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2012年9月

2012年9月29日 (土)

南京事件否定論への視点 3 松井石根の涙(俘虜の取り扱い)

  

 南京攻略戦時の司令官であった松井石根陸軍大将自身の、南京事件(いわゆる南京大虐殺)についての認識を考える際に、松井自身の言葉とされる、

 

 

 南京事件ではお恥しい限りです。……私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。
 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまったと。ところが、このあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った。
 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。
     花山信勝 『平和の発見』 (朝日新聞社 1949  ただし引用は秦郁彦『南京事件』による)

 

 

…をどのように考えるのかは重要な論点のひとつであろう(この松井の「南京事件」をめぐる言葉については以前にも取り上げているが、今回は別の視点からの考察を試みる。「 南京事件否定論への視点 1 松井石根の涙 」も参照のこと )。

 

 

 松井石根はここで、東京裁判(極東国際軍事裁判)での死刑判決を積極的に受け入れているのである。つまり、裁判で問題とされた南京での出来事(もちろん、そこでは「虐殺」と呼ばれるに値する行為の有無が問題の焦点となる)に関して、それが自身の死に値するものとの認識を表明していることになる。松井にとって、判決は不当なものではなかった。

 

 教誨師としての花山の伝える松井の言葉の前半部分には、

  南京事件ではお恥しい限りです。……私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

…とあるわけだが、「南京事件ではお恥しい限りです」との松井の評価の理由として示されているのが、 

  日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

…との認識であり、そこでは「俘虜の取り扱い(=捕虜の取り扱い)」が問題の焦点となっている(その背景として、松井は師団長クラスの質的劣化を指摘している)。「その他」として何が想定されていたのか、あるいは後の段落にある「兵の暴行」とは誰に対するものであったのかについては必ずしも明確ではないが、少なくとも南京攻略戦時の「俘虜の取り扱い」に問題があり、その問題は松井にとって死刑判決を積極的に受け入れざるを得ないほどに大きなものであったことは明らかである。詰まるところ、それは、俘虜(捕虜)の殺害行為の有無の問題であり、その規模の問題であった。後述するように、俘虜(捕虜)に対する殺害行為は現実のものであり、その規模の大きさが、松井の積極的な死刑判決受け入れの背景になっていると考えられる。

 

 もっとも、「兵の暴行」の内実に関しては、

  折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった

…という松井の認識に対して、

  日露戦争のときは、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた

…との評価を対応させると、松井が示しているのは南京攻略戦時には、

  俘虜の取扱い、その他

…に関し問題があったという認識であり、それが、

  あの兵の暴行

…として示されていることになる。そして、その「兵の暴行」は、自身の死刑に相当するものとして松井により位置付けられていると考えることも出来る。

 しかも師団長レベルで、「兵の暴行」が「当たり前」のこととして処理されていたという事実は、「兵の暴行」(その内容が何であれ)が偶発的な一過性かつ局所的な少数の出来事ではなく、ある程度の広がりを持った出来事であったことを語るものとなるであろう(「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った」というのは、慰霊祭参加者の証言によっても裏付けられる南京攻略戦終了直後のエピソードであり、つまり東京裁判の結果としてもたらされた松井の認識ではない)。

 また、松井が語っているのは「便衣兵」の問題ではなく「俘虜の取り扱い」上の問題であることは見落とされるべきではない(「便衣兵」の問題については、「 南京事件否定論への視点 2 便衣兵の姿 」も参照のこと)。

 「虐殺」の対象が俘虜(捕虜)ではなく便衣兵であったことが、南京事件における「虐殺正当化論」の根幹となっている現状があるが、松井が語っているのは、南京攻略戦時における「俘虜の取り扱い」の不当さが自身の死刑に値するものであったとの認識なのである。便衣兵の存在は確かに松井を悩ませたであろうが、しかし、松井は便衣兵の存在を理由に日本軍の行動を正当化することではなく、日本軍における「俘虜の取り扱い」の不当性を理由に、死刑判決を正当なものとして受け入れているのだ。

 
 

 南京攻略戦を含む支那事変時の「俘虜の取り扱い」の問題の背景にあるのは、そもそもそれが「事変」であり「戦争」ではないという日本の立場(国民政府側もそれを容認していた)であり、その立場の帰結として、降伏した中国軍人兵士を戦時国際法上の「俘虜(捕虜)」として取扱わないというのが、事変当初からのの支那派遣軍の基本的方針だったのである。「事変」だからハーグ陸戦法規の適用除外だという論理なのである。

 その日本の立場からすれば、ハーグ陸戦法規の俘虜(捕虜)に関する規定を理由に、便衣兵=非合法論を主張展開した上で、便衣兵殺害を正当化するのはそもそも論理的に整合性を欠いた行為となってしまうことは覚えておいた方がよい(註:1)。

 実際問題として、陸軍省においても、

 

 「陸軍省法務局にては、(略)現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない」(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月編纂)。
     北博昭『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』(中公新書 1994)

 

…との認識だったのである。

 

 

 ここで、南京攻略戦時における俘虜(捕虜)殺害の実行者(命令者)の一人とされる第十六師団長の中島今朝吾の日記の有名な一節を見ると、

  

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中々実行ハ敏速ニハ出来ズ  斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ拠リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノカ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ
     中島今朝吾日記 (昭和12年12月13日)

 

…として、当時の状況が記されている。

 注目点は、

 

  現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月)

  大体捕虜ハセヌ方針ナレバ(中島今朝吾日記 昭和12年12月13日)

 

…という両者の照応関係であろう。 中島今朝吾は、「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害を明確に指示しているのである(ここで殺害されたのは「便衣兵」などではない)。

 中島今朝吾は、

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルモ千五千一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失イゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノノ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ

…という顛末で、(便衣兵ではなく)「軍の羈絆内に在る支那軍人」への対応として、

  片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル
   ↓
  之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ

…という経過で、片付クル=殺害したことになる(「大ナル壕ヲ要」するのは死体処理の問題があるから)。彼の指揮下で殺害されたのは「軍の羈絆内に在る支那軍人」で、これは「便衣兵」ではない以上、「便衣兵」問題は南京事件(虐殺)の正当化の論拠としては成立しないのである。

 

 俘虜(捕虜)殺害の問題に関しては、

 

     午後二時零分聨隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
       左記
イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ、其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
     (第百十四師団所属の歩六六連隊第一大隊戦闘詳報 昭和12年12月13日)

