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2012年8月

2012年8月11日 (土)

統帥の無責任としての特攻精神 9 (戦艦大和ノ最期)

 

 出発点にあったのは、

  「特攻精神」を、生還を期さずに戦いに臨む、という行為に見出すのであれば、それは決して「日本的」な精神として限定的に語られるべきものではない

…との認識であった。

 怒涛のごとく侵攻するドイツ軍の戦車に立ち向かうポーランドの槍騎兵の姿はまさにそれであるし、米国史を飾る「アラモの戦い」もまた、生還を期すことなく戦い、玉砕したテキサスの男達のエピソードである。

 そのように問題を整理すれば、

  日本的な、という限定をつけて「特攻精神」を語ろうとすると、詰まるところ、「特攻」による死を自己目的化した過程に求めることしか出来ないようにさえ思われる

…と、言わざるを得ない。前々回には、あらためて、

  帝國陸海軍における、戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」の問題

…として定式化してみたが、その際に念頭にあったのは、あの戦艦大和の最期である。

 

 まさに、

  戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」

…の果てに、戦艦大和では伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下2740名が戦死、「海上特攻」に参加した第二艦隊全体では3721名が戦死し、しかも何の戦果も生み出さなかったのである。

 これは、前線での戦闘過程の決定的な局面における、已むに已まれぬ行為としての生還を期さない攻撃なのではなく、中央で作戦として立案され、指揮命令系統の中でいわば業務として消化されていった、敵への攻撃でも効果的な防御でもなく、前線将兵の死を自己目的化した軍事行動と評価することしか出来ないものである。

 

 

 

本作戦ノ大綱次ノ如シ――先ヅ全艦突進、身ヲ以テ米海空勢力ヲ吸収シ、特攻機奏効ノ途ヲ開ク 更ニ命脈アラバ、タダ挺身、敵ノ真唯中ニノシ上ゲ、全員火トナリ風トナリ、全弾撃尽スベシ 若シナホ余力アラバ、モトヨリ一躍シテ陸兵トナリ、干戈ヲ交ヘン(分隊毎ニ機銃小銃ヲ支給サル)
世界海戦史上、空前絶後ノ特攻作戦ナラン
終戦後海軍当局ノ釈明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ駆逐艦三十隻ノソレニ当ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戦ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、数千人ノ人命ヲ喪失シ、慙愧ニ耐ヘザル如キ口吻ナリ
カカル状況ヲ斟酌スルモ、ソノ余リニ稚拙、無思慮ノ作戦ナルハ明ラカナリ
果シテソノ成否如何 士官ノ間ニ、激シキ論戦続ク
必敗論圧倒的ニ強シ
「大和」出動ノ当然予想セラルベキ諸条件ノ符合
米軍ノ未ダカツテナキ慎重ナル偵察
情報ニヨリ確認セル如ク、沖縄周辺ニ待機ノ優秀且大量ノ機動部隊群
大海戦ニ例ヲ見ザル航空兵力ノ決定的懸隔
併セテ発進時期ノ疑問
提灯ヲ掲ゲテヒトリ暗夜ヲ行クニモ等シキ劣勢トイフベシ
豊後水道ニテ逸早ク潜水艦ニ傷ツカン
或ヒハ途半バニシテ航空魚雷ニ斃レン(青年士官ノ大勢ヲ占メタルコノ予測ハ、余リニモ鮮ヤカニ的中セリ)
痛烈ナル必敗論ヲカタハラニ、哨戒長臼淵大尉(一次室長)、薄暮ノ洋上ニ眼鏡ヲ向ケシママ低ク囁クゴトク言フ
「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイフモノヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、真ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂャナイカ」
彼、臼淵大尉ノ持論ニシテ、マタ連日一次室ニ沸騰セル死生談義ノ、一応ノ結論ナリ 敢ヘテコレニ反駁ヲ加ヘ得ル者ナシ
出撃気配ノ濃密化ト共ニ、青年士官ニ瀰漫セル煩悶、苦悩ハ、夥シキ論争ヲ惹起セズンバ止マズ
艦隊敗残ノ状既ニ蔽ヒ難ク、決定的敗北ハ単ナル時間ノ問題ナリ――何ノ故ノ敗戦ゾ 如何ナレバ日本ハ敗ルルカ
マタ第一線配置タル我ラガ命スデニ且夕ニ迫ル――何ノ故ノ死カ 何ヲアガナヒ、如何ニ報イラルベキ死カ
     吉田満 『戦艦大和の最期』 (創元社 昭和二十七年) 32~34ページ

 

一二〇〇(十二時) 今ヤ征途ノ半バニ達ス
全艦隊粛々トシテ進ム
司令長官左右ヲ顧ミ、破顔一笑「午前中ハドウヤラ無事ニ済ンダナ」
出撃後、艦橋右前部ノ長官席ニ就カレシ以来ノ第一声ナリ 警戒序列、之字運動型式ノ選択、速力、変針等、一切ヲ「大和」艦長ニ委ネ、参謀長ノ上申ニモタダ黙シテ肯クノミ コノ後本艦ノ傾覆マデ、砲煙弾雨ノウチ終始腕ヲ組ンデ巌ノ如ク坐ス 周囲ノ者殆ンド死傷スルモ些カモ動ゼズ
官ヲ賭スルマデノ反対ヲ、遂ニ押シ切ラレタル作戦ナレバ、首長トシテコレヲ主導スルヲ潔シトセザリシカ
海戦史ニモ残ルベキ無暴愚劣ノ作戦ノ最高責任者トシテ名ヲトドムル宿命ヘノ、無言ノ抵抗カ
竹ヲ割ツタル如キ気風、長身秀麗ノ伊藤長官
     同書 52~53ページ

 

 

 軍事史的には事実関係の検証という点に問題があるという指摘があるにせよ、戦後間もない時点での、大和の特攻の生き残りとしての吉田満の揺れる感情がそのまま記されたものとして、貴重な証言として読まれるべきだと思う(註:1)。

 吉田満が書き残した、大和の「特攻」に際しての、臼淵大尉と伊藤中将の姿は、やはり印象深い。

 作戦としての大和による特攻自体には批判的でありながらも、それぞれに軍人として、その職務を果たすことに徹底し、死んでいった二人である。

 ここでは、特攻に批判的であった部分をクローズアップしてしまっているが、吉田満自身の心の動きも含めて、彼らの心情は、「批判」という視点だけで語れるものではない。作戦を批判しつつも、その作戦での死を自らに納得させようと努力し、職務を全うしているのである。

 

 吉田満は、

終戦後海軍当局ノ釈明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ駆逐艦三十隻ノソレニ当ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戦ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、数千人ノ人命ヲ喪失シ、慙愧ニ耐ヘザル如キ口吻ナリ
カカル状況ヲ斟酌スルモ、ソノ余リニ稚拙、無思慮ノ作戦ナルハ明ラカナリ

…と記しているが、その怒りは正当なものである。

 あらためて「特攻」の経緯を示しておくと、

 

 アメリカ軍が沖縄本島に上陸したとき(一九四五年四月一日)、日本陸海軍の航空部隊は主として鹿児島県の基地から出撃して特攻することを決めていた。すでに三月にもかなりの特攻機が沖縄周辺のアメリカ艦隊をめざして体当たりをおこなっていた。燃料も底をついていた軍艦は出撃の機会がないと考えられていたが、急遽、戦艦大和を海上特攻隊として出撃させることが決まった。天皇の、「航空部隊だけの総攻撃なのか」との質問に触発されたともいうが、真相は不明という。
 伊藤長官は航空援護のない艦隊襲撃は敵の航空機の餌食になるだけだと反対したが、連合艦隊参謀長草加龍之介中将の、「一億総特攻の魁(さきがけ)となってもらいたい」との説得に、「わかった」と納得した。出撃する各艦の指揮官や参謀の中からも反対する声があがったが、伊藤長官の、「われわれは死に場所を与えられたのだ」との一言で、納得した。特攻出撃は命令ではあったけれども、一応は”説明会”を開いて納得ずくでおこなうという建前だったのである。
 大和艦隊は瀬戸内海の徳山沖を出撃した時点からアメリカ潜水艦に探知され、坊の岬沖で南寄りに変針してから間もなく、スプルーアンス大将は攻撃命令を発した。四月七日午後一二時四十分第一回一〇〇機が空襲をかけ、魚雷一本と爆弾一発を大和に命中させた。つづいて第二回一三九機、第三回一〇六機が襲い、大和は魚雷九本と爆弾三発を喰らった。雲が垂れこめ、大和は主砲を撃つことができなかった。大和は傾斜したままゆっくりと沈み、海中で大爆発を起こした。伊藤長官は内地帰投を命じて大和と運命をともにした。
     太平洋戦争研究会 『太平洋戦争・主要戦闘事典』 (PHP文庫 2005)  445~446ページ

 

…というものであった。ちなみに『ウィキペディア』記事の「大和(戦艦)」中の「海上特攻の経緯」の項では、

 

4月2日、第二水雷戦隊旗艦・軽巡洋艦「矢矧」での第二艦隊の幕僚会議では次の3案が検討された。

 1.航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず突入戦を強行、水上部隊最後の海戦を実施する。
 2.好機到来まで、極力日本海朝鮮南部方面に避退する。
 3.揚陸可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする。

