろう(「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った」というのは、慰霊祭参加者の証言によっても裏付けられる南京攻略戦終了直後のエピソードであり、つまり東京裁判の結果としてもたらされた松井の認識ではない)。

 また、松井が語っているのは「便衣兵」の問題ではなく「俘虜の取り扱い」上の問題であることは見落とされるべきではない(「便衣兵」の問題については、「 南京事件否定論への視点 2 便衣兵の姿 」も参照のこと)。

 「虐殺」の対象が俘虜(捕虜)ではなく便衣兵であったことが、南京事件における「虐殺正当化論」の根幹となっている現状があるが、松井が語っているのは、南京攻略戦時における「俘虜の取り扱い」の不当さが自身の死刑に値するものであったとの認識なのである。便衣兵の存在は確かに松井を悩ませたであろうが、しかし、松井は便衣兵の存在を理由に日本軍の行動を正当化することではなく、日本軍における「俘虜の取り扱い」の不当性を理由に、死刑判決を正当なものとして受け入れているのだ。

 
 

 南京攻略戦を含む支那事変時の「俘虜の取り扱い」の問題の背景にあるのは、そもそもそれが「事変」であり「戦争」ではないという日本の立場(国民政府側もそれを容認していた)であり、その立場の帰結として、降伏した中国軍人兵士を戦時国際法上の「俘虜(捕虜)」として取扱わないというのが、事変当初からのの支那派遣軍の基本的方針だったのである。「事変」だからハーグ陸戦法規の適用除外だという論理なのである。

 その日本の立場からすれば、ハーグ陸戦法規の俘虜(捕虜)に関する規定を理由に、便衣兵=非合法論を主張展開した上で、便衣兵殺害を正当化するのはそもそも論理的に整合性を欠いた行為となってしまうことは覚えておいた方がよい(註:1)。

 実際問題として、陸軍省においても、

 

 「陸軍省法務局にては、(略)現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない」(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月編纂)。
     北博昭『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』(中公新書 1994)

 

…との認識だったのである。

 

 

 ここで、南京攻略戦時における俘虜(捕虜)殺害の実行者(命令者)の一人とされる第十六師団長の中島今朝吾の日記の有名な一節を見ると、

  

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ  斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
     中島今朝吾日記 (昭和12年12月13日)

 

…として、当時の状況が記されている。

 注目点は、

 

  現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月)

  大体捕虜ハセヌ方針ナレバ(中島今朝吾日記 昭和12年12月13日)

 

…という両者の照応関係であろう。 中島今朝吾は、「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害を明確に指示しているのである(ここで殺害されたのは「便衣兵」などではない)。

 中島今朝吾は、

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ

…という顛末で、(便衣兵ではなく)「軍の羈絆内に在る支那軍人」への対応として、

  片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル
   ↓
  之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ

…という経過で、片付クル=殺害したことになる(「大ナル壕ヲ要」するのは死体処理の問題があるから)。彼の指揮下で殺害されたのは「軍の羈絆内に在る支那軍人」で、これは「便衣兵」ではない以上、「便衣兵」問題は南京事件(虐殺)の正当化の論拠としては成立しないのである。

 

 俘虜(捕虜)殺害の問題に関しては、

 

     午後二時零分聨隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
       左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ、其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
     (第百十四師団所属の歩六六連隊第一大隊戦闘詳報 昭和12年12月13日)

 

…との記録もある(これは、中島今朝吾の第十六師団が上海派遣軍所属だったのに対し、第十軍所属の部隊なので指揮系統が異なる点に留意すること)。

 つまり、俘虜(捕虜)の殺害処理は第十六師団長中島今朝吾の独断ではなく、南京攻略戦参加部隊に、ある程度は共有されていたものだということになる(この大隊は、「銃殺」ではなく「刺殺」という形で命令を実行した)。いずれにしても、ここでも、殺害されたのは「軍の羈絆内に在る支那軍人」であり、「便衣兵」であることが理由で殺害されたのではない。

 

 
 その背景となっているのが、

  陸軍省法務局にては…現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月)

…との、「軍の羈絆内に在る支那軍人」をめぐる陸軍省法務局の見解(つまり法的位置付けの問題である)であり、それが現地戦闘部隊の間で、

  大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル(中島今朝吾日記 昭和12年12月13日)

  旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ(第百十四師団所属の歩六六連隊第一大隊戦闘詳報 昭和12年12月13日)

…として理解された結果(現場での実務的対応の問題である)、第百十四師団でも、

 

