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2012年8月 8日 (水)

統帥の無責任としての特攻精神 4 (洋上のB-29)

 

 前回は、スーパー・ダンボと呼ばれる、B-29の救難機タイプについて記した。

 

 関連した話題として、不時着水したB-29の実際がどのようなものであったのかについて、チェスター・マーシャル『B-29 日本爆撃30回の実録』(ネコ・パブリッシング 2001)から引いてみたい。

 

 

 遅かれ早かれいずれは来るのではないかと皆が恐れていた知らせが上層部から伝わった。第八七八飛行隊の二機が墜落したらしい。リンゼイ・(サイ)・シルヴェスター中尉機からはサイパンの北八五マイル(一三七キロ)の洋上に不時着水するという連絡があった。ガーランド・レドベター中尉以下のクルーは被害を受けた機をなだめながらサイパンまで辿り着いたが、イスレー飛行場は着陸待ちの飛行機で混み合っていたため、滑走路への最終接近の段階で安全な間隔を置いて割り込むことができず、再度周回を試みた。これが命取りとなった。目撃者の言うところでは、レドベター機は滑走路端の上を通過して高度を獲得しようとしたとき、急に機首を落としてマジシェンヌ湾の青い海の中に突っ込んだという。そこは、太平洋で最も深い海淵なのである。
 滑走路の沖合海域には海軍の警戒艦艇が常時待機してこのような緊急事態に備えており、この時も墜落現場から数分以内に到着できる位置にいたのだが、乗組員は墜落する飛行機とともに海没したのであった。
 二件の不幸な知らせは、25番クルーにとっては個人的な打撃でもあった。両機の乗組員が私たちとは友達同士だったのだ。一組のクルーが突然消えてなくなり、もう一組は不時着水消息不明となって、私たちは、サイパンのどのB-29クルーにとってもこうした運命が他人事でないと気づき衝撃を受けた。乗組員は、ただこうした事実を受け容れるほかないのである。
          (147~148ページ)

 

 これは、1944年12月13日のサイパンでのエピソードである(註:1)。著者を含む25番クルーの乗機は、12月7日の日本軍による飛行場への攻撃(つまり、この時期のサイパンは、まだ日本軍の攻撃に対し、安全な場所ではなかった)により失われていたために、この日の名古屋への攻撃には参加していなかった。第878飛行隊からは12機が参加したが(註:2)、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返して来ていた(理由は明示されていないが、機体のトラブルと思われる)。残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われたわけである。

 さて、12月14日になると…

 

 一二月一四日。午前中は不時着水したシルヴェスター機クルーの消息をじりじりしながら待った。正午になってやっと、嬉しい知らせが入った。海軍の捜索機PBY飛行艇からの入電で、まだ浮いているB-29のそばに救命筏三つに一一人が分乗しているのを発見したというのだ。全員元気のように見えるとのことである。やっと安心した。
 アルバート・クロッカー大尉操縦の捜索機が行方不明のB-29と乗組員を初めて発見したのは、正午少し前であった。大尉は捜索開始六時間後ようやく、まだ浮いていたB-29の尾翼が太陽に反射してきらめくのに気づき、なお仔細に観察していると、近くに搭乗員の乗る筏が浮いているのが見えた。クロッカー大尉は駆逐艦を呼び出し、軍艦「カミングス」が現場に到着するまで四時間半上空を旋回していた。不時着水から一七時間が経過していた。
          (149~150ページ)

 

…という展開となる。ここでは、スーパー・ダンボではなく海軍の哨戒機が(註:3)、6時間の捜索の後に洋上の乗組員を発見し、海軍の駆逐艦に収容されるまでの4時間半を上空を旋回し続けた、という話である。

 シルヴェスター機は、洋上に不時着水したわけだが、機体は沈むことなく浮かび続けていた。不時着水時には機体から救命筏二つを引き出し乗り移るだけで精一杯だったのだが、夜明け後に機内に残された筏も確保することが出来た、ということらしい(「まだ浮いているB-29のそばに救命筏三つに一一人が分乗」という記述の背景)。

 

 

 クロッカー大尉のPBY飛行艇の出現は、筏の一一人にはかつて見たことのない有難い光景だった。駆逐艦「カミングス」の到着は、またそれ以上に有難かった。
 救難駆逐艦には、第四九八爆撃連隊の機長フランシス・マレー大尉以下のクルー一〇名が乗っていた。このクルーは一二月三日の東京空襲のときにサイパンの北三〇〇マイル(四八〇余キロ)の海上に不時着水した。唯一の犠牲者がパイロットで、飛行機とともに沈んだ。マレー大尉と乗組員は筏三つに分乗して一一日間漂流したあと駆逐艦「カミングス」の救助隊に引き上げられたのである。偶然というか、マレーのクルーの航空機関士フランク・L・テニスン中尉とシルヴェスター中尉は同郷でワシントンの同じ高校の出身だった。
          (152~153ページ)

 

 

 B-29一機の喪失は、11人の搭乗員の喪失に結びつく。機体は失われても、搭乗員を失わないための努力が、このような海上救難システムとして組み上げられていたわけである。それは何より搭乗員自身の生命の問題であるが、銃後で無事な帰還を待つ搭乗員の家族―それぞれに一票を投じる権利を持った、政治的決定に関与出来る、国内世論を形成する家族である―の問題であり、訓練を経た貴重な搭乗員を失う軍の問題でもある。