この3案に対し古村少将、山本祐二大佐、伊藤中将ら幕僚は3.の案にまとまっていた。伊藤は山本を呉に送り、連合艦隊に意見具申すると述べた。4月3日には、少尉候補生が乗艦して候補生教育が始まっている。しかし突然4月4日神重徳大佐から電話により特攻作戦が内示された。この命令は豊田副武連合艦隊司令長官と及川古志郎軍令部総長の決裁後に軍令部、連合艦隊の幹部に通告されたため反論しようがなく、小沢治三郎軍令部次長も了解を与えている。

4月5日、特攻命令を伝達に来た聯合艦隊参謀長草鹿龍之介中将に対し伊藤中将が納得せず、無駄死にとの反論を続けた。自身も作戦に疑問を持っていた草鹿中将が黙り込んでしまうと、たまりかねた三上中佐が口を開いた「要するに、一億総特攻のさきがけになっていただきたい、これが本作戦の眼目であります」その言葉に伊藤中将もついに頷いたという。

 

…として、大和の特攻の経緯が描かれている(出典にも細かく配慮された、『ウィキペディア』としては良質な記事である)。「一億総特攻のさきがけ」というのが誰の言葉であったのかについては確定し難いところがあるにせよ、それが説得力を持つ言葉として機能したことは事実のようである(註:2)。

 いずれにしても、そこにあるのはまさに、

  戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」

…の構図である。『ウィキペディア』記事の続きには、

 

4月30日、昭和天皇は米内光政海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した。

 

…とも記されている(註:3)。戦艦大和乗り組みの2740名の戦死者、「海上特攻」に参加した第二艦隊全体での3721名の戦死者にとって、「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との海軍自身による作戦評価(註:4)は、どのような意味を持つものなのであろうか? どのような意味を持ち得るものなのであろうか?

 

 

 吉田満は、

  

「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――万里の長城、ピラミッド、大和」ナル雑言、「少佐以上銃殺、海軍ヲ救フノ道コノホカニナシ」ナル暴言ヲ、艦内ニ喚キ合フモ何ラ憚ルトコロナシ
     前掲書 65ページ

 

…と、当時の艦内の雰囲気を描いているが、この「世界ノ三馬鹿、無用ノ長物ノ見本――万里の長城、ピラミッド、大和」で有名な一節にあるもう一つの言葉、

  「少佐以上銃殺、海軍ヲ救フノ道コノホカニナシ」

…がいかなる意味を持つものであるかについて、私たちは十分に注意深く読み取っておくべきであろう。

 シリーズ第二回で紹介した会田雄次の怒り、会田雄次が終生忘れなかった司令官木村兵太郎への怒り、会田雄次が抱いた皇軍への怒りと同じ問題(つまり統帥の無責任である)の存在が、ここに明確な誤解の余地のない表現で記録されているのである。

 

 

 

【註:1】
 引用は、手元にある、吉田満 『戦艦大和の最期』 (創元社 昭和二十七年) による。
 一般的にはカタカナ表記の『戦艦大和ノ最期』の表題で知られているが、「昭和二十七年八月三十日 初版發行」(ただし使用したのは、昭和二十七年九月十日の再版)の版では、ひらがな表記の『戦艦大和の最期』がタイトルとなっている(本文は、引用の通り、カタカナ表記である)。

【註:2】
 第二艦隊司令長官の伊藤整一中将が最終的に特攻に同意したのは、草加連合艦隊参謀長(あるいは三上作夫中佐)の、

 一億総特攻の魁(さきがけ)となって…

…という言葉によるものだとされているわけだが、この「一億総特攻」という問題は、現在の我々が、もっと深く考えるべきものだと思われる。
 つまり「一億総特攻」が意味するのは、戦闘員と非戦闘員の区別の消失状態なのであり、それは、まさに原爆投下を正当化させてしまう論理なのである。

 我々が前にしているのは、そのような「一億総特攻」という理屈が説得力を持ってしまった歴史である。そしてその理屈は、前回の最後に註記した問題にも重なる。つまり、

  帝國陸海軍に、将兵の「生存率の向上」という発想は存在したのだろうか?
  もっとも、「一億総特攻」をスローガンとしてしまえば、「生存率」など問題にならない

…ということなのである。

【註:3】
 昭和天皇と戦艦大和の特攻の決定過程の関係も複雑(あるいは微妙)な問題を含んでいる。

『戦藻録』(宇垣纏中将日誌)によれば、及川古志郎軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との御下問があり、陛下から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったということである。宇垣は及川の対応を批判している。(この記述は『ウィキペディア』記事のものを使用)

 昭和天皇が第二艦隊の特攻使用を求めたわけではないが、軍令部総長は天皇の御下問への対応として、その場で「水上部隊を含めた全海軍兵力」による特攻を奉答してしまい、後戻り不能な地点へと自らを(そして海軍を)追い込んだのであった。
 それが大和乗り組み将兵の生死を決定したのである。

【註:4】
 そもそも大和を含む第二艦隊の海上特攻は沖縄戦の一環として計画されたものであり、沖縄守備の陸軍との共同作戦として実施されねば意味のないものであった。

だが、沖縄の第三十二軍は八原博通作戦参謀を中心に持久作戦を主張、大本営の沖縄飛行場攻撃命令・8日総攻撃要請にも応じなかった。海上特攻を思いとどまるよう牛島軍司令官は発信、「大本営機密戦争日誌」によれば『皇国ノ運命ヲ賭シタル作戦ノ指導ガ、慎重性、確実性ヲ欠ク嫌アルコトハ極メテ遺憾ナルモ戦艦ノ価値昔日ノ比ニアラザルヲ以テ驚クニ足ラズ』(『ウィキペディア』記事「坊ノ岬沖海戦」の記述による)

 ここにあるのは、大日本帝國陸海軍の抱え続けた「統帥」の問題である。近代総力戦を、陸海軍がバラバラのまま戦った歴史の、悲劇的な一事例でもあるのだ。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/08/11 12:27 → http://www.freeml.com/bl/316274/194692/

 

 

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2012年8月10日 (金)

統帥の無責任としての特攻精神 8 (ボンバールと靖國の英霊)

 

 前回は、アラン・ボンバールの知見によりながら、B-29スーパー・ダンボの存在の意味を再検討したわけだが、帝國陸海軍が、不時着水した陸海軍航空隊爆撃機搭乗員のために、どのような救難システムを用意していたのかについては、今のところ、何の知識もない状態である。

 

 

 ここでは、前々回に紹介した、

 

 太平洋戦争中に撃沈された一〇〇総トン以上の日本の商船の総数は二五六八隻、八三八万総トンに達している。そしてその中の多くは軍隊輸送の最中に撃沈されており、その犠牲になった将兵の数はおよそ九万五五〇〇名に達しているのである。
 この数は陸軍歩兵八個師団に相当するもので、しかもこの八個師団の将兵は戦わずして無為に失われたもので、各戦線での戦力の絶対的な不足の大きな要因になったわけである。
 太平洋戦争において犠牲になった日本の陸海軍将兵の総数はおよそ一八六万五〇〇〇名とされている。輸送船の撃沈で失われた将兵はこの中の五・一パーセントという無視できない数字となって現れているのである。
     大内建二 『悲劇の輸送船』 (375~376ページ)

 

…という歴史的事実の背景に立ち入ることから始めてみたい。陸軍将兵の海上輸送に際して、彼らがどのような配慮の下に取扱われていたのか?という問題である。

 

 大内氏は書中で、連合国による将兵の海上輸送と、帝國陸海軍によるそれとの比較検討を五項目にわたり行なっている。

 その中の二項目を、ここで引用紹介したい。大内氏は、戦時日本の軍隊輸送船の問題を、

 