 各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ概ネ午後七時三十分刺殺ヲ終レリ 聨隊ニ報告ス
     (歩六六連隊第一大隊戦闘詳報の続き)

 

…という顛末となってしまったのだと考えられる。陸軍省法務局の示したのは「現下軍の羈絆内に在る支那軍人」の法的地位に関する見解に過ぎないが、

  現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、…法律上、之を俘虜と解して居ない
     ↓
   大体捕虜ハセヌ方針ナレバ
     ↓
    片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル
    捕虜ハ全部殺スベシ

…という形で現場での対応への問題へと転化し、法的地位に関する見解が「捕虜ハ全部殺スベシ」との方針として解釈され、最終的に現地の戦闘部隊によって実行されてしまったという構図である(その構図を支えたもののひとつが師団長クラスの質的劣化であった)。

 

 

 

 詰まるところ、松井の示した南京事件における「俘虜の取り扱い」に関する問題とは、派遣軍の師団レベルで実行されてしまった俘虜(捕虜)の殺害の問題なのであった。松井が俘虜(捕虜)の殺害を命令したわけではないが、中支那方面軍司令官としての責任を考慮すればこそ、東京裁判での死刑判決を積極的に受け入れていることになるのではないか?

 そもそも、首都南京陥落=蒋介石降伏という松井石根の甘い見通しから、政府・軍中央の不拡大方針を無視した首都攻略戦は開始され、その後の事変の泥沼状況と対米英開戦を招いてしまった。この松井の誤判断が日本の敗戦に至る過程の最大の要因のひとつであることは否定し難い。松井の軍人としての誠実さを考えれば、その責任は十分に感じていたであろう。

 松井の責任を重んじる誠実な人柄を前提とすることで、松井の東京裁判における死刑判決の積極的受け入れの事実が、南京における相当規模の俘虜(捕虜)殺害(ここでは民間人の大規模殺害の有無は問わない)の事実を反映したものとして理解されることになるのである。

 松井の語った、

  従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。

…という言葉の重さを考えれば、そしてその言葉に真摯に応えようとするならば、「南京事件否定論」を主張することは誤りであろう。積極的に死刑判決を受け入れた松井の高潔な態度にわざわざ泥を塗るようなものだ。

 もちろん、松井が無責任で不誠実な人間であったというのであれば(あるいは勝者の裁きに迎合するようなタイプの軍人であったというのであれば)話は別であるし、花山信勝がどこまで松井の言葉を正確に伝えているのかという問題も残る。

 しかし、花山が記録した松井の言葉に導かれて、南京事件での「俘虜の取り扱い」の問題の内実を検証した結果、花山の伝える松井の言葉の当否にかかわりなく、南京攻略戦時の俘虜(捕虜)殺害の事実が明らかなものとして浮上することになった。つまり、既に問題は、花山の伝える松井の言葉が正確であろうとなかろうと、南京事件における日本軍による「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害の事実は否定し得ないと考えるよりない、ということなのである(ただし、これは、南京で三十万人が「虐殺」されたという主張の真偽とは別問題であり、「三十万人虐殺説」を受け入れることを意味しない)。

 

 

 また、南京事件の正当化の論法としての便衣兵論が成立しないという問題は、便衣兵の嫌疑を理由にした中国の軍民の殺害の事実を否定するものではない。

 今回は、俘虜(捕虜)殺害問題を焦点に論じてきたが、南京事件否定論(あるいは正当化論)としての便衣兵論者が主張するように、便衣兵として殺害された多数の中国軍民は存在するし、便衣兵論者が主張するように、そこには実際に多くの民間人も含まれていたことも確実であろう。便衣兵論は、むしろ論理的には、日本軍による民間人殺害の事実を認めたものとして機能してしまうのである。民間人に対する積極的な殺害とは言えないにしても、俘虜(捕虜)の殺害(つまり「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害である)の他に、便衣兵の嫌疑を理由にした、便衣姿となった「支那軍人」(軍服を脱ぎ便衣姿となり、武器も放棄した「支那軍人」を便衣「兵」して取り扱うことは適切でない)と、便衣兵と誤認された民間人の殺害の事実は(便衣兵論の帰結としても)否定し難いものとなるのである。

 つまり、南京事件の犠牲者には少なくない数の民間人も含まれることが、まず便衣兵論主張の帰結として導かれてしまうが、これはあくまでも便衣兵と誤認されての民間人殺害事例に過ぎず、最初から民間人を対象にした「兵の暴行」に関しては別に検証される必要があることは言うまでもない(その問題に関しては機会をあらためて取り上げることとしたい)。

