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2012年3月

2012年3月 7日 (水)

プロパガンダと記録(東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃)

 

 本日(2012年2月18日)は午前中に家を出て、

 

 東京大空襲・戦災資料センター 開館10周年記念特別展
 東方社写真部が記録したアメリカ軍の無差別爆撃
 会期:2012年2月18日(土)~4月8日(日)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室

 

…を目指して、まずは錦糸町まで。そこから東京駅まで行くバスに乗って「扇町二丁目」停留所で降りて徒歩十分。初日の今日は特に、

 

 オープニング講演会
 日時:2月18日(土)午後1時から4時(開場12時)
 会場:東京大空襲・戦災資料センター2階会議室
 講師:井上祐子(京都外国語大学非常勤講師)
     山辺昌彦(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員・学芸員)
     小山亮(明治大学文学部専任助手)
 司会:石橋星志(明治大学大学院博士後期課程)

 

…ということになっていて、ギリギリの時間に到着。いろいろと興味深く話を聴く。

 

 

 

 この「東方社」というのは戦中の海外向けプロパガンダ誌として名高い『FRONT』の出版元で、原弘や多川精一のグラフィックデザインによる誌面のクオリティーの高さには、誰しも頭を下げざるを得ないだろう。

 その「東方社」のカメラマンたちが残したネガフィルムが、昨年になって東京大空襲・戦災資料センターに寄贈されたのだという。今回はその約17000枚(註:1)のうち、空襲下の東京を撮影したものが整理公開され、その紹介のための講演会が企画されたわけである。

 

 

 公開された650枚超(註:2)の写真群は、昭和19(1944)年11月24日に撮影された荏原の空襲後の情景から始まる。

 まさにその11月24日から、B-29による東京への空襲が開始されたわけだが、作戦上は市街地が目標とされていたわけではなく、中島飛行機武蔵野工場が本来の爆撃目標であった。ノルデン照準器を用いた高高度精密爆撃による軍需産業の破壊を目的としていたにもかかわらず、工場上空の天候不良(ノルデン照準器がその高性能を発揮しない)のために工場への投弾を果たせなかった機により、航路上の東京市街が投弾地点とされ、それがたまたま荏原区であったということのようである(つまり荏原は本来の爆撃目標であったわけではない)。

 それが初のB-29による東京空襲の背景であったが、以後、同様な経緯での東京の市街地への高高度爆撃が続き、翌年3月10日には低高度からの侵入による市街地無差別爆撃(いわゆる「東京大空襲」である)へと転換され、米軍戦略爆撃機による都市無差別爆撃の手法が確立されるに至る。

 

 東方社写真部撮影による昭和19年11月24日の空襲の写真は、まさにその最初の空襲による被害の視覚的記録なのである。

 

 

 研究成果報告書(註:3)にある小山亮氏作成の「東方社写真部撮影空襲被害関係写真リスト」によれば、「荏原区の民家」としてまとめられた関口満紀氏撮影の54枚の写真が、東方社写真部による11月24日の空襲の記録ということになる。

 小山氏による「概要」では、その54枚は「両手に空襲被害にあった物を持つ人物」(4点)、「荏原区/民家の空襲被害」(33点)、「荏原区/工場の空襲被害」(6点)、「荏原区/爆弾投下によってできた穴」(7点)、「荏原区/電柱の空襲被害」(1点)、「荏原区/燃えさしに集る軍人ら」(2点)、「荏原区/穴掘り作業・見守る軍人ら」(1点)として分類されている。

 ちなみに、当日の光景には日本写真公社国防写真隊によって撮影されたものがあり、既に東京大空襲戦災資料センターに収蔵されている。研究成果報告書(註:3)にある石橋星志氏作成の「日本写真公社 国防写真隊撮影写真リスト」によれば、深尾晃三、豊島正喜、久米茂、内山林之助各氏の撮影による40枚が、11月24日のものだ。ただし、こちらの撮影地は神田(日本写真公社所在地)であり、荏原の投弾地点を撮影したものではない。

 その意味で、今回発見された東方社写真部撮影による写真群は、荏原の現地で爆撃直後に撮影された貴重なものなのである。

 