 (4)、救命設備は乗船者全員を救助できるだけの十分な数のボートあるいはライフラフトを備えているのは例外中の例外で、既存の救命艇以外には木や竹で組み上げた簡易式筏は搭載されていたが、乗船者全員を収容する数を備えている例はほとんどなく、不足分は甲板上に角材や竹の束を搭載し、沈没に際してはこれらを海面に投げ込み、海に飛び込んだ者がこれにつかまり漂流する方法が採られていた。しかし遭難経験者の話では、漂流者が海面で角材や竹の束にしがみつくことは泳ぎに熟練した者にはできても、大半の漂流者には至難の業で、結局は机上の考えを実行したものと考えるのが妥当である。つまり日本の軍隊輸送船では救命設備の完備ということは、全く存在し得ないことであったことになる。
 (5)、貨物船は本来が人間を輸送する構造にはなっていないものであるが、日本の軍隊輸送はこの「なってはいないもの」を多用したことに問題があった。つまり貨物の搭載場所である中甲板(上甲板と船倉の間に設けられた強度甲板=貨物の搭載場所に使われる)が兵員の居住場所になった。そしてここには乗船する兵員が手足を伸ばして休息するには、常に面積が不足する休息場所(木材で組み上げられた三~四段構造の寝棚=いわゆるカイコ棚)が組み上げられ、兵員たちはこのプライバシーと衛生的という言葉も存在しない劣悪な環境の中で居住を強いられ輸送された。
 実際の例としても、カイコ棚の総面積に対する乗船兵員の割合は、大半が極端な居住性オーバーな状態で、例えばカイコ棚三・三平方メートル当たりの収容人員は、四~六名という状況で、収容された兵員は手足を伸ばして就寝することもできず、お互いに背中をもたせ掛け合いながらの休息となる。多くの兵員は基本的には厳禁である上甲板にしばしの間横たわることで、就寝の時を過ごさざるを得なかった。
 そしてこの状況は乗船する船が不足し出した一九四四年後半になるにつれて過酷さを増していった。
 この過密な収容状況の中で雷撃を受けた場合、居住区域内は大混乱となり、スムーズな脱出を企てること自体不可能になり、犠牲者の数が増加するのは当然である。また貨物船の場合は船倉に魚雷が命中した場合には、爆発力でその上の中甲板の床は大きく破壊され、周辺に配置されているカイコ棚は激しく破壊されるために、当然のこととして犠牲者が増えるのである。
 つまり軍隊を船舶で輸送ということに対し、日本の場合には将兵の人命と人道ということに対する配慮は最低の状態になり、言い換えれば将兵は貨物扱いと極言できる程の劣悪な環境の中で運ばれていったわけである。この状況があるからこそ、軍隊輸送船の沈没に際して犠牲者が欧米に比べて圧倒的に高いことが理解出来るのである。
          (374~375ページ)

 

…と整理しているのである。

 大内氏は、「日本の軍隊輸送船では救命設備の完備ということは、全く存在し得ないことであったことになる」と言うのだ。

 「救命設備は乗船者全員を救助できるだけの十分な数のボートあるいはライフラフトを備えているのは例外中の例外」なのであり、つまりボートで海上を漂流することへの可能性自体が存在しないのである。

 しかも、そもそもが「過密な収容状況の中で雷撃を受けた場合、居住区域内は大混乱となり、スムーズな脱出を企てること自体不可能」なのであって、沈む輸送船の中に閉じ込められたままというケースが多かったわけである。

 たとえ、「例外中の例外」としてボートを手に入れることが出来たにしても、米軍に制海権も制空権も奪われた状況では、友軍による捜索も救助も望めないのである。

 

 それが、

  太平洋戦争において犠牲になった日本の陸海軍将兵の総数はおよそ一八六万五〇〇〇名とされている。

  輸送船の撃沈で失われた将兵はこの中の五・一パーセントという無視できない数字となって現れているのである。

…という数字の内実である(註:1)。

 彼らは、ボンバールの記した状況さえ経験することなく、海に沈んだのだ。

 靖国の英霊の二十人に一人は、そのような死を経験したということなのである。

 

 

 

【註:1】
 帝國陸海軍に、将兵の「生存率の向上」という発想は存在したのだろうか?
 もっとも、「一億総特攻」をスローガンとしてしまえば、「生存率」など問題にならないわけである。

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/15 22:00 → http://www.freeml.com/bl/316274/177755/

 

 

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統帥の無責任としての特攻精神 7 (ボンバールとスーパー・ダンボ)

 

 「あの戦争」について、つまり大東亜戦争について考えようとする際に、「特攻」の問題は誰しも避けて通ることが出来ないものの一つであろう。私にとっては、それは、

  帝國陸海軍における、戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」の問題

…として、多くのことを考えさせる。

 そこにあるのは、戦闘員の人命の徹底的な軽視である。前回は、「海に沈んだ陸軍将兵」の存在(それは陸軍八個師団に相当する人員の喪失であった)にスポットを当てることで、大日本帝國陸海軍における「戦闘員の人命の徹底的な軽視」の実状を再確認した。

 それに先立つ回では、B-29のスーパー・ダンボと呼ばれる洋上救難型の機種の存在と、遭難したB-29搭乗員の洋上での救助の実際を見ることで、米軍が自軍の戦闘員の人命の問題にどのように対処していたのかを確認してきたわけである。

 

 

 今回は、アラン・ボンバールの知見を基に、洋上の遭難者の生存率の向上に果たしたであろうスーパー・ダンボの役割を再検討してみたい。

 

 まずアラン・ボンバールについて、その著書『実験漂流記』の訳者である近藤等氏による「著者の横顔」の引用から始めると、

 

 スポーツ、とくに水泳が好きであったボンバールは、英仏海峡横断に参加するほどの腕前であると同時に、海そのものが好きで、フランスの港町ブーローニュ・シュール・メールの病院で医師としての第一歩を踏みだした。
 医師として彼は、人体はどこまで飢餓に耐えうるか、という研究に興味をいだき、流刑者、囚人、および食物を十分与えられない人々について研究をつづけていたが、そのうち海難者のケースに関心を寄せるようになり、みずから人体実験をおこなうべく異端者号に乗りこみ、実験漂流を敢行した。
 彼の主張は、「人を殺す絶望を殺さねばならぬ」ということであった。「絶望はかわきよりも早く人を殺す」のである。…

 

…との紹介がある。その「異端者号」による「実験漂流」が、同書の内容ということであるらしい(同書については知人から提供された抜粋のコピーを読んだのみなので)。

 今回のテーマに関しては、

  医師として彼は、人体はどこまで飢餓に耐えうるか、という研究に興味をいだき…

  彼の主張は、「人を殺す絶望を殺さねばならぬ」ということであった。「絶望はかわきよりも早く人を殺す」のである。

…というボンバールの問題意識、特に彼の関心の焦点となった「海難者のケース」こそが、これまで取上げてきた、あのB-29スーパー・ダンボの存在の大きな意味を、あらためて明らかにするものとなるように思われたのである。

 

 

 さて、アラン・ボンバールの関心の焦点となった「海難者のケース」について、その著書『実験漂流記』の記述を読んでみよう。

 

 その「まえがき」は、

  一九五一年、春のある朝、ブーローニュ・シュール・メールでのこと。

…という言葉で始まる。祖父母のアドバイス通りに医師となったボンバールは、ブーローニュ・シュール・メールの病院に勤務していたのであった。カルノー堤防で難破船が発見されたとの連絡があり、彼は病院の救急室で待ち構えていた。

 

 警笛が鳴りひびいて救急車が到着した。ドアが両端にひらかれ、ぼくは自分の立場に優越感を味わいながら、進みでた……たがいに積みかさねられた四十三人の男、彼らはこわれたあやつり人形のようにくにゃくにゃになっていて、みんな救命浮帯をつけていた。ぼくはこの光景を決して忘れないだろう。僕らのあらゆる努力にもかかわらず、この日、甦生したものはひとりもなかった。一分のあやまちによって生じた結果は、四十三人の死者と七十八人の孤児であった。
 ぼくが難船の悲劇について深く考えるようになったのは、このときからだと思う。また「異端者号」遠征の発端も、ここにあるのだと思う。
 難船! このことばは、ぼくにとって、人間のみじめさの表現そのものとなった。これは絶望と飢えとかわきの同意語であった。ブーローニュ市は毎年、その住民中、百名ないし百五十名を海でうしなっていた。世界中では、平時において毎年二十万人が海難で死亡していることをぼくは知った。平均して犠牲者の四分の一は救助船に救われるが、彼らはその後まもなく非常に苦しみながら死亡する。
 人体はどこまで飢餓にたえうるか、という研究について、ぼくはずっと前から興味をもっていた。その結果、ときとして人間は、一般に生理学が限度と定めているよりももっと長く、飢餓にたえうるという確信をもっていた。

 

 飢餓への興味が、医師としての自らの体験を通して、「難船の悲劇」の問題へと収斂していったわけである。その問題意識の焦点と思われる箇所を抜書きしておこう。

 

 要するに、海難者にとっては海はたえまのない危険であるが、人間を憎んでいるのではない。ことに海は不毛の砂漠とはちがう。だから、恐怖にうちかち、海から食物をもとめることは、決して実行不可能ではない。
 これが環境に関してのぼくの出発点であった。そして、この環境をとおして、またこれに反抗して生きのびなければならない人間の肉体については、最悪の条件のもとに長く生きのびた有名な例を研究した結果、生理学者は精神の力とこれが肉体におよぼす影響を考慮しないことが多いのを知った。…

 これらの例は、精神力の重要性についてのぼくの確信を強めた。海難者の九〇パーセントが難船後三日以内に死ぬことが統計で示されているが、これは奇妙な事実である。というのは、飢えやかわきによって死ぬには、もっと多くの時日が必要だからである。
 船が沈むとき、人々は世界が船とともに沈むと思いこむ。足を支える板がなくなるので、勇気と理性が同時にすっかり失われてしまう。このとき、救難ボートがやってきたとしても、それだけではもう救われない。ボートのなかでぐったりとなって、自分たちのみじめさを見つめているだけである。彼らはもはや生きていないのである。
 くらやみのなかで水と風にふるえ、空間、もの音、あるいは静けさにおののく海難者にとって、死ぬのには三日で十分なのである。
 伝説の海難者たちよ、死をいそぐ犠牲者たちよ、諸君は海のために死んだのではない。諸君は飢えのために死んだのではない。また、かわきのために死んだのでもない。諸君はカモメの鳴声をききながら、恐怖のために死んだのである。
 物理的ないし生理的条件それ自身が致命的になるずっと前に、多くの海難者は死んでしまうという事実を、ぼくはまもなく確認した。いかなる物理的素因よりも、いっそう有効で、またすみやかに作用する恐怖心に対して、どう戦えばよいのか?