 

…との記録もある(これは、中島今朝吾の第十六師団が上海派遣軍所属だったのに対し、第十軍所属の部隊なので指揮系統が異なる点に留意すること)。

 つまり、俘虜(捕虜)の殺害処理は第十六師団長中島今朝吾の独断ではなく、南京攻略戦参加部隊に、ある程度は共有されていたものだということになる(この大隊は、「銃殺」ではなく「刺殺」という形で命令を実行した)。いずれにしても、ここでも、殺害されたのは「軍の羈絆内に在る支那軍人」であり、「便衣兵」であることが理由で殺害されたのではない。

 

 
 その背景となっているのが、

  陸軍省法務局にては…現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、陸軍刑法又は俘虜処罰に関する件法律上、之を俘虜と解して居ない(『支那事変海軍司法法規』昭和十四年三月)

…との、「軍の羈絆内に在る支那軍人」をめぐる陸軍省法務局の見解(つまり法的位置付けの問題である)であり、それが現地戦闘部隊の間で、

  大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル(中島今朝吾日記 昭和12年12月13日)

  旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スベシ(第百十四師団所属の歩六六連隊第一大隊戦闘詳報 昭和12年12月13日)

…として理解された結果(現場での実務的対応の問題である)、第百十四師団でも、

 

 各隊共ニ午後五時準備終リ刺殺ヲ開始シ概ネ午後七時三十分刺殺ヲ終レリ 聨隊ニ報告ス
     (歩六六連隊第一大隊戦闘詳報の続き)

 

…という顛末となってしまったのだと考えられる。陸軍省法務局の示したのは「現下軍の羈絆内に在る支那軍人」の法的地位に関する見解に過ぎないが、

  現下軍の羈絆内に在る支那軍人は、…法律上、之を俘虜と解して居ない
     ↓
   大体捕虜ハセヌ方針ナレバ
     ↓
    片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタル
    捕虜ハ全部殺スベシ

…という形で現場での対応への問題へと転化し、法的地位に関する見解が「捕虜ハ全部殺スベシ」との方針として解釈され、最終的に現地の戦闘部隊によって実行されてしまったという構図である(その構図を支えたもののひとつが師団長クラスの質的劣化であった)。

 

 

 

 詰まるところ、松井の示した南京事件における「俘虜の取り扱い」に関する問題とは、派遣軍の師団レベルで実行されてしまった俘虜(捕虜)の殺害の問題なのであった。松井が俘虜(捕虜)の殺害を命令したわけではないが、中支那方面軍司令官としての責任を考慮すればこそ、東京裁判での死刑判決を積極的に受け入れていることになるのではないか?

 そもそも、首都南京陥落=蒋介石降伏という松井石根の甘い見通しから、政府・軍中央の不拡大方針を無視した首都攻略戦は開始され、その後の事変の泥沼状況と対米英開戦を招いてしまった。この松井の誤判断が日本の敗戦に至る過程の最大の要因のひとつであることは否定し難い。松井の軍人としての誠実さを考えれば、その責任は十分に感じていたであろう。

 松井の責任を重んじる誠実な人柄を前提とすることで、松井の東京裁判における死刑判決の積極的受け入れの事実が、南京における相当規模の俘虜(捕虜)殺害(ここでは民間人の大規模殺害の有無は問わない)の事実を反映したものとして理解されることになるのである。

 松井の語った、

  従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。

…という言葉の重さを考えれば、そしてその言葉に真摯に応えようとするならば、「南京事件否定論」を主張することは誤りであろう。積極的に死刑判決を受け入れた松井の高潔な態度にわざわざ泥を塗るようなものだ。

 もちろん、松井が無責任で不誠実な人間であったというのであれば(あるいは勝者の裁きに迎合するようなタイプの軍人であったというのであれば)話は別であるし、花山信勝がどこまで松井の言葉を正確に伝えているのかという問題も残る。

 しかし、花山が記録した松井の言葉に導かれて、南京事件での「俘虜の取り扱い」の問題の内実を検証した結果、花山の伝える松井の言葉の当否にかかわりなく、南京攻略戦時の俘虜(捕虜)殺害の事実が明らかなものとして浮上することになった。つまり、既に問題は、花山の伝える松井の言葉が正確であろうとなかろうと、南京事件における日本軍による「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害の事実は否定し得ないと考えるよりない、ということなのである(ただし、これは、南京で三十万人が「虐殺」されたという主張の真偽とは別問題であり、「三十万人虐殺説」を受け入れることを意味しない)。

 

 

 また、南京事件の正当化の論法としての便衣兵論が成立しないという問題は、便衣兵の嫌疑を理由にした中国の軍民の殺害の事実を否定するものではない。

 今回は、俘虜(捕虜)殺害問題を焦点に論じてきたが、南京事件否定論(あるいは正当化論)としての便衣兵論者が主張するように、便衣兵として殺害された多数の中国軍民は存在するし、便衣兵論者が主張するように、そこには実際に多くの民間人も含まれていたことも確実であろう。便衣兵論は、むしろ論理的には、日本軍による民間人殺害の事実を認めたものとして機能してしまうのである。民間人に対する積極的な殺害とは言えないにしても、俘虜(捕虜)の殺害(つまり「軍の羈絆内に在る支那軍人」の殺害である)の他に、便衣兵の嫌疑を理由にした、便衣姿となった「支那軍人」(軍服を脱ぎ便衣姿となり、武器も放棄した「支那軍人」を便衣「兵」して取り扱うことは適切でない)と、便衣兵と誤認された民間人の殺害の事実は(便衣兵論の帰結としても)否定し難いものとなるのである。

 つまり、南京事件の犠牲者には少なくない数の民間人も含まれることが、まず便衣兵論主張の帰結として導かれてしまうが、これはあくまでも便衣兵と誤認されての民間人殺害事例に過ぎず、最初から民間人を対象にした「兵の暴行」に関しては別に検証される必要があることは言うまでもない(その問題に関しては機会をあらためて取り上げることとしたい)。

 

 

 

