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2012年8月11日 (土)

統帥の無責任としての特攻精神 9 (戦艦大和ノ最期)

 

 出発点にあったのは、

  「特攻精神」を、生還を期さずに戦いに臨む、という行為に見出すのであれば、それは決して「日本的」な精神として限定的に語られるべきものではない

…との認識であった。

 怒涛のごとく侵攻するドイツ軍の戦車に立ち向かうポーランドの槍騎兵の姿はまさにそれであるし、米国史を飾る「アラモの戦い」もまた、生還を期すことなく戦い、玉砕したテキサスの男達のエピソードである。

 そのように問題を整理すれば、

  日本的な、という限定をつけて「特攻精神」を語ろうとすると、詰まるところ、「特攻」による死を自己目的化した過程に求めることしか出来ないようにさえ思われる

…と、言わざるを得ない。前々回には、あらためて、

  帝國陸海軍における、戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」の問題

…として定式化してみたが、その際に念頭にあったのは、あの戦艦大和の最期である。

 

 まさに、

  戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」

…の果てに、戦艦大和では伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下2740名が戦死、「海上特攻」に参加した第二艦隊全体では3721名が戦死し、しかも何の戦果も生み出さなかったのである。

 これは、前線での戦闘過程の決定的な局面における、已むに已まれぬ行為としての生還を期さない攻撃なのではなく、中央で作戦として立案され、指揮命令系統の中でいわば業務として消化されていった、敵への攻撃でも効果的な防御でもなく、前線将兵の死を自己目的化した軍事行動と評価することしか出来ないものである。

 

 

 

本作戦ノ大綱次ノ如シ――先ヅ全艦突進、身ヲ以テ米海空勢力ヲ吸収シ、特攻機奏効ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバ、タダ挺身、敵ノ真唯中ニノシ上ゲ、全員火トナリ風トナリ、全弾撃尽スベシ 若シナホ余力アラバ、モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戈ヲ交ヘン(分隊毎ニ機銃小銃ヲ支給サル)
世界海戦史上、空前絶後ノ特攻作戦ナラン
終戦後海軍当局ノ釈明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ駆逐艦三十隻ノソレニ当ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戦ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、数千人ノ人命ヲ喪失シ、慙愧ニ耐ヘザル如キ口吻ナリ
カカル状況ヲ斟酌スルモ、ソノ余リニ稚拙、無思慮ノ作戦ナルハ明ラカナリ
果シテソノ成否如何 士官ノ間ニ、激シキ論戦続ク
必敗論圧倒的ニ強シ
「大和」出動ノ当然予想セラルベキ諸条件ノ符合
米軍ノ未ダカツテナキ慎重ナル偵察
情報ニヨリ確認セル如ク、沖縄周辺ニ待機ノ優秀且大量ノ機動部隊群
大海戦ニ例ヲ見ザル航空兵力ノ決定的懸隔
併セテ発進時期ノ疑問
提灯ヲ掲ゲテヒトリ暗夜ヲ行クニモ等シキ劣勢トイフベシ
豊後水道ニテ逸早ク潜水艦ニ傷ツカン
或ヒハ途半バニシテ航空魚雷ニ斃レン(青年士官ノ大勢ヲ占メタルコノ予測ハ、余リニモ鮮ヤカニ的中セリ)
痛烈ナル必敗論ヲカタハラニ、哨戒長臼淵大尉(一次室長)、薄暮ノ洋上ニ眼鏡ヲ向ケシママ低ク囁クゴトク言フ
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイフモノヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、真ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂャナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日一次室ニ沸騰セル死生談義ノ、一応ノ結論ナリ 敢ヘテコレニ反駁ヲ加ヘ得ル者ナシ
出撃気配ノ濃密化ト共ニ、青年士官ニ瀰漫セル煩悶、苦悩ハ、夥シキ論争ヲ惹起セズンバ止マズ
艦隊敗残ノ状既ニ蔽ヒ難ク、決定的敗北ハ単ナル時間ノ問題ナリ――何ノ故ノ敗戦ゾ 如何ナレバ日本ハ敗ルルカ
マタ第一線配置タル我ラガ命スデニ且夕ニ迫ル――何ノ故ノ死カ 何ヲアガナヒ、如何ニ報イラルベキ死カ
     吉田満 『戦艦大和の最期』 (創元社 昭和二十七年) 32~34ページ

 