 

 11月24日の空襲については、何よりも私の場合、山田風太郎の日記の記述(註:4)を思い浮かべるが、他にも当日の空襲に言及した日記は多い。ただ、山田風太郎が現場に立ち会った工員の体験談を直接聞き、それを記録として残したのに対し、私がこれまでに目を通したものは、より遠い場所で過ごしていた人物によるものであり、空襲が臨場感のない他人事にとどまっている印象を受ける。

 そのような意味で、つまり臨場感を伴った空襲体験の初の記録という意味で、山田風太郎の日記が光を放つわけである。

 しかし、逆に言えば、荏原を遠く離れれば同じ東京でもまったくの他人事として日記に書き記されているのだということであり、その構図を自覚することで、歴史上の証言記録の取り扱い方への繊細さを獲得することが出来るのだと思われる。山田風太郎の日記は確かに荏原の惨状の一端を伝えるが、そしてそのことは大きな価値を持つが、他の日記類の価値を低いものとして考えてはならないのである(註:5)。すべての日記が、11月24日の東京の姿としての事実を伝えているのである。東京内でも場所が異なれば経験は異なるということなのである。

 

 

 さて、そのことを確認した上で日本写真公社撮影の神田の情景を振り返れば、そこに残されているのは空襲の惨状そのものではない。神田に投弾はされていないのである。しかし写されているのは「空襲下の街路 神田神田橋電停付近 敵機上空通過当時の路上退避状況」であり、「負傷者 (高射砲不発弾による) 神田区司町1-10-2 小林外科医院」のような、空襲に伴う東京の神田の表情なのであり、それは実際のその日その時の神田の光景なのだ。

 そして、それに加えて今回発見された東方社写真部撮影写真により、その日の荏原の実際の状況の一端が我々の前に明らかになったわけである。そこには山田風太郎に自らの体験を語った工員たちが目にしていたであろう、空襲による負傷者の姿も死者の姿もない。しかし、東方社写真部の記録に死者が写し出されていないことを、空襲による死者がいなかったことを意味するものとして考えてはならないのである。

 

 

 

 陸軍参謀本部の対外宣伝出版物制作を業務とした東方社が、どのような経緯で空襲下の東京の記録写真を撮影したのかという問題から解明されないと、残された写真の性格(どこで何を撮影するのかに参謀本部の意向が介在していたと考える方が自然である)も明確にし難いところがある。そういったことを含めて、研究すべき課題は多いにしても、まず空襲記録としての価値の大きさは誰しも認めるものだろう。

 

 デザイナーや編集者の仕事となると、まさにプロパガンダ誌面としてのクオリティーの向上が目標となり、ある意味で「戦争協力」そのものになるわけだが、記録者としてのカメラマンの仕事には、別の側面が見出せるように思われる。

 もっとも、「戦争協力批判」というものは「敗戦」の事実がもたらすものであり、絶対化されるべき視点とするつもりはないが、しかし敗戦に至る戦争遂行の一端を彼らが積極的に担ったという事実から眼を逸らすこともしたくない。デザイナーや編集者が彼らの職業的能力の最高のものを、陸軍参謀本部の求めに応じ、つまり戦争に捧げることで果たそうとしたことも事実なのである。そして、その誌面のクオリティーの高さに、現在の我々も瞠目せざるを得ないのである。

 

 『FRONT』の誌面が伝えるのは、いわば「リッチな日本」であり「リッチな大東亜共栄圏」である。

 垢抜けたレイアウトに上質な紙に上質な印刷製本技術。そこに「リッチさ」が宿り、日本が、大東亜共栄圏が海外に売り込まれるのである。

 しかし、まさにそこに宣伝技術の粋が見出されるのであり、事情を知る者の目には戦時日本の実際の出版物との大きな落差が見出されてしまうのである。紙質が悪化し、ページ数が減少し、カラーページがなくなる。それが戦時日本の出版事情の現実だったのであり、その現実との落差に、『FRONT』誌面に反映されたかつての商業宣伝美術関係者の技術の粋が見出されるのである。