 

 

 さて、海難者に何が経験されるのか?という問題として考えると、

  船が沈むとき、人々は世界が船とともに沈むと思いこむ。足を支える板がなくなるので、勇気と理性が同時にすっかり失われてしまう。

…とボンバールが記した精神状況が、すべての出発点となるように思われる。

 救命具により、船と共に海に沈むことを免れ、とりあえず救命ボートを手に入れて海上に浮き続けることが出来ただけでは不十分なのである。それだけでは、

  ボートのなかでぐったりとなって、自分たちのみじめさを見つめているだけである。彼らはもはや生きていないのである。

  くらやみのなかで水と風にふるえ、空間、もの音、あるいは静けさにおののく海難者にとって、死ぬのには三日で十分なのである。

…という事態に陥るのが、多くの人間の現実だというのだ。

 

 そんな事態の回避の上で有益なもののひとつが、捜索されている可能性への信頼なのである。自分たちが、海の上に見捨てられた存在なのではなく、捜索されつつあり救助されるであろう存在であると思えることは、海難者の生存に大きく寄与するということなのである(註:1)。

 

 そこに、あのB-29スーパー・ダンボの存在の意味(註:2)が、あらためて見えてくるはずである(註:3)。

 

 

 

【註:1】
 ここには不時着水と難船との違いはあるが、広い洋上をいつか発見される偶然に頼り漂流するだけという状況は多くの人間には耐え難いものであり、たとえ救命ボートを手に入れられたとしても「死ぬのには三日で十分」という事態になってしまう、とボンバールは言うのである。
 それに対し、スーパー・ダンボやOA-10A飛行艇が空から捜索し、海軍艦艇が洋上から支援し、つまり太平洋上を漂流する搭乗員を発見し救助するための努力が存在するという事実は、孤立無援の絶望感に沈むことではなく生き延びる可能性を考えることにつながるだろう。それは、洋上に不時着水した搭乗員の生存率の向上に、大きく寄与したはずである。
 そこにあるのは自分たちが「見捨てられてはいない」という希望であり、より正確には自分たちが「見捨てられることはない」という信頼感である。

 実際に捜索されることで救助され生存が確保されるわけだが、ボンバールの知見により推測されるのは、捜索されているという事実があり、救助のためのシステムが存在するという事実が、それだけで生存率の向上をもたらすだろうという構図である。

【註:2】
 これまでに判明したB-29スーパー・ダンボの姿は、まず飯山氏の『B-29恐るべし』にある記述から、

 一九四五年の初頭から数機のスーパーダンボが救難飛行隊(ARS)に所属してこの任務に就いたが、やがて16機がスーパーダンボとして用いられるように。波間に漂う要救助者を見つけるとA-3ボートはパラシュート投下されて不時着水機の乗員たちを収納。A-3ボートは耐水コンパートメント、防水テントも備えていたが、五百マイル(八百キロ強)の自力航行も可能だったという。
          (169ページ)

…というものであり、「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』の記述から、搭載されているエドA-3ボートについての、

 A-3は全長29ft9in(9.07m)のアルミ合金製で20区画の耐水コンパートメントと悪天候用のテントふたつを持ち、エンジンで500mile(805km)もの自力走行ができた。
          (36ページ)

…というスペックの高さと、

 4ERS(Emergency Rescue Squadron)
 1945年4月から20AFの隷下で、硫黄島を基地にして救助任務に従事。B-29の胴体下に救命ボートを付けた、「スーパー・ダンボ」のほか、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)を使っていた。
          (52ページ)

…という部隊配備状況までがわかった。
 4ERS部隊にはスーパー・ダンボの他に、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)も配備されており、それらのチームが、空から不時着水したB-29搭乗員を捜索し、全長29ft9in(9.07m)のアルミ合金製で20区画の耐水コンパートメントと悪天候用のテントふたつを持ち、エンジンで500mile(805km)もの自力走行可能な救命ボートを投下し、海軍艦艇に救助されるまでの搭乗員を支援するのである。

【註:3】
 ボンバールの知見は戦後のものなので、それがスーパー・ダンボの開発に影響を与えたはずはない。
 ただし、スーパー・ダンボの開発思想がどのようなものであろうとも、その存在は、ボンバールの知見に適合的であり、洋上に不時着水したB-29搭乗員の生存率向上に、大きく寄与した可能性があるように思われる。
 戦後も同タイプのB-29が製造配備されていた事実は、その可能性を裏付けるものであるようにも考えられる。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/12/11 22:59 → http://www.freeml.com/bl/316274/177429/
 投稿日時 : 2011/12/12 21:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/177494/
 投稿日時 : 2011/12/14 21:53 → http://www.freeml.com/bl/316274/177673/

 

 

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2012年8月 9日 (木)

統帥の無責任としての特攻精神 6 (海に沈んだ「陸軍」将兵)

 

 「統帥の無責任しての特攻精神」という問題を考え続けているわけだが、その出発点にあったのは、かつての日本軍の用いた特攻作戦についての、

  前線での戦闘過程における、已むに已まれぬ行為としての生還を期さない攻撃なのではなく、中央で作戦として立案され業務として遂行されていく、敵への攻撃でも効果的な防御でもなく、前線パイロットの死を自己目的化した軍事行動に過ぎなくなっていくのである。「玉砕」についてもまた、同様の構図が描けるだろう。
  そこにあるのは、軍事における統帥の無責任である。

…との認識であり、対比的に、B-29のスーパー・ダンボと呼ばれる洋上救難型の機種の実態を追求することで、

  救難システムの存在には、単なる人命尊重以上の意味があったのである。搭乗員には訓練が必要であり、その養成には時間と資金の投下が不可欠なのである。爆撃機搭乗員とは、その養成に多くのコストを要するものなのであり、使い捨てにするのではなく使いまわさねばならないものなのである。要するに、米軍における救難システムの存在は、単に軍人兵士の人命尊重を意味するだけではなく、戦争遂行のマネジメントの問題でもあるということなのだ。
  特攻とは、訓練養成にコストを要するパイロットを使い捨てにすること(もちろん、航空機という生産に高いコストを要する兵器も使い捨てにされる)で可能となる軍事行動である。
  戦争遂行のマネジメントという観点からしても、軍事作戦としての「特攻」という選択は、「統帥の無責任」を象徴した行為であることを、あらためて確認しておく必要を感じる。

…との認識に立至ったわけである。

 

 

 今回は「戦争遂行のマネジメント」としての「統帥の無責任」という問題意識から、「海に沈んだ陸軍将兵」について考えてみたい。

 

 

 この戦争で戦時商船、輸送船に対して日本が犯した失敗の原因を一言で言うならば、「過去のあらゆる体験や失敗に対する原因の究明の欠如と、そこから早急に新しい対策(ソフト・ハード両面の)を生み出そうとする積極的な思考の完全な欠如」であろう。
 自らの行動の結果に対する分析と検討と、次なる対策を早急に考え出そうとする一つのシステムがほとんど機能していなかったことは、軍という組織の中に長い間に育ってしまった習慣の尊重と形式主義の横行、言い換えれば事勿れ主義の横行と常に進取の精神に満ちあふれた科学技術に対する研鑽の欠如の気風の蔓延であったと考えざるを得ないのである。
 第二次大戦中に発生した連合軍側と日本の商船の損害を見たとき、そこには特異な違いがあることに気がつく。それは商船の沈没によって発生する犠牲者の数において日本が圧倒的に多いことである。
 客船や貨物船を軍隊輸送船として徴用し、それらが撃沈された時、一船あたりの犠牲者の数が一〇〇〇名を越えるという例は連合軍側ではわずかに三例を見るだけである。しかもその例の犠牲者の大多数は、輸送中の枢軸軍の捕虜が犠牲となったり、緒戦において連合軍の撤退将兵と民間人の混乗する商船の沈没等の特殊な例に限られていることである。
 ところが日本では一〇〇〇名を超える犠牲を出した沈没事例は実に五〇例にも達するのである。そしてその犠牲者のほとんどが輸送途中の将兵であるという事実に異常性がある。
     大内建二 『悲劇の輸送船 言語道断の戦時輸送の実態』 光人社NF文庫 2007 368~370ページ)

 太平洋戦争中に撃沈された一〇〇総トン以上の日本の商船の総数は二五六八隻、八三八万総トンに達している。そしてその中の多くは軍隊輸送の最中に撃沈されており、その犠牲になった将兵の数はおよそ九万五五〇〇名に達しているのである。
 この数は陸軍歩兵八個師団に相当するもので、しかもこの八個師団の将兵は戦わずして無為に失われたもので、各戦線での戦力の絶対的な不足の大きな要因になったわけである。
 太平洋戦争において犠牲になった日本の陸海軍将兵の総数はおよそ一八六万五〇〇〇名とされている。輸送船の撃沈で失われた将兵はこの中の五・一パーセントという無視できない数字となって現れているのである。
 勿論、輸送船の撃沈で犠牲になったのは将兵ばかりではない。一般民間人や軍属も合計四万八八〇〇名という多数の犠牲を出しているばかりか、各種輸送船の乗組員もおよそ三万一〇〇〇名も失われたのである。
 つまり二五七〇隻の商船の損失の陰には合計十七万五三〇〇名という想像を絶する数の人命が失われているのである。
 日本と欧米の戦時商船の損害の違いの中に隠されている真の犠牲の原因を改めて認識していただきたい。
     (同書 375~376ページ)

 

 つまり、大東亜戦争の対米英戦争段階で靖国の英霊となった将兵の二十人に一人は、撃沈された輸送船の船倉に閉じ込められたまま死んでいったということなのである。

 大内氏は、「この数は陸軍歩兵八個師団に相当するもので、しかもこの八個師団の将兵は戦わずして無為に失われたもので、各戦線での戦力の絶対的な不足の大きな要因になった」と書いているが、そのような事態を引き起こした責任の所在はどこにあるのか?

