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2012年5月

2012年5月31日 (木)

「震災がれき」は「放射性がれき」なのか?

 

 どのような事態に対してであれ、どのような問題に対してであれ、適切に対処するためには、事態を出来る限り正確に把握し、問題を熟知しようとする努力が必要となる。

 

 つまり、自分が何に対しているのかを知ろうとすることである。自分が対応しなればならないのはどのような事態であり、どのような問題であるのか?

 まず、そのような事態把握、問題把握への努力を抜きにしては、適切な対処など出来るものではない。

 

 

 そんなことを、このところ、「震災がれき受け入れ」の是非をめぐる問題への対応を迫られる中で、あらためて痛感させられたのであった。

 

 

 私自身は70年代からの反原発派である。

 その私から見て、「震災がれき受け入れ」への反対運動は実に奇妙に映るものであった。私と同じような反原発歴の長い友人達にも、同様に「震災がれき受け入れ反対運動」への違和感を持つ者が多い。まず、そのような事実がある。

 

 

あらためて、問題を整理してみると、詰まるところ、論点としては、

 

  受け入れ処理を要請されている「震災がれき」が、
  「放射性がれき」として取扱われるべきものであるのかどうか?

 

…という一点に尽きるように思われる。

 

 そして、結論としては、

 

  受け入れ処理を要請されている「震災がれき」は、
  「放射性がれき」として取扱われるべき性格のものではない

 

…という以外にはあり得ず、「震災がれき受け入れ反対運動」は合理的根拠を欠いたものと判断せざるを得ない。

 

 

 論点がよく整理されたものとして、

  河野太郎公式ブログ ごまめの歯ぎしり
  震災がれき
  http://www.taro.org/gomame/cat51

  がれき処理 復興の大前提
  広域処理 安全性確保に万全
  共産党県議 斉藤信さんに聞く
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-05-/2012052401_04_1.html
  (2012年5月24日(木) しんぶん赤旗)

  北九州市環境局「災害廃棄物の受入検討に関するQ&A」
  http://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000113236.pdf

…を挙げることが出来る。

 

 

 河野太郎氏は「震災がれき受け入れ」について肯定的に考える際の理路を的確に示しているが、先に提示した論点については、

  ↓ ↓ ↓

さて、黒岩知事が受け入れを表明した震災がれきの発生地の岩手県宮古市は、福島第一原発から260km離れています。川崎市や横浜市は、むしろ宮古市よりも原発事故地に近いぐらいです。
福島第一原発からの距離を比べてみると、
宮古市  260km
横浜市  253km
川崎市  242km
相模原市 254km
横須賀市 267km

そして、2012年1月28日の空間放射線量率の最大値は
宮古市  0.052マイクロシーベルト/時間
茅ヶ崎市 0.047マイクロシーベルト/時間

つまり、宮古市は、福島第一原発の事故の影響を神奈川県よりも強く受けたわけでもありませんし、現在の放射能濃度は神奈川県とほぼ同じレベルです。

さらに、神奈川県が受け入れるがれきの放射能濃度は、1kgあたり100ベクレル以下のものに限られます。この1kgあたり100ベクレル以下の物質は、定義上も通常の廃棄物であり、通常は、放射性物質としては取り扱われません。

やはりがれきの受け入れを表明している東京都が、実際に宮古市からがれきを持ってきて、東京都内の施設で選別・破砕した可燃物の放射性物質濃度を測定したデータがあります。

データは三つのケースに分かれていて、

A 都内のゴミと完全に分け、確実に震災がれきだけの状態で処理して放射性物質濃度を測った場合

B 一つのラインで、時間帯を分けて都内のゴミと震災がれきを流した場合(つまり若干都内のゴミが混ざった状態)

C 都内のゴミと震災がれきが混ざった状態で流した場合

Aは検出限界(40ベクレル/kg)以下、Bは60ベクレル/kgと95ベクレル/kg、Cは111ベクレル/kg。このデータを見ると、論理的に考えて、都内のゴミの放射性物質濃度のほうが宮古市のがれきよりも高いことになります。