【註:1】
 便衣兵論による南京事件正当化論に関しては、裁判抜きの「処刑」の国際法上の合法性の有無が論点のひとつとなっているわけだが、

「北支那方面軍軍律」
   第一条 本軍律は日本軍作戦地域内又は兵站地域内に在る帝国臣民以外の人民に適用す
   第二条 左に掲くる行為を為したる者は軍罰に処す
     一 日本軍に対する反逆行為
     二 間諜其の他日本軍の安全を害し又は敵に軍事上の利益を与ふる行為
「北支那方面軍軍罰令」
   第一条 本令は北支那方面軍軍律を犯したる者に之を適用す
   第二条 軍罰を分かちて死、監禁、追放、過料、没取とす
   第三条 死は銃殺とす
「北支那方面軍軍律会議審判規則」
   第一条 軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す
   第七条 軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
     兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし
     但し緊急を要する場合は此の限に在らす
   第八条 軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ
     (北博昭 『日中開戦 軍法務局文書からみた挙国一致体制への道』 中公新書 1994   オリジナルの文言はカタカナ表記ということだが、引用した北の著書ではひらがな表記にしてある)

…といった当時の陸軍内の法的規定からすれば、陸軍内部でも裁判抜きの処刑が合法とされていたわけではない。「緊急を要する場合は此の限に在らす」との但し書きは、

  第一条
  軍律会議は軍律を犯したる者に対し其の犯行に付之を審判す

…の条文には適用されないのであって、あくまでも、

  第七条
  軍律会議に於て死を宣告せんとするときは長官の認可を受くへし
  兵站監前項の認可をなさんとするときは其の隷属する軍司令官に具申し認可を受くへし

…と規定された手続きの省略が、緊急性を要件として、認められているに過ぎないのである。つまり、裁判抜きの処刑は、「軍律会議審判規則」の条文による限り、そもそも認められていないのである。
 しかも、「軍律会議審判規則」の定めるところでは、

  第八条
  軍罰の執行は憲兵をして之を行はしむ

…とある以上、現地戦闘部隊による「処刑」は「軍律会議審判規則」の規定に違反した行為と言わざるを得ず、つまり二重の意味で便衣兵処刑の合法性は否定されてしまうのである。
 合法性を担保するためには、最低限、事後承認の手続きが必要となるはずだが、「便衣兵」の処刑後にそのような処理がされた話は聞かない。詰まるところ、国際法上の問題を云々する以前に、「軍律会議規則」の規定違反という陸軍法規上の問題が存在するということになる。
(2012年10月8日追記)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/28 21:21 → http://www.freeml.com/bl/316274/197520/

 

 

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2012年9月26日 (水)

歴史としての「原子力の明るい未来」 広島篇

 

 

 原子力エネルギーに関しては、プラスイメージもマイナスイメージも歴史的に理解しておく必要がある。私たちが「歴史」を対象に考える際には、現代の視線で当時の感覚を考えてはならないという歴史の鉄則を、ここでも思い出しておきたい。原発推進派も、必ずしも、危険なものを安全と考えて始めたわけでもないかも知れないことへの想像力を持った上で、原発依存政策の定着過程を検証することが重要なのではないか。これは原発反対派が、その都度、どのような論点を反対運動の柱として来たのかの検証と相補的に行なわれることで、歴史を単純で平板な善悪対立の物語としてではなく、当事者にも予測不能なダイナミックな過程として、立体的に把握することへとつながるはずである。

 

…などと書いたのは昨年の話だった( 歴史としての「原子力の明るい未来」 )が、吉見俊哉氏は、近著の『夢の原子力』(ちくま新書 2012)で、原子力エネルギーのプラスイメージの起源と定着過程を明らかにしている。

 

 

 

 印象的なエピソードを引用しておく。

 

 

 さて、一連の原子力平和利用博のなかでも、その文化政治的含意が最も露骨に示されたのは、一九五六年に広島の爆心地(グラウンド・ゼロ)で開催された原子力博である。
 主催者には、中国新聞とUSISだけではなく、広島県、広島市、広島大学が加わり、都市広島をあげての開催となった。主催者の弁では、それまでの原子力博は、主にUSISと地元新聞社が共催しただけであったが、広島はちょうど町ぐるみで広島カープの野球を応援するのと同じように、県も市も大学も全部が博覧会を支える土地柄だということであった。そしてこの博覧会の会場に、その前年に平和記念公園のなかに開設された平和記念資料館(第一会場)と平和記念館(第二会場)が当てられていく。被爆のシンボル的空間での開催である。こうして開館したばかりのこれらの施設での原爆資料展示は、博覧会会期中、近くの基町の公民館に一時的に移されることになった。文字通り、原子力の「被爆」の展示は、原子力の「未来」の展示に取って代わられたのである。
 開会に先立って中国新聞は「原子力に対する理解を深めよう」と題した社説を掲げ、最初の原子爆弾投下によって二十数万の犠牲者を出した広島市民が原子力自体に対して強い憎悪や恐怖に似た感情を抱きつづけてきたことは当然」であったが、「いまやわれわれは、地上において人類がかち得た最大のエネルギーである原子力の平和利用について世界の各国民が全知全能を傾けつつある事実」に関心を寄せるべきだと呼びかけた。どのような関心かというと、原子力に対し「まず主観的な要素を捨て、これを客観的に科学的な眼でながめ、その本質を探り、その価値を判断する」のである。つまりは、「原子力に対しても、まず恐怖とか憎悪とか反感などの先入的な感情を捨て、客観的に対処することが大切」である。それでは、この「客観的に対処する」とはいかなることか――。社説はこれを「国民全体の原子力に対する関心や知識が深まり、平和利用への熱意」が広がることだと説明している(中国新聞、五六年五月二六日)。
 こうした社説に呼応するかのように、紙面には、原子力博は「広島のような原子力と切っても切れぬ関係のある土地ではもっと早く行われ」るべきだったとの声も掲げられた。被爆体験の原子力平和利用博への取り込みは、博覧会の様々な演出を通しても進められ、たとえば「東京会場で呼びもののマジック・ハンドを操作していたIさんは、広島で原爆に会ったアルバイト女学生で、国連軍最高司令官レムニッツァー大将が入場したとき、とっさの思いつきで『歓迎』をマジック・ハンドで大書きした。原子力平和利用博だからこそ、軍人の代表がこの博覧会に関心を示してくれることはうれしかったことだろう。広島では、東と西から放射能雨が降り注ぐ原爆慰霊碑前の会場で、アメリカ大使館が約一億円の出品費を負担して成立したこの博覧会が、世界の平和と現代人の新しい生活の願望のためのささやかなサービス」となるといった主張が繰り広げられた(中国、五六年五月二七日)。
 こうした主張の脳天気さは、他面で原子力博への懐疑的な見方への批判にも転化した。開会式当日、中国新聞は広島市や広島大学の原子力博関係者を集める懇談の場を設けているが、その懇談のなかでも「広島では『原子力イクォール原爆』と思っている人がむしろ知識階級に多い』が、これは誤った観念で、「最近の学生の考え方は、原・水爆と平和利用博覧会とをはっきり区別して割り切ってる」との意見が述べられていた。これは、広島大教授だった高中順一によるものだが、広島市助役の佐々木銑は、「一部に『この博覧会はアメリカの売り込みの手先になることではないか。そういうものに県や市が協力するのはおかしい』と抗議する人がいるが、平和利用は将来必ず実現せねばならない前向きの問題だから、広島が原爆でやられたからといって、この機会を利用しないのは了見がせまい」と批判していた(中国、五六年五月二七日)。
 広島での原子力博には西日本各地から団体客が訪れていたが、そのなかには長崎からの団体客も含まれていた。開会の翌々日の中国新聞は、原爆被害者団体協議会に出席するために広島を訪れた長崎原爆青年乙女の会の一行が原子力博の会場を見学したことを伝えている。同じ被爆地長崎から原子力博にやって来た一行は、新聞のインタビューに答え、「私たちは原爆ときいただけで心からの憤りを感じますが、会場を一巡してみて原子力がいかに人類に役立っているかが分かりました」と語っている(中国、五六年五月二九日)。
 このように、爆心地広島で開催された原子力博覧会は、広島と長崎の被爆者を巻き込み、原子力を原爆の記憶とだけ結びつけることを声高に批判し、原子力平和利用の客観性と世界性、進歩性を強調し続けたのである。
     吉見俊哉 『夢の原子力』 ちくま新書 2012  148~151ページ