 

 対米英戦争を開始するに際して、統帥部は船舶需給の見通しを完全に見誤ったし(それは恒常的な船舶不足と、後の「第二次戦時標準船」の粗製濫造―詳細は「註:1」参照―に帰結する)、太平洋戦域という海上輸送が不可欠となる戦場における輸送船団の海上護衛の必要性を考慮することがなかった。南方でやっと獲得した貴重な資源の本土への輸送にも、本土から戦場への兵員と装備の輸送にも、長距離の海上輸送が不可欠であったにもかかわらず、輸送船舶の用意においても、その護衛艦隊の準備においても、あまりに杜撰なものであった。

 

 それは、死んだ兵士にとっては何より自分自身の命の問題であったし、兵士の家族にとっては大事な父であり息子を失うことを意味したわけだが、戦力の基盤である将兵の命の軽視は、軍事的には戦争遂行に必要な戦力の喪失そのものとして帰結し、その重要な問題に無自覚な統帥部の作戦行動に依存した国家の敗戦は必然であったと言うしかない。

 死を恐れない勇猛な兵士は精強な軍隊を基礎付けるが、兵士の生命を消耗品扱いして平気な将軍の存在は、近代総力戦時代の軍を敗北に導くのである。

 兵士はいくら死のうが、新たに召集すれば補充される。そのような考えは、銃後の生産過程から熟練した労働力を奪い、総力戦遂行を根底から突き崩してしまう(註:1)。

 兵士の命の軽視という倫理的問題というだけでなく、総力戦遂行のマネジメントという観点からも、大日本帝國における「統帥」の問題は追及されるべきである(その象徴的事例として「特攻」が位置付けられる)。

 詰まるところ、負けるべくして負けているのだ。それも兵士の生命の徹底的な軽視の上に、である。

 「統帥の無責任」という問題が、輸送船もろとも沈められたりジャングルの奥で餓死した兵士を靖国の英霊として祀り上げることで済ませられては、心情的な「特攻精神礼賛」で思考を停止して終わらせてしまうようでは、それこそ「英霊に相済まない」話ではないか? これは既に戦後を生きる私たちの問題となっているのである。

 

 

 

【註:1】
 艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
 (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
 (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
 (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
 (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
 (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
 第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
 第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
 (イ)、全船種からの二重底の廃止。
 (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
 (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
 (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
 (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     大内建二 『戦時標準船入門』 (光人社NF文庫 2010  75~76ページ)

 この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
 二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
 二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十~二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
 徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
 造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
 このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80~82ページ)

…と大内氏は記している。靖国の英霊となった陸軍将兵の二十人に一人が海の底に沈んで死んでいった背景には、このような事情もあることは覚えておいた方がよいだろう。

 大内氏の指摘している、

  しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していた

…という問題をもたらしたのが、本文に示した、

  兵士はいくら死のうが、新たに召集すれば補充される。そのような考えは、銃後の生産過程から熟練した労働力を奪い、総力戦遂行を根底から突き崩してしまう

…という、大日本帝國の戦争遂行の背後にある構図なのである。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/11/15 22:38 → http://www.freeml.com/bl/316274/175551/
 投稿日時 : 2011/12/08 22:01 → http://www.freeml.com/bl/316274/177168/

 

 

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2012年8月 8日 (水)

統帥の無責任としての特攻精神 5 (洋上のB-29と特攻精神)

 

 そもそもは「特攻精神」を俎上にして、戦闘員の生命尊重という問題を考えていたわけだ。あるいは、皇軍における、戦闘員の死を自己目的化したようにさえ見える、軍中央で企画立案された作戦行動としての「特攻」の問題。

 

 

 そんな中で、二回に亘って、B-29のスーパー・ダンボと呼ばれる洋上救難型の機種の存在と、遭難したB-29搭乗員救助の実際を確認してみたわけである。

 

 そして、問題のスーパー・ダンボ・タイプのB-29のスペックの詳細、あるいはB-29に搭載されたエドA-3型の救難用ボートのスペックの詳細を、複数の資料を読みながら追求したわけだが、それをマニアックな軍事的知識の問題としてではなく、不時着水したB-29搭乗員の救難への米軍の努力の実態の問題として考えたいのである。

 

 その努力は、本来なら爆撃用のB-29の改造機種をわざわざ製造し(並行して救難用ボートの開発・製造も行なわれていたであろう)、それぞれ(B-29改造機種、A-3のそれぞれ)に必要な資材を調達し、製造工程を構築し、配備し、搭乗員の訓練をし、運用部隊を組織し…と、実に様々な過程を経て実現されるものであった。

 そのためには資金も人員も時間も必要なのであり、米軍はそれを、実際に用意し、供給したのである。

 

 そのような問題として、スーパー・ダンボの存在や、A-3のスペックの意味を考えたいわけである。

 

 

 一方で、わが日本の誇る「特攻精神」を考えようとする上で、「統帥の無責任」という観点を提示したわけだが、帝國陸海軍の統帥システムのどこにも、スーパー・ダンボやA-3に相当する装備の開発・配備の必要性という認識を見出すことは出来ないように思われる。

 

 そんなことを考えつつ、しかしそれを「戦闘員の人命尊重」というセンチメンタルな問題としてだけではなく、戦争遂行のマネジメントの問題としても提示してみたわけだ。

 

 

 あらためて再録すれば、

 

  救難システムの存在には、単なる人命尊重以上の意味があったのである。搭乗員には訓練が必要であり、その養成には時間と資金の投下が不可欠なのである。爆撃機搭乗員とは、その養成に多くのコストを要するものなのであり、使い捨てにするのではなく使いまわさねばならないものなのである。要するに、米軍における救難システムの存在は、単に軍人兵士の人命尊重を意味するだけではなく、戦争遂行のマネジメントの問題でもあるということなのだ。
  特攻とは、訓練養成にコストを要するパイロットを使い捨てにすること(もちろん、航空機という生産に高いコストを要する兵器も使い捨てにされる)で可能となる軍事行動である。
  戦争遂行のマネジメントという観点からしても、軍事作戦としての「特攻」という選択は、「統帥の無責任」を象徴した行為であることを、あらためて確認しておく必要を感じる。

 

…ということなのであり、

 

  B-29一機の喪失は、11人の搭乗員の喪失に結びつく。機体は失われても、搭乗員を失わないための努力が、このような海上救難システムとして組み上げられていたわけである。それは何より搭乗員自身の生命の問題であるが、銃後で無事な帰還を待つ搭乗員の家族―それぞれに一票を投じる権利を持った、政治的決定に関与出来る、国内世論を形成する家族である―の問題であり、訓練を経た貴重な搭乗員を失う軍の問題でもある。
  米軍の場合、手厚い救難システムの整備をすることが、前線兵士のより高い士気を支えると考えられ、戦争遂行に対する国内世論の確保に結びつくと考えられ、様々な意味で軍の利益に合致すると考えられていた、ということになるのであろう。

 

…ということであったのだと思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/12/07 22:16 → http://www.freeml.com/bl/316274/177071/

 

 

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統帥の無責任としての特攻精神 4 (洋上のB-29)

 

 前回は、スーパー・ダンボと呼ばれる、B-29の救難機タイプについて記した。

 

 関連した話題として、不時着水したB-29の実際がどのようなものであったのかについて、チェスター・マーシャル『B-29 日本爆撃30回の実録』(ネコ・パブリッシング 2001)から引いてみたい。

 

 