2011年9月14日に宮古市清掃センターの焼却灰の放射性物質濃度を宮古市が測定したデータは、133ベクレル/kgでした。

私の地元の相模川流域下水道右岸処理場の汚泥の焼却灰の放射性物質濃度は、2012年1月16日の測定で、1024ベクレル/kgでした。つまり、宮古市のがれきの焼却灰は、実際には、神奈川県の下水処理場の汚泥の焼却灰よりも放射性物質濃度が低いことになります。
http://www.taro.org/2012/02/post-1159.php

  ↑ ↑ ↑

…として、「震災がれき受け入れ」の論拠としている。「震災がれき」を「放射性がれき」として取扱うことに根拠はないという判断である(註:1)。

 

 共産党岩手県議の斉藤信氏は、「震災がれき受け入れ」を要請する被災地の立場から、

  ↓ ↓ ↓

 県は、県内で最大限処理に努力し、525万トンのうち355万トンを県内で処理する計画を立てています。

 民間企業の太平洋セメントで1日の処理能力が最大1000トン。宮古市に日量95トンの仮設焼却炉、釜石市に同100トンの仮設溶融炉を活用し、内陸部の施設もフル活用します。

 それでも処理しきれない約120万トンを広域処理でお願いせざるをえません。

 広域処理をめぐり、東京電力福島第1原発事故による放射能の問題で住民のみなさんに不安が広がっています。

 ここで強調したいのは、私たちがお願いしたいのは、放射性廃棄物ではなく、災害廃棄物だということです。

 受け入れ自治体はそれぞれ独自に、安全性を確保し、住民の納得を得られるように基準を設けています。国は焼却前の目安で240ベクレル/1キログラム以下または480ベクレル/1キログラム以下を示していますが、秋田、埼玉、静岡の各県は、搬出時100ベクレル/1キログラム以下を基準としています。岩手県は、受け入れ側の基準に沿って対応しています。

 4月から5月にかけての実際の測定値は、陸前高田市で58ベクレル、山田町で16・8ベクレル、野田村で18・4ベクレル(いずれも1キログラムあたり)です。

 100ベクレル/1キログラムは、一般廃棄物として扱ってよいとされる、原発事故前からの基準です。岩手県の震災がれきの実測値はこれを大幅に下回っています。

  ↑ ↑ ↑

…と述べているが、そこに河野太郎氏と同様の理路があることを理解するのは容易なはずだ(註:2)。

 

 北九州市環境局も同様に、

  ↓ ↓ ↓

Q10 石巻市も放射能で汚染されているのではないか。

A10 石巻市の放射線量は、4月5日に現地の一時仮置き場で暫定的に調べた時も0.02~0.07μSv/h程度で、本市と同程度か、若干低いレベルであった。
 災害廃棄物の放射能濃度については、ほとんどが100Bq/kg以下の「放射性物質に汚染されたものとして扱う必要のないもの」となっている。

 ↑ ↑ ↑

…という説明の仕方をしており(註:3)、三者共に、

 

  受け入れ処理を要請されている「震災がれき」は、
  「放射性がれき」として取扱われるべき性格のものではない

 

…という形で、問題の把握をしていることは明らかであろう。

 

 

 いずれにしても、「震災がれき」の受け入れ条件を明確にしておくことは重要であるが、最初から「震災がれき=放射性がれき」として位置付け、「受け入れ絶対阻止」を市民としての運動の目的とすることには、合理的理由は見出されないように思われる(註:4)。

 

 もちろん、行政の対応への監視は常に必要であり、そこに市民運動の意義があることは言うまでもない話である。

 しかし、市民運動の意義は社会的責任と一体のものであることも忘れてはならない。行政への異議申し立ても市民運動の役割だが、異議申し立ては事実に基づくものでなければならないのである。

 今回の「震災がれき」に関して言えば、それが「放射性がれき」と呼び得るものであるのかどうかは、対象となる「がれき」の放射線量の測定によってのみ判断されなければならない。測定の結果が示すのは、