 そしてその背後に、つまり東方社の背後には、潤沢な資金と資材の供給(特配)元であった陸軍参謀本部がある。

 それが贅沢なプロパガンダ誌を支えた構造なのである。

 東方社に結集した才能と同様に、我々は、名取洋之助の下に集った日本工房関係者による当時の対外宣伝出版物のクオリティーにも敬意を払うことになるわけだが、彼らの職能の最高度の発揮の場が国策プロパガンダ制作の場以外に残されていなかったのが、「戦時」という状況なのでもあった。本来の彼らの活躍の場であった商業宣伝美術は、戦時下の日本には既に存在し得ないものとなっていたのである。「ぜいたくは敵だ!」というスローガンの下には、商業宣伝技術者に生きる場所はない(そのスローガンを考案したのも彼らなのではあったが)。

 

 そのような意味で、写真家(カメラマン)の位置は、グラフィックデザイナーや編集者のものとは異なった性格を帯びる。もちろん、商業広告写真を考えれば、そこに必要なのは現実をより魅力的なものとして見せる技術である。写真は必ずしもミモフタモナイ現実をそのまま記録するものではない。しかし、ミモフタモナイ現実を前にして、ミモフタモナイ現実をミモフタモナイ現実として記録することもまた、写真家(カメラマン)には可能なのである。

 

 残された17000枚の写真がどのような意図で撮影されたのかという問題はもちろん解明されねばならないが、しかし、そこに空襲下の東京のミモフタモナイ現実も、確かなものとして、既に彼らの手により記録されていたのである。

 

 

 

【註:1】
 この17000枚が、東方社により戦時に撮影された写真の全てということではなく、基本的にネガは戦後に撮影者に返却されており、撮影者に引き取られることなく現在まで残されていたものが、今回の発見資料なのだという。

【註:2】
 今回は空襲関連写真として656枚が公開されたが、そのうち67枚の撮影地は中国の桂林と香港であり、撮影地が東京及びその周辺であるものは589枚である。その内訳は以下の通りで、日付は撮影日である(研究成果報告書による)。
 荏原区の民家(1944年11月24日/54点)
 原宿駅付近・海軍館・東郷神社(1944年11月27日/64点)
 荻窪陸橋・高井戸第四国民学校(1944年12月3日~4日/109点)
 銀座(1945年1月27日/77点)
 千葉県印旛郡酒々井町へのアメリカ軍機墜落(1945年1月28日~29日頃/52点)
 日本医科大学・根津神社(1945年1月30日/23点)
 東京西多摩郡吉野村柚木へのアメリカ軍機墜落(1945年4月2日頃/30点)
 雙葉高等女学校・上智大学(1945年4月14日以降/16点)
 夜間空襲・麹町区九段から神田区須田町にかけて(1945年5月26日~6月8日以降/58点)
 慶應義塾大学・泉岳寺・芝区本芝のバラック・工場(1945年5月~6月頃/86点)
 中国桂林空襲・戦災(1944年11月頃/13点)
 中国香港空襲(1945年1月/54点)

【註:3】
『アメリカ軍無差別爆撃の写真記録-東方社と国防写真隊』 東京大空襲・戦災資料センター 2012

【註:4】

 ついウトウトと眠ってしまった。ふと眼を醒ますと、拡声器が、
「空襲警報発令! 空襲警報発令!」
と叫び出したので愕然となる。横浜駅であった。プラットフォームも車内もいっせいに騒然となり出した。
「なつかしの東京に、とんでもないことが待っていたなあ」
と、だれもが笑う。みな生き生きと嬉しげな顔になる。
 ただちに武装し、車窓の青幕を引いてそのまま発車する。
 川崎駅に入るや、全員退避の命令が下った。自分達も一般乗客も、デッキから構内へばらばらと飛び下りて、駅前の広場へ逃げ走る。プラットフォームではないので、一メートル余りの高さを飛び下りる女の中には、足を挫いて倒れる者もある。
     山田風太郎 『戦中派虫けら日記』 ちくま文庫 1998  535ページ

 

