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2012年9月22日 (土)

低線量被曝問題の心理的基盤

 

 いわゆる「低線量被曝問題」に関する議論については

  ほとんどゼロに等しい(ので危険と考える必要はない)

…と言うことが出来る事象と、

  ゼロとは言えない(ので安全とは言えないんじゃないか)

…という心理的問題が絡み合い、冷静に問題把握することを余計に難しくさせているように思われる。

 

 この難しさの発生過程は、宝くじ購入を決定する心理的プロセスに似ていなくもない。宝くじで高額賞金が当たる確率はゼロに等しいが、ゼロとは言えず、人が考えるのは高額賞金当選時の賞金の使い道だけである。

 この場合、人は、

  ほとんどゼロに等しい(ので購入を考える必要はない)

…と考えるよりは、

  ゼロとは言えない(ので購入する価値がある)

…と、考えてしまうわけである。

 

 ただ低線量被曝の場合は、疫学的観点から(つまり統計的に)「ほとんどゼロに等しい」と言うことが出来るにしても、それは統計的に想定された平均的な人間にとっての「ゼロに等しい」という評価なのであって、平均から外れた生理的に過敏な個体にとってもまったく問題がないということを意味するわけではない。つまり、宝くじの高額賞金の獲得の可能性がゼロにはならないないように、自身が生理的に過敏な個体であるために健康被害の当事者となる可能性もゼロとはならないのである。宝くじの高額賞金を獲得することは当人にとって望ましい話であるが、被曝による健康被害の当事者となることは望まれる話ではない。

 生理的に過敏な個体が100万人に一人の確率で生じ、一方、低線量被曝の可能性のある人間が10万人規模である場合、問題をどのように処理することが正しいのか?(もちろん、確率が10万人に一人であったら、1万人に一人であったら…あるいは被曝規模の想定が1万人であったら、あるいは100万人であったら…という話として、「問題処理の正しさ」を考えてみるわけである)

 これはもはや物理現象を対象とする科学の問題ではなく、人間の心理の問題なのであり、政治的判断の領域に属する問題として位置付けるべきであろう。

 

 

 

 また、たとえばの話、いわゆる一酸化二水素の危険性評価問題として語られているように、

  一時間に100ミリリットルの水を飲んでも健康への影響を考える必要はない。

  一時間に1リットルの水を飲んでも健康への影響はないだろう。

  一時間に10リットルの水を飲んだら健康への影響を考える必要がある。

  毎時100ミリリットルの水を飲んでも健康上の問題はないが、毎時10リットルの水を飲んだら必ず死ぬ。

  毎時1リットルの水を飲み続ければ、健康は悪化し、死に至る。

  一日に100ミリリットルの水分摂取しかしなければ健康への悪影響がある。

  一年で100リットルの水分摂取しか出来ないとすれば、一年を待たずに必ず死ぬ。

…という言い方が出来るわけだが、まず、この関係(数値と単位の関係)を把握しないと、ただひたすら混乱することとなるが、実際にそのような種類の混乱が続いているという、困った現実があるわけだ。

 この場合、単純に「一酸化二水素(つまり「水」)が危険か安全か?」という議論をすることが無駄であることまでは理解されやすいが、「放射線の危険性」の程度を論じようとすると、多くの人間が「放射能は危険か安全か?」という単純な議論に終始することになってしまうのである。

 

 放射線量の数値をどのように評価することが妥当であるかを冷静に議論するためには、数値と単位の関係が生みだす意味が適切に理解されている必要があるが、その必要が満たされた上で(ネット上での)議論が展開されることは(残念ながら)かなり稀な出来事であるように見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/21 22:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/197116/

 

 

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