 

 

 

【註:1】
 便衣兵論による南京事件正当化論に関しては、裁判抜きの「処刑」の国際法上の合法性の有無が論点のひとつとなっているわけだが、

「北支那方面軍軍律」
   第一条 本軍律は日本軍作戦地域内又は兵站地域内に在る帝国臣民以外の人民に適用す
   第二条 左に掲くる行為を為したる者は軍罰に処す
     一 日本軍に対する反逆行為
     二 間諜其の他日本軍の安全を害し又は敵に軍事上の利益を与ふる行為
「北支那方面軍軍罰令」
   第一条 本令は北支那方面軍軍律を犯したる者に之を適用す
   第二条 軍罰を分かちて死、監禁、追放、過料、没取とす
   第三条 死は銃殺とす
「北支那方面軍軍律会議審判規則」
   第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
   第七条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
     兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし
     但し緊急を要する場合は此の限に在らす
   第八条 軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ
     (北博昭 『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』 中公新書 1994   オリジナルの文言はカタカナ表記ということだが、引用した北の著書ではひらがな表記にしてある)

…といった当時の陸軍内の法的規定からすれば、陸軍内部でも裁判抜きの処刑が合法とされていたわけではない。「緊急を要する場合は此の限に在らす」との但し書きは、

  第一条
  軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す

…の条文には適用されないのであって、あくまでも、

  第七条
  軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
  兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし

…と規定された手続きの省略が、緊急性を要件として、認められているに過ぎないのである。つまり、裁判抜きの処刑は、「軍律会議審判規則」の条文による限り、そもそも認められていないのである。
 しかも、「軍律会議審判規則」の定めるところでは、

  第八条
  軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ

…とある以上、現地戦闘部隊による「処刑」は「軍律会議審判規則」の規定に違反した行為と言わざるを得ず、つまり二重の意味で便衣兵処刑の合法性は否定されてしまうのである。
 合法性を担保するためには、最低限、事後承認の手続きが必要となるはずだが、「便衣兵」の処刑後にそのような処理がされた話は聞かない。詰まるところ、国際法上の問題を云々する以前に、「軍律会議規則」の規定違反という陸軍法規上の問題が存在するということになる。
(2012年10月8日追記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/28 21:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/197520/

 

 

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>そもそも、首都南京陥落=蒋介石降伏という松井石根の甘い見通しから、政府・軍中央の不拡大方針を無視した首都攻略戦は開始され、その後の事変の泥沼状況と対米英開戦を招いてしまった。この松井の誤判断が日本の敗戦に至る過程の最大の要因のひとつであることは否定し難い。松井の軍人としての誠実さを考えれば、その責任は十分に感じていたであろう。
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これは、とんでもない誤解ですね.
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『海軍渡洋爆撃隊』
満州事変は、戦略的に見れば陸軍の大手柄でした.海軍は陸軍に対抗して、長距離を飛べる爆撃機を開発して、中国大陸を爆撃し戦争を行うことを考えました.当時、ロンドン軍縮条約で戦艦の規制を受けたこともあって、海軍は航空機の開発に力を入れました.そして、この目的の元に96式陸上攻撃機が開発され、海軍木更津航空隊と鹿屋航空隊が設立されました.
96式陸上攻撃機は山本五十六の肝いりで開発されたそうです.真珠湾攻撃の立案も山本五十六です.

北支事変に際して、海軍は陸軍を支援するために、1937年7月30日に天津方面に艦砲射撃を行っています.
それに先立つ、日中戦争開始直後の7月11日 戦火拡大に備え、日本海軍中央は即応準備令を発し、木更津空・鹿屋空の中攻主力で第一連合航空隊を編成し、司令部を木更津に置きました(16日に鹿屋空に転進).
更に8月8日には、木更津航空隊は大村(済州島)へ、鹿屋航空隊は台湾へ進出しました.(進出と同時に作戦行動に移る予定だったのが、台風により延期されたと言われています.)
大山大尉の事件は8月9日であり、その一日前に、海軍は渡洋爆撃の具体的な作戦行動を起こしています.
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『昭和12年度、第三艦隊作戦計画内安』(上海方面に配備された艦隊)
1.作戦目的
支那艦隊を撃滅すると共に、外征陸軍と協力し要地を攻略似て、支那を屈服せしむ.
2.作戦方針
第一期(作戦開始より陸軍主力揚陸まで)
開戦冒頭、全航空兵力を以て敵航空基地を撃滅し、敵首都を空襲す.
(以下略)
第二期(陸軍主力揚陸以降、南京攻略迄)
航空兵力はその大部分を以て陸戦に協力、その一部を以て首都空襲並びに、.....(鉄道沿線の)各要点を破壊す.
(以下略)
第三期(南京攻略以降)
南京を確保する
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『居留民の引き上げ』
漢口より上流の居留民は8月1日、漢口およびその下流の居留民は8月7日より引き上げ開始し、9日までに一部を除き上海に引き上げを完了した.
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南京攻略は、事前の海軍の作戦案に沿って、昭和天皇の希望によって行われました.