 これが当時、東京医学専門学校の学生であった山田風太郎の昭和19年11月24日の日記である。
 11月21日から富士山の裾野での軍事演習に参加した医学生達が東京へ到着しようとする時に、空襲警報の発令にあい、川崎駅で下車して駅近くの防空壕で警報解除までの時間を過ごす。そして…

 

 一時間半もたって、ようやく入口から這い出すことを許された。空は灰色の雲に覆われ、もう砲声も爆音も聞えない。
 満員電車に乗ってやっと品川に着き、山ノ手線で新宿に帰る。空襲警報は解除になったが、乗客はむろん何となく殺気立っている。がやがやと話し声は聞えるが、べつに今の空襲について話しているわけではないらしい。無意味なる騒音、沈痛なる動揺――といった態である。
 すると、五反田から乗り込んできた二十二、三歳の工員風の男が二人、突然溜息を吐いて、
「おい、凄かったなあ、おれ、飯が食えねえや!」
と、叫んだ。みなふりむいた。一人の紳士が、おずおずと、
「――何か――見て来たんですか?」
と、たずねた。工員は待っていたように、カン高い声でしゃべり出した。
 二人は荏原を通って来たのだそうで、そこの防空壕に入っていると、突然しゅうっという実にいやな音が聞え、つづいて、ゴーっという凄まじい地響きがした。しばらくたって這い出してみると、二、三百メートル向こうに黒煙が見えた。いってみると三十メートルくらいの大穴が地にひらいて――「五十メートルはあったよ」と一人が訂正する――家は吹き飛ばされ、なぎ倒され、崩れおち、近傍の屋根瓦や戸障子やガラスなどが恐ろしい惨状をえがき出して――人はむろん死んでいた。防空壕の中で十数人全員即死したものもあり、身体の表面に傷は見えないのに真っ白になって死んでいるのもあり、幼児など石垣に叩きつけられてペシャンコになり、――
「病院へもいってみましたが、実に何ともむごたらしいかぎりでさあ。おら、腰がぬけちまった。顔の半分なくなったのが、口をあけてうなってるんですからね。たいてい女です。子供はわあわあ泣いている。――工場に主人の出た留守、一家全滅したのもあるそうです……おれ、今夜飯が食えねえや、……」
 一人がはっと気づいて眼で知らせながら、
「おい、あんまりしゃべらねえ方がいいぜ」
と注意した。
 二人は急に沈黙したが、また昂奮を抑えきれないらしく、蒼いカン走った声で「おら、飯が食えねえや」を繰り返しはじめる。――
 ○五時前に帰校。ただちに解散。
 下宿に帰ると、部屋のガラス窓はみななずされ、まるで暴風の一過したあとのようだ。しかし、こちらは全然何事もなかったということであった。やがて警戒警報解除となる。
 夜のラジオによれば、本日帝都周辺に来襲した敵機は、マリアナよりの七十機。主として荏原附近に投弾したらしい。
          (539~541ページ)

 

 B-29による東京への初空襲を、山田風太郎は、このように体験したのであった。

【註:5】
 山田風太郎の日記を含め、空襲下で記された日記類のほとんどにおいて、「来るべきものが来た」という種類の感想は語られてはいても、都市無差別爆撃の不法性の指摘がされていない印象がある。つまり都市無差別爆撃という手法が、当時の日本人の間で当然視されていたように思われるのだ。
 そのような当時の日本人の感想のあり方の背後に、近代戦争における都市無差別爆撃の先駆者である日本の姿が、透かし見えるようにも感じられる。
 空襲を前提とした町内会レベルの消火訓練で、焼夷弾への対応が当然視されていた事実の影には、中国の都市への焼夷弾攻撃を実行していた日本軍の存在がある。
 ヨーロッパでの独英双方による都市空襲の現実も反映してはいるのだろうが、講演会場での質疑応答時の参加者からの指摘にもあったように、既に昭和13年の『写真週報』において焼夷弾による都市爆撃への対処の必要性が語られていたのも事実であり、日本における都市無差別爆撃の当然視は、ヨーロッパでの戦争に先立つものなのである。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/02/18 22:04 → http://www.freeml.com/bl/316274/182716/