一二〇〇(十二時) 今ヤ征途ノ半バニ達ス
全艦隊粛々トシテ進ム
司令長官左右ヲ顧ミ、破顔一笑「午前中ハドウヤラ無事ニ済ンダナ」
出撃後、艦橋右前部ノ長官席ニ就カレシ以来ノ第一声ナリ 警戒序列、之字運動型式ノ選択、速力、変針等、一切ヲ「大和」艦長ニ委ネ、参謀長ノ上申ニモタダ黙シテ肯クノミ コノ後本艦ノ傾覆マデ、砲煙弾雨ノウチ終始腕ヲ組ンデ巌ノ如ク坐ス 周囲ノ者殆ンド死傷スルモ些カモ動ゼズ
官ヲ賭スルマデノ反対ヲ、遂ニ押シ切ラレタル作戦ナレバ、首長トシテコレヲ主導スルヲ潔シトセザリシカ
海戦史ニモ残ルベキ無暴愚劣ノ作戦ノ最高責任者トシテ名ヲトドムル宿命ヘノ、無言ノ抵抗カ
竹ヲ割ツタル如キ気風、長身秀麗ノ伊藤長官
     同書 52~53ページ

 

 

 軍事史的には事実関係の検証という点に問題があるという指摘があるにせよ、戦後間もない時点での、大和の特攻の生き残りとしての吉田満の揺れる感情がそのまま記されたものとして、貴重な証言として読まれるべきだと思う(註:1)。

 吉田満が書き残した、大和の「特攻」に際しての、臼淵大尉と伊藤中将の姿は、やはり印象深い。

 作戦としての大和による特攻自体には批判的でありながらも、それぞれに軍人として、その職務を果たすことに徹底し、死んでいった二人である。

 ここでは、特攻に批判的であった部分をクローズアップしてしまっているが、吉田満自身の心の動きも含めて、彼らの心情は、「批判」という視点だけで語れるものではない。作戦を批判しつつも、その作戦での死を自らに納得させようと努力し、職務を全うしているのである。

 

 吉田満は、

終戦後海軍当局ノ釈明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ駆逐艦三十隻ノソレニ当ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戦ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、数千人ノ人命ヲ喪失シ、慙愧ニ耐ヘザル如キ口吻ナリ
カカル状況ヲ斟酌スルモ、ソノ余リニ稚拙、無思慮ノ作戦ナルハ明ラカナリ

…と記しているが、その怒りは正当なものである。

 あらためて「特攻」の経緯を示しておくと、

 

 アメリカ軍が沖縄本島に上陸したとき(一九四五年四月一日)、日本陸海軍の航空部隊は主として鹿児島県の基地から出撃して特攻することを決めていた。すでに三月にもかなりの特攻機が沖縄周辺のアメリカ艦隊をめざして体当たりをおこなっていた。燃料も底をついていた軍艦は出撃の機会がないと考えられていたが、急遽、戦艦大和を海上特攻隊として出撃させることが決まった。天皇の、「航空部隊だけの総攻撃なのか」との質問に触発されたともいうが、真相は不明という。
 伊藤長官は航空援護のない艦隊襲撃は敵の航空機の餌食になるだけだと反対したが、連合艦隊参謀長草加龍之介中将の、「一億総特攻の魁(さきがけ)となってもらいたい」との説得に、「わかった」と納得した。出撃する各艦の指揮官や参謀の中からも反対する声があがったが、伊藤長官の、「われわれは死に場所を与えられたのだ」との一言で、納得した。特攻出撃は命令ではあったけれども、一応は”説明会”を開いて納得ずくでおこなうという建前だったのである。
 大和艦隊は瀬戸内海の徳山沖を出撃した時点からアメリカ潜水艦に探知され、坊の岬沖で南寄りに変針してから間もなく、スプルーアンス大将は攻撃命令を発した。四月七日午後一二時四十分第一回一〇〇機が空襲をかけ、魚雷一本と爆弾一発を大和に命中させた。つづいて第二回一三九機、第三回一〇六機が襲い、大和は魚雷九本と爆弾三発を喰らった。雲が垂れこめ、大和は主砲を撃つことができなかった。大和は傾斜したままゆっくりと沈み、海中で大爆発を起こした。伊藤長官は内地帰投を命じて大和と運命をともにした。
     太平洋戦争研究会 『太平洋戦争・主要戦闘事典』 (PHP文庫 2005)  445~446ページ

 

…というものであった。ちなみに『ウィキペディア』記事の「大和(戦艦)」中の「海上特攻の経緯」の項では、

 

4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。

 1.航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
 2.好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
 3.揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっている。しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。この命令は豊田副武連合艦隊司令長官と及川古志郎軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなく、小沢治三郎軍令部次長も了解を与えている。

4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。

 