投稿: ルミちゃん | 2012年10月31日 (水) 13時04分

大本営設置
1937年11月5日の抗州湾上陸により、蒋介石軍は背走し上海戦の勝敗は決定しました.蒋介石が南京放棄、重慶遷都を決定した同じ頃の11月20日、日本は、勅令により法律を改正して、大本営を設置しました.
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(元になる文書は、スキャン原稿を文字認識ソフトで文書化しているので、文字化けがある可能性があります)
大本営設置せらる
陸軍省新聞班
上海方面に作戦中なる陸軍将兵に対し十一月二十日午後二時三十分幕僚長の宮殿下を召させられ優渥なる勅語を下賜あらせられた。
勅 語
上海方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ克ク海軍卜協力シ障礙ト抵抗トヲ擠排シ敵前上陸ヲ敢行シ交錯セル深濠連続セル
堅塁ノ間ニ勇戦激闘果敢力攻寡兵能ク敵ノ大軍ヲ撃砕シ以テ皇威ヲ中外ニ宣揚セイ朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ミス其ノ
敵弾ニ殪レ病瘴ニ仆レタル者ニ思ヒ及へハ惻愴殊ニ深シ惟フニ派兵ノ目的ヲ達シ東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト
前途尚遼遠ナリ爾等益々志気ヲ淬?冱シ艱難ヲ克服シ以テ朕ノ信倚ニ対へヨ
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私の解釈では、現地軍に対する勅語で天皇は以下のように言っています.
『戦争の目的を達成するのは、まだまだだ.なおいっそう奮闘し、困難を克服して朕の期待に答えよ』

大本営が設置されたのは、日清、日露戦争に続いて3度目のはず.なのに、単に設置されたという事実があるだけで、どの様な経緯で設置されたのか、全く情報がありません.
なぜ勝敗の決定したこの時期に、法律を変えてまでして大本営を設置したのか?
必要ならば、苦戦を続けていた時期に設置すべきのはずです.

それはさておき、なんのために設置したかと言えば、南京を攻撃するためであるのは疑う余地はありません.けれども、どこにも南京を攻撃しろとは書かれていないのです.他の所に書きましたが、『部下は上司が何を考えているか、それを考えて行動するものである』の、典型であると言えます.
現実には南京攻略は成功しましたが、もし失敗して日本が負けたとしたら、おそらく昭和天皇はこのように言ったであろうと思われます.
『自分は、長久平和のために戦えと言ったのであって、一言も南京を攻撃しろとは言っていない』
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12月1日、大本営は南京攻撃命令を下しました.同じ日に、蒋介石はトラウトマン工作に対して受諾の意思を表明しています.大本営の設置と合わせ、この事実から何が考えられるのか?

投稿: ルミちゃん | 2012年11月 3日 (土) 13時26分

第二次上海事変が勃発し、8月15日に海軍は、南京に対して渡洋爆撃を行いました.そして、陸軍の上海派兵も決定して、8月18日にはその準備も行われつつあります.

昭和天皇は1937年8月18日、閑院宮参謀総長に下問した。(陸軍参謀総長)
「いろいろな方面に兵を用いても戦局は長期化するばかりである。重点方面に兵を集中し大打撃を加え、我々の公明なる態度を以って和平に導き、速やかに時局を収拾する方策はないか」

『速やかに時局を収拾する方策はないか』と、天皇は聞いていますが、単に聞いただけなのでしょうか?
私の理解によれば、『海軍は、南京を爆撃して、蒋介石に大打撃を与えつつある.陸軍も(方策を考えて)南京を攻撃して大打撃を与えよ』、このように言ったのだ思います.現実に、陸軍は南京を攻撃することになります.
さて、この場合も、もし戦争に負けたとしたら、おそらく昭和天皇はこう言ったのではないでしょうか.
『私は、和平に導く方策はないかと聞いただけで、南京を攻撃しろとは一言も言っていない.南京攻撃は松井石根が勝手にやったことだ』
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昭和天皇の船津工作についての発言(嶋田繁太郎大将無題備忘録)
8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏。(軍令部総長)