 

 

 ビキニ環礁で第五福竜丸が被爆したのは1954年3月のことであって、この広島での原子力平和利用博覧会の開催は、その経験を経ての日本での、それも広島での話なのである。

 

 ちなみに、原子力平和利用博覧会の開催は、1954年8月の新宿伊勢丹百貨店での読売新聞主催の「だれにもわかる原子力展」に始まる流れの中で、1955年末の東京・日比谷公園での開催(読売新聞主催)とその成功を嚆矢とし、その後の列島巡回となったものである。

 日本の「原子力平和利用」の歴史が語られる際には、読売新聞社と正力松太郎の役割の大きさが強調されるが、京都と大阪での原子力平和利用博覧会の主催者は朝日新聞社なのであった。

 被爆地広島の人々にとっても、そして被爆地広島で開催された「原子力平和利用博」を訪れた「長崎原爆青年乙女の会の一行」にとっても、「原子力の明るい未来」イメージは(当時の日本国民の多くと同様に)共有され得るものであったのである。

 戦争の帰趨を決定したのが原爆だった。つまり、圧倒的な科学の力だった。それが、戦後の日本人に深く刻み込まれたトラウマであり、そこに成立したのが、

 原子力=原爆=科学の力

…という構図であったということなのだろうか? あの戦争の敗戦をもたらした非科学的精神主義へのトラウマが、原子力の明るい未来イメージに結実した、と言えるのかも知れない。

 アイゼンハワーが「平和のための原子力」を打ち出すと、原子力=原爆の忌まわしさが薄められ、「原子力=科学による明るい未来」のイメージが前景化する。原子力エネルギーのプラスイメージが前景化するわけである。

 被爆という形の被曝(放射能被害)は、広島という都市と住民に対するマイナスイメージを日本国民の間に醸成させた(それはヒバクシャ差別として現実化した)側面さえあるように思われるが、アイゼンハワーによる「平和のための原子力」は、そのような現実の逆転に結びつくかも知れないのである。原子力の持つマイナスイメージ(被曝=放射能被害)のプラスイメージ(原子力の平和利用)への逆転は、広島の人々に刻印されたヒバクシャとしての境遇の逆転に結びつくものと期待されたからこその平和利用博開催であり、平和利用博への広島市民の支持であったようにも思われる。

 

 

 総じて見れば、読売新聞社から朝日新聞社まで、広島・長崎市民も含めての、戦後日本国民の抱いた、原子力の平和利用への夢であったわけである。そして、その夢から覚めての過酷な現実が、福島の人々のものとなってしまってから、既に一年半が過ぎてしまったのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/22 18:31 → http://www.freeml.com/bl/316274/195381/

 

 

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2012年9月22日 (土)

低線量被曝問題の心理的基盤

 

 いわゆる「低線量被曝問題」に関する議論については

  ほとんどゼロに等しい(ので危険と考える必要はない)

…と言うことが出来る事象と、

  ゼロとは言えない(ので安全とは言えないんじゃないか)

…という心理的問題が絡み合い、冷静に問題把握することを余計に難しくさせているように思われる。

 

 この難しさの発生過程は、宝くじ購入を決定する心理的プロセスに似ていなくもない。宝くじで高額賞金が当たる確率はゼロに等しいが、ゼロとは言えず、人が考えるのは高額賞金当選時の賞金の使い道だけである。

 この場合、人は、

  ほとんどゼロに等しい(ので購入を考える必要はない)

…と考えるよりは、

  ゼロとは言えない(ので購入する価値がある)

…と、考えてしまうわけである。

 

 ただ低線量被曝の場合は、疫学的観点から(つまり統計的に)「ほとんどゼロに等しい」と言うことが出来るにしても、それは統計的に想定された平均的な人間にとっての「ゼロに等しい」という評価なのであって、平均から外れた生理的に過敏な個体にとってもまったく問題がないということを意味するわけではない。つまり、宝くじの高額賞金の獲得の可能性がゼロにはならないないように、自身が生理的に過敏な個体であるために健康被害の当事者となる可能性もゼロとはならないのである。宝くじの高額賞金を獲得することは当人にとって望ましい話であるが、被曝による健康被害の当事者となることは望まれる話ではない。

 生理的に過敏な個体が100万人に一人の確率で生じ、一方、低線量被曝の可能性のある人間が10万人規模である場合、問題をどのように処理することが正しいのか?(もちろん、確率が10万人に一人であったら、1万人に一人であったら…あるいは被曝規模の想定が1万人であったら、あるいは100万人であったら…という話として、「問題処理の正しさ」を考えてみるわけである)