  受け入れ処理を要請されている「震災がれき」は、
  「放射性がれき」として取扱われるべきものではない

…と言わざるを得ないということ以外にない。

 である以上、処理を要請されている「震災がれき」を「放射性がれき」と位置付け、「受け入れ絶対阻止」を市民運動の目的とすることは完全な誤りである。社会的責任の自覚があるならば、運動の方向転換以外の選択肢はないはずである。

 

 

 

【註:1】
 ただの「震災がれき」と「放射性がれき」は明確に区別して取り扱われなければならないが、それは対象となる「がれき」の放射線量の測定によってのみ判定可能な事項である。

 河野太郎氏は、
  ↓ ↓ ↓

そして、2012年1月28日の空間放射線量率の最大値は
宮古市  0.052マイクロシーベルト/時間
茅ヶ崎市 0.047マイクロシーベルト/時間
つまり、宮古市は、福島第一原発の事故の影響を神奈川県よりも強く受けたわけでもありませんし、現在の放射能濃度は神奈川県とほぼ同じレベルです。

A 都内のゴミと完全に分け、確実に震災がれきだけの状態で処理して放射性物質濃度を測った場合
B 一つのラインで、時間帯を分けて都内のゴミと震災がれきを流した場合(つまり若干都内のゴミが混ざった状態)
C 都内のゴミと震災がれきが混ざった状態で流した場合
Aは検出限界(40ベクレル/kg)以下、Bは60ベクレル/kgと95ベクレル/kg、Cは111ベクレル/kg。このデータを見ると、論理的に考えて、都内のゴミの放射性物質濃度のほうが宮古市のがれきよりも高いことになります。

  ↑ ↑ ↑
…といった実際の放射線量の測定値を示すことで、宮古市の「震災がれき」を「放射性がれき」と呼ぶことが不適切であることを明らかにしたわけである。
 都内で収集され焼却処理対象とされた(つまり「放射性廃棄物」として取扱われていない)ゴミと比較して、宮古市の「震災がれき」の放射線量値の方が低い以上、宮古市の「震災がれき」を「放射性がれき」として取扱うことは適切ではないのである。

【註:2】
 斉藤信氏が示しているのは、
  ↓ ↓ ↓

 受け入れ自治体はそれぞれ独自に、安全性を確保し、住民の納得を得られるように基準を設けています。国は焼却前の目安で240ベクレル/1キログラム以下または480ベクレル/1キログラム以下を示していますが、秋田、埼玉、静岡の各県は、搬出時100ベクレル/1キログラム以下を基準としています。岩手県は、受け入れ側の基準に沿って対応しています。
 4月から5月にかけての実際の測定値は、陸前高田市で58ベクレル、山田町で16・8ベクレル、野田村で18・4ベクレル(いずれも1キログラムあたり)です。

  ↑ ↑ ↑
…といった事例だが、例示された岩手県陸前高田市、山田町、野田村の「震災がれき」を「放射性がれき」として取扱おうとすることは、明らかに不適切である。
 斉藤氏の「私たちがお願いしたいのは、放射性廃棄物ではなく、災害廃棄物だということです」という言葉には率直に耳を傾けておくべきである。

【註:3】
 災害廃棄物に関して、100Bq/kg以下であれば「放射性物質に汚染されたものとして扱う必要のないもの」とするのは震災(原発事故)以前からの基準であり、石巻市の「震災がれき」の「ほとんど」がそれ以下の線量であるという以上、その「ほとんど」は「放射性がれき」として取扱われるべきものではない。100Bq/kgを超えるものについては受け入れなければ済む話であり、搬出・搬入前の放射線量の測定で判別・除外出来るはずである。
 また、それぞれの受け入れ自治体で独自の受け入れ基準を作ることは、斉藤信氏が言及しているように、既に実行されている。ただし独自基準作成の際には、それぞれの自治体の焼却ゴミの放射線量の平均値を基準にすべきで、それより極端に低い値を求めることは合理的とは言えないであろう。

【註:4】
 「震災がれき」の処理については、地元の雇用を生み出すものとして地元での対応を求める被災地の声が無視されているとの話もあるらしい。
 その点について、河野太郎氏は、まず、
  ↓ ↓ ↓