 遅かれ早かれいずれは来るのではないかと皆が恐れていた知らせが上層部から伝わった。第八七八飛行隊の二機が墜落したらしい。リンゼイ・(サイ)・シルヴェスター中尉機からはサイパンの北八五マイル(一三七キロ)の洋上に不時着水するという連絡があった。ガーランド・レドベター中尉以下のクルーは被害を受けた機をなだめながらサイパンまで辿り着いたが、イスレー飛行場は着陸待ちの飛行機で混み合っていたため、滑走路への最終接近の段階で安全な間隔を置いて割り込むことができず、再度周回を試みた。これが命取りとなった。目撃者の言うところでは、レドベター機は滑走路端の上を通過して高度を獲得しようとしたとき、急に機首を落としてマジシェンヌ湾の青い海の中に突っ込んだという。そこは、太平洋で最も深い海淵なのである。
 滑走路の沖合海域には海軍の警戒艦艇が常時待機してこのような緊急事態に備えており、この時も墜落現場から数分以内に到着できる位置にいたのだが、乗組員は墜落する飛行機とともに海没したのであった。
 二件の不幸な知らせは、25番クルーにとっては個人的な打撃でもあった。両機の乗組員が私たちとは友達同士だったのだ。一組のクルーが突然消えてなくなり、もう一組は不時着水消息不明となって、私たちは、サイパンのどのB-29クルーにとってもこうした運命が他人事でないと気づき衝撃を受けた。乗組員は、ただこうした事実を受け容れるほかないのである。
          (147~148ページ)

 

 これは、1944年12月13日のサイパンでのエピソードである(註:1)。著者を含む25番クルーの乗機は、12月7日の日本軍による飛行場への攻撃(つまり、この時期のサイパンは、まだ日本軍の攻撃に対し、安全な場所ではなかった)により失われていたために、この日の名古屋への攻撃には参加していなかった。第878飛行隊からは12機が参加したが(註:2)、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返して来ていた(理由は明示されていないが、機体のトラブルと思われる)。残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われたわけである。

 さて、12月14日になると…

 

 一二月一四日。午前中は不時着水したシルヴェスター機クルーの消息をじりじりしながら待った。正午になってやっと、嬉しい知らせが入った。海軍の捜索機PBY飛行艇からの入電で、まだ浮いているB-29のそばに救命筏三つに一一人が分乗しているのを発見したというのだ。全員元気のように見えるとのことである。やっと安心した。
 アルバート・クロッカー大尉操縦の捜索機が行方不明のB-29と乗組員を初めて発見したのは、正午少し前であった。大尉は捜索開始六時間後ようやく、まだ浮いていたB-29の尾翼が太陽に反射してきらめくのに気づき、なお仔細に観察していると、近くに搭乗員の乗る筏が浮いているのが見えた。クロッカー大尉は駆逐艦を呼び出し、軍艦「カミングス」が現場に到着するまで四時間半上空を旋回していた。不時着水から一七時間が経過していた。
          (149~150ページ)

 

…という展開となる。ここでは、スーパー・ダンボではなく海軍の哨戒機が(註:3)、6時間の捜索の後に洋上の乗組員を発見し、海軍の駆逐艦に収容されるまでの4時間半を上空を旋回し続けた、という話である。

 シルヴェスター機は、洋上に不時着水したわけだが、機体は沈むことなく浮かび続けていた。不時着水時には機体から救命筏二つを引き出し乗り移るだけで精一杯だったのだが、夜明け後に機内に残された筏も確保することが出来た、ということらしい(「まだ浮いているB-29のそばに救命筏三つに一一人が分乗」という記述の背景)。

 

 

 クロッカー大尉のPBY飛行艇の出現は、筏の一一人にはかつて見たことのない有難い光景だった。駆逐艦「カミングス」の到着は、またそれ以上に有難かった。
 救難駆逐艦には、第四九八爆撃連隊の機長フランシス・マレー大尉以下のクルー一〇名が乗っていた。このクルーは一二月三日の東京空襲のときにサイパンの北三〇〇マイル(四八〇余キロ)の海上に不時着水した。唯一の犠牲者がパイロットで、飛行機とともに沈んだ。マレー大尉と乗組員は筏三つに分乗して一一日間漂流したあと駆逐艦「カミングス」の救助隊に引き上げられたのである。偶然というか、マレーのクルーの航空機関士フランク・L・テニスン中尉とシルヴェスター中尉は同郷でワシントンの同じ高校の出身だった。
          (152~153ページ)

 

 

 B-29一機の喪失は、11人の搭乗員の喪失に結びつく。機体は失われても、搭乗員を失わないための努力が、このような海上救難システムとして組み上げられていたわけである。それは何より搭乗員自身の生命の問題であるが、銃後で無事な帰還を待つ搭乗員の家族―それぞれに一票を投じる権利を持った、政治的決定に関与出来る、国内世論を形成する家族である―の問題であり、訓練を経た貴重な搭乗員を失う軍の問題でもある。

 米軍の場合、手厚い救難システムの整備をすることが、前線兵士のより高い士気を支えると考えられ、戦争遂行に対する国内世論の確保に結びつくと考えられ、様々な意味で軍の利益に合致すると考えられていた、ということになるのであろう。

 

 

 

【註:1】
 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」中の『ボーイングB-29』(1995)の記述から、問題の12月13日の経過を引用すると、

 ⅩⅩⅠBC(Bomber Command 爆撃機兵団)の次の大目標は、航空兵器工場のひしめく名古屋。同市初空襲の12月13日は、三菱重工・名古屋発動機製作所が標的に選ばれた。73BW各BGの3個BSのうち2個BSは通常爆弾、1個BSが集束(クラスター)焼夷弾を搭載した。
 発進90機のうち、71機が8,000~9,700mの高空から好天下の主目標に投弾し、これまでのⅩⅩⅠBCの作戦で最高と評価されるほどの命中弾があった。日本軍が迎撃効果を低く見たのとは裏腹に、クルーたちは中京地区の高射砲と戦闘機の威力を激烈と感じた。落とされたのは4機で、3機の生存者はゼロ。499BG(Bomberdment Group 爆撃軍団―引用者)の1機だけが洋上不時着の翌日にカタリナ飛行艇に発見され、搭乗員が駆逐艦に助けられた。
          (50ページ)

 この「カタリナ飛行艇に発見され」たのが、まさにマーシャル氏の著作にある、リンゼイ・(サイ)・シルヴェスター中尉の乗機の搭乗員達だったわけだ。

 また、12月3日の作戦(当初は群馬県の中島飛行機・太田製作所が目標だったが、天候不良のため、都内の中島飛行機・武蔵製作所に変更)についての記述中に、

 もちろん、これまでの重爆に比べて格段に強靭なB-29だから、簡単に落とされてはいない。
 別の498BG機は投弾を前に、僚機との空中衝突を避けて単機になったために、戦闘機にたかられ、手ひどく被弾して燃料と滑油系統が破壊。さらに高射砲を浴びて爆弾倉扉が閉じなくなったが、追っ手を逃れて6時間飛び続けた。不時着水から11日間を救命ボートで漂流したクルーは、サイパンから480キロの海域で救助された。
          (49~50ページ)

…とあるが、これもマーシャル氏の著作に、

 救難駆逐艦には、第四九八爆撃連隊の機長フランシス・マレー大尉以下のクルー一〇名が乗っていた。このクルーは一二月三日の東京空襲のときにサイパンの北三〇〇マイル(四八〇余キロ)の海上に不時着水した。唯一の犠牲者がパイロットで、飛行機とともに沈んだ。マレー大尉と乗組員は筏三つに分乗して一一日間漂流したあと駆逐艦「カミングス」の救助隊に引き上げられたのである。

…として登場する、フランシス・マレー大尉以下10人のB-29搭乗員のエピソードである。

【註:2】
 「世界の傑作機シリーズ」には、

 このころ(1944年11月末を指す―引用者)の73BW(Bomberment Wing 爆撃航空団と訳される―引用者)は機材の補給が不充分なため、1個BS(爆撃飛行隊)の保有機は10機ほどしかなく、1機につき2個クルーが交代で搭乗した。やがて機材の空輸がはかどり出し、翌1945年の2月には予備機を含めて20機(定数は16機)にまで増加する。
          (49ページ)

…と書かれているが、マーシャル氏の著作中に「第八七八飛行隊」として記されているのが、878BS(Bomberdment Squadron 爆撃飛行隊)ということになる。つまり、1個飛行隊の保有機は20機で、作戦行動は16機編制で行なわれるのが正式なものであった。
 それが1944年12月13日の名古屋空襲に際しては、

 第878飛行隊からは12機が参加したが、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返し、残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われる

…という状況であったわけだ。878飛行隊には可動機が12機しかなく(つまり「機材の補給が不充分なため」である)、そのうち離陸したのは11機、目標まで到達したのは9機、無事に帰還したのは7機ということになる。B-29は新技術を満載した当時の最新鋭の機体であったが、初期不良にも悩まされ、実戦投入当初の稼働率は低かったのである。

【註:3】
 この点については前回の記事の「註」で、

 大戦の末期、B-17Gの一部は胴体下面にパラシュートで投下できる大型救命ボートを装着し、捜索救難に使われた。1945年3月イギリスで任務につき、太平洋方面では終戦時に8機が活動していた。制式名はB-17Hだったが、1948年にSB-17Gと改称され、朝鮮戦争のときも救難に働いた。
          (文林堂『ボーイングB-17フライングフォートレス』 82ページ)

 4ERS(Emergency Rescue Squadron)
 1945年4月から20AFの隷下で、硫黄島を基地にして救助任務に従事。B-29の胴体下に救命ボートを付けた、「スーパー・ダンボ」のほか、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)を使っていた。
          (文林堂『ボーイングB-29』 52ページ)