 これはもはや物理現象を対象とする科学の問題ではなく、人間の心理の問題なのであり、政治的判断の領域に属する問題として位置付けるべきであろう。

 

 

 

 また、たとえばの話、いわゆる一酸化二水素の危険性評価問題として語られているように、

  一時間に100ミリリットルの水を飲んでも健康への影響を考える必要はない。

  一時間に1リットルの水を飲んでも健康への影響はないだろう。

  一時間に10リットルの水を飲んだら健康への影響を考える必要がある。

  毎時100ミリリットルの水を飲んでも健康上の問題はないが、毎時10リットルの水を飲んだら必ず死ぬ。

  毎時1リットルの水を飲み続ければ、健康は悪化し、死に至る。

  一日に100ミリリットルの水分摂取しかしなければ健康への悪影響がある。

  一年で100リットルの水分摂取しか出来ないとすれば、一年を待たずに必ず死ぬ。

…という言い方が出来るわけだが、まず、この関係(数値と単位の関係)を把握しないと、ただひたすら混乱することとなるが、実際にそのような種類の混乱が続いているという、困った現実があるわけだ。

 この場合、単純に「一酸化二水素(つまり「水」)が危険か安全か?」という議論をすることが無駄であることまでは理解されやすいが、「放射線の危険性」の程度を論じようとすると、多くの人間が「放射能は危険か安全か?」という単純な議論に終始することになってしまうのである。

 

 放射線量の数値をどのように評価することが妥当であるかを冷静に議論するためには、数値と単位の関係が生みだす意味が適切に理解されている必要があるが、その必要が満たされた上で(ネット上での)議論が展開されることは(残念ながら)かなり稀な出来事であるように見える。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/21 22:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/197116/

 

 

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2012年9月14日 (金)

レベル7の流言

 

 「総特集 東日本大震災と〈こころ〉のゆくえ」として刊行された『現代思想』9月臨時増刊号(2011 Vol.39-12 緊急復刊[イマーゴ])を読み進めながら思うのは、掲載されている大震災後半年の時点で書かれた文章が、大震災後一年半が過ぎた今になっても依然として過去のものになっていないという事実である。

 

 

 今回は、荻上チキ氏の「震災とメディア」と題された文章から抜き書きをしておく。

 大震災は原発災害を伴うものとなり、原発事故や放射能被害に関するデマ情報の拡散という事態を招いた。一年半が過ぎた現在もその状況に変化はない。

 荻上氏は大震災後半年の時点で、

 

 

 東日本大震災の災害流言の特徴は、(1)ウェブ以降の災害であったこと、(2)被害範囲が広大であったこと、(3)原発事故が併発したこと、の三点と大きく関わる。流言の拡散範囲がこれまでのものより広大なものとなり、その拡散速度も早かった。しかしウェブ上で広がった流言については、ウェブ上で検証の動きも見られた。流言やデマを検証するためのブログやツイッターアカウントが複数作られ、個別に分析が行われていた。
 こうした「検証屋」は、特に何かの専門家というわけではない。しかし、ソースの有無や、発言内容の妥当性を探る作業によって、最低限度の確認を、「情報を欲している人たちの”代わりに”少し時間をかけて調べる作業」に注いでいった。そのことで、冷静さを取り戻すことのできた者も多くいた。
 検証屋の役割において重要なのは、彼らが必ずしも権威を持つ存在ではないことだ。だからこそ、「情報強者による啓蒙」などではなく、確かな情報を模索する作業をソーシャルに共有しようという作業となる。「検証屋=頼れる情報強者、だからあっちを信じよう」、というような態度は、検証作業そのものと矛盾し、問題がある。
 流言検証は、検証屋の情報発信にのみにて終わるものではない。流言検証そのものが間違えることもしばしばあるためだ。しかしその作業の反復が、情報の社会的精査作業に貢献する以上、無駄ではない。「検証作業そのものを検証できるようにしてあるか」「その都度、訂正できたか」を確認していくのが重要なのだ。
 流言が存在しない社会はありえない。だからこそ、あくまでも「流言を浄化すること」ではなく、「一緒に確からしい情報をシェアすること」が目的となる。「間違えない」努力はしつつも、それが自己目的化すると、誤らない=謝らない人となってしまう。
      (前掲誌 209~210ページ)

 

 流言を流す人が、しばしばその言い訳として「予防原則」を掲げることがある。「もし本当だったら大変だから、とりあえず拡散しておく。間違いであったとしても、誰も傷つけない情報なら問題ない」。こうした態度は、少なくとも二つの点で間違っている。一つは、そうした行動によって、検証なき情報が拡散しやすい情報環境そのものを追認・強化すること。もう一つは、「だれも傷つけない情報」であるか否かは、事前に把握できるものではないということ。
 身の危険を知らせるような情報について、事実確認がなされない状態において「予防原則」を採用することは、必ずしも間違いではない。だが一方で、例えば「予防原則」として異人流言を流し、差別を強化することは肯定できないものだ。「予防原則」が適応できる流言は一部であり、その肯定は結果論でしか語りにくい。
     (211~212ページ)

 

 通常の災害流言とは質的に異なるのが、原発に関わる情報であった。プロのジャーナリストや専門家でも情報が錯綜し、「判断」の正当性も、結果論的に判断せざるをえない状況にあった。原発事故の言葉をもじれば、「レベル7の流言・デマ」。流言対応の通常のレベルを超えていた。
 原発事故は、人命を左右する重要な事故。多くの人が、情報を欲していた。にも関わらず、そもそも専門家でなければ「正しい」情報の理解が難しい。専門家同士でも科学的決着もつきにくい。そもそも一時ソースそのものが存在しない。存在してもソースを関連企業などが隠してしまっているなど、情報の取得・判断が困難なものであった。こうした状況下では、流言を検証する作業そのものも困難になる。
 未曾有の情報錯綜。検証作業をしてた科学者やジャーナリストらも「間違える」。ある前提のもとでは「正しい」解釈も、その前提としての情報が誤っていたことが繰り返されてきた結果、いかなる応答を繰り返していようが「安全デマに加担した」と批判される。科学者や報道への不信感も増し、情報供給が様々に難しくなる。市民同士で一時的な敵対関係も作り出し、風評被害と実質被害の間の把握・コントロールも難しい。
     (212ページ)