Q 岩手県の岩泉町長は、時間をかけてでも地元で処理した方がよいとおっしゃっているようですが。

A 町長から直接お話を伺っていないので、意図をよく理解できているかどうかわかりませんが、岩泉町の場合、環境省のデータによると、がれきの総量が4万2千トン、すでに解体するものを含め、ほとんど仮置き場に移動できています。
これが、たとえば陸前高田市だと101万6千トン、気仙沼市136万7千トン、石巻市だと616万3千トンのがれきになります。
また、石巻市などは、仮置き場が一杯なので、仮置き場のがれきを焼却などで処理してから、壊れて残っている建物の解体を始めることになります。解体により生じるがれきを含めるとまだ、半分近くのがれきが仮置き場に集められていないことになりますので、処理を急がないと復興ができません。
また、仮置き場での火災が発生していますので、災害を防ぐ意味でも処理が急がれます。
被災地にも、様々な状況があります。
     (震災がれき Q&A その2)
     http://www.taro.org/2012/03/post-1171.php

  ↑ ↑ ↑
…と問題を整理している。
 河野氏はその後、あらためて岩泉町、陸前高田市にも確認し、
  ↓ ↓ ↓

震災がれきの処理について、岩手県岩泉町と陸前高田市の対応についての質問を頂きましたので、3月29日に、両自治体に直接確認しました。
岩泉町は、
『がれき処理を岩手県に委託している。一次選別は町内で、二次選別は宮古市で実施中。宮古市からは東京にも広域処理を引き受けてもらっている。
町内でできるものは町内でやるが、できないものは町外、県外の協力も頂いて、広域処理をお願いしたいというのが、町長を含めた町の立場。』
陸前高田市は、
『当初、太平洋セメントも被災し、焼却ができなかったので、焼却炉を建設するというプランもあったが、太平洋セメントが復旧し、焼却ができるようになったので、大船渡とともに太平洋セメントで処理をしている。
広域処理については、引き受けていただける自治体があれば検討していきたい。
選別で人も雇っているが、だらだらとそれを続けるよりも、がれき処理を終えて本格復興を目指したい。』
     (震災がれき 岩手県陸前高田市と岩泉町の場合)
     http://www.taro.org/2012/03/post-1180.php

  ↑ ↑ ↑
…と、報告しているし、斉藤信氏は被災地の県会議員として、「震災がれき」の処理受け入れを要請していたわけである。
 北九州市環境局は、「災害廃棄物の受入検討に関するQ&A」の中で、
 ↓ ↓ ↓

Q7 岩手県岩泉町長は、「10年、20年かけて地元で片付けたほうが地元に金が落ち、雇用も発生する。土地は一杯あり困らないのに、税金を青天井に使って全国に運び出す必要がどこにあるのか」と批判しているが、どのように考えているのか。

A7 被災地が望んでいないのであれば全国での広域処理の支援はたしかに不要である。今回の広域処理の検討は、被災地からの要請に基づき行なっている。

 ↑ ↑ ↑
…との見解を示している。
 河野太郎氏の報告と併せ読めば、(岩泉町長のホンネはわからないにしても)実際に被災地からの処理要請があることを受け入れ要件とすれば、それでクリア出来る問題であろう。
 「被災地にも、様々な状況があります」との河野氏の結語にあるように、柔軟なケースバイケースでの対応こそが求められるのであり、問答無用の「がれき受け入れ絶対阻止」の硬直的な姿勢に説得力はない。

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/30 21:56 → http://www.freeml.com/bl/316274/189993/

 

 

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2012年5月27日 (日)

宮澤賢治のミクロな幸福

 

 

  宮澤賢治は幸福であったのか?

