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2012年8月 7日 (火)

統帥の無責任としての特攻精神 3 (B-29と戦争遂行のマネジメント)

 

 1944(昭和十九)年の戦局は、大日本帝國の軍隊が完全に守勢となり、玉砕や特攻という形式で軍人兵士の生命を使い捨てにしていく状況に陥る一方で、米軍は攻勢の一端として最新鋭重爆撃機B-29を実戦投入する段階を迎えていた。

 

 今回は、そのB-29をめぐる話題である。

 

 B-29の機体は、本来の重爆撃機としての用途以外にも、偵察機や輸送機としても用いられている。

 その中に「スーパー・ダンボ(Super Dumbo)」と呼ばれるタイプがあった。

 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」中の『ボーイングB-29』(1995)によれば、

 

 B-29改修の救難型。救命イカダや食糧、投下ラジオその他の救難用具と搭載無線装備を増加させたもので、救助作戦に従事した艦艇、航空機の中で、最も日本沿岸に近い区域を担当した。1945年初めころは2~4機が出動していたが、終戦間際には6~8機ほどが作戦するようになっていた(註:1)。

 

…というものである。

 日本列島の爆撃任務には、長距離の洋上飛行が必要となる。乗機が飛行不能になれば、搭乗員は洋上に脱出し漂流せねばならない。米軍は、その救助のための航空機や艦艇を用意していたのである。

 

 飯山幸伸氏は、その著書『B-29恐るべし』(光人社NF文庫 2011)の中で、

 

 B-29の先輩機種に当たるB-17の最多、最終生産型となったB-17Gからの改造機というかたちで洋上捜索救難型のB-17H(通称、ダンボ)が作られて、大戦終盤には欧州戦でも太平洋戦でも洋上で消息を絶った友軍機搭乗員の救難活動に勤しんだことがあったが(註:2)、同様の救難機型はB-29の系列にも現れた。爆撃作戦に赴いたB-29の喪失機数は数百機規模で出撃した際には喪失機数が十機を上回り、数十機で出撃しても数機が喪失という事態はしばしば発生。そういったケースが積み重なれば、悩まされてきた搭乗員不足の問題がまたもや深刻化する状態になりかねなかった。救難機が帰路に控えているか否かも、危険な爆撃任務に挑む搭乗員たちの支えになったはずだった。

 

…と書いている。ここでは、

  そういったケースが積み重なれば、悩まされてきた搭乗員不足の問題がまたもや深刻化する状態になりかねなかった

…という記述に注目しておきたい。救難システムの存在(註:3)には、単なる人命尊重以上の意味があったのである。搭乗員には訓練が必要であり、その養成には時間と資金の投下が不可欠なのである。爆撃機搭乗員とは、その養成に多くのコストを要するものなのであり、使い捨てにするのではなく使いまわさねばならないものなのである。要するに、米軍における救難システムの存在は、単に軍人兵士の人命尊重を意味するだけではなく、戦争遂行のマネジメントの問題でもあるということなのだ。

 

 特攻とは、訓練養成にコストを要するパイロットを使い捨てにすること(もちろん、航空機という生産に高いコストを要する兵器も使い捨てにされる)で可能となる軍事行動である。

 戦争遂行のマネジメントという観点からしても、軍事作戦としての「特攻」という選択は、「統帥の無責任」を象徴した行為であることを、あらためて確認しておく必要を感じる。

 

 

 

【註:1】
 B-29のスーパー・ダンボ配備部隊については、「世界の傑作機」シリーズの『ボーイングB-29』にある、「20AFのB-29装備部隊」という表に、

 4ERS(Emergency Rescue Squadron)
 1945年4月から20AFの隷下で、硫黄島を基地にして救助任務に従事。B-29の胴体下に救命ボートを付けた、「スーパー・ダンボ」のほか、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)を使っていた。
          (52ページ)

…とあるので、「救助作戦に従事した艦艇、航空機の中で、最も日本沿岸に近い区域を担当した」という記述の詳細として、それが「硫黄島を基地として」であったことを意味し、時期的には1945年4月以降であることがわかる。

【註:2】
 文林堂「世界の傑作機」シリーズ『ボーイングB-17フライングフォートレス』(2007)によれば、

 SB-17G 大戦の末期、B-17Gの一部は胴体下面にパラシュートで投下できる大型救命ボートを装着し、捜索救難に使われた。1945年3月イギリスで任務につき、太平洋方面では終戦時に8機が活動していた。制式名はB-17Hだったが、1948年にSB-17Gと改称され、朝鮮戦争のときも救難に働いた。
          (82ページ)

 B-17の生産はB-17Gで終わったが、その後のB-17Hという名をつけられたのは、B-17Gの胴体下面に大きな救命ボートを搭載できるようにした捜索救難型だった。第8航空軍(これはイギリスに駐留していた対独戦のための航空軍である―引用者)で1945年3月31日に最初の救助活動を行い、その後、太平洋方面にも配置されている。戦後も救難機として使われ続け、1948年に空軍の命名法が改正されると、SB-17Gと呼ばれた。この規格に改造された期待は30機ほどに達したとみられる。また沿岸警備隊でも同じように救命ボートを搭載できるようにした機体をPB-1Gの名で使用した。
          (119ページ)

【註:3】
 飯山氏の『B-29恐るべし』の記述から補足しておくと、

 B-17Hが全長八メートルのヒギンスA-1救命ボートを空輸したところ、スーパーダンボの場合は全長九.〇七メートルのエドA-3救命ボートを運搬。
          (168ページ)

 一九四五年の初頭から数機のスーパーダンボが救難飛行隊(同書には「ARS」とあるが「ERS」の誤りか?―引用者)に所属してこの任務に就いたが、やがて16機がスーパーダンボとして用いられるように。波間に漂う要救助者を見つけるとA-3ボートはパラシュート投下されて不時着水機の乗員たちを収納。A-3ボートは耐水コンパートメント、防水テントも備えていたが、五百マイル(八百キロ強)の自力航行も可能だったという。
          (169ページ)

 救難機に搭載され、洋上に投下されるのは、耐水コンパートメント、防水テントも備えた救命ボートであり、B-17Hの場合は全長8メートル、より大型のB-29スーパーダンボの場合は9.07メートルの救命ボートが、洋上の不時着水機の搭乗員のために装備されていたことになる。

 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』には、

 SB-29
 戦後型の改造救難機でAPQ-13レーダーを前方に移動。爆弾倉部にあったエドA-3ライフボートを装備して15時間の滞空が可能であった。A-3は全長29ft9in(9.07m)のアルミ合金製で20区画の耐水コンパートメントと悪天候用のテントふたつを持ち、エンジンで500mile(805km)もの自力走行ができた。ARS(Air Rescue Servis)は1947年2月に最初の2機を受領している。
          (36ページ)

…とあり、A-3ボートが全長10メートル近いアルミ合金製で、海上の遭難者に十分な耐水防水性能を持ち、しかもエンジンまで装備されていた事実が確認出来る。いずれにしても、エドA-3のスペックを読むだけで、米国の物量が単なる「量」に終わるものではなく、高い「質」に裏付けられたものでもあったことを痛感させられるのである。

 そのような手厚い救難支援システムが、B-29搭乗員の士気を支えていたということなのである。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/11/30 21:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/176576/
 投稿日時 : 2011/12/03 22:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/176818/
 投稿日時 : 2011/12/06 22:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/177017/

 

 

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