 

 

…と、流言問題の構図を示したが、一年半後の今も我々は、全く同じ構図の有効性を目の当たりにし続けているのである。

 

 

 今年になり、「震災がれき広域処理問題」をめぐって、「震災がれき=放射性がれき」として位置付けた上での「受け入れ反対運動」が展開された。

 それは東日本大震災被災地の「震災がれき」を「放射性がれき」と決めつけるものであったが、「がれき」が「放射性がれき」であるかどうかは実際の放射線量の測定によってのみ判断出来ることである。その検証を抜きにした反対運動に、私は疑義を呈した(参照:「震災がれき」は「放射性がれき」なのか? )。現時点では、「震災がれき=放射性がれき」という告発の正当性は、かなり怪しくなっているように見えるが、反対理由を変更した上で「震災がれき受け入れ反対運動」自体は継続されている。

 私は、「放射性がれき受け入れ反対運動」の問題は、「震災がれき=放射性がれき」という位置付けの安易さにあったと考えている。

 それは、東北地方全域が高放射線量汚染地域であるかのような印象を外部の人間(多くの国民)に与えてしまうと同時に、放射能汚染を東北地方だけの問題として受け取られかねなくさせてしまうという、二つの重大な問題を内包していることに無自覚なものであった。それが実際の放射線量の検証という重要な手続きを踏まぬままに展開されたのである。詰まるところ、それは、「流言・デマ」として分類されるべき行為に終始したのである。

 私たちは、このようにして、「放射性がれき拡散反対」という言葉がネットを介して拡散していくのを目撃したのであった。

 「拡散」という言葉は、まさに「流言・デマ」にふさわしいものであることを痛感させられるエピソードであったが、東北地方全域を放射能汚染危険地帯であるかのように取扱ってしまった誤りを誰も謝りも訂正もしていない「事実」こそが、大震災一年半後の悲しい現実なのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/12 21:08 → http://www.freeml.com/bl/316274/196578/

 

 

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被災地で「どうして生きなきゃならないのか」と問われた時

 

 先日の平沢進氏の「音楽と放射能」に続いて、今回は森川すいめい氏の文章を紹介したい。これも、同じ『現代思想』9月臨時増刊号(2011 Vol.39-12 緊急復刊[イマーゴ] 総特集 東日本大震災と〈こころ〉の行方)に掲載されていたものである。

 

 

 東日本大震災での、人々へのメンタルヘルスを考えるときに最も必要な視点の一つは、これまでに大切にしていたもの、こと、場合によっては「生きる理由」を突然失った人々が多数おられるということである。ある人にとって、それは家族であり、ある人にとっては、半生を掛けて育てた旅館であった。それらは、思い出としてしまいこんだり、忘れようとしたりするにはあまりにも大きく、人々に影響を与えた。地元の人からは、「過ぎ去ってしまったこと」「考えても仕方がない」と何度も聴いた。ところが、「そのようにできなくて苦しい」「みんな同じなのに私だけ気持が切り替えられない」と、自責の念さえも込めながら語った人もおられた。失ったものが、その人がこれから生きるための、自身の未来を想像するためのものとしても重要であったからかもしれない。それは、仕事を失ったら別の仕事をまた始めればよいという単純な話ではなかった。漁師として四〇年、誇り高く生きてきたある方は、単に漁師以外の仕事が技術的にできないかもしれないということではないと言った。それは、誇り高く生きていく場が漁師であったということであった。漁師という場以外で、果たして自分らしく生きられるのかと、今後は何のために生きるのかと自問自答していた。生きる理由を失いかけていた方が「どうして生きなきゃならないのか」と精神科医に問うた。避難所で身動きとれずに蹲っていた方に、PTSD、うつ病などと診断基準に見合うからと診断をしてもあまり意味がないと感じたことも多かった。抗うつ剤は効かない。稼ぐ手段を失ってお金がないというならば生活保護を取れば安心できるということでも決してなかった。必死に、今までの自らの生き方を守るために生きてきた方と多数お会いした。私たちは、「生きる理由」を失わない支援が必要だと感じたが、それは、容易ではなかった。
     (森川すいめい 「被災地で『どうして生きなきゃならないのか』と問われた時 処方薬以外の処方箋」 前掲『現代思想』 67~68ページ)

 

 

 「被災者の心のケアの必要性」という言葉を発することは簡単であるが、そして、その「必要性」は否定しようがないが、その実現は「簡単」なことではない。そこにいるのは、それぞれに取り換えることの出来ぬ人生の歴史を背負った異なる人間なのであり、「被災者一般」の「心」の問題ではないのである。確かに同じ大震災の被災者であるにしても、それまでの人生が異なるように、大震災の被災がその人の人生にもたらした状況も異なるのである。

 森川氏が被災地で出会ったのも、同じ大震災の被災者であり、震災の被災者であるという共通点では結ばれつつも、それぞれに異なる困難に直面している人々なのであった。

 そのような人々と向き合う時間を通して得た感懐を、森川氏は次のように記している。

 

 

 そのままのあなたで生きていいのではないか。直接的にこの言葉を使ったことはなかったが、この地で必要なことは、変わらなくていい、直さなくていいと伝え続けることだった。人が変わることを求められるのは、何か大きな困難に対して、このままの自分ではダメだと思う時か他者からそのように思われる時であろう。しかし、「変わる」というのはどういうことか。果たして、変わることができる人というのは誰なのか。精神医学の中ではこのようなことを言う人もいる。変わらなくてはならない出来事に直面した時に「人間は変わらなくていい。行動を工夫するのみだ」と。それは、これまでの自分を否定し「変化」をするということではなく、これまでの正負すべてを経験値として糧にしながら「成長」をしていくという意味になる。相談の中で、行動を工夫するための処方箋をいくつかきった。最適な処方箋を発行するためには、もちろん、とても長い時間の傾聴が必要だった。
          (70ページ)

 

 

 ここで森川氏は、被災者一般について語っているのではなく、個々の被災者に向き合う経験がもたらした認識を述べているのである。書かれるのは個々に異なる「処方箋」でなければならないが、森川氏は、個々に異なる「処方箋」を書く側に求められる基本的認識をこのようなものとして示している、ということなのだ。