 

…という問いを前にして考えることは、少なくとも賢治は「ミクロな幸福」というものを知り尽くしていた人物であろう、ということである。

 

 

 鉱物の美しい結晶を見ているだけで、彼は幸福であった。鉱物の結晶構造に美しさを見出すことに限らず、彼は自然というものの示す「美」に敏感であり、その「美」を前にして彼は幸福であったはずである。鉱物の世界や星の世界、実験室内での化学反応の過程に彼が見出した「美」の感覚は、彼の作品中でも繰り返し示されているところだ。

 花巻農学校教師として、教え子たちに、まさに自然の美の多様な魅力を伝える努力を続けていたことは、生徒の回想からも明らかである。彼は、彼が感じた幸福感を生徒にも共有して欲しかったのであろう。

 彼にとって幸福は遠くに求めるものではなく、現に目の前に、自然の美として存在していたのではないか(註:1)?

 

 

 彼の不幸は、彼が資産家の息子であったという一事に尽きる。

 それも家業である質屋は、進行する農村社会の疲弊を利益の源泉としていたのである(註:2)。

 しかし、その家業のもたらす資産があるからこそ、彼は盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)へと進学し、自然科学的素養を手にし、単に自然の造形の外形的美しさの嘆賞にとどまらない、化学反応の美しさやその原理までをも含めた「自然」という現実についての広い視野を獲得し得たのである。それは彼が自然との交流の中で抱いた生来の幸福感を、より深化させることにも役立ったであろう。

 また、その学歴が、花巻農学校教師としての彼の姿に結実したわけであるし、農民への肥料設計を可能にしたのも学業の成果であった。その背後には、地方資産家としての彼の実家が存在するのである。

 羅須地人協会時代には、レコードコンサートの主催者ともなったが、それを可能にしたレコード蒐集趣味もまた、地方資産家の息子なればこその話である。

 

 妹トシの死の悲しみの深さを綴ったものとして有名な「永訣の朝」にしても、そこにあるのはあくまでも愛する家族との死別の悲しみなのであって、貧困の中の死の悲惨ではないのである。トシの発病は東京の日本女子大に在学中のことであった。そこにあるのは地方資産家の娘としてのトシの境遇である。

 

 賢治はトシの看病を含め、東京での生活経験もある、レコード蒐集趣味のある音楽好きのモダンボーイであったのだ。彼は都会生活の楽しみを知らない貧しい地方人ではないのである。

 音楽のもたらす幸福感を知ればこそ、羅須地人協会での農民向けのレコードコンサートも存在するのだということ。花巻農学校教師として、生徒に自然に内在する美を見出すことがもたらす幸福感を伝えようとしたように、西洋音楽のもたらす幸福感を農民たちと共有しようとしたのである。

 どちらも自分の知った「ミクロな幸福」を、周囲の人間にも伝え、共有することへの願望に支えられた行為であろう(註:3)。

 

 

 彼の初めから持っていた資質(自然への感受性に支えられた科学的かつ文学的感性)を抜きに、彼の生涯を語ることは出来ないが、その資質を育てたのは実家の資産であった。実家の資産あればこそのモダンボーイであり自然科学者であり教育者なのである(註:4)。しかし、その実家の資産が、資産家の息子という出自が、彼の不幸の原点ともなっていたわけである。

 

 

 

【註:1】
 賢治の場合、鉱物の結晶構造に見出すミクロな幸福が、法華経的世界観を介してマクロな幸福感につながっていた可能性もある。

【註:2】
 「よだかの星」の基調にあるのは、農村社会の搾取者としての自身の姿である。
 どんな家に生まれるかを人は選択出来ない。
 それが人生の出発点にある人間の条件なのである。

【註:3】
 自身が感じた「ミクロな幸福」を伝え分かち合おうとする賢治の姿。
 そこには、あの、

   幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

  …ということもまた真実なのではないだろうか?

   ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

  …ということはあり得ないことなのだろうか?

