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2012年8月 6日 (月)

統帥の無責任としての特攻精神 1

 

 私自身には「特攻精神礼賛」的なメンタリティーはない。

 

 

 「特攻精神」を、生還を期さずに戦いに臨む、という行為に見出すのであれば、それは決して「日本的」な精神として限定的に語られるべきものではない。

 たとえば、怒涛のごとく侵攻するドイツ軍の戦車に立ち向かうポーランドの槍騎兵の姿を思い浮かべれば、歴史的事実としてその問題は容易に理解されるであろう。

 米国史を紐解けば、「アラモの戦い」もまた、生還を期すことなく戦い、まさに玉砕したテキサスの男達のエピソードである。

 

 

 日本的な、という限定をつけて「特攻精神」を語ろうとすると、詰まるところ、「特攻」による死を自己目的化した過程に求めることしか出来ないようにさえ思われる。

 ポーランド人のエピソードであれ、テキサス人の姿であれ、ある戦闘の過程での軍人・兵士としての決意の問題である。その戦闘には祖国の独立が賭けられ、彼らは戦いに臨み、死んでいったのである。

 日本の「特攻」の場合は、ある戦闘の過程での前線指揮官あるいは兵士達の決断の問題、つまり特殊な状況下での人間の行為としてではなく、戦争遂行上の「作戦」として立案され消化されていったものであるところに、その最大の特徴が見出されるように思われるのだ。確かに初期には、「特攻」による「戦果」は作戦立案時の期待を満たすものであったかも知れないが、やがて「戦果」の問題は後景に追いやられ、ノルマとして遂行されるかの如き状況に立ち至る。

 これは、前線での戦闘過程における、已むに已まれぬ行為としての生還を期さない攻撃なのではなく、中央で作戦として立案され業務として遂行されていく、敵への攻撃でも効果的な防御でもなく、前線パイロットの死を自己目的化した軍事行動に過ぎなくなっていくのである。「玉砕」についてもまた、同様の構図が描けるだろう。

 そこにあるのは、軍事における統帥の無責任である。

 

 

 その中で死んでいった特攻隊員達には、ただひたすら頭を垂れるしかないが、「特攻精神礼賛」は果して彼等への哀悼として正しいものであるのだろうか?

 それは、結局のところ、統帥の無責任を放置してしまうだけのものであり、特攻隊員の犠牲の上に築かれるべき歴史的教訓から眼を逸らすものとなってしまうように思われる。

 

 

 

 ここで、「イスラムの自爆テロ」と呼ばれる行為について考えてみたい。

 私の考えるところでは、「イスラムの自爆テロ」には、二つの異なる様態がある。

 

 ローカルなテロと、グローバルなテロである。イスラエル国家に対するパレスチナ人のテロ行為は、まさにローカルなテロであるし、アルカイダによる対米テロは、グローバルなテロと考えるべきであろう。

 

 パレスチナ人にとって、イスラエル国家は現実的な敵なのである。イスラエルの占領下という彼らのローカルな現実の中での、現実の敵なのであり、それも強大な軍事力に支えられた敵なのである。そこにあるのは軍事的な圧倒的非対称性なのであり、自爆テロ以外の攻撃法を、パレスチナ人は持ち得ないが故の「自爆テロ」なのである。

 

 それに対し、アルカイダと米国(そして米国と同盟関係にある西側先進国)との関係は、現実的な敵というよりは理念的な敵なのである。あの9月11日の同時多発テロの際に、私の頭に浮かんだのは、「イスラムの新左翼」という感想であった。

 もちろん、そこにあるのも軍事的非対称性ではあるが、アルカイダは(パレスチナ人のように)父祖の地の防衛の戦いを遂行しているのではなく、かつての新左翼のように、理念上の非対称型戦争を遂行しているのだと、考えておくべきであろう。

 

 

 そのように考えた際に、故国の防衛という構図において、日本の特攻と、パレスチナ人のテロ行為には、それほどの違いは見出せないようにも思えてくる。

 もっとも、特攻は、真珠湾攻撃の帰結なのであり、つまり軍事的攻勢が防御へと変化した果ての出来事なのであり、パレスチナの状況と同列に論ずることは出来ない。

 いずれにしても、大東亜戦争は国家間の戦争であり、そこで繰り広げられているのは正規軍同士の戦闘であったわけだが、戦局の進展と共に、いわば軍事的非対称状況が生み出され、日本的心情主義の無責任体制の下で、「特攻」の自己目的化として帰結したのが、「特攻」をめぐる構図の現実のように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/03 20:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/174788/

 

 

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