 「長い傾聴の時間が必要」になるのは、まさに個別の被災者に向き合うからこそなのであり、被災地の外で暮らす私たちにもまた、森川氏の語る言葉を通して、被災者のそれぞれの異なる困難への想像力を持つことが求められる。私たちは被災地の一般的状況から目を離すべきではないし、その改善のための支援を怠るべきではないが、その支援を実質的なものとするためには、個々の被災者の個別の困難に対する想像力を持ち続ける必要がある、ということなのである。

 

 

 前回の記事では、平沢進氏の文章(「音楽と放射能」)について、私は、

 

  ジャーナリストの善意と正義感が見落とし、平沢氏の想像力が掬い取った、

   しかし、この医師は様々な理由でそこに留まる住民と共に汚染地域で暮らしている。この事実と、そして医師の「徹底的に除染しろ、だが心配するな」という言葉が含む矛盾に目を向けるべきなのだ。

 …という構図を(そしてその構図を見落とさぬ想像力を)、私たちも共有したい、と思う。

 

…と書いたのだが、善意と正義感にあふれたあのジャーナリストに欠けていたのが、被災地の当事者の直面する困難とそれへの対峙の仕方への想像力であったし、被災地の当事者としての話を個々の被災者に向き合い傾聴しようという努力であったように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/11 21:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/196531/

 

 

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2012年9月10日 (月)

第二の被曝

 

 平沢進氏は、

 

 三・一一震災以降、放射能という見えない脅威が日常を覆った。科学はそれを手なずけるだけの成熟を見ないまま、巨大な怪物を産んでしまった。関係機関や政府の公式発表、マスメディアからの情報は信頼を失い、真実を探り当てるべく奮闘する独立系ジャーナリストたちも一斉に放射能の恐怖へと焦点を定める。勿論それは必要なことなのだが、この物語の主人公が人間であるなら、決定的に欠けている何かがある。結果人々は日々逃れられない恐怖に縛り付けられ、絶望しろ、絶望しろ、絶望しろとまくし立てられているようにすら見えてくる。人々は文字通り被曝し、そしてその後は「不安」「恐怖」さらには致死量に至る「絶望」をも被曝している。この第二の被曝に関する警鐘は今、第一の被曝をめぐる喧騒でかき消されている。

 人々はまず第一の被曝を受け、あらゆる場面で解決を渇望しているのだが、しかし、第一の被曝がもたらすとされる不幸を助長し、場合によっては蒙らなくてもよい被害を作り出す第二の被曝の処方箋へと視野を広げなければ悪夢が去るのは遠い遠い未来だ。

     (平沢進 「音楽と放射能 手品師が見た日本の『放射能体験』」 『現代思想』9月臨時増刊号 緊急復刊[イマーゴ] 総特集 東日本大震災と〈こころ〉の行方 2011 Vol.39-12  191ページ)

 

…と、書いている。一年前の(「緊急復刊」された)[イマーゴ]に掲載された文章だ。

 

 

 平沢氏はその先で、

 

 福島第一原発から五〇キロメートルほどの汚染地域で開業する医師が、住民に対して「徹底的に除染せよ、しかし除染しきれない放射能はもう心配するな」と言ったことについて、あるジャーナリストは「馬鹿げた冗談だ」と一刀両断に切り捨てた。勿論これはジャーナリストの善意と正義感から出た言葉だろう。しかし手品師はこれを「被曝原理主義」の失敗例と見る。汚染された地域を捨てて疎開しろというのは簡単だ。しかし、この医師は様々な理由でそこに留まる住民と共に汚染地域で暮らしている。この事実と、そして医師の「徹底的に除染しろ、だが心配するな」という言葉が含む矛盾に目を向けるべきなのだ。そうすれば医師が”虚構を奏で、手品によって現実体験の質を変換し、第二の被曝を回避”しようとしていることがわかるはずだ。これはパニックを回避するために政府が嘘の情報を流すこととは目的も次元も全く異なる。医師ならば、第二の被曝の恐ろしさを充分理解しているだろう。それは人から落ち着きと気力を奪って免疫力、自己修復能力を低下させ、時には致死量の絶望へと発展する。第一の被曝によって動きだした見えない殺し屋に、より良い労働環境を与えてしまうことになるのだ。住民も医師も、これからずっとその場所で見えない殺し屋と共に生きなければならないというのに。
          (193ページ)

 

…と書き進めている。

 

 

 平沢氏の肩書はミュージシャンであり、自身について、

 

 私は今、「科学者」でもなく、「呪術師」でもなく、「手品師」という第三の選択を経た音楽家として「日本の放射能体験」を眺めている。

 

…という書き方をしているが、私は「徹底的に除染せよ、しかし除染しきれない放射能はもう心配するな」と言った開業医の言葉を深いところで理解した平沢氏の視線に共感する。

 ジャーナリストの善意と正義感が見落とし、平沢氏の想像力が掬い取った、

  しかし、この医師は様々な理由でそこに留まる住民と共に汚染地域で暮らしている。この事実と、そして医師の「徹底的に除染しろ、だが心配するな」という言葉が含む矛盾に目を向けるべきなのだ。

…という構図を(そしてその構図を見落とさぬ想像力を)、私たちも共有したい、と思う。

 

 今回の原発災害に関しては、被災者住民には、

  避難する権利がある

  政府には避難する権利を保証し生活支援する義務がある

…ということと同時に、被災者住民には、

  住み続ける権利がある

  政府には住み続ける権利を保証するために除染を徹底し生活支援する義務がある

…ということなのであり、どちらも被災者住民の権利として最大限に保障されなければならないのであって、この両者を二者択一的に考えることは誤りなのだ。

 そして「政府の義務」は、「主権者としての国民の義務」でもあるのだということを忘れるべきではない。

 国民としての私たちにも、被災者の避難する権利を擁護し避難生活を支援することと同時に、住民としての住み続ける権利を擁護し現地生活を支援する義務があるのだと考えておくべきであろう。

 ネット上では、「避難する権利」を主張する人々の中に、「住み続ける権利」の下に被災現地にとどまった人々を誹謗中傷することに熱中する人が散見されるが、非常に悲しく困ったことだと感じている。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/09/10 00:15 → http://www.freeml.com/bl/316274/196401/

 

  

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2012年9月 1日 (土)

昭和二十年八月三十一日 復員兵の姿

 