…と示したように、B-17の「ダンボ」、Bー29の「スーパーダンボ」の両者共に、1944年12月の段階では配備されていないことになる。海上捜索は、その多くを、海軍のPBY飛行艇に依存していたのであろう。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/12/01 21:48 → http://www.freeml.com/bl/316274/176674/
 投稿日時 : 2011/12/02 21:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/176726/

 

 

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2012年8月 7日 (火)

統帥の無責任としての特攻精神 3 (B-29と戦争遂行のマネジメント)

 

 1944(昭和十九)年の戦局は、大日本帝國の軍隊が完全に守勢となり、玉砕や特攻という形式で軍人兵士の生命を使い捨てにしていく状況に陥る一方で、米軍は攻勢の一端として最新鋭重爆撃機B-29を実戦投入する段階を迎えていた。

 

 今回は、そのB-29をめぐる話題である。

 

 B-29の機体は、本来の重爆撃機としての用途以外にも、偵察機や輸送機としても用いられている。

 その中に「スーパー・ダンボ(Super Dumbo)」と呼ばれるタイプがあった。

 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」中の『ボーイングB-29』(1995)によれば、

 

 B-29改修の救難型。救命イカダや食糧、投下ラジオその他の救難用具と搭載無線装備を増加させたもので、救助作戦に従事した艦艇、航空機の中で、最も日本沿岸に近い区域を担当した。1945年初めころは2~4機が出動していたが、終戦間際には6~8機ほどが作戦するようになっていた(註:1)。

 

…というものである。

 日本列島の爆撃任務には、長距離の洋上飛行が必要となる。乗機が飛行不能になれば、搭乗員は洋上に脱出し漂流せねばならない。米軍は、その救助のための航空機や艦艇を用意していたのである。

 

 飯山幸伸氏は、その著書『B-29恐るべし』(光人社NF文庫 2011)の中で、

 

 B-29の先輩機種に当たるB-17の最多、最終生産型となったB-17Gからの改造機というかたちで洋上捜索救難型のB-17H(通称、ダンボ)が作られて、大戦終盤には欧州戦でも太平洋戦でも洋上で消息を絶った友軍機搭乗員の救難活動に勤しんだことがあったが(註:2)、同様の救難機型はB-29の系列にも現れた。爆撃作戦に赴いたB-29の喪失機数は数百機規模で出撃した際には喪失機数が十機を上回り、数十機で出撃しても数機が喪失という事態はしばしば発生。そういったケースが積み重なれば、悩まされてきた搭乗員不足の問題がまたもや深刻化する状態になりかねなかった。救難機が帰路に控えているか否かも、危険な爆撃任務に挑む搭乗員たちの支えになったはずだった。

 

…と書いている。ここでは、

  そういったケースが積み重なれば、悩まされてきた搭乗員不足の問題がまたもや深刻化する状態になりかねなかった

…という記述に注目しておきたい。救難システムの存在(註:3)には、単なる人命尊重以上の意味があったのである。搭乗員には訓練が必要であり、その養成には時間と資金の投下が不可欠なのである。爆撃機搭乗員とは、その養成に多くのコストを要するものなのであり、使い捨てにするのではなく使いまわさねばならないものなのである。要するに、米軍における救難システムの存在は、単に軍人兵士の人命尊重を意味するだけではなく、戦争遂行のマネジメントの問題でもあるということなのだ。

 

 特攻とは、訓練養成にコストを要するパイロットを使い捨てにすること(もちろん、航空機という生産に高いコストを要する兵器も使い捨てにされる)で可能となる軍事行動である。

 戦争遂行のマネジメントという観点からしても、軍事作戦としての「特攻」という選択は、「統帥の無責任」を象徴した行為であることを、あらためて確認しておく必要を感じる。

 

 

 

【註:1】
 B-29のスーパー・ダンボ配備部隊については、「世界の傑作機」シリーズの『ボーイングB-29』にある、「20AFのB-29装備部隊」という表に、

 4ERS(Emergency Rescue Squadron)
 1945年4月から20AFの隷下で、硫黄島を基地にして救助任務に従事。B-29の胴体下に救命ボートを付けた、「スーパー・ダンボ」のほか、B-17H「ダンボ」とOA-10A(PBY-5Aの陸軍型)を使っていた。
          (52ページ)

…とあるので、「救助作戦に従事した艦艇、航空機の中で、最も日本沿岸に近い区域を担当した」という記述の詳細として、それが「硫黄島を基地として」であったことを意味し、時期的には1945年4月以降であることがわかる。

【註:2】
 文林堂「世界の傑作機」シリーズ『ボーイングB-17フライングフォートレス』(2007)によれば、

 SB-17G 大戦の末期、B-17Gの一部は胴体下面にパラシュートで投下できる大型救命ボートを装着し、捜索救難に使われた。1945年3月イギリスで任務につき、太平洋方面では終戦時に8機が活動していた。制式名はB-17Hだったが、1948年にSB-17Gと改称され、朝鮮戦争のときも救難に働いた。
          (82ページ)

 B-17の生産はB-17Gで終わったが、その後のB-17Hという名をつけられたのは、B-17Gの胴体下面に大きな救命ボートを搭載できるようにした捜索救難型だった。第8航空軍(これはイギリスに駐留していた対独戦のための航空軍である―引用者)で1945年3月31日に最初の救助活動を行い、その後、太平洋方面にも配置されている。戦後も救難機として使われ続け、1948年に空軍の命名法が改正されると、SB-17Gと呼ばれた。この規格に改造された期待は30機ほどに達したとみられる。また沿岸警備隊でも同じように救命ボートを搭載できるようにした機体をPB-1Gの名で使用した。
          (119ページ)

【註:3】
 飯山氏の『B-29恐るべし』の記述から補足しておくと、

 B-17Hが全長八メートルのヒギンスA-1救命ボートを空輸したところ、スーパーダンボの場合は全長九.〇七メートルのエドA-3救命ボートを運搬。
          (168ページ)

 一九四五年の初頭から数機のスーパーダンボが救難飛行隊(同書には「ARS」とあるが「ERS」の誤りか?―引用者)に所属してこの任務に就いたが、やがて16機がスーパーダンボとして用いられるように。波間に漂う要救助者を見つけるとA-3ボートはパラシュート投下されて不時着水機の乗員たちを収納。A-3ボートは耐水コンパートメント、防水テントも備えていたが、五百マイル(八百キロ強)の自力航行も可能だったという。
          (169ページ)

 救難機に搭載され、洋上に投下されるのは、耐水コンパートメント、防水テントも備えた救命ボートであり、B-17Hの場合は全長8メートル、より大型のB-29スーパーダンボの場合は9.07メートルの救命ボートが、洋上の不時着水機の搭乗員のために装備されていたことになる。

 文林堂の「世界の傑作機シリーズ」の『ボーイングB-29』には、

 SB-29
 戦後型の改造救難機でAPQ-13レーダーを前方に移動。爆弾倉部にあったエドA-3ライフボートを装備して15時間の滞空が可能であった。A-3は全長29ft9in(9.07m)のアルミ合金製で20区画の耐水コンパートメントと悪天候用のテントふたつを持ち、エンジンで500mile(805km)もの自力走行ができた。ARS(Air Rescue Servis)は1947年2月に最初の2機を受領している。
          (36ページ)

…とあり、A-3ボートが全長10メートル近いアルミ合金製で、海上の遭難者に十分な耐水防水性能を持ち、しかもエンジンまで装備されていた事実が確認出来る。いずれにしても、エドA-3のスペックを読むだけで、米国の物量が単なる「量」に終わるものではなく、高い「質」に裏付けられたものでもあったことを痛感させられるのである。

 そのような手厚い救難支援システムが、B-29搭乗員の士気を支えていたということなのである。

 

 

 

(オリジナルは、
 投稿日時 : 2011/11/30 21:52 → http://www.freeml.com/bl/316274/176576/
 投稿日時 : 2011/12/03 22:26 → http://www.freeml.com/bl/316274/176818/
 投稿日時 : 2011/12/06 22:40 → http://www.freeml.com/bl/316274/177017/

 

 

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統帥の無責任としての特攻精神 2 (従軍体験の中の皇軍)

 

 会田雄次の発言として、

 

 彼(ビルマの最高司令官・木村兵太郎大将)は気分としてどうしても許すことができない。あの男は片腕を失った兵隊でも除隊を許さず敵にかみついて死ねと前線に送りだした。だが英軍が来るとラングーンに何万という日本の婦女子、看護婦、一般市民、それから軍隊を置いて逃げ帰ってしまった。卑劣とも何ともいいようがない敗戦責任者です。だから戦犯で処刑するのではなくて、敗戦責任で殺すべきだったと思う。部下をおいて逃げて帰ってしまった司令官はそうされてしかるべきです。しかも彼らは逃げて帰る時の飛行機のなかで辞令によって昇進している。

 

…というものがあるらしい(「日本人は敗戦を認めよ」 月刊【発言者】 Aug.'95. 西部邁事務所)。確かに、あの『アーロン収容所』中にも、この木村の所業に対する怒りが書かれていたことを思い出す。