 

 

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2012年3月 4日 (日)

「放射能」とのお付き合いの仕方という問題

 

 東北大学の流体科学研究所の圓山重直先生は、昨年五月の前半に、

 

 

 原発は巨大で不気味な怪物で我々はこれを納めなければならないが、戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。また、原発は我々が作り出した物である。人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。
 原発収束のためには、相手を知ることが一番重要である。原発で起きている現象は物理現象の結果なので、正確なデータと適度な洞察力があれば、かなりの確度で原発の現象が推定できるはずである。原発事故が収まってから、各種機関や学会で検討される「事故調査」では、全てデータが出そろい、現象も収束した段階で正確な分析が行なわれるはずである。最終的には、原子炉解体時あるいは封印時の事故調査で全てが明らかになるはずである。しかし、原発事故は今現在進行しており、現象が終わってから原因を明らかにしても遅きに失することになる。

 

 

…と書いた上で、福島第一原発の原子炉事故でのメルトダウンの可能性(蓋然性)について詳細に分析していた。

 東電がメルトダウンの可能性を認める発表をしたのはその数日後のことである。

 

 

 東電の発表については様々な批判があるわけだが、東電の責任として東電自身の解析結果としての「原子炉メルトダウン」を発表したということではある。その意味では必ずしも「隠蔽」があったわけではない。

 しかし、時間のかかる内部での解析結果を待つのではなく、原子炉の状況に関する生データを公開し、東電の外部の専門家による解析を求めることもすべきであったのであり、その意味での情報公開不足は否めない。圓山先生の論文(当人は「推理小説」と位置付けているが)でも、その点が指摘されているように、東電の情報公開不足が事故への適切な対処の機会を奪った可能性は否定出来ないのである。

 

 圓山先生は、

  戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。
  また、原発は我々が作り出した物である。
  人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。

…と書いていたわけだが、「物理法則に基づいて反応する」のではない人間社会(ここでは東電本社の存在がクローズアップされる)の問題が、今回の原発事故では確かにマイナス要因として大きく作用していたことは否めない。

 

 

 

 原発事故の結果、我々が曝されることになった放射線をめぐる問題もまた、

  戦争や自然災害と異なり、相手は物理法則に基づいて反応する。
  また、原発は我々が作り出した物である。
  人間が相手の戦争や未知な現象が複雑に絡まる自然災害より制圧は容易なはずである。

…として要約可能な種類の事態であるはずである。

 正確なデータを取得し、適切な対処を怠らなければ、放射線障害がもたらす危険は、かなりの部分が回避可能なものなのである。

 その意味で、行政の対応には不十分なところはあった。行政もまた「物理法則に基づいて反応する」ような単純な性格の存在ではなく、人間社会という厄介なものの構成物なのである。

 

 放射線をめぐり、問題をもうひとつ厄介にしてしまっているのは、その危険さを過度に煽ることで自身の安心を確保している種類の人々をも生み出してしまう人間社会というものの存在である。そこにあるのは人間の心理の厄介さであり、それが除染等の行政施策の実施に際して適切な優先順位や予算配分の確定にマイナスに作用することになるし、いわゆる風評被害の発生源ともなってしまうのである。

 

 

 今日は、そんな状況に危惧の念を抱いている人々と顔を合わせ、忌憚なく話をする機会を得た。

 企画したのはウチのパートナーで、私以外の六人は全員女性であった(私は、後ろに控えてもっぱら聞き役として過ごしていた)。集ったのはウチのパートナーがネットで知り合った人々で、初対面であっても同じ危機感を共有しているからか、話はぐいぐいと進んでいく。

 

 物理現象としての放射線を適度に怖がることが必要なのはもちろんなのだが、過度に不安を煽らずに適切に対処することはいかに可能であるのか?

 

 話題の中心となったのは、そのような問題意識であったが、彼女らのやり取りを後ろで聞いていることは、私の人間社会への信頼感の回復に、少しは役に立ったように思われる。

 

 

 

 

 

(オリジナルは、投稿日時 : 2012/03/03 23:43 → http://www.freeml.com/bl/316274/183786/

 

 

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