三十一日(金) 雨
 〇「巨大な陥没の後の再興の年、それはもろもろの民族のよき成長の年であった。
 敗北に宿る尊き価値を認識するものは、常にただ少数の思慮ある能動的な精神に限られている。しかし、決定力は実にこの少数の精神にある。他の者が享楽し、糾弾し、呪詛し、攪乱し、或いは今後の発展について人類に命令を下しているあいだに、この少数者は静かに未来を準備しつつある。彼らはすべて、すでに没落を感じた者であり、今や規制のものに対して極めて自由な立場にある。のみならず世界審判の暴風は爽やかに彼らの額を吹いている。
 彼らは新しい責任を予感する。あたかも自分達が最後の人間であり、自分の生命を、損なわれた預かり物のように、出来るだけ修復した姿で創造主の手に返そうとしているかのようであった。彼らは大言壮語を口にすまいとかたく誓った。愛、自由、英雄精神、これらの言葉を、彼らはもはや口にすることを悦ばなかった。それらはすべて蛹となって冬の深淵に眠っているものと考え、執拗な呼び声を以て原始の諸力の神聖な祭壇を攪乱することを懼れるのであった。彼らはたとえどんなにささやかなものであろうとも、心の声の示すところを実現しようと欲した。これを以て、彼らは墓の懸燈を潤す油とした。かくて、ただ日常的なもののうちにのみ、時として彼らに、より高き世界が現れるのだった。」(ハンス・カロッサ)
 〇ハンス・カロッサ 『医師ギオン』 読了
 今次の敗戦ドイツは、前大戦後のそれと比を絶する凄惨なものであろう。前大戦に於ては、連合国はドイツ領に一歩も入り得なかったし、政府は残っていたし、航空機の威力も児戯に類するものであった。それに較べると、今度は凄じい、英米ソ軍はほとんど全ドイツを蹂躙し、政府は粉砕され、爆撃は全都市を廃墟と化せしめている。その上前大戦の経験に懲りて、連合軍の弾圧誅求は昔に千倍するであろう。
 しかもその前大戦でさえ――カロッサの描いた敗戦後のドイツ――寒風の吹き荒れる廃墟にボロを着た乞食のごとき民衆が、膝を抱えてうずくまったまま、高い冷たい碧空をじっと見つめているようなドイツの姿――こんな姿は、まだ日本には見られない。(東京の光景はまだ見ない)
 廃墟は廃墟としても、精神的にはここまで叩きのめされてはいないと思う。――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。
 〇友人続々帰郷。余も明後日帰郷せんとす。
 安西、柳沢を雨中、駅に見送る。待合室内に兵士数名座る。襟章に星一つ。戦闘帽になお徽章あれど、帯革、剣、銃なく丸腰の惨めなる姿なり。ただ背には何やら山のごときものを背負う。解散に際し軍より半ば押しつけられ、半ば掠奪的に運び来るものなるべし。米俵、馬、トラックまで貰いし兵もあるときく。八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊なり。兵一人一人がこれくらい貰いても不思議にあらず。
 雨に濡れて貨車動く。いずこへゆくにや無蓋の貨車の上にキャタピラ壊れし黄褐色の戦車一台乗れり。この戦車、戦いしか否か。おそらくまだ戦いたることなき戦車ならん。鉄鋼雨に暗く濡れ、さびしく冷たき姿なり。子を背負いたる女、労働者、少年、農夫、光る眼にてこの兵を見、またこの戦車を見る。
     山田風太郎 『新装版 戦中派不戦日記』 講談社文庫 2002  454~465ページ

 

 

 当時は東京医専の学生だった山田風太郎の昭和20年8月31日の日記である。

 ポツダム宣言受諾により、つまり大東亜戦争は負け戦として「終戦」を迎えたわけである。敗戦というそれまで経験しなかった現実を前にして、ハンス・カロッサの書き残した(第一次世界大戦での)敗戦後ドイツの姿を参照しながら、若き山田風太郎は、自らと故国の行く末に思いを馳せているわけである。ここにカロッサが登場するところに、当時の医学生の知的生活の一端を見ることが出来るだろう。

 後半の情景は疎開先の飯田の駅での見聞だ。目につくようになってきた復員兵の姿の中に、「八十年、日本国民が血と涙しぼりて作りあげし大陸軍、大海軍の凄まじき崩壊」を見ているのである。

 

 あらためて気付くことのひとつは、昭和20年と今年の日付と曜日が一緒だということである。平成24(2012)年の今日、8月31日が金曜であるのと同様に、昭和20(1945)年の8月31日も金曜だったのだ。もう少し早く気付いていれば、今年の夏の読書にもより味わいが増したであろうにと思うと、いささか残念なところではある。

 

 

 山田風太郎の日記の後半部の復員兵のエピソードであるが、同じ8月31日の海野十三の日記にも、同様な姿が描かれている。

 

 

〇復員兵が厖大なる物資を担って町に氾らんしている。いやですねえという話。それをきいた私も、大いにいやな気がした。しかし今日町に出て、実際にそれを見たところ、ふしぎにいやな感じがしなかった。しなかったばかりか、気の毒になって涙が出てしようがなかった。十八歳ぐらいの子供のような水兵さん、三十何歳かの青髯のおっさん一等兵、全く御苦労さま、つらいことだったでしょうと肩へ手をかけてあげたい気持がした。
     海野十三 『海野十三敗戦日記』 中公文庫 2005  131ページ

 

 

 若い山田風太郎のどこか他人事めいた視線に対し、40代後半の家族持ちであった海野が復員兵に抱いた共感を含む気持ちの間には、両者の性格の問題とは別に、既に山田の二倍の齢を重ねている海野の人生の時間があるだろう。もちろんそれは、どちらの感懐が正しいのか?という問題ではなく、それぞれの感懐をどのように読み取ろうとするのか?の問題である。

 

 

 

 とりあえず、戦争は終わった。それが「玉音放送」から二週間が過ぎた昭和20年8月31日の実感であろうか?

 

  ――しかし、はじまるならばこれからである。あさっての東京湾に於ける降伏調印がその序幕となるのである。(山田風太郎)

 

 日本人が「戦後」の日々を現実として味わうのは、むしろこれからなのである。

 「終戦後の日々」は、軍が崩壊し戦争が終わった後の日々であり、確かにそこには平和があったが、それは「敗戦後の日々」であり「占領下の日々」を意味するものでもあった。その意味を、戦後の日本人はどこまで深く考えたのか?

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/31 21:25 → http://www.freeml.com/bl/316274/195858/

 

 

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