 米軍の場合、手厚い救難システムの整備をすることが、前線兵士のより高い士気を支えると考えられ、戦争遂行に対する国内世論の確保に結びつくと考えられ、様々な意味で軍の利益に合致すると考えられていた、ということになるのであろう。

 

 

 

【註:1】
 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」中の『ボーイングB-29』(1995)の記述から、問題の12月13日の経過を引用すると、

 ⅩⅩⅠBC(Bomber Command 爆撃機兵団)の次の大目標は、航空兵器工場のひしめく名古屋。同市初空襲の12月13日は、三菱重工・名古屋発動機製作所が標的に選ばれた。73BW各BGの3個BSのうち2個BSは通常爆弾、1個BSが集束(クラスター)焼夷弾を搭載した。
 発進90機のうち、71機が8,000~9,700mの高空から好天下の主目標に投弾し、これまでのⅩⅩⅠBCの作戦で最高と評価されるほどの命中弾があった。日本軍が迎撃効果を低く見たのとは裏腹に、クルーたちは中京地区の高射砲と戦闘機の威力を激烈と感じた。落とされたのは4機で、3機の生存者はゼロ。499BG(Bomberdment Group 爆撃軍団―引用者)の1機だけが洋上不時着の翌日にカタリナ飛行艇に発見され、搭乗員が駆逐艦に助けられた。
          (50ページ)

 この「カタリナ飛行艇に発見され」たのが、まさにマーシャル氏の著作にある、リンゼイ・(サイ)・シルヴェスター中尉の乗機の搭乗員達だったわけだ。

 また、12月3日の作戦(当初は群馬県の中島飛行機・太田製作所が目標だったが、天候不良のため、都内の中島飛行機・武蔵製作所に変更)についての記述中に、

 もちろん、これまでの重爆に比べて格段に強靭なB-29だから、簡単に落とされてはいない。
 別の498BG機は投弾を前に、僚機との空中衝突を避けて単機になったために、戦闘機にたかられ、手ひどく被弾して燃料と滑油系統が破壊。さらに高射砲を浴びて爆弾倉扉が閉じなくなったが、追っ手を逃れて6時間飛び続けた。不時着水から11日間を救命ボートで漂流したクルーは、サイパンから480キロの海域で救助された。
          (49~50ページ)

…とあるが、これもマーシャル氏の著作に、

 救難駆逐艦には、第四九八爆撃連隊の機長フランシス・マレー大尉以下のクルー一〇名が乗っていた。このクルーは一二月三日の東京空襲のときにサイパンの北三〇〇マイル(四八〇余キロ)の海上に不時着水した。唯一の犠牲者がパイロットで、飛行機とともに沈んだ。マレー大尉と乗組員は筏三つに分乗して一一日間漂流したあと駆逐艦「カミングス」の救助隊に引き上げられたのである。

…として登場する、フランシス・マレー大尉以下10人のB-29搭乗員のエピソードである。

【註:2】
 「世界の傑作機シリーズ」には、

 このころ(1944年11月末を指す―引用者)の73BW(Bomberment Wing 爆撃航空団と訳される―引用者)は機材の補給が不充分なため、1個BS(爆撃飛行隊)の保有機は10機ほどしかなく、1機につき2個クルーが交代で搭乗した。やがて機材の空輸がはかどり出し、翌1945年の2月には予備機を含めて20機(定数は16機)にまで増加する。
          (49ページ)

…と書かれているが、マーシャル氏の著作中に「第八七八飛行隊」として記されているのが、878BS(Bomberdment Squadron 爆撃飛行隊)ということになる。つまり、1個飛行隊の保有機は20機で、作戦行動は16機編制で行なわれるのが正式なものであった。
 それが1944年12月13日の名古屋空襲に際しては、

 第878飛行隊からは12機が参加したが、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返し、残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われる

…という状況であったわけだ。878飛行隊には可動機が12機しかなく(つまり「機材の補給が不充分なため」である)、そのうち離陸したのは11機、目標まで到達したのは9機、無事に帰還したのは7機ということになる。B-29は新技術を満載した当時の最新鋭の機体であったが、初期不良にも悩まされ、実戦投入当初の稼働率は低かったのである。

【註:3】
 この点については前回の記事の「註」で、

 大戦の末期、B-17Gの一部は胴体下面にパラシュートで投下できる大型救命ボートを装着し、捜索救難に使われた。1945年3月イギリスで任務につき、太平洋方面では終戦時に8機が活動していた。制式名はB-17Hだったが、1948年にSB-17Gと改称され、朝鮮戦争のときも救難に働いた。
          (文林堂『ボーイングB-17フライングフォートレス』 82ページ)

 4ERS(Emergency Rescue Squadron)
 1945年4月から20AFの隷下で、硫黄島を基地にして救助任務に従事。B-29の胴体下に救命ボートを付けた、「スーパー・ダンボ」のほか、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)を使っていた。
          (文林堂『ボーイングB-29』 52ページ)

…と示したように、B-17の「ダンボ」、Bー29の「スーパーダンボ」の両者共に、1944年12月の段階では配備されていないことになる。海上捜索は、その多くを、海軍のPBY飛行艇に依存していたのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/12/01 21:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/176674/
 投稿日時 : 2011/12/02 21:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/176726/

 

 

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