…として提示した問いへの賢治自身による答えがある、ようにも見える。

【註:4】
 モダンボーイとしての賢治像が抜けてしまうと、賢治は近寄り難い聖人となってしまうように思われるので、「ミクロな幸福」を知るモダンボーイとしての賢治像を記してみたわけである。

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/08 23:20 → http://www.freeml.com/bl/316274/188473/

 

 

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2012年5月24日 (木)

北上川の百万疋の鼠

 

 最近はあまり読み返す機会もなかったが、宮澤賢治の愛読者として生きてきたことは確かだと思う。

 

 たまたま、宮澤賢治は幸福であったのか? という話題に出会って思い出したのが『春と修羅 第二集』の「序」であった(註:1)。

 

 

 この一巻は
 わたくしが岩手県花巻の
 農学校につとめて居りました四年のうちの
 終りの二年の手記から集めたものでございます
 この四ヶ年はわたくしにとって
 じつに愉快な明るいものでありました
 先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
 近代文明の勃興以来
 或ひは多少ペテンもあったではありませうが
 とにかく巨きな効果を示し
 絶えざる努力と結束で
 獲得しましたその結果
 わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
 二時間ぐらゐの軽い実習をもって
 わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
 近距離の汽車にも自由に乗れ
 ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に選択し
 すきな子供らにはごちさうもやれる
 さういふ安固な待遇を得て居りました
 しかしながらそのうちに
 わたくしはだんだんそれになれて
 みんながもってゐる着物の枚数や
 毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります
 そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見れば
 いさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしまするが
 またなかなかになつかしいので
 まづは友人藤原嘉藤治
 菊地武雄などの勧めるまゝに
 この一巻をもいちどみなさまにお目通りまで捧げます
 たしかに捧げはしまするが
 今度もたぶんこの出版のお方は
 多分のご損をなさるだらうと思ひます
 そこでまことにぶしつけながら
 わたくしの敬愛するパトロン諸氏は
 手紙や雑誌をお送りくだされたり
 何かにいろいろお書きくださることは
 気取ったやうではございますが
 何かと願ひさげいたしたいと存じます
 わたくしはどこまでも孤独を愛し
 熱く湿った感情を嫌ひますので
 もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
 同人になれと云ったり
 原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
 わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
 けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
 自分の畑も耕せば
 冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
 おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
 も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
 さう申したとて別に何でもありませぬ
 北上川が一ぺん汎濫しますると
 百万疋の鼠が死ぬのでございますが
 その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
 生きているうちは毎日いたして居りまするのでございます

 

 

 

 賢治が花巻農学校の教師を辞めたのは1926年のことであった。その年に、実家である宮澤家の別宅の建物を利用して、「羅須地人協会」を設立している。その際に書いたのが「農民芸術概論綱要」である。

 

 

農民芸術概論綱要

 序論

  ……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

   おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
   もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
   われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
   近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
   世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
   自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
   この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
   新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
   正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
   われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

 農民芸術の興隆

  ……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

   曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
   そこには芸術も宗教もあった
   いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
   宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
   芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
   いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
   われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
   いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
   芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
   ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
   都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

 農民芸術の本質

  ……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

   もとより農民芸術も美を本質とするであらう
   われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
   「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
   岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
   農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
   そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
   そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
   そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
   巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
   そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
   かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

 農民芸術の分野

  ……どんな工合にそれが分類され得るか……

   声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
   語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
   行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる
   光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる
   光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる
   複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる
   準志は多く香味と触を伴へり
   声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
   光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
   光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
   光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
   香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
   行動準志と結合すれば 労働競技体操となる

 農民芸術の(諸)主義

  ……それらのなかにどんな主張が可能であるか……

   芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
   人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
   芸術としての人生は老年期中に完成する
   その遷移にはその深さと個性が関係する
   リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する
   形式主義は正態により標題主義は続感度による
   四次感覚は静芸術に流動を容る
   神秘主義は絶えず新たに起るであらう
   表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

 農民芸術の製作

  ……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……

   世界に対する大なる希願をまづ起せ
   強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
   感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
   諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
   機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
   練意了って表現し 定案成れば完成せらる
   無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
   髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
   なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
   風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

 農民芸術の産者

  ……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

   職業芸術家は一度亡びねばならぬ
   誰人もみな芸術家たる感受をなせ
   個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
   然もめいめいそのときどきの芸術家である
   創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
   そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
   創作止めば彼はふたたび土に起つ
   ここには多くの解放された天才がある
   個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