 また、会田は続けて、次のようにも言っている。

 

 私は少なくとも戦争中に将官になっていた人々は、天皇陛下の命令で任務についたわけですから、全員切腹するのかと思った。昔の武士のように腹を切るのだと思った。ところが阿南陸相など四、五人が腹を切っただけでした。それどころか、日本人はその人たちを戦後持ち上げた。なかでも辻参謀というとんでもない破廉恥男を、参議院でトップ当選させた。この男は単なる人殺しです。こんな男を選挙で当選させるから、ますますわけがわからなくなった。
 一方B、C級戦犯の場合のように明らかに無実の男が残虐行為だといってどんどん絞首刑になっているにもかかわらず私たちは反抗もしなかった。けしからんともいわなかった。

 

 

 前回、特攻精神礼賛的メンタリティーへの違和感について書いたが、そこで「統帥の無責任」という視点を提示した。

 歴史としての大東亜戦争を振り返る時、皇軍という組織の抱えた問題として、そして皇軍という組織を抱えていた大日本帝國そのものの問題として、この「統帥の無責任」という問題に、あらためて私たちがきちんと立ち向かう必要を感じる。

 靖国の英霊、その犠牲を無駄なものとしないためには、この「統帥の無責任」という問題をうやむやにすることは許されないのだと思う。

 そんなことを考える上で、先に引用した会田雄次の発言を深く噛み締めておきたい。

 

 皇軍兵士としての戦場での体験が、会田に、そのような言葉を吐かせているということ。根底にあるのは、皇軍という存在への批判(その存在様態への批判)である。

 この問題は、会田に限らず、たとえば山本七平にも共有されているものであり、山本の旧日本軍批判も激烈なものだ。

 つまり、職業軍人ではない二人の従軍体験は、皇軍という存在への怒りに収斂しているのである。

 

 この感情は、多くの従軍体験世代に共通したものだと思われる。そして、それが継承されることなく忘れ去られようとしているようにも見える。渡辺昇一氏や小堀桂一郎氏の書くものから抜け落ちているのがこの問題(つまり「統帥の無責任」という、皇軍と大日本帝國の抱える問題)であり、それは彼らが従軍体験のない世代に属するがゆえであるようにさえ思える(こんなことを戦後生まれの私が言うのもなんだが、両人共に、その意味でお気楽なのである)。

 

 

 

終戦後海軍当局ノ釈明ニヨレバ、敗勢急迫ニヨル焦リト、巨艦維持ノ困難化(一日分ノ重油消費量ハ駆逐艦三十隻ノソレニ当ル)ノタメ、常識ヲ一擲シテ敢ヘテ採用セル作戦ナリトイフ アタラ十隻ノ優秀艦ト、数千人ノ人命ヲ喪失シ、慙愧ニ耐ヘザル如キ口吻ナリ
カカル状況ヲ斟酌スルモ、ソノ余リニ稚拙、無思慮ノ作戦ナルハ明ラカナリ

 

艦隊敗残ノ状既ニ蔽ヒ難ク、決定的敗北ハ単ナル時間ノ問題ナリ――何ノ故ノ敗戦ゾ 如何ナレバ日本ハ敗ルルカ
マタ第一線配置タル我ラガ命スデニ且夕ニ迫ル――何ノ故ノ死カ 何ヲアガナヒ、如何ニ報イラルベキ死カ
     吉田満 『戦艦大和の最期』 (創元社 昭和二十七年)

 

 ここに残された吉田満の怒り、そして戦艦大和と共に失われた「数千人ノ人命」に思いを致す時、あらためて会田雄次や山本七平の皇軍という存在(その存在様態、つまり現実としての皇軍組織)への怒りをも思い出し、それを継承しなければならないことを痛感させられるのだ。

 

 私たちが、あの臼淵大尉の残した、

 

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ
日本ハ進歩トイフモノヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、真ノ進歩ヲ忘レテヰタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ
俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ヂャナイカ」

 

…という言葉(吉田満 前掲書)に応えるためには(つまり、彼らの死を無駄なものとしないためには)、「特攻精神礼賛」で思考を停止するのではなく、「特攻」を生み出した「統帥の無責任」という問題を追求することを忘れてはならないのではないか。

 臼淵大尉は大和乗り組みの将兵を前に、

  負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ

…と語ったわけだが、この言葉に「特攻精神礼賛」で応えては、いまだに、

  負ケテ目ザメルコトガ出来ヌモノ

…で終わってしまうように思われるのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/29 22:10 → http://www.freeml.com/bl/316274/176533/

 

 

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2012年8月 6日 (月)

統帥の無責任としての特攻精神 1

 

 私自身には「特攻精神礼賛」的なメンタリティーはない。

 

 

 「特攻精神」を、生還を期さずに戦いに臨む、という行為に見出すのであれば、それは決して「日本的」な精神として限定的に語られるべきものではない。

 たとえば、怒涛のごとく侵攻するドイツ軍の戦車に立ち向かうポーランドの槍騎兵の姿を思い浮かべれば、歴史的事実としてその問題は容易に理解されるであろう。

 米国史を紐解けば、「アラモの戦い」もまた、生還を期すことなく戦い、まさに玉砕したテキサスの男達のエピソードである。

 

 

 日本的な、という限定をつけて「特攻精神」を語ろうとすると、詰まるところ、「特攻」による死を自己目的化した過程に求めることしか出来ないようにさえ思われる。

 ポーランド人のエピソードであれ、テキサス人の姿であれ、ある戦闘の過程での軍人・兵士としての決意の問題である。その戦闘には祖国の独立が賭けられ、彼らは戦いに臨み、死んでいったのである。

 日本の「特攻」の場合は、ある戦闘の過程での前線指揮官あるいは兵士達の決断の問題、つまり特殊な状況下での人間の行為としてではなく、戦争遂行上の「作戦」として立案され消化されていったものであるところに、その最大の特徴が見出されるように思われるのだ。確かに初期には、「特攻」による「戦果」は作戦立案時の期待を満たすものであったかも知れないが、やがて「戦果」の問題は後景に追いやられ、ノルマとして遂行されるかの如き状況に立ち至る。

 これは、前線での戦闘過程における、已むに已まれぬ行為としての生還を期さない攻撃なのではなく、中央で作戦として立案され業務として遂行されていく、敵への攻撃でも効果的な防御でもなく、前線パイロットの死を自己目的化した軍事行動に過ぎなくなっていくのである。「玉砕」についてもまた、同様の構図が描けるだろう。

 そこにあるのは、軍事における統帥の無責任である。

 

 

 その中で死んでいった特攻隊員達には、ただひたすら頭を垂れるしかないが、「特攻精神礼賛」は果して彼等への哀悼として正しいものであるのだろうか?

 それは、結局のところ、統帥の無責任を放置してしまうだけのものであり、特攻隊員の犠牲の上に築かれるべき歴史的教訓から眼を逸らすものとなってしまうように思われる。

 

 

 

 ここで、「イスラムの自爆テロ」と呼ばれる行為について考えてみたい。

 私の考えるところでは、「イスラムの自爆テロ」には、二つの異なる様態がある。

 

 ローカルなテロと、グローバルなテロである。イスラエル国家に対するパレスチナ人のテロ行為は、まさにローカルなテロであるし、アルカイダによる対米テロは、グローバルなテロと考えるべきであろう。

 

 パレスチナ人にとって、イスラエル国家は現実的な敵なのである。イスラエルの占領下という彼らのローカルな現実の中での、現実の敵なのであり、それも強大な軍事力に支えられた敵なのである。そこにあるのは軍事的な圧倒的非対称性なのであり、自爆テロ以外の攻撃法を、パレスチナ人は持ち得ないが故の「自爆テロ」なのである。

 

 それに対し、アルカイダと米国(そして米国と同盟関係にある西側先進国)との関係は、現実的な敵というよりは理念的な敵なのである。あの9月11日の同時多発テロの際に、私の頭に浮かんだのは、「イスラムの新左翼」という感想であった。

 もちろん、そこにあるのも軍事的非対称性ではあるが、アルカイダは(パレスチナ人のように)父祖の地の防衛の戦いを遂行しているのではなく、かつての新左翼のように、理念上の非対称型戦争を遂行しているのだと、考えておくべきであろう。

 

 

 そのように考えた際に、故国の防衛という構図において、日本の特攻と、パレスチナ人のテロ行為には、それほどの違いは見出せないようにも思えてくる。

 もっとも、特攻は、真珠湾攻撃の帰結なのであり、つまり軍事的攻勢が防御へと変化した果ての出来事なのであり、パレスチナの状況と同列に論ずることは出来ない。

 いずれにしても、大東亜戦争は国家間の戦争であり、そこで繰り広げられているのは正規軍同士の戦闘であったわけだが、戦局の進展と共に、いわば軍事的非対称状況が生み出され、日本的心情主義の無責任体制の下で、「特攻」の自己目的化として帰結したのが、「特攻」をめぐる構図の現実のように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2011/11/03 20:44 → http://www.freeml.com/bl/316274/174788/

 

 

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