…として、大和の特攻の経緯が描かれている(出典にも細かく配慮された、『ウィキペディア』としては良質な記事である)。「一億総特攻のさきがけ」というのが誰の言葉であったのかについては確定し難いところがあるにせよ、それが説得力を持つ言葉として機能したことは事実のようである(註:2)。

 いずれにしても、そこにあるのはまさに、

  戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」

…の構図である。『ウィキペディア』記事の続きには、

 

4月30日、昭和天皇は米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。

 

…とも記されている(註:3)。戦艦大和乗り組みの2740名の戦死者、「海上特攻」に参加した第二艦隊全体での3721名の戦死者にとって、「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との海軍自身による作戦評価(註:4)は、どのような意味を持つものなのであろうか? どのような意味を持ち得るものなのであろうか?

 

 

 吉田満は、

  

「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――万里の長城、ピラミッド、大和」ナル雑言、「少佐以上銃殺、海軍ヲ救フノ道コノホカニナシ」ナル暴言ヲ、艦内ニ喚キ合フモ何ラ憚ルトコロナシ
     前掲書 65ページ

 

…と、当時の艦内の雰囲気を描いているが、この「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――万里の長城、ピラミッド、大和」で有名な一節にあるもう一つの言葉、

  「少佐以上銃殺、海軍ヲ救フノ道コノホカニナシ」

…がいかなる意味を持つものであるかについて、私たちは十分に注意深く読み取っておくべきであろう。

 シリーズ第二回で紹介した会田雄次の怒り、会田雄次が終生忘れなかった司令官木村兵太郎への怒り、会田雄次が抱いた皇軍への怒りと同じ問題(つまり統帥の無責任である)の存在が、ここに明確な誤解の余地のない表現で記録されているのである。

 

 

 

【註:1】
 引用は、手元にある、吉田満 『戦艦大和の最期』 (創元社 昭和二十七年) による。
 一般的にはカタカナ表記の『戦艦大和ノ最期』の表題で知られているが、「昭和二十七年八月三十日 初版發行」(ただし使用したのは、昭和二十七年九月十日の再版)の版では、ひらがな表記の『戦艦大和の最期』がタイトルとなっている(本文は、引用の通り、カタカナ表記である)。

【註:2】
 第二艦隊司令長官の伊藤整一中将が最終的に特攻に同意したのは、草加連合艦隊参謀長(あるいは三上作夫中佐)の、

 一億総特攻の魁(さきがけ)となって…

…という言葉によるものだとされているわけだが、この「一億総特攻」という問題は、現在の我々が、もっと深く考えるべきものだと思われる。
 つまり「一億総特攻」が意味するのは、戦闘員と非戦闘員の区別の消失状態なのであり、それは、まさに原爆投下を正当化させてしまう論理なのである。

 我々が前にしているのは、そのような「一億総特攻」という理屈が説得力を持ってしまった歴史である。そしてその理屈は、前回の最後に註記した問題にも重なる。つまり、

  帝國陸海軍に、将兵の「生存率の向上」という発想は存在したのだろうか?
  もっとも、「一億総特攻」をスローガンとしてしまえば、「生存率」など問題にならない

…ということなのである。

【註:3】
 昭和天皇と戦艦大和の特攻の決定過程の関係も複雑(あるいは微妙)な問題を含んでいる。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。宇垣は及川の対応を批判している。(この記述は『ウィキペディア』記事のものを使用)

 昭和天皇が第二艦隊の特攻使用を求めたわけではないが、軍令部総長は天皇の御下問への対応として、その場で「水上部隊を含めた全海軍兵力」による特攻を奉答してしまい、後戻り不能な地点へと自らを(そして海軍を)追い込んだのであった。
 それが大和乗り組み将兵の生死を決定したのである。

【註:4】
 そもそも大和を含む第二艦隊の海上特攻は沖縄戦の一環として計画されたものであり、沖縄守備の陸軍との共同作戦として実施されねば意味のないものであった。

だが、沖縄の第三十二軍は八原博通作戦参謀を中心に持久作戦を主張、大本営の沖縄飛行場攻撃命令・8日総攻撃要請にも応じなかった。海上特攻を思いとどまるよう牛島軍司令官は発信、「大本営機密戦争日誌」によれば『皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ』(『ウィキペディア』記事「坊ノ岬沖海戦」の記述による)

 ここにあるのは、大日本帝國陸海軍の抱え続けた「統帥」の問題である。近代総力戦を、陸海軍がバラバラのまま戦った歴史の、悲劇的な一事例でもあるのだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/11 12:27 → http://www.freeml.com/bl/316274/194692/

 

 

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