 農民芸術の批評

  ……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

   批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
   誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
   産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
   批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
   破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
   創造的批評は産者を暗示し指導する
   創造的批評家には産者に均しい資格が要る
   観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
   批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
   斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る

 農民芸術の綜合

  ……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

   まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
   しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
   ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
   青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
   『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
   雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
   詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
   われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
   巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
   おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 結論

 ……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

   われらの前途は輝きながら嶮峻である
   嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
   詩人は苦痛をも享楽する
   永久の未完成これ完成である

   理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
   畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

 

 

 

 花巻農学校教師時代の詩をまとめたのが『春と修羅 第二集』であるが、出版の計画が持ち上がったのは後の話(もっとも生前には出版は実現しなかったが)で、先に掲げた「序」はその際に書かれたものであるらしい。つまり、順序としては「農民芸術概論綱要」が先で『春と修羅 第二集』の「序」は後に書かれたものということになる。

 

 

 「序」が書かれた時点では、「羅須地人協会」の活動は停止されていた(農民運動と目されて警察の聴取を受けている)。

 花巻農学校教師の職とはつまりサラリーマン生活であり、そこには農民生活との乖離がある。

 「羅須地人協会」の活動もまた、実家の存在(資産家であった)に依存していた側面がある。

 教師としてのサラリーマン生活は、それでも実家からの経済的自立を意味してもいたであろう。

 ここに掲げた二つの賢治の文章には、なかなかに複雑な成立事情が読み取れそうである。

 

 

 しかし、少なくとも『春と修羅 第二集』の「序」を読む限り、そこに「不幸な」と形容されるべき人物の姿は見出せないように思われる。

 

 教師時代の自身の姿を相対化し、羅須地人協会時代の自身の姿をも相対化した地点で書かれているように感じられるが、そこに自身に対する皮肉な反省的視線を持ちながらも、次のステージへ向けて再出発しようとする賢治の姿が残されているように、私には見える(註:2)。

 

 

 

【註:1】
 たまたまミクロとマクロという話題となり、そこからミクロ経済学とマクロ経済学に話が及んだ末に、

  マクロな世界に対して無力に感じられるミクロな私

…という問題をどのように考えたらよいのか?という問いが生まれ、「農民芸術概論綱要」の一節を思い出したのが話の始まりであった。
 この、「農民芸術概論綱要」にある、

  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

…という言葉の持つ厳しい美しさを認めつつも、論理としてそれが、

  絶対的なマクロの幸福の確保がなければ、
  個人としてのミクロの幸福はあり得ない

…となってしまうことに問題はないのか? についても考えてみようとすると、そこに生まれるのは、

  幸福感を持てないミクロとしての自分が、
  マクロとしての世界を幸福にすることなど出来るのだろうか?

  幸福感の中に生きる者の存在が、隣人をも幸福にしていく

 …ということもまた真実なのではないだろうか?

  ミクロの幸福が、ミクロの幸福を呼び覚ます

 …ということはあり得ないことなのだろうか?

…という問いである。

 その問いをめぐって議論をする中で、新たに問題の、

  宮澤賢治は幸福であったのか?

…という問いが発せられ、そこで、『春と修羅 第二集』の「序」を思い出したのであった。

【註:2】

  まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
  しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
     (農民芸術概論綱要)

  わたくしはどこまでも孤独を愛し
  熱く湿った感情を嫌ひますので
  もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
  同人になれと云ったり
  原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
  わたくしをくるしませぬやうおねがひしたいと存じます
  けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
  自分の畑も耕せば
  冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
  おれたちは大いにやらう約束しやうなどといふことよりは
  も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
  さう申したとて別に何でもありませぬ
     (春と修羅 第二集 序)

 この両者を読み併せる時、そこには一足飛びにマクロな大言壮語的地点に向かおうとするのではなく、ミクロとしての自分自身を起点とすることへの賢治の決意のようなものが見えて来るように思われる。

 

 

 
 
 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/05/07 23:07 → http://www.freeml.com/bl/316274/188384/

 

 

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