「近衛首相の話によれは船津が上海にて内面交渉を行う由なるが、うまく行けば宜しいが、
若しこの条件にて支那が同意せさるなれは寧ろこれを公表し、
日本がかく公明正大の条件を出したるに支那同意せさるなりとせば、各国の世論も帝国に同情すへし。
 出来るだけ交渉を行い纏らされは止むを得ず戦うの外なし。
先日参謀本部の話に、長引く時に露を考慮するの必要上、支那に大兵力を用い得ずとの事なるがやれる丈けやるの外なし。
 陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に」

1937年7月の末、日本軍を北京進駐を果しました.この結果を受けて、7月29日、昭和天皇は『そろそろ講和を』と言い、その言葉に従って、石原莞爾は船津工作を始めました.
ところが、同じ7月29日、通州事件が起こり、午後になって、報告が天皇にも届きました.
一週間後の8月6日には、昭和天皇は、自分が言い出した舟津工作には期待していないのが分ります.そして、それだけではなく、陸軍に派兵を要請したけれど良い返事をしなかったので、海軍だけでもしっかりやれ、と言っています.
今一度書けば、8月6日に昭和天皇は、『海軍だけでもしっかりやれ』と言い、その二日後の8月8日、木更津航空隊、鹿屋航空隊は作戦行動を開始ししています.
これは、私の推察ですが、7月30日に通州事件の対応を、天皇は陸軍、海軍と協議したはずであり、その時海軍は、先に書いた『第三艦隊作戦計画内安』等の作戦計画に沿って南京攻撃を主張し、対する陸軍は派兵できないと言った.
『8月6日、支那沿岸および揚子江方面に於ける用兵関係にて上奏』は、揚子江沿岸の居留民の上海(および青島)への引き上げが完了し、かつ渡洋爆撃隊の出撃準備が完了したことを、嶋田繁太郎大将は報告に行ったのだと思われます.『陸軍も困ったものなるも、海軍のみにてもしっかりやる様に』と、天皇は言いました.
この場合も、天皇は『海軍の計画を了承しただけで、南京を攻撃しろとは一言も言っていない、南京攻撃は松井石根が勝手にやったことだ』と言うことになるのでしょうか?

投稿: ルミちゃん | 2012年11月 4日 (日) 08時25分

戦争責任の回避

第二次上海事変に際して、アメリカの中立法により軍事物資の供給が止まることを怖れて、宣戦布告をしなかったと言われています.では、なぜ大本営を設置しなかったのか?
蒋介石は8月初めに大本営を設置しています.対抗して日本も大本営を設置しても良さそうなのですが.

1.大本営を設置して戦争を行うと、もし負けたとき天皇の威光に傷が付く、ので、当初はやめにした.
2.11月16日、蒋介石は重慶遷都を決定した.戦局は敵から観ても日本の勝ち、誰から見ても日本の勝利は間違いないものになったので、11月20日、大本営を設置した.
3.大本営を設置したが、天皇の命令で攻撃命令を出して、もし南京攻略に失敗したら、天皇の威光に傷が付く、ので、勅語によって現地軍を煽り、現地軍が勝手に南京に進撃するように仕向けた.(現地では、参謀本部の武藤章が、一番乗りをして手柄を立てろと、各部隊の司令官を煽りました)
4.12月1日、南京が包囲され南京陥落は間違いないことになったので、蒋介石はトラウトマン工作に対して受諾の表明をした.南京陥落は誰から見ても間違いのないことになったので、大本営は南京攻撃命令を下した.
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皇族の朝香宮鳩彦王中将が、上海派遣軍の司令官として現地に派遣されていますが、これは天皇の名代と考えられます.戦争の勝利は天皇の功績であると言いたかったのでしょうが、朝香宮鳩彦王中将は無能で、南京での虐殺、略奪、放火、強姦を放置しました.
松井石根は、東京裁判で『南京事件は少ししか知らなかった』と偽証しました.花山教誨師に語ったように『2月の時点では良く知っていた』と証言したら、当然、朝香宮鳩彦に責任が及ぶことになりました.東京裁判は、検事も被告も、昭和天皇の戦争責任を回避するために、皆、偽証をしています.

投稿: ルミちゃん | 2012年11月 4日 (日) 08時32分

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