« 「震災がれき」は「放射性がれき」なのか? | トップページ | 警察署長のミクロな幸福(「よだかの星」と「毒もみのすきな署長さん」) »

2012年6月10日 (日)

第二の安全神話

 

 何にせよ事故をなくすことそのものは出来ないわけだが、事故の発生の可能性を減少させることは出来るし、事故がもたらす被害の軽減を図ることも出来る。

 

 

 原発の苛酷事故(シビアアクシデント)についても、その構図に変化はない。

 苛酷事故発生の可能性の減少に努力することは出来るが、苛酷事故は様々な原因により発生し得るものであり、苛酷事故そのものをなくすことは出来ないのである。

 そして、苛酷事故そのものをなくすことが出来ないからこそ、事故がもたらす被害の減少のための方策を考えておかねばならない。

 大飯原発再稼動決定の背後には、その構図に対する想像力の欠落という問題がある。この構図に対する想像力の欠落が招いたのが福島第一原発の現状であることは言うまでもない話であるはずだが、想像力の欠落は維持されたまま現在に至ってしまったようだ。

 

 

 

 福島第一原発と同レベルの津波に対する備えを充実させることは無駄ではないが、それで大飯原発の安全が確保されたと思うなら愚かである。原発の苛酷事故の原因となるのは津波だけではないからだ。

 

 そもそも福島第一原発の事故の要因となったのは「東日本大震災」と呼ばれることになった地震災害であり、問題の津波はその地震被害の一側面として考えねばならない。

 「東日本大震災」の被害の大きさは、それまでの地震学的知見の常識を超えた複数の震源域の「連動型」の地震であったことによりもたらされたものなのであり、そのような連動型地震の発生の可能性は日本列島全体に広がるものと考える必要がある。

 大飯原発再稼動後の「事故の発生の可能性」を、津波という要因のみに絞ることは現実的ではないのである。つまり、過去の地震学的知見の常識を超えた地震発生による苛酷事故の可能性だけを考えても、「津波対策クリア」による「安全宣言」に潜む欺瞞は明らかである。しかも津波対策とされるものは、福島第一原発での津波の波高のみを考慮したものでしかない。

 そして、それ以前に忘れてはならないのは、地震災害だけが原発事故をもたらすわけでもないという冷厳な事実である。

 

 福島第一原発事故で言えば、曲がりなりにも被害が現状にとどまっているのは現場の拠点となった免震重要棟の存在によるものであり、免震重要棟に相当する建物のない大飯原発で苛酷事故が発生してしまえば、対処の拠点が存在しないという事態に直面することになる。福島では拠点となるべきオフサイトセンターが機能しなかったにもかかわらず、免震重要棟の存在により、現地での対処が可能となったのである。実際に機能するオフサイトセンターについても現地の免震重要棟の準備にしてもおざなりなままでの「安全宣言」というのは、実際、信じ難い事態である。

 そこにあるのは、「事故がもたらす被害の軽減」のための基本戦略が存在しないという事実なのである。

 

 福島第一原発事故の教訓の一つとして、原発30キロ圏内の避難対象地域の住民が直面させられた現実がある。

 道路の渋滞発生により、避難対象地域の住民は、求められる迅速な避難を果たし得なかった。住民が渋滞の真ん中で身動きの叶わない状況に陥っている中で、原発事故は進行していったのである。

 地震を要因とした苛酷事故発生を想定するならば、当然のこととして交通網も寸断されることを考えねばならない。避難すべき地域の住民に避難の可能性はあるのか?

 ここにも、「事故がもたらす被害の軽減」のための基本戦略が存在しないことは明らかである。

 

 

 第二の「安全神話」の登場、ということであろうか? 国民は再び自ら進んで「安全神話に騙される」、ということになるのであろうか?

 

 

〔追記〕
 かつての大日本帝國では、「必勝の信念」さえあれば戦争に勝てるはずであった。そして21世紀の日本では、「安全の信念」さえあれば原発の安全性は確保されると考えられているという事実。我々は、それを「日本の伝統の心」と呼ぶべきであろうか?

 「日本の伝統の心」は、

  何にせよ事故をなくすことそのものは出来ないわけだが

…というリアリズムを採用することを許さずに、

  事故をあってはならないもの

…と設定してしまうことを求め、

  事故の可能性について考えること

…を全面的に否定してしまう心理的過程(同様の心理的過程は、昭和17年のミッドウェー作戦で、大日本帝國海軍の空母を沈めるのにも役立った)として、(ウヨクからサヨク扱いされる)現民主党政権によってもしっかり受け継がれている、ということなのであろう。結果として生まれるのは、「備えなけれど安全です」という、美しい日本の伝統の心が紡ぎ出す「信念」の上に築き上げられる世界である。

 野田首相が、「この夏の関電管内の電力需給予測に鑑み、現時点で全面的な安全性は保証出来ないが、大飯原発再稼動が必要であると判断せざるを得なかったことをご理解いただきたい。安全性の確保には全力を傾ける」と言うのであれば、それは(賛否は別にして)責任ある政治的判断として評価し得る。
 しかし、「安全だから再稼動」と言うのであれば、そこにあるのは政治的無責任でしかないのである。
                    (2012年6月11日)

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/06/09 22:55 → http://www.freeml.com/bl/316274/190638/

 

 

|

« 「震災がれき」は「放射性がれき」なのか? | トップページ | 警察署長のミクロな幸福(「よだかの星」と「毒もみのすきな署長さん」) »

20世紀、そして21世紀」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1135955/45601522

この記事へのトラックバック一覧です: 第二の安全神話:

« 「震災がれき」は「放射性がれき」なのか? | トップページ | 警察署長のミクロな幸福(「よだかの星」と「毒もみのすきな署長さん」) »